第55話 空の鞘
何も存在しない暗闇の中で、一つの天秤が揺れていた。
長く傾き続けていた二つの皿が、ゆっくりと高さを揃えていく。
その様子を見届けていた者が、天秤の支柱へ指先を添えた。
「七つ。すべて、戻ったか」
男とも女ともつかない声が、暗闇へ静かに溶けていく。
崩れかけていた《天水脈》は再び巡り、七つの島は本来あるべき位置を取り戻した。
空を覆っていた滅びの兆しも、今はない。
それは均衡を守る者にとって、一つの懸念が取り除かれたことを意味していた。
ただ、それだけのはずだった。
天秤の上に、二人の姿が映し出される。
一人は、穏やかな笑みを絶やさなかった水瓶宮の契約者。
誰よりも人を愛しながら、その身を顧みることなく、当然のように無茶を押し通した者。
そして、もう一人。
水瓶がどれほど無謀な道を選ぼうとも、何も言わず、その隣へ立ち続けた獅子宮の契約者。
言葉を交わさずとも、二人は互いの背中を預けていた。
遠い過去の光景を見つめながら、天秤の契約者は僅かに目を伏せる。
――あの二人にも、この景色を見せたかった。
胸の内へ浮かんだ願いに、自ら驚いたように指先が止まった。
「……まだ、そのような願いが残っていたとは」
感傷は、均衡を測るために必要なものではない。
誰か一人を想う心は、時に天秤を大きく傾ける。
それを理解していながら、支柱へ添えられた指は、すぐには離れなかった。
やがて天秤の上から過去の二人が消え、代わりに一人の少年が映し出される。
折れた刀を捨てず、差し出された新たな刃を選ばなかった、今代の獅子宮契約者。
それが愚かさによるものなのか、己の矜持によるものなのか。
天秤は、まだ答えを出さない。
「刃を失った獅子が、次に何を掴むのか」
天秤から指が離れる。
「それを決めるのは、天秤ではない」
均衡を取り戻した二つの皿が、完全に静止した。
◇
魔導艇の窓を流れていた雲が途切れ、その向こうに見慣れた街並みが姿を現した。
幾筋もの運河が白い街を縫い、水面には大小の船が行き交っている。
遠くには湖上へ浮かぶように建てられた白亜の王城。その尖塔が午後の日差しを受け、淡く輝いていた。
王都ヴァルエスト。
浮遊大陸を発ってから数日。
ようやく、俺は王国へ帰ってきた。
『……帰ってきたわね』
「ああ」
窓の外を眺めながら答え、無意識に右手を腰へ伸ばす。
いつもの場所にあるはずの柄を探した指は、何も掴むことなく空を切った。
そこにあるのは、空になった鞘だけだ。
折れた刀は布で幾重にも包み、背負った荷物の中へ収めてある。
浮遊大陸では、考える暇がなかった。
七島を救い、生きて地上へ帰る。
それだけで精一杯だった。
だからだろう。
王都の変わらない景色を目にしたことで、ようやく刀を失ったという現実が、輪郭を持ち始めていた。
◇
王都へ到着した俺は、その足でギルドへ向かった。
ギルドマスターの執務室へ通され、七島で起きた出来事を順に報告する。
七島を巡っていた《天水脈》。
浮遊大陸を支えていた、水瓶宮契約者の残響。
そして、七つの島が本来の位置へ戻ったこと。
ギルドマスターは途中で口を挟むことなく、最後まで俺の報告へ耳を傾けていた。
「七島の安定については、向こうからも連絡を受けている。だが、現地で何が起きたのか。当事者の口から聞くことには意味がある」
机上の書類を閉じたギルドマスターが、椅子の背へ深く身体を預ける。
「よく戻ってきた。ご苦労だった」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、ギルドマスターの視線が一瞬だけ腰元へ向けられた。
空の鞘に気づいたのだろう。
それでも、何があったのかとは聞かなかった。
「しばらく大きな依頼を受ける必要はない。身体を休めろ。滞在する宿もこちらで用意してある」
「そこまでしていただかなくても、大丈夫です」
「七島を救って戻った冒険者を、固い寝台の宿へ押し込んだと知られてみろ。王都支部の評判に関わる」
僅かに口元を緩めたギルドマスターから、一枚の紙を差し出される。
記されていたのは、運河沿いに建つ宿の名前と所在地だった。
「依頼の報酬とは別だ。遠慮せず、しばらく使え」
「……分かりました。お気遣い、ありがとうございます」
「ああ。報告書はこちらで処理しておく。今日はもう休め」
もう一度頭を下げ、執務室を後にする。
最後まで、ギルドマスターが刀について触れることはなかった。
その気遣いが、今は少しだけありがたかった。
◇
ギルドから紹介された宿は、運河沿いに建つ三階建ての建物だった。
淡い乳白色の外壁に、磨き上げられた硝子窓。
入口の両脇では、真鍮製の魔導灯が柔らかな光を灯している。
豪華というほどではない。
だが、これまで利用していた冒険者向けの宿よりも、明らかに格が一つ上だった。
受付を済ませた頃には、すでに夕食の時間を迎えていた。
荷物を部屋へ置き、一階の食堂へ向かう。
落ち着いた照明に照らされた店内には、焼き立てのパンと香草の匂いが漂っていた。
運ばれてきたのは、瑞々しい葉野菜と薄く切られた根菜のサラダ。
数種類の野菜を煮込んだ澄んだスープに、表面を香ばしく焼き上げた白身魚の香草焼き。そして、まだ温かいパンだった。
白身魚へナイフを入れると、薄く焼き目のついた皮が小さな音を立てる。
身は驚くほど柔らかく、添えられた柑橘の酸味と香草の香りが、魚の甘みを引き立てていた。
浮遊大陸でも、食事に不自由していたわけではない。
それでも、地上で獲れた新鮮な魚が、ごく普通に食卓へ並ぶというのは贅沢なことなのだろう。
杯には、王都近郊で採れた白葡萄の果実酒が注がれていた。
口に含めば爽やかな甘みが広がり、遅れて僅かな酸味が舌の上へ残る。
酒を飲むのは久しぶりだった。
少量とはいえ、張り詰めていた身体から力が抜け、頬が微かに熱を持つ。
料理は、どれも美味しかった。
そう感じているはずなのに、いつの間にか手が止まっていた。
皿の上で、魚を切り分けるための小さなナイフが、魔導灯の光を反射している。
ただそれだけのものから、目を逸らすことができなかった。
「お口に合いませんでしたか?」
近くを通りかかった給仕の女性が、心配そうに声をかけてくる。
「いえ、とても美味しかったです。少し考え事をしていただけです」
「それならよかったです。どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
残っていた料理を食べ終え、最後の果実酒を飲み干す。
椅子から立ち上がった、その時だった。
右手が、腰へ伸びた。
指先が触れたのは柄ではなく、空になった鞘の口だった。
その冷たい感触に、身体が止まる。
俺はしばらく動くことができなかった。
◇
『二度目ね』
部屋へ戻るなり、セレスが静かに告げた。
「……何がだ」
『柄を探したのよ。魔導艇でも、さっきの食堂でも』
「長く続けてきた癖が残っているだけだ」
『そういうことにしたいのね』
それ以上、セレスは何も言わなかった。
背負っていた荷物を机へ置き、布で包んだ刀を取り出す。
結び目を一つずつ解く。
布の中から現れたのは、柄に残された刀身と、途中から折れた切っ先側の刃だった。
断面には亀裂が走り、魔導灯の光を受けて鈍く輝いている。
俺は手入れ道具を取り出し、いつものように油を含ませた布を手に取った。
だが、その手が動くことはなかった。
これまでなら、鍔元から切っ先まで、一本の刃を確かめながら布を滑らせていた。
今は、その刃が途中で途切れている。
――刀を振ってきた時間まで失ったわけではない。
ルシアンへ告げた言葉を思い出す。
あれは嘘ではなかった。
刀が折れたからといって、これまで積み上げてきたものまで消えるわけではない。
それでも、あの言葉は前へ進むためだけのものではなかった。
折れた刀から目を逸らすために、自分へ言い聞かせた言葉でもあった。
俺は受け入れたつもりでいた。
刀が折れたことも。
もう、この刀を振るうことができないことも。
けれど俺の右手は、今もそこにあるはずの柄を探している。
手入れ道具を机へ戻し、空の鞘だけを腰へ差す。
部屋を出た俺は、宿泊者へ開放されている中庭へ向かった。
夜の中庭には誰もいない。
石畳の周囲を囲む花壇が、魔導灯の淡い光に照らされていた。
中央へ立ち、静かに腰を落とす。
左手で鞘を押さえ、右手を柄へ添える。
いや――添えようとした。
指が掴んだのは、何も存在しない空間だった。
足を踏み込み、腰を回し、刀を抜き放つ。
幾度となく繰り返してきた、最初の一振り。
その動きが、始まらない。
もう一度構え直す。
だが、結果は同じだった。
刀を振ってきた時間は、確かに失われていない。
しかし、その時間を託してきた一本の刀は、もう戻らない。
「……そうか」
ようやく、認めることができた。
俺はまだ、刀が折れたという事実を受け入れていなかった。
その瞬間、視界の中へ半透明の文字列が浮かび上がった。
《努力蓄積値、規定値への到達を確認》
《獅子宮 第三階層》
《解放》
『……随分と皮肉なタイミングね』
「ああ」
腰から空の鞘を外す。
石畳へ置いた鞘が、乾いた音を立てた。
「行く」
『今から?』
「今だからだ」
『嘘ね』
即座に返された言葉に、俺は黙り込む。
『あなたは今、前へ進みたいんじゃない。ここで折れた刀と向き合い続けることから、逃げたいだけよ』
「……分かっている」
『獅子宮は、傷ついた心で逃げ込むような場所じゃないわ』
「それも分かっている。それでも、何もせずに朝を待つ方が、今は耐えられない」
セレスから深いため息が漏れる。
『本当に頑固ね。だったら、せめて残っているお酒を抜きなさい』
食事の時に飲んだ果実酒の熱が、まだ僅かに身体へ残っていた。
体内へ魔力を薄く巡らせ、生活魔法を発動する。
分解できるのは、少量の酒精や軽い毒素程度だ。
魔物の毒や戦闘で使われる毒物まで無効化できるほど、都合のいい魔法ではない。
身体に残っていた酒精が分解され、頬の熱が引いていく。
僅かに緩んでいた思考も、本来の明瞭さを取り戻した。
「これで問題ない」
『身体の話はね』
セレスの言葉を否定することはできなかった。
それでも俺は、第三階層へ進む意思を固める。
その意志へ応じるように、足元へ獅子宮の紋章が浮かび上がった。
光が一瞬で広がり、夜の中庭が視界から消え去った。
◇
足裏へ、冷たい石床の感触が戻る。
目を開けば、そこには広大な円形の空間が広がっていた。
獅子宮、第三階層。
だが、これまでの階層とは明らかに違っている。
中央に台座はない。
そこへ突き立てられていた、錆びた刀も存在しなかった。
広い石床の上に立っているのは、一体の騎士人形だけ。
その腰にも、背中にも武器はない。
騎士人形は両腕を自然に下ろし、こちらを見据えていた。
「無手……?」
俺の呟きに反応したように、騎士人形が構えを取る。
僅かに半身となり、両手を開く。
拳を固めることもなく、指先には余計な力が入っていない。
武器を持っていない。
だが、隙があるとは思えなかった。
俺も両手を構える。
刀を握っていない手が、酷く頼りなく感じられた。
それでも、戦えないわけではない。
「――《速》」
緑色の魔力が両脚を駆け抜ける。
石床を蹴り、一気に騎士人形との間合いを潰した。
身体強化によって得た速度を、そのまま拳へ乗せる。
着地と同時に《速》を切り、《剛》へ切り替える。
赤い魔力が右肩から拳へ走った。
「ッ――!」
爆発的に引き上げられた筋力で、騎士人形の顔面を狙う。
直撃する。
そう確信した瞬間、騎士人形の体表を淡い青色の魔力が走った。
頭部から肩へ。
肩から肘へ。
水面へ広がる波紋のような光が、その腕を一瞬で駆け抜ける。
騎士人形の掌が、俺の手首へ触れた。
強く掴まれたわけではない。
拳の軌道を、ほんの僅かに外側へ逸らされただけだった。
それだけで俺の拳は相手の顔の横を通り過ぎ、前へ流れた力に引かれて体勢が崩れる。
脇腹へ衝撃が走った。
「ぐっ……!」
騎士人形の肘が、身体へ突き刺さっていた。
咄嗟に腕を振り払い、後ろへ跳ぶ。
着地と同時に、騎士人形が間合いを詰めてくる。
速い。
いや、違う。
単純な移動速度なら、こちらの《速》でも追える。
異様なのは、動き始めるまでの短さだ。
俺が構えを変えた瞬間には、騎士人形の身体を青い魔力が駆け抜け、すでに次の動作へ移っている。
思考と動作の間に存在するはずの遅れが、ほとんどない。
左から放たれた掌底を、頭を傾けてかわす。
反撃として低い蹴りを放つが、騎士人形は足を僅かに持ち上げ、脛で受け止めた。
そこにも、一瞬だけ青い波紋が走っていた。
蹴りを弾かれ、上体が浮く。
騎士人形の右手が伸びてくる。
胸部を守ろうと腕を挟み込むが、その掌は防御の隙間を縫い、胸の中央へ密着した。
打ち込まれてはいない。
ただ、触れられただけだった。
騎士人形の掌から、淡い青色の魔力が放たれる。
胸から背中へ、冷たい波紋が突き抜けた。
「――ッ!?」
体内を巡っていた魔力が、大きく乱れる。
《剛》が強制的に途切れ、心臓が一瞬だけ不規則に跳ねた。
遅れて、身体の内側から衝撃が膨れ上がる。
「が……っ!」
足が石床から離れた。
俺の身体は大きく吹き飛ばされ、何度も床を転がってから止まる。
息を吸おうとしても、肺が上手く動かない。
両腕へ命令を送っているはずなのに、指先すら思うように動かなかった。
騎士人形が、ゆっくりと近づいてくる。
立たなければならない。
そう思っているのに、乱された身体と魔力が追いつかない。
騎士人形は倒れた俺の前で足を止め、開いた掌を顔の前へ突きつけた。
淡い青色の光が、掌の中心へ集まっていく。
次の一撃が放たれていれば、俺は間違いなく意識を失っていただろう。
だが、騎士人形の掌は動かなかった。
《挑戦者の戦闘継続不能を確認》
無機質な表示とともに、騎士人形が腕を下ろす。
そして、何事もなかったかのように最初の位置へ戻っていった。
石床へ仰向けになったまま、動かない指先を見つめる。
俺は刀を失った。
だから、負けたのだと思っていた。
違う。
刀がないから負けたのではない。
刀のない自分の戦い方を、俺は知らなかった。




