第54話 一歩分の空
帰還から、七日が過ぎた。
地表から、およそ四百メートル。
七島は、小高い山ほどの高さで静かに浮かんでいる。
島の底から伸びた《天水脈》は、今も青い根のように地上へ降り、岩盤の奥を走る地脈と繋がっていた。
空を移動する力は、もうない。
それでも、ルミナスは空に在り続けている。
俺は地上側の準備を手伝うため、先発の飛行艇で一足先に降りていた。
『地上側固定器、異常なし』
『昇降索の張力、規定値内』
『第一便、降下を開始します』
仮設昇降機が、スペルビアの底部からゆっくりと下りてくる。
大人数を運ぶための長方形の昇降籠。
四隅から伸びる太い索は島の底部へ繋がり、左右には姿勢を保つための小型浮遊板が取りつけられていた。
地上側では、ヴァルディア王国の技師とルミナスの作業員が並んで測定器を見つめている。
その周囲を王国騎士が警護し、さらに外側には、帰還を見届けようと近隣の住民たちが集まっていた。
頭上を見上げれば、七つの大地が空を覆っている。
けれど、一週間前のような恐怖はない。
森の上へ落ちる影の間から陽光が差し込み、青い《天水脈》が水面のように揺らめいている。
空に浮かぶ大地は、落ちてくるものではなくなった。
ここに在り続ける、新しい隣人になろうとしていた。
「接地まで、残り三メートル!」
地上側の技師が声を上げる。
昇降籠の下に組まれた浮遊板が淡く光り、降下速度をさらに落とした。
「二――一――接地!」
低い音とともに、昇降籠が仮設の発着台へ降りる。
四本の固定具が伸び、地上側の受け口へ嵌まった。
青かった表示が、一つずつ緑へ変わっていく。
『第一便、接地を確認』
『扉を開放します』
正面の扉が、左右へ開いた。
最初に降りてきたのは、エレノア議長だった。
その後ろには評議員と各部門の代表者。
空域保全隊。
中央浮遊機関管理局。
医療、教育、農業、工業。
これまで別々の場所で七島を支えてきた者たちが、一つの昇降籠へ乗っている。
ノアも、その中にいた。
掌の包帯は外れていたが、傷を保護する薄い手袋は残っている。
発着台へ降りた瞬間、足元を見た。
一歩。
もう一歩。
慎重に歩き、石板が途切れた先で立ち止まる。
そこには、何の加工もされていない地面があった。
草を踏まないようにしゃがみ込み、土へ掌を触れる。
指先へ力を入れた。表面が崩れ、湿った土が手袋へ付着する。
「どうですか」
隣へ立って尋ねる。
ノアはすぐに答えなかった。
掌を置いたまま、何かを確かめるように目を閉じている。
「……静かです」
「静か、ですか」
「主機の音がしません。補助機関の振動もない」
当然のことを言っているようでノアにとっては、そうではない。
生まれた時から、足元の遥か下では浮遊機関が動いていた。
家でも。学校でも。眠っている時でさえ。
意識しなければ気づかないほど小さな振動が、大地を空へ支え続けていた。
今、触れている土の下に機関はない。
岩があり。さらに地層が重なり。この世界の大地が、どこまでも続いている。
「島にも土はありました。でも、これは」
ノアが僅かに笑う。
「どこまで掘っても、端から落ちないんですよね」
「あまり深く掘れば、別の危険があると思います」
「分かってます。掘りませんよ」
『本当かしら』
左肩の近くへ浮かぶセレスが、疑うように表紙を傾けた。
「掘りませんって」
ノアが立ち上がる。
手袋についた土を払おうとして、途中でやめた。そのまま両手を見下ろす。
「持って帰ってもいいですかね」
「誰かに聞いた方がいいと思います」
「地面の土を少し持って帰るのに、許可が要るんですか?」
「俺に聞かれても分かりません」
近くにいた王国側の技師が、笑いながら小さな採取袋を差し出した。
ノアは何度も頭を下げ、崩れた土を一掴みだけ袋へ入れる。
その姿を見ていた空域保全隊員の一人も地面へしゃがんだ。
続いて、農業部門の女性が草へ触れる。
誰かが空を見上げ。誰かが遠くの森を見る。
第一便の者たちが、一人ずつ自分の足で地上へ踏み出していく。
仮設発着台の中央に、エレノア議長が立った。
王国側の代表者と向かい合う。
ヴァルディア王国の紋章を胸元へ留めた壮年の男性が、右手を胸へ当てた。
「ヴァルディア王国は、ルミナス魔導連合の帰還を歓迎いたします」
「地上誘導と周辺住民の避難、帰還地点の測量。そのすべてへ力を貸していただいたことに、心より感謝します」
エレノア議長も一礼する。
背後では、二つの国の記録官が言葉を書き留めていた。
数千年前に同じ大地から分かれ。異なる時間を歩んだ者たちが、今、同じ地面の上で向き合っている。
議長は地上と七島へ設けられた通信用魔導具を見渡した。
「ルミナスに生きる、すべての方へ」
広場の声が止む。
頭上の島々。昇降機の中。七島各地の街頭。同じ声が、ルミナス全域へ届いている。
「七日前、私たちは七つの大地を失うことなく、現代の世界へ帰還しました」
エレノア議長の背後に、《天水脈》の青い光が降りている。
「しかし、帰還とは、目的地へ辿り着くだけではありません」
一度、地面へ視線を落とす。
そして、自らも発着台を降りた。靴底が、草の生えた大地へ触れる。
「空から地上を眺めるのではなく。同じ場所に立ち、言葉を交わし、新たな道を築いていくことです」
議長は、集まった人々へ向き直る。
「この一歩をもって、ルミナス魔導連合の帰還完了を宣言します」
一瞬の静寂。
最初に拍手を送ったのは、王国側の代表者だった。
騎士。技師。地上の住民。
第一便で降りたルミナスの者たち。
音は少しずつ重なり、やがて地上と空の両方から降り注いだ。
見上げた先には、七つの大地がある。見下ろせば、その下には帰るべき大地がある。
ルミナスは今日、本当の意味で、大地に根を張った。
◇
地上往還の開始式が終わった後も、仮設昇降機は止まらなかった。
第二便。第三便。
地上調査を担当する技師や農業部門の者たちが降り、代わりに王国側の測量士や治療術師が七島へ上がっていく。
地上の発着場には、すでに簡易の受付所と検査所が設けられていた。
一週間前まで何もなかった岩盤地帯に、新しい道が生まれ始めている。
「明日の朝には出るのね」
声を掛けられ、振り返った。
長い茶髪を揺らしながら、ヴィオラがこちらへ歩いてくる。
以前と同じロングコート姿だが、胸元には地上往還管理の腕章が追加されていた。
その隣には、カサンドラもいる。
淡い色の軍服を思わせるスーツ。
腰には、銃身と細身の刃を一つにした魔導銃剣。
赤銅色の髪が、地上から吹き上げる風に揺れていた。
「はい。王国側の飛行艇に、空席を用意していただきました」
「もう少し滞在してもいいのよ。地上へ降りても、中央支部の宿泊棟は逃げないから」
「ありがとうございます。ただ、次にやるべきことがありますので」
ヴィオラの視線が、腰へ向く。
黒い鞘。
その中に、刀はない。
折れた二つの刃は、整備布と革で包み、今も背へ固定していた。
「刀のこと?」
「はい」
「直せる当てはあるのかい?」
カサンドラが尋ねる。
「まだ、分かりません。まずは、折れた刃をきちんと見てもらえる鍛冶師を探そうと思っています」
「そうかい」
それ以上、カサンドラは聞かなかった。
代わりに俺の両腕と、脇腹へ視線を移す。
「傷の方は?」
「痛みは残っていません。治療術師からも、出力を制限した対人訓練まで許可をいただきました」
「軽い運動、ね」
俺が何を考えているのか。
先に気づいたらしい。
カサンドラの眉が僅かに上がる。
「お願いがあります」
「聞く前から、あまり受けたくない頼みに思えるね」
「一度、俺と手合わせをしていただけませんか」
ヴィオラが、俺とカサンドラを交互に見る。
「明日には出発する人が、今日?」
「だからこそです」
腰の鞘へ手を添える。
何度も。何かを拾おうとする時。物音へ反応した時。
意識するより先に、右手が存在しない柄へ伸びていた。
刀がないことは、頭では分かっている。けれど、身体はまだ理解していない。
「刀がない今の俺が、どこまで動けるのか知っておきたいんです」
「木刀なら用意できるわよ」
ヴィオラが言う。
「いえ。今回は、何も持たずにお願いします」
カサンドラが腕を組む。
先ほどまでの柔らかな表情が消えた。
空域保全総監としてではない。一人の戦う者として、俺を見ている。
「本気で言っているんだね」
「はい」
「あたしの武器は、無手の相手へ加減しやすいものじゃないよ」
「分かっています」
「分かってない顔だね」
一度、大きく息を吐く。
「一撃で決着。あたしは魔導弾を非殺傷出力に落とす。刃は結界保護を掛ける。あんたは《剛》を全力で使わない。痛みが出た時点で終わり。それでいいなら受けるよ」
「お願いします」
「決まりね」
ヴィオラが右手を上げる。親指と中指を重ねた。
「上に戻りましょう。中央支部の訓練場なら、壊されても経費で処理できるわ」
「最初から壊れる前提なのかい?」
「あなたとレグルスさんを同じ場所へ入れるのよ。無傷で返ってくるとは思っていないわ」
ぱちん、と指が鳴る。
複数の指輪から淡い光が広がり、仮設昇降機へ続く優先通路が空中へ表示された。
『よく分かっている人ね』
セレスの言葉に。
今度は、俺も否定できなかった。
◇
連合中央支部の訓練場は、建物の屋上にあった。
空域保全隊との合同訓練にも使われるらしく、通常の訓練場より広い。
床には衝撃を吸収する黒い素材が敷かれ、周囲を腰ほどの金属柵が囲んでいる。
その外側には、何もない。
以前なら遥か下に雲海があった場所。
今は森と河川と、地上へ根を下ろした《天水脈》が見えている。
四百メートル。
落ちれば、地面まで遮るものはない。
「落下防止結界を張るわ」
ヴィオラが訓練場の中央へ進む。
右手だけではない。
左手にも、色の異なる指輪が幾つも嵌められていた。
両手を重ね。指を開く。
一つ目の指輪から風が広がった。
訓練場の外縁を巡り、見えない壁となって上空へ伸びる。
二つ目の指輪から流れた水が、その輪郭を青く縁取った。
最後に、赤い光が床の四隅へ落ちる。
風、水、火。三属性の術式が干渉することなく重なり、訓練場全体を半球状に包んだ。
「外へ出ようとしても、中央へ戻されるようにしてあるわ。攻撃が規定値を超えた場合も、結界が止めます」
「お一人で、これだけの結界を……」
「元冒険者を、ただ机で書類を読んでいるだけの人だと思わないでね」
ヴィオラが微笑む。
戦う姿を見せたわけではない。
それでも、複数の属性を同時に維持しながら、呼吸一つ乱していない。
連合中央支部のギルド長を任されている理由は、それだけで十分に分かった。
訓練場の端には、ノアとルシアンも来ていた。
ノアの手には記録用の魔導板。
ルシアンの左腕は、まだ肩から固定布で吊られている。
「どうしてお二人まで来られたのですか」
「レグルスさんの戦闘記録を取りたいと、統括が」
ノアが答える。
「事後承諾になってしまい、申し訳ありません」
「いえ、構いません」
ルシアンが銀縁眼鏡へ触れる。
左右の硝子に、細かな測定術式が浮かんだ。
「私からも、後ほどお話ししたいことがあります」
「分かりました」
訓練場の中央へ進む。
外套を外し、セレスと一緒にノアへ預けた。
背負っていた折れた刀も、訓練場の外へ置く。
腰に残すのは、空の鞘だけ。
『レグルス』
「分かってる。無茶はしない」
『今の言葉、記録しておくわ』
カサンドラも上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲った。
腰から魔導銃剣を抜く。
銃身の下へ沿う細身の刃。
片手で扱える長さだが、騎士剣よりも重心が前にある。
柄の側面へ親指を滑らせると、円筒形の魔石弾倉が回転した。
青。緑。透明。
幾つもの属性光が一度ずつ銃身を走り、最後に淡い緑で止まる。
「あたしへ一撃入れるか、武器を落とせば、あんたの勝ち」
「俺は、どこで負けになりますか」
「今から見せてあげるよ」
口調が変わった。
港で初めて会った時。柔らかな声で礼を告げた直後、部下へ指示を飛ばした時と同じだ。
「両者、準備は?」
ヴィオラの声が響く。
「いつでも」
「お願いします」
カサンドラは、銃口を下げたまま。
俺も構えを取らない。両腕から力を抜き、足幅だけを僅かに広げる。
「始め!」
銃口が跳ね上がった。
発射音は一つ。
放たれた風圧は、三つ。正面。左。足元。
時間差をつけた見えない弾が、逃げ道を塞ぐように迫る。
身体の中心へ魔力を通す。緑色の魔力波が足元へ広がった。
「――《纏風舞踏【ヴェンティトゥム】》」
右へ踏み込む。
正面の風圧が頬を掠めた。
左からの一発を身体を沈めて躱し、足元へ当たる直前に床を蹴る。
背中を風で押し、最短距離を走った。
カサンドラは動かない。
二発。三発。
銃口の向きを追うより早く、風圧弾が床へ着弾する。
黒い床が大きく沈み、衝撃が足裏から膝へ伝わった。威力は落とされている。
それでも、まともに受ければ立ってはいられない。
右へ左へ。弾道の隙間を抜け、距離を詰める。
残り五歩。
カサンドラの親指が、魔石弾倉を回した。緑の光が青へ変わる。
「足元が留守だよ!」
水の弾が、俺ではなく床へ撃ち込まれた。
弾けた水が薄く広がり、踏み出した右足が滑る。
重心を後ろへ逃がす。転びはしない。だが、速度は止まった。
その瞬間。
カサンドラの左手に、紫電が走った。
魔法陣はない。火と風を重ねた雷でもない。
生まれつき、その身に宿している――先天型の雷属性。
細い雷が銃身へ伝わり、切っ先から濡れた床へ落ちる。
水面を紫色の光が駆けた。床を蹴る。
身体が宙へ浮いた直後、雷が靴底のすぐ下を通過する。
退路はない。
空中へ逃げた俺へ、魔導銃剣の銃口が向く。
風圧弾。
身体を捻る。左肩へ衝撃が掠め、軌道を大きく横へ押された。
着地点には、まだ水が残っている。このまま降りれば、再び雷を流される。
脚へまとわせた風を、下ではなく後ろへ放つ。
落下の軌道が変わった。濡れた床を越え、乾いた場所へ片足から着地する。
「空中でも動くか!」
カサンドラが初めて踏み込んだ。
銃から刃へ。細身の切っ先が、着地直後の胸元へ伸びてくる。
上体を外へ逃がす。
白いシャツの胸元を、結界に包まれた刃が掠めた。
右手で銃身の側面へ触れる。押さえ込むのではない。刃の進む方向へ添え、僅かに外へ流す。
カサンドラの手首が返る。柄尻が顎へ跳ね上がった。
首を傾けて躱す。今度は、銃身を握る手そのものを狙った。
左の掌を打ち込む。触れる直前。銃身を巡る紫電が強くなった。
指先に鋭い痺れが走る。手を引く。その一歩を使い、カサンドラが距離を離した。
「いい判断だ。無理に掴めば、腕が動かなくなってたよ」
「触れる前に教えていただきたかったです」
「敵が教えてくれると思うかい?」
「思いません」
呼吸を整える。
右手の痺れは、もう薄れている。
刀はない。
それでも動ける。
足があり。
魔力身体強化があり。風がある。
《叩く》から派生した技も、刀を必要としない。 今あるもので、届けばいい。
身体の中心へ流す魔力を切り替える。緑から、赤へ。
「《魔力身体強化【剛】》」
全力では使わない。
赤い魔力波を右腕ではなく、両脚へ留める。
床を蹴る瞬間だけ。爆発力を解放した。
訓練場の黒い床が沈む。一歩で、半分の距離を消す。
カサンドラが風圧弾を放つ。
正面から受けない。右足を軸に身体を回し、肩の横へ通す。
二発目。左腕で顔だけを守り、勢いを殺さず前へ出る。
残り二歩。
魔石弾倉が青へ変わる。
水を撒かれるより速く。銃口の下へ潜り込む。
右の掌を、カサンドラの肩へ向けた。
《獅噛破打》は使わない。触れれば、それで勝ちだ。
カサンドラが魔導銃剣を引く。 守りが、僅かに遅れた。
届く。
そう思った瞬間。
カサンドラの左足が、半歩だけ後ろへ滑った。
開いた脇腹。踏み込んだ俺から見て、右下から左上。
抜刀と同時に斬り上げれば、銃身より早く届く。
何千、何万と繰り返してきた間合いだった。
右手が、腰へ走る。
指が掴んだのは。 柄ではなく、何もない空間だった。
半瞬。 身体が止まる。
カサンドラの姿が消えた。
首筋へ、冷たい感触が触れる。
いつの間にか背後へ回ったカサンドラが、魔導銃剣の刃を添えていた。
「そこまで!」
ヴィオラの声と同時に、結界が二人の間へ割って入る。
透明な水の膜が刃を押し戻した。
俺の右手は。まだ、空の鞘の上にある。
「俺の負けです」
「そうだね」
カサンドラが魔導銃剣を下ろす。
銃身を走っていた紫電が消え、魔石弾倉の光も止まった。
「刀がなくても、よく動けていたよ。判断も悪くない。《剛》を脚だけへ使ったのも、今の身体を考えれば正解だ」
「ですが、最後に止まりました」
「身体の方は、まだ刀を失ったことを認めていないからね」
空の鞘を見る。
開いていた場所、刀があれば、確かに斬れた。
けれど今は、なかった。
「直した方がいいでしょうか」
「何を?」
「無意識に、柄へ手を伸ばす癖です」
カサンドラは、すぐには答えなかった。
魔導銃剣を腰へ戻し、俺の正面へ立つ。
「一週間で、何年も積み重ねた動きが消えると思うかい?」
「思いません」
「なら、無理に消すんじゃないよ」
右の拳で、俺の胸を軽く叩く。
「刀がない時に、その一手を選ばないようにする。刀が戻った時には、また迷わず選べるようにしておく。あんたが覚えるべきなのは、忘れることじゃなく、選び直すことだ」
刀を忘れる必要はない。
失ったことだけに、身体を縛られる必要もない。今、持っているものを選ぶ。
また刀を握れた時には。 積み重ねたすべてを、もう一度選べばいい。
「努力します」
カサンドラが、呆れたように目を細める。
「最初に会った時も、それを聞いたね」
口元に笑みが浮かんだ。
「今度は、最初から信用しないことにするよ」
「それは困ります」
「あんたの努力を疑ってるんじゃない。加減する方を信用してないのさ」
『正しい判断ね』
訓練場の外から、セレスの声が飛んでくる。
ノアも、何度も頷いていた。
否定してくれる者は。 一人もいなかった。
◇
模擬戦の後、ルシアンに案内され、中央制御室に隣接する研究区画へ向かった。
一週間前と同じ白い壁。
等間隔に並ぶ魔導灯。
硝子の向こうには、分解された小型浮遊機関や、幾重もの術式を刻んだ金属板が置かれている。
ただし、部屋の奥にあった細長い金属ケースは開かれたままだった。
《試作ウルカーヌス》は作業台へ固定されている。
銀線の一部は黒く変色し、柄の接点も幾つか取り外されていた。
古代機構との戦いで得た記録を読み出すため、細い導線が何本も測定器へ繋がれている。
「先ほどの模擬戦も含め、あなたの戦闘記録を確認しました」
ルシアンが右手で魔導板を操作する。
左腕は、今も固定されたままだ。
空中へ、何人もの俺が表示された。
刀を抜く。斬る。弾く。突く。
火と風の魔力身体強化を切り替える、どれも、古代区画やイーラで記録された動きだ。
「《試作ウルカーヌス》は、演算した正しい動作へ使用者の身体を近づけるよう設計しました」
「はい」
「しかし、あなたの動きには、すでに一貫した力の流れがあります。足から腰へ。腰から肩へ。肩から腕へ。失敗した斬撃であっても、どの時点で崩れたかを判別できる」
表示の一つが拡大される。 俺の斬撃へ、幾本もの青い線が重なった。
「あなたの動きを正解として登録し、機構側が追従する。身体を動かすのではなく、刃筋が崩れる直前にだけ補正を掛ける。実戦記録を反映すれば、それが可能です」
「つまり、俺の動きに合わせるということですか」
「レグルスさん専用の《ウルカーヌス》を製作できます」
空中に、新しい刀の設計図が開いた。
《試作ウルカーヌス》より細い峰。
銀線も、柄の接点も少ない。
代わりに、刀身の反りや重心を調整するための数値が細かく刻まれている。
「あなたの体格、握り、間合い。《速》と《剛》を切り替えた際の筋力差まで反映します。自動補正による負担も、現在の試作機より大幅に減らせるでしょう」
性能だけなら折れた刀を上回る。
何の魔法も宿していなかった、無名の一振り。
それに対して、目の前の設計図にはルミナスの技術が詰め込まれている。
俺の動きを測り、俺の斬撃を学び、失敗さえ、次の一振りへ反映する刀。
「これは、最高評議会からの提案でもあります」
ルシアンが続ける。
「七島の帰還に対する謝礼として、製作費用は連合が負担します。あなたの協力がなければ得られなかった記録です。遠慮する必要はありません」
「ありがとうございます」
設計図を見たまま、答える。欲しくないわけではない。
技術として、これほどのものを造れることには驚いている。
俺のためだけに調整された刀。
あの日。
幼い俺の手を測り、これからの身体を考えて打たれた一振りと、どこか重なるものもあった。
それでも、同じではない。
「ですが、この提案はお断りします」
ノアが目を見開く。
「いいんですか? これ、統括が七日間ずっと計算してたんですよ」
「ノア技師」
「でも」
「ありがとうございます。だからこそ、きちんとお断りしたいんです」
ルシアンは表情を変えなかった。
「理由を伺っても?」
「以前、教えていただきました」
作業台の《試作ウルカーヌス》を見る。
「この刀は、剣士になるための訓練を終えていない技師や警備員でも、事故や魔物から自分と周囲を守れるようにするためのものだと」
「ええ」
「刀を振るう時間がなかった人でも、今日、誰かを守れるようにする。そのために造り始めたものですよね」
「その通りです」
「俺は、違います」
背中へ手を回す。
革の上から、折れた刀の形へ触れた。
「俺には、刀を振ってきた時間があります。今は折れていても、その時間まで失ったわけではありません」
目の前の設計図なら刀を失った空白を、すぐに埋められるかもしれない。
けれど。俺が進みたい道は、空白をなかったことにする道ではない。
「足りないなら、また積み重ねます。俺一人のために、この技術の目的を変えないでください」
研究区画が静かになる。
ノアは何かを言おうとして、結局、口を閉じた。
ルシアンが設計図へ視線を戻す。
「あなたの動きを基準とした方が、完成度の高い刀を造れる。それでも、量産機の研究を優先してほしいと?」
「はい。俺よりも、その刀を必要とする人がいると思います」
「あなたも今、刀を必要としているのではありませんか」
「必要です」
そこだけは、否定しない。
「だから、自分で探します」
折れた刃と。
積み重ねてきた時間を持ってもう一度、自分の刀へ辿り着く。
ルシアンはしばらく俺を見つめていた。やがて、空中の設計図を閉じる。
「分かりました」
短い返事だった。
だが、不満も失望もなかった。
「専用刀の提案は撤回します。《試作ウルカーヌス》は当初の目的どおり、使用者を限定しない方向で完成させます」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらです」
ルシアンが、作業台の刀へ触れる。
「あなたの斬撃記録は、正しい動きを一つに限定しないための資料になります。演算上の正解を押しつけるのではなく、使用者自身の動きを残す。その必要性を、実戦で証明していただきました」
《試作ウルカーヌス》も。 この戦いを通して、次の形へ進んでいく。
「ただし」
ルシアンが、研究区画のさらに奥へ歩き出した。
「謝礼を何も受け取らずに帰すことはできません」
「ですが」
「これは最高評議会の決定です。私にも撤回する権限はありません」
奥の壁へ右手を翳す。
銀縁眼鏡から放たれた光が走り、小さな保管庫が開いた。
中に収められていたのは、左右一対の装具だった。
青銀色の細い金属板。足首を囲む輪。
靴底の外側へ沿わせるように、三枚の小さな浮遊板が重なっている。
武器には見えない。
「これは、何ですか」
「三次元機動補助装具――《メルクリウス》です」
ルシアンが片方を持ち上げる。 銀色の輪の内側で、青い術式がゆっくりと回転している。
「元は、高所作業員と空域保全隊の救助員へ向けて開発された装具です。足を踏み外した際、救助索が身体を支えるまでの間、空中へ一時的な足場を形成する」
「空中に、足場を?」
「正確には、小型浮遊板の力を一地点へ収束し、使用者の足裏へ反発面を作ります」
ルシアンが空中へ手を翳す。
装具から青い光が走り、何もない場所へ薄い円が現れた。硝子にも、水面にも似ている。
指先で触れると、僅かに沈んでから押し返された。
一秒も経たず、青い円は光の粒となって消える。
「これがあれば、空中で方向を変えられるのですか」
「使用者に、そのための力があれば」
ルシアンが装具をこちらへ差し出す。
「《メルクリウス》は、あなたを空へ運ぶ装置ではありません。身体を持ち上げることも、進む方向を決めることもない。あなたが踏み出した先へ、次の一歩を置くための装具です」
機構が身体を動かすわけではない。
どこへ進むか。どれほど強く踏み込むか。それは、自分で決める。
「なぜ、使われていなかったのですか」
「扱いが難しすぎたんです」
ノアが答えた。
「落ちてから足場が出ても、普通は姿勢を戻せません。慌てて両足で乗ろうとすると、反発面が傾いて余計に回ります。救助員なら飛行具を使った方が安全で、高所作業員へ渡すには訓練が必要すぎる。それで試験停止になってました」
「ですが、あなたは《纏風舞踏》によって空中で姿勢と軌道を変えられる」
ルシアンの眼鏡へ、先ほどの模擬戦が表示された。
風圧弾に押された俺が、風を放って着地点を変えた場面。
「《試作ウルカーヌス》の測距術式を転用し、両足の位置と角度を独立して測定するよう調整しました。ノア技師が、浮遊板の出力もあなたの踏み込みへ合わせています」
「元のままなら、レグルスさんの一歩で壊れる計算でしたから」
ノアが胸を張る。
「ただし、今の仕様で連続形成できる足場は三つまでです。一つの足場が残るのは一秒未満。三歩使った後は、魔力の再蓄積に数秒掛かります」
「同じ場所へ立ち続けることはできますか」
「できません」
「《剛》を使った場合は、どうなりますか」
「全力で使ったら、足場が先に砕けます。絶対にやめてください」
「分かりました」
ノアが目を細める。
「今の返事、信用していいんですか?」
「努力します」
「もう信用できません」
先ほどのカサンドラと、ほとんど同じ返事だった。
『この国での評価が、すっかり定着したわね』
「どうしてだろうな」
『本気で言っているなら、そこから考えた方がいいわ』
セレスの声を聞きながら、青銀色の装具を受け取る。
見た目よりも軽い、けれど、小さな浮遊板には幾重もの術式が刻まれている。
空へ浮かぶために磨かれてきた技術。距離と動きを測る技術。
それらが、両足へ収まるほど小さな装具へ重ねられていた。
「使ってみたいです」
「では、最終調整を始めます」
ノアが工具を取り出す。
「明日の朝までには、普段の靴へ固定できるようにします。それと、壊さないでくださいね」
「気をつけます」
「努力します、じゃないんですか?」
「言い直した方がいいですか」
「そのままでお願いします」
◇
研究区画の外には、小型浮遊機関の試験に使う縦長の空間があった。
建物の側面から張り出した三つの足場。
最も低い場所と高い場所では、十メートルほどの差がある。
下にはヴィオラの張った落下防止結界。 それでも、足場の間に床はなかった。
両足首へ、《メルクリウス》を装着する。
青銀色の輪が靴へ沿って縮まり、足裏の外側へ三枚の浮遊板が固定された。
ノアが右足の接続部へ細い工具を差し込む。
「右足、踏み込んでください」
言われたとおり、床を踏む。
浮遊板が青く光り、足首を一周する術式が足裏へ集まった。
「次は、踵を上げて」
体重を爪先へ移す。 光も前へ動く。
「角度補正、問題なし。左も同じです」
調整を終え、最初の足場の縁へ立つ。
正面には何もない。 メートル先。斜め上に、次の金属床が張り出している。
普通に跳べば、届かない距離ではない。
だが、そこへ直接向かわず一度、空中で横へ踏み、さらに上へ進む。
「最初は一歩だけにしてください」
ノアが下から声を上げる。
「分かりました」
「勢いをつけすぎないでくださいよ!」
「分かっています」
『本当に?』
セレスまで重ねてくる。
返事はせず、息を整えた。
身体の中心へ魔力を通す、緑色の魔力波が足元へ広がり、風が両脚へまとわりついた。
「《纏風舞踏》」
床を蹴る。
身体が、足場の外へ出た。
右足を前へ。何もない空間へ踏み込む。
靴底から青い光が弾けた。
一枚の円が、右足の下へ現れる。
硬い床ではない。水面を強く張ったように、僅かに沈む。
踏み込みの力が逃げかける。足首が傾いた。
「力を真下へ!」
ノアの声。
腰を戻し、足裏全体で青い円を捉える。
沈んだ足場が、押し返してきた。
右足を伸ばす。身体が、さらに上へ跳ねた。
一歩目の足場が背後で消える。正面の金属床へ着地した。
「成功です!」
ノアが両手を上げる。
足裏には、まだ反発した感触が残っていた。
「もう一度、いいですか」
「今度は二歩までです!」
元の足場へ向き直る。
今度は、真っ直ぐ戻らない。
一歩目を斜め下。二歩目を横。
空中で進む方向を変える。床を蹴った。
右足の下に、一つ目の青い円。先ほどより浅く踏み、反発を横へ流す。
身体の向きが変わる。左足を、何もない場所へ置く。
二つ目。青い足場が生まれる。
風を背中から右肩へ流し、身体を半回転させた。
正面ではなく。 最初に立っていた足場の側面へ、横から着地する。
これまでも、風で空中の軌道を変えることはできた。
けれど、それは落下する身体を押すだけだった。
《メルクリウス》があれば一度、空中で力を受け止め、そこから、次の方向へ踏み出せる。
上。下。左右。斜め。
地面の上だけでは選べなかった間合いが、一気に広がっていく。
「三歩目も試しますか」
ノアが尋ねる。
「いえ。今日はここまでにします」
答えると。
全員が、意外そうに黙った。
「何ですか」
「いや、止めるんだなと思って」
カサンドラが腕を組み、笑っている。
「明日、出発ですから」
「それを分かってて模擬戦を頼んだのは、どこの誰だったかね」
返す言葉がない。
カサンドラは試験用の足場から地上を見下ろした。
「翼を渡したつもりはないよ」
青銀色の装具へ視線を向ける。
「空で踏ん張る場所を、ほんの少し貸しただけさ。飛べると思って無茶するんじゃないよ」
「はい」
「返事だけはいいんだ」
「ですが」
足元へ残る感触を確かめる。
「一歩あれば、届く場所は増えます」
カサンドラが目を細めた。
今度は、呆れた顔ではなかった。
「そうだね」
空から来た技術は。俺の代わりに戦うものではない。
ただ、選んだ方向へ足を置く場所を作ってくれる。
それなら。 この力と一緒に、進んでみたいと思った。
◇
翌朝。
スペルビア南部連絡港には、地上へ向かう飛行艇が停泊していた。
帰還前に使われていた発着場は、四百メートル下の地上航路へ合わせて調整されている。
大型艇が雲海へ向けて高度を上げる必要はない。
森の上を抜け、ヴァルディア王国の最寄りの魔導列車駅まで、一時間も掛からないという。
陽は昇ったばかりだった。
街の硝子窓が朝日を反射し、その向こうには地上の森が広がっている。
高架軌道では空中魔導列車が試験運転を始めていた。
主機の音は、もう聞こえない。
代わりに地上から吹き上げる風と、《天水脈》を流れる水の音が街を満たしている。
「王都支部への報告は、こちらから送っておくわ」
ヴィオラが、一通の書類を差し出した。
「今回の依頼は、連合中央支部の正式な特別依頼として処理します。報酬も王都で受け取れるようにしてあるから、忘れないでね」
「ありがとうございます」
「それと、あなたの中央支部登録は残しておきます」
「また来てもいいのですか」
「来てはいけない理由がある?」
ヴィオラが笑う。
「次に来た時は、もう少し普通に受付へ来てちょうだい。橋から飛び込まずに」
「気をつけます」
「その返事は、ここにいる全員が信用していないと思うわ」
周囲を見る。 誰も否定しなかった。
「《メルクリウス》の使用記録は、各地のギルドから送れます」
ルシアンが、薄い記録板を渡してくる。
左肩の固定具は残っているが、昨日よりも顔色はよかった。
「形成した足場の数、持続時間、踏み込み時の出力が自動で保存されます。破損や異常がなくても、月に一度は記録を送ってください」
「分かりました」
「《剛》を使用した場合は、その場で点検を」
「全力では使いません」
「全力でなくても、です」
「……分かりました」
隣で、ノアが大きな鞄を抱えていた。
中には《メルクリウス》用の工具と、交換用の小さな魔石が入っている。
「これは持っていってください。足首の固定具が緩んだ時は、青い柄の工具。浮遊板の間に砂が入った時は、細い刷毛。赤い工具は出力調整用なので、絶対に触らないでください」
「赤ですね」
「どうして触る方を確認するんですか。触らないでくださいって言ったんです」
「覚えるためです」
「本当にお願いしますよ」
鞄を受け取る。
見た目より重かった。
「ノアさんが調整してくださった装具です。大切に使います」
「壊さないでくださいね」
「努力します」
「母さんと同じことを言いますけど、その返事は信用できません」
ノアが手を差し出した。
握り返す。
初めて会った時、作業着姿で母親に頭を叩かれていた少年の手。
その掌には、今も新しい傷の痕が残っている。
「また、来てください」
「はい」
「その時までに、《メルクリウス》も改良しておきます。五歩……いや、十歩くらい連続で走れるように」
「楽しみにしています」
「だから、壊さずに持って帰ってきてくださいよ」
「努力します」
「そこは約束してください」
今度は、はっきりと頷いた。
「約束します」
ノアが、ようやく笑う。
少し離れた場所には、エレノア議長も立っていた。
帰還後の協議が続いているはずだ。
それでも、出発を見送りに来てくれたらしい。
「レグルス・クレハルトさん。そして、セレスさん」
『ええ』
「ルミナス魔導連合を代表し、改めて感謝します」
エレノア議長が頭を下げる。 俺も慌てて頭を下げた。
「俺一人の力ではありません。ノアさんも、ルシアンさんも。七島の皆さんが最後まで動いたから、帰ってこられたんです」
「はい。だからこそ、その中の一人として、あなたへ感謝します」
議長が頭を上げる。
背後には、地上へ続く仮設昇降機が見えていた。
「ルミナスは、これから多くのものを変えていかなければなりません。地上との道。国同士の関係。失われた浮遊機関に代わる新しい仕組み」
一度、七島を見渡す。
「ですが、私たちはもう、空に取り残されてはいません」
「はい」
「次にお越しになる時には、今より少しだけ地上に近い国になっているでしょう」
「楽しみにしています」
搭乗を知らせる鐘が鳴った。
飛行艇の側面で、乗降扉が開く。
最後に、カサンドラが前へ出た。
「本当に行くんだね」
「はい」
「あんたに飛び込むなと言っても、無駄そうだからね」
腰へ片手を当て。
もう片方の手で、《メルクリウス》を指す。
「せめて、一歩分の空くらいは持っていきな」
「ありがとうございます」
「それと――」
カサンドラが笑った。
「落下には、気をつけて」
ルミナスへ来てから、何度も聞いた言葉。
最初は、この国で暮らすための挨拶にしか思えなかった。
今は。
少し違う意味に聞こえる。
「はい。努力します」
「やっぱり、約束はしないんだね」
カサンドラが声を上げて笑う。
ヴィオラも、ノアも、ルシアンさえ、僅かに口元を緩めていた。
飛行艇へ乗り込む。
扉が閉じ、艇体が発着場からゆっくりと離れた。
窓の向こうで、五人が小さくなっていく。
エレノア議長。
ヴィオラ。
カサンドラ。
ルシアン。
ノアは、最後まで両手を振っていた。
『いい人たちだったわね』
「ああ」
『また来るのでしょう?』
「もちろん」
飛行艇が大きく旋回する。
七島の全景が、窓の外へ広がった。
中央島スペルビア、その周囲を囲む五つの島。そして、最初に地上へ根を張ったイーラ。
島の底から伸びる《天水脈》が朝の光を受け、七本の青い根となって大地へ続いている。
もう、雲海の上に隠された国ではない。
大地に根を張りながらそれでも空に在り続ける国。
腰の鞘は、まだ空だった。
歩くたびにあった重さはなく。
右手を伸ばしても、掴む柄はない。
背には、折れた二つの刃がある。
直せるかは分からない、同じ形へ戻ることが、正しいのかも分からない。
それでも、次にやるべきことは決まっている。
この刀を見てもらう。
折れた理由も、最後まで運んでくれた意志も。
すべてを抱えたまま、もう一度振るための道を探す。
『その前に、《メルクリウス》の練習ね』
「分かってる」
『三歩目で調子に乗らないこと』
「分かってるって」
『《剛》も使わない』
「それは状況による」
『今すぐルミナスへ戻りましょうか』
「冗談だ」
足首では、青銀色の装具が朝日を返している。
刀の代わりではない。俺の代わりに戦ってくれる力でもない。
ただ、俺が踏み出すと決めた先へ、一歩分の足場を作るもの。
飛行艇が、地上へ向けて高度を下げる。
空の国が遠ざかり。
新しい道が、窓の先へ続いている。
俺はルミナスから。 一歩分の空を持って帰る。




