第53話 空を降りる日
足の裏が、一瞬だけ石床から離れた。
球形空間を満たす青い水球の中で、七島の高度を示す数字がゆっくりと下がっていく。
『七島降下を開始』
古代の声が、もう一度告げた。
空へ留まり続けていた大地が、自ら選んだ帰る場所へ向けて降り始める。
俺たちは球形空間を出た。
古代区画へ続く石造りの通路も、低く震えている。天井から細かな砂が落ち、壁際へ増設された仮設導線が僅かに揺れていた。
「クロイツ統括!」
待機していた技師と治療術師たちが、一斉に駆け寄ってくる。
最初に囲まれたのはルシアンだった。
右手は固定具に覆われ、左腕も肩から下がったまま動いていない。それでも本人は担架を断り、開いた立体図へ視線を向けた。
「七島の下降速度は」
「規定値内です。第一減勢へ移行するまで、残り十一分」
「現代測量経路は」
「全地点で接続を維持しています」
「ならば、処置を受けながら仮設管制室へ移ります」
「統括。まず肩を診せてください」
「移動しながらでも可能でしょう」
「不可能です」
治療術師に言い切られ、ルシアンが僅かに黙る。
その横では、ノアも両手の包帯を解かれていた。
掌の傷が開き、指の付け根まで赤く染まっている。薬液を掛けられた瞬間、顔を歪めたが、声は上げなかった。
「ノア技師。指を曲げてください」
「動きます」
「痛みは」
「あります。でも、動きます」
「聞いているのは作業ができるかではありません」
「俺が知りたいのは、作業できるかです」
治療術師が深いため息をついた。
俺も壁際の長椅子へ座らされる。
外套を脱ぐと、両腕には黒い痣が幾つも浮かんでいた。巨腕を押し返した時に痛めたらしい。右の手首も腫れていたが、骨に異常はない。
「痛む場所は」
「腕と、少し脇腹が」
「少しではありませんね」
治療術師の指が肋骨へ触れる。
思わず息が止まった。
「折れてはいません。ただ、しばらく激しく動かないでください」
「分かりました」
『その返事、何度目かしら』
セレスが、長椅子の隣へ浮かぶ。
「今回は、もう戦う相手はいないだろ」
『そう願いたいわね』
セレスが、俺の背へ向いた。
布で包んだ、二つの刃。
『下ろしてもらえる?』
言われるまで、背負ったままだった。
固定していた紐を解き、刀を膝へ載せる。
ノアから受け取った白い整備布は、ところどころ青い水に濡れていた。折れた断面が布を破らないよう、柄側と切っ先側を分けて包んでいる。
結び目を解く。
鍔と柄。そこから僅かに残った刀身。
そして、鍔元から先を失った長い刃。
二つを長椅子の上へ並べると、刀だった時と同じ形になった。
けれど。
触れ合うことのない断面が、これまでと今を分けている。
指先で、柄糸を撫でた。
何度も巻き直した。
汗を吸い、雨に濡れ、血が染みたこともある。
それでも、手の形に馴染んだ感触だけは、初めて握った日から大きく変わっていない。
遠くで、金属を叩く音がした。
仮設管制室を組み直している技師の槌だ。
一度。
間を置いて、もう一度。
硬い音が、石造りの通路へ響く。
その音を聞いた瞬間。
青い光に包まれた古代区画が、赤い火の色へ変わった。
◇
熱かった。
冬の朝だったはずなのに、鍛冶場の中だけは息をするのも苦しいほど熱い。
火床で炭が爆ぜる。
赤く熱した鋼を打つたび、橙色の火花が土床へ散った。
まだ幼かった俺は、祖父の後ろに立ち、その光景から目を離せずにいた。
クレハルト家の敷地の奥。
石壁と太い木の梁で造られた、小さな鍛冶場。
そこにいるのは、クレハルト家お抱えの鍛冶師だった。
西方では騎士剣を打つ職人が多い。
その中で、東方から伝わった製法を守り、刀を専門に打つことのできる数少ない鍛冶師。
太い腕には、古い火傷の痕が幾つも残っていた。
鍛冶師は槌を置くと、俺へ顔を向ける。
「手を出せ」
低い声だった。
言われるまま、両手を差し出す。
小さな掌には、木刀を振って潰れた豆があった。治りかけた皮の隣に、新しい水膨れもできている。
鍛冶師は片方の眉を上げた。
「誰に言われて振ってる」
「誰にも言われてません」
「一日に何度だ」
「朝に千回です。終わったら、できるところまで」
「数えられなくなっただけだろう」
「……はい」
正直に答えると、鍛冶師の鼻から短い息が漏れた。
笑われたのかと思い、手を引こうとする。
だが、太い指が掌を支えたまま離さなかった。
「いい手だ」
初めて言われた言葉だった。
兄のように、剣を握っただけで教えられた形を再現できるわけではない。
姉のように、一度見た術式を覚えられるわけでもない。
俺の手にあるのは、潰れた豆と、握り方を間違えてできた傷だけだった。
「でも、俺は下手です」
「知っている」
迷いのない返事に、顔を上げる。
「何度か訓練場で見た。力みすぎる。刃筋もぶれる。足と腰も繋がっていない」
「……そこまで言わなくてもいいじゃないですか」
「嘘をついても、刀は斬れるようにならん」
今なら、その通りだと思う。
だが当時の俺は、唇を噛むことしかできなかった。
祖父は何も言わない。
腕を組み、鍛冶場の入口へ立ったまま、俺と鍛冶師を見ている。
「それでも刀が欲しいのか」
鍛冶師が尋ねた。
父さんからは、何度も騎士剣を勧められていた。
兄と同じ剣。
西方で最も広く使われ、教える者も多い武器。
俺の身体にも、その方が合っていると言われた。
それでも、答えは最初から決まっていた。
「欲しいです」
「なぜだ」
祖父を見る。
子供の頃に見た、あの一振り。
速かったわけではない。派手な魔力を放ったわけでもない。
ただ、綺麗だった。
世界から余計なものを削ぎ落とすような一振り。
「爺さんみたいに、斬れるようになりたいです」
祖父の眉が、僅かに動いた。
鍛冶師はしばらく俺の顔を見つめ、再び火床へ向き直る。
「なら、これは名刀にはしない」
意味が分からなかった。
「どうしてですか」
「名刀を持てば、お前は刀の名に追いつこうとする」
鍛冶師が、赤く熱した鋼を火床から取り出した。
「こいつに名は要らん。家の技も、特別な魔法も刻まん。お前が斬るためだけの、ただの刀にする」
鋼が金床へ置かれる。
槌が振り下ろされた。
甲高い音とともに、火花が舞う。
一度。
二度。
三度。
歪んだ鋼が打ち延ばされ、折り返され、また火の中へ戻される。
その日だけで刀ができたわけではない。
何度も鍛冶場へ通った。
手の大きさを測られた。
木で作られた仮の柄を握り、何度も構えた。
足を開き。
振り上げ。
振り下ろす。
鍛冶師は黙ってそれを見て、柄の長さを変え、重心を僅かに動かした。
刀身は、幼い俺には少し長く打たれた。
重さも、当時の身体には余るほどだった。
これから背が伸び、腕が伸びても使えるように。
反りは浅く。
拵えは、東方の形を残しながら、西方の帯へ差しても動きやすいよう作られた。
飾りはない。
黒い鞘。簡素な鍔。
何の魔法も宿していない、ごく普通の一振り。
完成した刀を受け取った日。
俺は両手で柄を握り、鞘から抜こうとした。
初めの数寸は動いた。
だが、そこから先が抜けない。
左手で鞘を引き、ようやく刀身を露わにする。
火床の明かりが、研がれた刃へ細く映った。
綺麗だった。
自分のためだけに打たれた刀が、手の中にある。
嬉しくて。
すぐにでも振ってみたくて。
柄を握る手に力を込めた。
刀身を持ち上げる。
切っ先が、すぐに下がった。
「重い……」
思わず漏れた言葉に、鍛冶師が笑う。
「お前に合わせて軽くはしていないからな」
「俺の刀なのに、合わせないんですか?」
「今のお前ではなく、これからのお前へ打った」
もう一度、持ち上げる。
腕が震えた。
それでも離したくなくて、歯を食いしばる。
祖父が、初めて口を開いた。
「重さを覚えておけ、レグルス」
「重さを?」
「振り続ければ、いずれ軽くなる」
刀そのものが軽くなるはずはない。
そう思って祖父を見ると、僅かに口元を緩めていた。
「その時に分かる。刀が変わったのか、お前が変わったのか」
鍛冶師が、俺の手から刀を取り上げる。
刃を確かめ、ゆっくりと鞘へ戻した。
「刀は、折れないから強いんじゃない」
鍔が鯉口へ収まる。
小さく、硬い音がした。
「持ち主が振った分だけ、そいつの意志を運ぶ。だから強い」
鞘ごと、刀を差し出される。
「こいつがお前より先に諦めることはない。お前も、最後まで手を離すな」
俺は両腕で刀を抱えた。
「分かりました」
何も分かっていなかった。
刀が折れるということも。
一振りへ意志を乗せるということも。
それでも。
その言葉だけは、ずっと忘れなかった。
◇
槌音が止んだ。
目の前には、赤い火ではなく、青い光がある。
幼い俺には重すぎた刀。
いつからか、その重さを意識しなくなっていた。
刀が軽くなったわけではない。
振り続けた分だけ。
俺が、その重さを背負えるようになったのだ。
けれど今。
二つに分かれた刀は、あの日よりもずっと軽い。
柄側の刀身を持ち上げる。
折れた断面へ、青い光が映った。
「……手は離さなかった」
『ええ』
セレスが静かに答える。
戦っている時には、振り返らなかった。
思い出せば、腕が止まっていたかもしれない。
目の前の一撃より、過ぎた時間を守ろうとしていたかもしれない。
だから、あの時はただ振った。
今ならようやく、言葉にできる。
「ありがとう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
刀は答えない。
何の魔法も宿していない。
意思を持つ契約物でもない。
それでも、この刀は俺が振った分だけ、俺の意志を運び続けてくれた。
最後の一振りまで。
『いい刀だったのね』
「ああ」
『名前はなかったのでしょう?』
「必要なかった」
名刀ではない。
家に伝わる宝でもない。
俺が斬るためだけに打たれた、ただの刀だった。
だからこそ。
俺にとっては、代わりのない一振りだった。
折れた二つの刃を、もう一度布で包む。
今度は、結び目が緩まないように。
それでも、締めつけすぎないように。
一本の刀を鞘へ戻す時と同じように、丁寧に。
「レグルスさん」
呼ばれて顔を上げる。
両手の処置を終えたノアが立っていた。
新しい包帯の上から、指の動きを補助する薄い手袋が装着されている。
「仮設管制室へ移ります」
「手は大丈夫ですか」
「痛いです」
ノアは包帯の巻かれた両手を見る。
「でも、今度はちゃんと治療してもらいました」
「それなら、さっきよりは安心ですね」
「レグルスさんにだけは言われたくないです」
脇腹を押さえた俺を見て、ノアが小さく笑う。
俺も立ち上がった。
折れた刀を背へ固定する。
腰には、空になった鞘。その軽さは消えない。
それでも、先ほどまでのように何かが抜け落ちた感覚はなかった。
失った重さごと。
今は、背負っていける。
◇
古代区画の外へ設けられた仮設管制室には、七島すべての景色が映し出されていた。
中央島スペルビア。
その周囲を囲む五つの島。
そして、主機を停止したイーラ。
七つの立体図が、青い線で地上の帰還地点へ結ばれている。
ルシアンは管制卓の中央へ立っていた。
左肩は固定され、右手も使えない。
操作はノアと周囲の技師へ任せ、自身は数値と報告の確認に徹している。
「統括。第一減勢開始まで、残り三十秒です」
「各島の主機出力を再確認」
「スペルビア、正常」
「外縁第一島から第五島、すべて規定値内」
「イーラ、主機停止を継続。補助浮遊機関は帰還制御へ同期しています」
「地上との接続は」
「七地点すべてで測量信号を維持!」
正面の大型通信画面へ、最高評議会の議場が映る。
中央に立つエレノア議長が、七島すべてへ向けて口を開いた。
『ルミナス全域へ』
管制室にいた者たちの手が止まる。
スペルビアの避難広場。
外縁五島の集合住宅。
灯りの消えたイーラの工業区。
全島に設置された通信用魔導具から、同じ声が流れている。
『第三段階は完了しました。これより七島は、最終降下へ移行します』
避難区画の映像が、小さな画面へ映し出される。
住民たちは身体を固定する帯を着け、放送を聞いていた。
泣いている子供。
その肩を抱く母親。
窓の外から降下する街を見つめる老人。
工具を握ったまま、主機の音へ耳を澄ませる技師たち。
『私たちは、空で築いてきたものを捨てるのではありません』
エレノア議長の声に、迷いはなかった。
『人も、技術も、記憶も、未来も。すべてを携え、今の世界へ降ります』
一度、息を吸う。
『空へ留まり続ける国から、大地に根を張る空の国へ』
議長の視線が正面を向く。
『これは、私たち自身が選んだ帰還です』
続いて、各部門から報告が届く。
『全飛行艇、降下軌道から退避。七島周辺の空域封鎖も完了しています』
カサンドラの声だった。
背後では空域保全隊員たちが、最後の飛行艇を係留環へ固定している。
『緊急時に動かせる救助艇だけは、七島の外側で待機させています。何かあれば、地面より先にあたしたちが拾いますよ』
『避難区画の収容確認も終わったわ』
今度はヴィオラ。
『ギルド職員と冒険者で全棟を確認済み。取り残された住民はいない。物資も三日分を各島へ分散してあるわ』
『地上誘導班、七地点で待機。帰還地点周辺の避難も完了しています』
王国側からの報告が重なる。
すべての準備が終わった。
残っているのは、降りることだけだ。
「第一減勢」
ルシアンが告げる。
「主機出力、八十パーセントへ」
ノアの指が制御卓を滑る。
七島の主機から伸びていた光が、一段階弱まった。
床がゆっくりと傾くような感覚。
実際に傾いているわけではない。
これまで大地を空へ押し上げていた力が弱まり、七島の重量が《天水脈》へ移っている。
「七島、下降速度一致しています」
「姿勢差、測定誤差内」
「第二減勢。六十五パーセント」
さらに光が細くなる。
窓の外で、雲海が近づいてきた。
ルミナスへ来た日。
遥か下に広がっていた、白銀の海。
空に暮らす者たちにとって、雲は足元にあるものだった。
その雲が今。
高層建築の屋上より高くなり。
連絡橋へ届き。
七島の街並みを、下からゆっくりと呑み込んでいく。
やがて、仮設管制室の窓も白く覆われた。
細かな水滴が硝子を流れる。
何も見えない。
白一色の中で、主機の低い唸りと、管制員たちの声だけが続いている。
「雲の中って、こんなに何も見えないんですね」
ノアが一瞬だけ窓を見る。
「地上から見ても同じですよ」
「そっか」
ノアの指は止まらない。
「これからは、そっち側から見ることになるんですね」
「怖いですか」
「怖いです」
迷わず答えた。
「でも、もう戻りたいとは思いません」
その時、警告音が鳴った。
『イーラ、下降速度増加!』
七島の立体図で、一つだけ高度を示す数字が速く下がり始める。
『六島との高度差、拡大しています!』
「原因を」
ルシアンの声が管制室を通る。
ノアがイーラの出力経路を開く。
「基幹変換炉を止めてる分、蓄積魔力の消費が予測より速いです! 補助機関の制動出力が落ちてます!」
「スペルビアから追加供給を」
「駄目です!」
管制員の提案を、ノアが止めた。
「中央だけで支えたら、スペルビアの主機が最終減速まで持ちません」
「では、代案は」
ルシアンが尋ねる。
ノアは七島を繋ぐ《天水脈》へ視線を走らせる。
イーラへ送られている流れ。
中央島から太い一本。
外縁五島から、細い五本。
「六島から少しずつ送ります」
青い流れの太さが、均等に書き換えられていく。
「一島で持ち上げるんじゃない。六島全部で、イーラの下降速度を支えるんです」
「各島の最終減速出力は維持できますか」
「二パーセントずつなら残せます。外縁第三島だけ蓄積量が少ないので、そこは一・二パーセント。差分は第一島と第五島へ」
答えはすぐに返ってきた。
ルシアンが七島の予測値を見渡す。
「ノア技師。配分を任せます」
「はい!」
ノアが両手を制御卓へ置く。
傷を保護する手袋の上を、青い術式が走った。
「スペルビア、供給を四十パーセントまで低下。外縁五島からイーラへ補助流路を開いてください!」
「第一島、接続!」
「第二島、接続!」
「第三島、規定値一・二パーセントで接続!」
報告が次々に重なる。
七島の間に、青い水の道が広がっていく。
『レグルス。右奥の流れが薄いわ』
セレスが立体図の一部へ近づく。
外縁第四島から伸びる水路。
他の島よりも青い光の脈動が遅れていた。
「ノアさん。第四島の経路を」
「流量弁の反応が遅れてる……補助回路へ切り替えます!」
細かった水の道が、隣の経路へ繋がる。
六島から送られた力が、イーラの底部へ届いた。
速く下がっていた数字が、僅かに緩む。
『イーラ、下降速度低下!』
『高度差、縮小しています!』
誰も声を上げない。
ノアは数値が完全に揃うまで、制御卓から目を離さなかった。
やがて。
七島の高度が、もう一度同じ線へ並ぶ。
『イーラ、同一降下軌道へ復帰!』
管制室の空気が、僅かに緩んだ。
「配分を固定します」
ノアが息を吐く。
以前は、六島を残すために切り捨てられようとしていた一島。
そのイーラを。
今は、六島すべてが支えている。
「できましたね」
俺が言うと、ノアは首を横へ振った。
「まだです」
包帯の巻かれた手を、再び制御卓へ置く。
「帰るまでが、俺たちの仕事です」
その言葉に、ルシアンが僅かに目を細めた。
「その通りです」
◇
白かった窓の向こうに、色が戻り始めた。
初めは、薄い灰色。次に、深い緑。
雲を抜ける。
視界が一気に開けた。
地上がある。
地図のようにしか見えなかった大地が、もう遥か下ではない。
森を作る木々の一本一本までは見えない。
それでも、緑の濃淡が森の起伏だと分かる。
岩盤地帯を縫うように河川が流れ、その先には避難を終えた小さな集落がある。
七つの帰還地点では、地上誘導班が並べた青い魔導灯が大きな環を描いていた。
空から降りてくる島へ。
ここが、今の帰る場所だと示す光。
「地上って」
ノアが呟く。
「上から眺めてた時と、降りる時では全然違いますね」
「今までより近く見えるからですか」
「それもあります」
窓へ映る自分の顔を見たまま、続ける。
「もう、景色じゃないからです」
地上は、遠くにあるものではない。
これからルミナスが関わっていく世界。
道を繋ぎ。人が行き来し。新しい暮らしを作る場所だ。
『最終減速開始高度まで――三千メートル』
古代の声が、管制室へ届く。
空気が張り詰めた。
ここから先は、やり直せない。
七島に残された蓄積魔力を、主機と浮遊板へ一斉に流す。
積層魔導環は焼ける。
出力変換炉も、再使用できなくなる。
補助浮遊機関も、姿勢制御を終えたものから停止する。
その代わり。
七島は地表から約四百メートル。
小高い山ほどの高さで下降を止める。
そこから《天水脈》を地上の地脈へ接続し、七島そのものを大地へ定着させる。
空を移動する力は失われる。
もう一度、雲の上へ戻ることもできない。
けれど。
大地から支えられることで、ルミナスは空に在り続ける。
「最高評議会へ、最終確認を」
ルシアンの言葉で、通信が開かれる。
「最終減速を開始すれば、七島の現代浮遊機関は残りません」
『承知しています』
エレノア議長が答える。
「定着後、七島は自力で高度を上げることも、現在地から移動することもできなくなります」
『それが、私たちの選んだ帰還です』
「最後に、もう一度だけ確認します」
ルシアンの声が、僅かに低くなる。
「空へ留まるために築いたすべての機関を、降りるために使い切ります。よろしいですね」
エレノア議長は、すぐには答えなかった。
背後に並ぶ評議員たち。
空域保全隊。
中央浮遊機関管理局。
七島の住民。
それらすべてを見渡すように、一度だけ目を閉じる。
そして。
『開始してください』
「承知しました」
通信を切り、ルシアンがノアを見る。
制御卓の中央には、銀色の位相鍵が差し込まれている。
「ノア技師」
「はい」
「最終減速を開始します」
ノアの手が、位相鍵へ重なる。
だが、すぐには回さなかった。
目の前へ並ぶ七基の主機。
数百年をかけ、ルミナスの技師たちが造り、改良し、守り続けてきた機関。
ノア自身も。
壊れた部品を交換し。
誰にも気づかれない異音を探し。
動いていて当然だと思われるものを、動かし続けてきた。
そのすべてを。
今から、自分の手で使い切る。
「ノアさん」
声を掛ける。
何を言えばいいのかは、分からなかった。
刀を失ったばかりの俺にも。
ノアが機関へ抱いているものを、同じだとは言えない。
それでも。
手を離したくない気持ちだけは、分かる。
ルシアンが、静かに口を開いた。
「技師が残すべきものは、機械だけではありません」
ノアが顔を上げる。
「機関を造り直す者たちを、地上へ残します」
短い沈黙。
ノアの指が、位相鍵を握り直した。
「はい」
今度は、迷わなかった。
「最終減速――開始!」
位相鍵が回る。
七島の底部から、これまでで最も強い光が噴き出した。
身体が床へ押しつけられる。
管制室全体が激しく揺れ、壁際の器具が一斉に音を立てた。
「全員、身体を固定!」
近くにいた技師が倒れかける。
俺は背中から抱えるように支え、管制卓の固定具へ掴まらせた。
ルシアンの身体も大きく揺れる。
使える腕がない。
肩を掴み、管制卓の前へ立たせる。
「すみません」
「最後まで見届けるんですよね」
「ええ」
主機の表示が、次々に黄色へ変わる。
『外縁第一島、積層魔導環が限界温度へ到達!』
『第二島、出力変換炉の冷却停止!』
『スペルビア中央主機、最大出力を維持!』
壊れているのではない。
予定どおり。
最後の力まで使い切っている。
窓の外で、地上へ近づいていた景色が急速に速度を落とす。
『高度二千四百!』
『下降速度、規定値内!』
大地から七島へ。
青い誘導灯の環を中心に、淡い光が立ち上がり始めた。
初めは、細い糸だった。
地中を走る魔力。
数千年前から形を変えながら、今も大地を巡っている地脈の光。
それに応えるように。
七島の底部から、《天水脈》が伸びていく。
水が落ちているのではない。
無数の青い流れが枝分かれし、地上へ向けて根を下ろそうとしている。
『地脈接続圏へ進入』
古代の声が響く。
『七島定着工程を開始』
地上の光と。
空から伸びる青い根が。
少しずつ近づいていく。
「高度千二百!」
「姿勢差〇・三度!」
「外縁第五島の補助機関を切り替え。右側出力を七パーセント上げてください」
「了解!」
ルシアンが数値を読み。
ノアが出力を配り。
管制員たちが七島へ命令を送る。
俺は揺れに耐えながら、二人が管制卓から離れないよう支える。
戦う力は、もう必要ない。
刀がなくても。
ここでできることはある。
『イーラ、高度七百!』
再び、イーラの下降が僅かに速くなる。
六島から送られる青い水が、その底部へ集中した。
「このままです!」
ノアが叫ぶ。
「イーラを先に定着させます! 接続した地脈から流量を返せれば、残る六島の負担を減らせます!」
「許可します」
イーラの立体図が拡大される。
『定着高度まで――百二十メートル』
島の底から伸びた青い根。
地上の岩盤から立ち上がった光。
両方が、触れた。
瞬間。
窓の外で、巨大な青い環が広がった。
地表から約四百メートル。
イーラの下降を示す数字が、ゆっくりと零へ近づいていく。
『五十』
『三十』
『十』
誰も息をしない。
『イーラ――定着高度へ到達』
数字が、零になった。
『地脈接続――固定』
イーラの底部から地上へ、何本もの青い流れが根のように広がる。
停止していた主機の代わりに。
大地を巡る魔力が《天水脈》へ流れ込み、島の重さを受け止める。
『イーラ、低空浮遊安定!』
管制室の各所から、息を吐く音が聞こえた。
だが、まだ六島が残っている。
「イーラからの返流を確認!」
ノアが流路を開く。
「外縁五島へ均等配分! スペルビアへの負担は最後まで残してください!」
地上へ根を張ったイーラから、青い水が逆流する。
切り捨てられようとしていた一島が。
今度は、残る六島を支える側へ回った。
『外縁第一島、定着高度へ接近!』
『第二島、姿勢水平!』
一島ずつ。
小高い山ほどの高さで、下降を止めていく。
『第一島――地脈接続固定!』
『第二島――低空浮遊安定!』
『第三島――定着高度へ到達!』
報告が重なるたび、七島の立体図へ新しい青い根が増えていく。
第四島。
第五島。
すべてが地脈へ接続された。
残るのは、中央島スペルビア。
『中央主機、積層魔導環焼損!』
管制卓の中央で、最後まで青かった表示が赤へ変わる。
スペルビアの下降速度が僅かに増した。
「中央主機、停止します!」
「補助機関へ全残存出力を」
「出力変換炉が持ちません!」
「持たせる必要はありません」
ルシアンが、正面の高度表示を見据える。
「定着までの二十秒だけです」
ノアが歯を食いしばり、すべての補助機関を開いた。
窓の外。
スペルビアの底部から、最後の光が噴き出す。
街全体が大きく震えた。
照明が一度消える。
赤い非常灯が灯った。
『スペルビア、定着高度まで八十メートル!』
地上から伸びる光が、すぐそこまで来ている。
七島の中で最大の大地。
最も重く。
最後まで、六島へ力を送り続けた中央島。
その底部から伸びた《天水脈》が、大地の地脈へ届く。
『四十』
身体を床へ押しつけていた力が弱まる。
『二十』
管制室の揺れが、小さくなっていく。
『十』
ノアが、位相鍵から手を離さない。
ルシアンも。
俺も。
誰一人、視線を逸らさなかった。
『五』
『四』
『三』
窓の向こうで。
青い根が、地上の岩盤深くへ広がっていく。
『二』
『一』
腹の底へ響くような、低い音がした。
衝撃ではない。
巨大な大地が。
別の大地へ、初めて重さを預けた音だった。
『スペルビア――定着高度へ到達』
高度を示す数字が止まる。
地表から、四百十二メートル。
『地脈接続――固定』
最後の補助機関が、役目を終えた。
赤く染まっていた表示が、一つずつ消えていく。
主機の唸りも。
下層から伝わっていた細かな振動も。
数百年、ルミナスを空へ押し上げ続けた音がなくなった。
静かだった。
耳が痛くなるほどの静けさ。
その中で。
七島の下を流れる《天水脈》の音だけが残っていた。
『七地点の地脈接続――完了』
古代の声が響く。
『定着高度――固定』
管制卓の上で、七つの大地が青い根によって地上へ結ばれる。
『七島低空浮遊――安定』
中央の通信画面へ、球形空間の映像が開いた。
青い女性の残響が、水球の中に立っている。
顔のない輪郭。
水の中へ広がる長い髪。
その左手首には、三枚の環が重なっていた。
人影は、新たに刻まれた現代座標へ手を添える。
僅かに。
俺たちへ頭を下げたように見えた。
『帰還工程――完了』
青い輪郭が、水滴へ変わる。
一滴。
また一滴。
すべてが水球へ溶け、《天水脈》を通して地上へ流れていった。
姿は消えた。
けれど、水は消えない。
七島から伸びた青い根を巡り。
地上の地脈と交わり。
新しい流れとなって、空と大地を繋ぎ続けている。
「……本当に」
ノアの手が、位相鍵から離れる。
「降りた」
「はい」
ルシアンが答えた。
その声も、僅かに震えていた。
「完全に地面へ着いたわけじゃないのに」
ノアが窓の外を見る。
スペルビアの縁から先には、まだ空がある。
その下。
見上げるのではなく、手を伸ばせば届きそうな場所に大地が広がっている。
「この下に、もう雲海はないんですね」
『ええ』
セレスが、窓際へ浮かぶ。
『でも、空がなくなったわけでもないわ』
窓の外。
森を抜けた風が、地上から七島へ吹き上がってくる。
これまでとは違う匂いだった。
湿った土。木々。川の水。
空だけでは生まれない、大地の匂い。
遠くから誰かの声が聞こえた。
通信機の向こう。
どこかの避難区画で、一人が歓声を上げている。
すぐに別の声が重なった。
泣き声。
笑い声。
床を踏み鳴らす音。
七島すべてから届く音が、一つになって管制室を満たしていく。
ノアが、両手で顔を覆った。
包帯が濡れる。
けれど、誰も何も言わなかった。
ルシアンは目を閉じ、ほんの数秒だけ管制卓へ身体を預ける。
俺は背へ手を回した。
布で包んだ、折れた刀へ触れる。
一緒に地上へ帰る。
そう決めた言葉どおり。
あの日、鍛冶場で受け取った一振りも。
七島とともに、ここまで降りてきた。
空は、まだ俺たちの足元にあった。
けれど、その下にはもう、帰るべき大地がある。
俺たちは空を捨てずに、大地へ帰ってきた。




