第52話 その刃が折れるまで
鞘走る刃が、青い光を裂いた。
頭上から迫る巨刃。
まともに受ければ、刀だけでは済まない。
腕を折られ、身体ごと制御盤へ叩きつけられる。
だから、止めない。
落ちてくる刃の正面から、半歩だけ外へ踏み込む。
刀を振り上げるのではなく、巨刃の側面へ滑り込ませた。
触れるのは一瞬。
鎬で力の向きを捉え、腰を回す。
緑色の魔力が刀身を駆け抜けた。
「――《獅吼爪弾【レルギウングィスペッレ】》!」
三本の爪痕が、黒い刃の表面へ食らいつく。
振り下ろす力を横へ。
ノアの立つ制御盤から、僅かに外へ。
巨刃の軌道が逸れた。
ノアの肩を掠めるように通過し、制御盤の脇へ叩きつけられる。
石床が割れた。
砕けた破片が青い水球まで跳ね上がり、球形空間全体が大きく揺れる。
その衝撃の中で。
手の内に、甲高い音が響いた。
先ほどよりも長く。
細い硝子へ、ゆっくりと亀裂が走るような音。
『レグルス!』
セレスの声に、刀身へ目を落とす。
折れてはいない。
だが、鍔元に入っていた細い線が、刃から峰へ向かって刀身の半ば近くまで伸びていた。
救助艇で見た時より、はっきりと見える。
刃を返さなくても分かるほど、深い亀裂だった。
『今ので、もう限界よ』
「分かってる」
『なら、次はないわ』
黒い巨腕が、石床から刃を引き抜く。
胸部の三重環が回り、関節へ青い水が流れ込んだ。
俺が逸らしたことなど最初からなかったように、再び腕が持ち上がる。
「……ああ」
刀を下段へ置く。
それでも、鞘へは戻さなかった。
納刀する一瞬を、古代の機構体は待ってくれない。
『降下軌道固定まで――十四分四十二秒』
古代の声が告げる。
守れたのは、一度だけだ。
その一度で、何も終わってはいなかった。
◇
五本の腕が、同時に広がった。
二本が黒い供給幹線へ向かう。
左右から伸びた五指が金属管を掴み、欠けた二つ目の石環から引き抜こうとする。
残る三本は、俺たちへ。
『右の二本が先! 左は一呼吸遅れるわ!』
セレスが、床を走る青い水の順番を読む。
「ルシアンさん、供給幹線をお願いします!」
「承知しました」
黒い五指の内側へ踏み込む。
刀は振るわない。
右手の刃を身体の後ろへ逃がし、左手に持った鞘を関節へ当てる。
押し返される力に逆らわず、半身になる。
一本目の腕を前へ流す。
すれ違う瞬間、赤い魔力を右脚へ集めた。
「《魔力身体強化【剛】》」
足裏を、黒い手首の側面へ叩き込む。
瞬間的な爆発力に押され、腕が横へ跳ねた。
遅れて迫った二本目と衝突する。
黒い金属同士がぶつかり、青い水を撒き散らした。
その向こうで、銀色の光が走る。
ルシアンが《試作ウルカーヌス》で、供給幹線へ巻きついた指の接合部だけを斬っていた。
一本。
二本。
落ちた指が石床を跳ねる。
だが、胸部の環から流れ出した青い水が、切断面へ細い糸を伸ばした。
「再接続が始まります!」
ノアが制御盤から叫ぶ。
床へ落ちた指が、水の糸に引かれて浮かび上がる。
接合部へ戻り、黒い金属同士が噛み合った。
青い光が一度脈打つ。
斬られた指は、何事もなかったように再び供給幹線へ伸びた。
「やはり、腕を斬っても止まりませんね」
ルシアンが一歩下がる。
《試作ウルカーヌス》を握る左手は動いている。
だが、斬撃を放つたびに左肩が下がっていた。
右手を使えない分まで、自動補正が残る身体へ負担を押しつけている。
『レグルス、胸を見て』
セレスの声に、機構体へ目を向ける。
五本の腕へ青い水が送られるたび。
胸部で重なった三つの環が、異なる速さで回っていた。
一番外側の環から、腕の関節へ。
その内側からは、床と壁に刻まれた溝へ。
さらに奥。
最も小さな環には、古代文字の並びが浮かんでいる。
「ノアさん。あの環が動力ですか」
「それだけじゃありません!」
ノアが片手で帰還座標を維持しながら、もう片方の手で測定板を向ける。
三重環の立体図が、制御盤の上へ浮かび上がった。
「外側は、腕を動かして再接続するための修復経路です。真ん中は――」
機構体の腕が、再び供給幹線を掴む。
金属管が引かれた瞬間、球形空間を横切る七本の降下軌道が揺らいだ。
「第三段階の制御経路か」
「はい! あの環から三つ目の石環へ流れてます!」
ルシアンの銀縁眼鏡へ、三重環の構造が重なる。
「胸部を破壊すれば、自律修復機構は停止するでしょう」
銀色の刃先が、青く光る中央環へ向く。
「ですが、同時に七島の降下軌道も失われます」
倒すことはできる。
機構体の胸を斬り。
青い水の流れを砕き。
動かなくなるまで壊せばいい。
その代わり。
七島は、帰るための道まで失う。
「壊せないということですね」
「正確には、壊してよい場所を選ばなければなりません」
ルシアンは、最も内側の環へ目を細めた。
古代文字が一周するたび、中央の水球で古代座標が明滅している。
「ノア技師。内環は何を制御していますか」
「今、追ってます!」
五本の腕へ流れていた青い水が、一斉に向きを変えた。
『二本がノアへ!』
床を蹴る。
緑色の魔力を脚へ巡らせ、制御盤の前へ滑り込む。
「《魔力身体強化【速】》」
一つ目の刃を身を沈めて躱す。
すれ違った腕へ鞘を添え、進む先を僅かに持ち上げる。
刃は制御盤の上を通り過ぎた。
続く五指が、横からノアを掴もうとする。
刀ではなく、左肩から踏み込んだ。
黒い掌の内側へ身体を入れ、閉じようとする二本の指へ両脚を突っ張る。
重い。
骨が軋む。
赤い魔力を身体の中心へ通し、一瞬だけ押し返した。
「ノアさん、急いでください!」
「分かってます!」
ノアの指が、立体図の内環を拡大する。
青く浮かんだ古代文字。
その下を、七本の細い溝が走っていた。
「見つけました!」
黒い指の力が増す。足が押し戻される。
「内環は、古代座標を正規の帰還地点として認識させる命令経路です!」
「現代の測量経路ではないのですね」
「違います! 俺たちが送った座標は、今も一時的な補正値として扱われてます!」
供給幹線が一本失われるたび、古代座標へ戻ろうとした理由。
現代の帰還地点は、まだ正式な道として認められていない。
古代の記録へ後から重ねた、仮の値にすぎない。
「あの命令経路だけを断てば」
俺が尋ねる。
「古代座標へ戻す命令は消せます! でも、それだけだと帰還地点そのものが空になります!」
「ならば、空いた場所へ現代座標を登録する」
ルシアンの声が続く。
「できますか」
「位相鍵を使えば、たぶん」
「たぶん、ですか」
「こんな使い方、設計されてないんです!」
ノアが言い返しながら、制御盤の脇へ固定した銀色の位相鍵を見る。
「でも、第二環を繋いだ時と同じです。七つの座標を鍵へ書き込んで、内環の命令経路へ直接差し込めば――」
そこで言葉を切る。
測定結果を見た表情が強張った。
「古代の命令溝は、切断されても青い水で再接続されます」
「何秒ですか」
「これまでの修復速度なら、十秒前後です」
ルシアンが、静かに息を吐く。
「その間に書き換えを」
「九秒必要です」
十秒のうち、九秒。
遅れれば、古代の命令が戻る。
早く命令溝を断ちすぎれば、現代座標を書き終える前に再接続される。
余裕は、ほとんどない。
黒い五指を押し返していた脚から、力が抜けかける。
『レグルス、離れて!』
身体を横へ倒す。
閉じた五指が空を掴んだ。
床を転がり、制御盤の前へ立ち直る。
「やることは、決まりましたね」
呼吸を整えながら言う。
ルシアンが頷いた。
「ええ。問題は、どうやって内環まで刃を届かせるかです」
◇
機構体の胸部は、古代の石で覆われていた。
三重環が見えるのは、幾枚もの装甲が回転する僅かな隙間だけ。
命令溝はさらに奥。
外環と中央環が重なるたび、視界から消える。
ルシアンの《試作ウルカーヌス》なら、隙間を通して内環だけを断てる。
だが、今のままでは狙える時間が短すぎる。
何より、五本の腕が胸部へ近づくものを排除する。
「役割を分けます」
ルシアンが、三重環の立体図を俺たちの間へ表示した。
「ノア技師は、七つの現代座標を位相鍵へ仮登録。現在の測量経路を維持しながら、書き換えの準備を」
「はい」
「セレスさんには、青い水の流れを読んでいただきます。命令溝が最も薄くなる瞬間と、五本の腕の動作順を教えてください」
『任せて』
「私は、古代座標の命令溝だけを斬ります」
ルシアンが《試作ウルカーヌス》を持ち上げる。
左肩が途中で止まった。
一度、奥歯を噛み締めてから、全身を使って刃を構え直す。
「その肩で、あと何度斬れますか」
「必要なのは一度です」
「随分と簡単に言ってくれますね」
「難しく言えば、回数が増えるのですか」
「いいえ」
ルシアンらしい答えだった。
「なら、一度で十分です」
銀縁眼鏡の奥で、自動補正の術式が静かに回る。
残る役割は。
「俺が、胸部の装甲を開きます」
刀を見たルシアンへ、先に続ける。
「刃は使いません。二人へ腕を届かせず、ルシアンさんが斬れる一度を作ります」
「できますか」
「やります」
同じ問いへ、同じ答えを返す。
できるかどうかを考えている時間はない。
自分一人ですべてを終わらせる必要もない。
俺が作るのは、胸部へ届く道。
ルシアンが断つのは、古代座標の命令。
ノアが繋ぐのは、今を生きる者たちが選んだ帰る場所。
セレスが、そのすべての動きを結ぶ。
自分の役割だけは、必ず果たす。
「レグルス」
ノアが、位相鍵を握ったまま俺を見た。
焦った時だけ、敬称が抜ける癖が戻っている。
「その刀、本当に使わないでくださいよ」
「はい」
『返事だけは立派ね』
「今回は、守る」
誰へ向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
刀を。仲間を。七島が選んだ帰る場所を。
すべてを残せれば、それが一番いい。
だが。
何かを選ばなければならない瞬間が来ることを。
鍔元から伸びた亀裂が、すでに告げていた。
『降下軌道固定まで――十一分』
「始めます」
床を蹴った。
◇
胸部装甲を留めているのは、五本の黒い固定具だった。
装甲と同じ古代石へ埋め込まれ、外環の回転に合わせて開閉している。
装甲そのものを壊せば、内側の制御経路まで傷つける。
狙うのは、固定具だけ。
『右肩から二本!』
セレスの声と同時に、《速》へ切り替える。
緑色の魔力波が、足元から後方へ流れた。
右上から振り下ろされた刃の外へ回る。
続く五指の手首へ鞘を添え、胸部とは反対側へ流した。
機構体の懐へ。
一つ目の固定具へ、左足を踏み込む。
刀を左手へ持ち替えた。
刃先は床へ。
亀裂へ衝撃が伝わらないよう、身体から離しておく。
空いた右の掌を、黒い固定具へ当てた。
赤い魔力を、脚から背中へ。
背中から肩へ。肩から掌へ通す。
「《魔力身体強化【剛】》」
鈍い音。
固定具が内側へ歪み、装甲の一枚が浮いた。
『次、左から三本!』
機構体の胸を蹴り、後方へ跳ぶ。
五指が足元を掠めた。
着地する前に、刃状の腕が横薙ぎに迫る。
空中では避けられない。
刀は使わない。
左手の鞘を刃の側面へ押し当て、その勢いを受ける。
木と革で覆われた鞘が軋んだ。
止めずに、押されるまま身体を回す。
一回転。
床へ靴底を擦りつけ、どうにか着地する。
鞘の表面が抉れていた。
中身を失った鞘まで、いつまでも保つわけではない。
「あと四つです!」
ノアの声。
「分かっています!」
再び踏み込む。
二つ目。
黒い指の間を抜け、固定具へ肘を叩き込む。
三つ目。
床から突き上がる腕を足場に変え、胸部まで駆け上がる。
踵へ《剛》を集中。
石の装甲ではなく、縁に覗く黒い留め棒だけを踏み抜いた。
二枚目と三枚目の装甲が外へ開く。
青い光が、機構体の胸から溢れた。
三重環が大きく露出する。
しかし、残る二つの固定具は、回転する中央環の上下へ食い込んでいた。
殴れば、環そのものへ衝撃が届く。
壊す場所を間違えれば、降下軌道が消える。
『二つの固定具へ、同時に力を入れて』
セレスが告げる。
『片方だけを壊せば、装甲が中央環へ倒れるわ』
「同時に、か」
右手で上を。足で下を。
別々の方向から力を入れるだけでは、固定具が環へ押し込まれる。
砕いた破片も内側へ飛ぶ。
必要なのは。
上下から噛み合わせ、逃げ場を塞ぐ力。
獅子宮第二階層。
地面から力を得て、何度倒しても立ち上がった騎士人形。
再生する身体ではなく、力を受け取る場所を砕いた時と同じだ。
傷を増やすためではない。
必要な一点だけを、内側から壊す。
刀を左脇へ引きつける。
腰を落とし、右の掌を上側の固定具へ置く。
右足を、下側へ。
赤い魔力が、身体の中心で膨らんだ。
機構体の五本の腕が、俺の背後で持ち上がる。
『今よ!』
踏み締めた脚から、衝撃を突き上げる。
同時に。
右の掌から、下へ叩き込む。
上下の力が、二つの固定具を挟み込んだ。
背後に、赤い獅子の輪郭が浮かぶ。
開かれた顎。上下の牙が、黒い留め具へ噛み合った。
「――《獅噛破打【レディル・フェリーレ】》!」
重い破砕音。
二つの固定具だけが、内側へ潰れた。
支えを失った装甲が、中央環から離れるように外へ倒れる。
三重環を覆うものが消えた。
「開きました!」
ノアが叫ぶ。
だが、同時に五本の腕が迫る。
機構体の胸を蹴り、身を投げ出す。
一瞬前まで身体があった場所を、黒い刃と指が埋め尽くした。
空中で刀を右手へ戻す。
石床へ肩から落ち、二度転がった。
肺から空気が押し出される。
起き上がろうとした足が、僅かに震えた。
速と剛を切り替え続けた身体が、限界へ近づいている。
それでも。
機構体の胸は開いた。
三つの環が、遮るものなく回っている。
「命令溝は見えますか」
俺の問いに、ルシアンはすぐ答えなかった。
銀縁眼鏡へ幾重もの術式を展開し、環の動きを追っている。
「位置は捉えました」
「斬れますか」
「今のままでは、不可能です」
内環は見えている。
だが、外環と中央環がそれぞれ異なる速度で重なり、刃の通る道を絶えず塞いでいた。
僅かな隙間はある。
けれど、命令溝を断つ前に、降下制御を担う中央環へ刃が触れる。
「環を止める必要があります」
「止めれば、降下制御まで止まるのではありませんか」
「長く止める必要はありません」
ルシアンが、回転する三重環を見つめる。
「一秒で十分です」
「また簡単に言いますね」
「あなたなら、もっと短くできますか」
「いいえ。一秒、作ります」
『その前に、腕を止める方法を考えなさい』
セレスの声。
開かれた胸部を守るように、五本の腕が機構体の前へ集まっていた。
外環から流れた青い水が、すべての関節を満たしていく。
胸を開いたことで。
自律修復機構は、俺たちをより優先度の高い異物と判断したらしい。
『降下軌道固定まで――六分二十秒』
残された時間が、半分を切っていた。
◇
「位相鍵への仮登録、完了しました」
ノアが、銀色の鍵を制御盤へ差し込む。
表面へ七つの青い点が灯った。
「書き換え工程へ入れば、俺は九秒間、ここから手を離せません」
「今も離れられないでしょう」
「もっと離れられなくなるって意味です!」
声を張りながらも、ノアの両手は正確に動いていた。
一本を失った測量経路を迂回させ。
七つの座標を維持し。
さらに、位相鍵へ現代の帰還地点を書き込んでいる。
「九秒目に、鍵を回します。その瞬間、古代の命令溝が切れていなければ、現代座標は正規系統として認められません」
「早く断てば」
「青い水が修復を始めます。九秒目まで保たない可能性が高いです」
ルシアンが確認する。
「私が斬るのは、八秒目」
「はい。八秒から九秒の間です」
「一秒あれば十分です」
左肩を動かそうとし、僅かに顔を歪める。
それでも、《試作ウルカーヌス》の切っ先は下がらなかった。
「俺が止めます」
二人の前へ立つ。
「ルシアンさんは命令溝を。ノアさんは、今の帰る場所をお願いします」
「はい」
「承知しました」
短い返事が重なる。
『五本とも、流れが変わったわ』
セレスが、焦げ茶色の表紙を機構体へ向ける。
床と壁を巡っていた青い水が、一番外側の環へ集まっていく。
『現代座標の書き換えを待っている。始めた瞬間、ノアを最優先で排除するつもりよ』
「機械なのに、随分と意地が悪いですね」
「意地ではありません」
ルシアンが答える。
「決められた役割へ、忠実なだけです」
数千年前の座標を守る。
壊れた水路を元へ戻す。
後から加えられたものを取り除く。
それが正しいと定められた時代から、機構体は何も変わっていない。
世界が変わっても。地形が変わっても。そこに新たな人の暮らしが生まれても。
与えられた役割だけを繰り返す。
なら。
壊すのではなく、役割を繋ぎ直す。
過去に残された力が、今を生きる者たちの選んだ場所へ届くように。
「始めてください」
ノアが一度だけ息を吸う。
包帯の巻かれた指で、位相鍵の根元へ触れた。
「現代測量経路――正規登録を開始!」
銀色の鍵から、青い術式が広がった。
七本の光が制御盤を走り、黒い供給幹線へ流れ込む。
同時に。
機構体の胸が、強く発光した。
『来るわ!』
五本の腕が、一斉に動いた。
「一秒!」
ノアの声。
三本の五指が、正面から俺へ伸びる。
押さえ込むための腕。
斬るのではなく。
異物を掴み、動けなくするための形だった。
中央の腕へ向かって踏み込む。
閉じる指より先に掌へ乗り、黒い金属の上を駆ける。
左右の五指が追う。
『右が先!』
右の手首へ飛び移る。
空振りした二本の腕が互いに衝突した。
「二秒!」
背後から、刃が迫る。
振り返らず、身を沈めた。
頭上を通過した刃へ鞘を当て、下から押し上げる。
軌道をルシアンから外す。
もう一本の刃が、制御盤へ向きを変えた。
「させない!」
黒い腕から跳ぶ。
着地と同時に《剛》へ切り替え、刃の関節へ肩からぶつかった。
衝撃で視界が揺れる。
刃は僅かに逸れ、制御盤の手前へ突き刺さった。
「三秒!」
石床から刃が抜ける。
腕を止めるたび、別の腕がノアへ届こうとする。
五本すべてを倒す必要はない。
九秒。
その間だけ。
二人へ届かせなければいい。
「四秒!」
二本の五指が、左右から身体を挟んだ。
躱せば、背後のノアへ届く。
逃げない。
両腕を広げ、左の五指へ鞘を、右の五指へ刀を握った腕の肘を差し込む。
刃だけは、閉じる指の外へ逃がした。
黒い指が腕と肩を締めつけた。
赤い魔力を全身へ巡らせる、《剛》。
瞬間だけ、五指の動きが止まる。
だが、押し返せない。
足が床から浮いた。
「レグルスさん!」
「続けてください!」
「五秒!」
締めつける力が増す。
息が詰まる。
右肩から、嫌な音が鳴った。
『下から流れが来るわ!』
セレスの警告。
足元の溝から、一本の腕が突き上がる。
五指に掴まれた身体を、自分から後ろへ倒した。
突き上がった腕の刃が、俺を掴んでいた右の五指へ食い込む。
黒い指が二本、斬り飛ばされた。
拘束が緩む。
床へ落ちる直前、残る左の五指を蹴った。
身体を抜く。
「六秒!」
着地した膝が崩れた。
手をつき、無理やり立ち上がる。
胸部の三重環は、まだ回っている。
ルシアンは斬れない。
一秒を作るためには、環を止めなければならない。
その時。
外環を巡っていた青い水が、一つの腕へ集まり始めた。
先ほど俺が《獅吼爪弾》で逸らした、最も大きな刃。
五本分の流れが、太い関節を満たしていく。
黒い刃が、頭上高く持ち上がった。
『七秒!』
今度は、ノアが数える余裕すらない。
セレスの声が、代わりに時間を告げる。
巨刃の狙いは、制御盤。
先ほどよりも速い。
重い。
すべての修復出力を集めた一撃。
俺と巨刃の間には、まだ距離がある。
《速》だけでは届かない。
届いても、体術では逸らせない。
鞘では保たない。
右手の刀へ目を落とす。
刀身の半ばまで伸びた亀裂。
次はない。
そう言った。
そう分かっていた。
『レグルス、駄目よ!』
足元へ風を集める。
身体へ広く纏うのではなく。
前へ進むためだけに、両脚へ集中させる。
「――《纏風舞踏【ヴェンティトゥム】》!」
石床を蹴った。
踏み込んだ場所が砕ける。
緑色の風が背中から弾け、身体を巨刃とノアの間へ押し込んだ。
間に合わないはずの距離が、一息で消える。
『今度こそ折れるわ!』
「それでも」
巨刃が、頭上へ迫る。
正面から受けない。
斬ろうともしない。
この刀へ最初の亀裂が入った時と同じ。
最後まで。
守るために、弾く。
「届いた」
《速》で、刃の落ちる先へ半歩入る。
刀を巨刃の側面へ添えた。
触れた瞬間、身体の軸を回す。
腕だけではない。踏み込んだ脚。沈めた腰。捻った背中。肩から手首へ。
これまで積み重ねてきたすべての動きを、一つへ繋ぐ。
刀身へ、緑色の魔力が走った。
「――《獅吼爪弾【レルギウングィスペッレ】》!」
轟音。
刀と巨刃の間で、緑色の爪痕が弾けた。
三本の爪が黒い刃へ食らいつき、その軌道を横へ引く。
重い。
腕が千切れそうになる。
足が床へ沈む。
刀身の亀裂から、細い光が漏れた。
それでも、力を抜かない。
制御盤から外へ。
ノアから外へ。
さらに。
回転を続ける、機構体自身の胸部へ。
巨刃の先端が、三重環の隙間へ食い込んだ。
黒い刃が外環を押し上げ、中央環との間へ深く突き刺さる。
回転していた二つの環が、互いに噛み合った。
青い水が噴き上がる。
三重環の動きが。
止まった。
『八秒!』
セレスの声。
一秒を、作れた。
その直後。
手の中で、乾いた音が鳴った。
大きな音ではない。
戦いの轟音へ紛れてしまうほど、短く。
小枝が一本、折れたような音。
鍔元から伸びた亀裂が、刀身を横断する。
手へ返っていた重みが、突然消えた。
切っ先側の刀身が宙へ放り出される。
青い光を映しながら一度。
二度、回り。
石床へ突き刺さった。
俺の手に残ったのは。柄と鍔。
そして、鍔元から僅かに残る刃だけだった。
『……レグルス』
セレスの声が、遠く聞こえた。
折れた。
分かっていたはずなのに。
空になった刀の先を見た瞬間、胸の奥まで何かが抜け落ちる。
それでも。
背後で、位相鍵の光は消えていない。
ノアも。制御盤も。七つの帰還座標も、残っている。
「守れた」
『ええ』
セレスが、折れた刀の傍らへ浮かぶ。
『最後まで、守ってくれたわ』
立ち止まるのは、まだ早い。
巨刃によって動きを止められた三重環。
外環と中央環の隙間。
その奥に。
古代座標を刻んだ、最も内側の命令溝が露出していた。
「ルシアンさん!」
「承知しました!」
ルシアンが、最後の一歩を踏み込む。
右手は固定されたまま。
左肩は、すでに腕を持ち上げられる状態ではない。
それでも。
右足で床を踏み。腰を回し。背中から左肩へ。左肩から肘へ。
残る身体すべてで、《試作ウルカーヌス》を前へ送る。
「最終補正――十二パーセント」
銀縁眼鏡の奥で、術式が一つに重なった。
銀色の刃が、止まった環の隙間へ吸い込まれる。
外側の修復経路には触れない。
中央の降下制御も傷つけない。
最も奥。
古代座標を正規の値として繰り返していた命令溝だけを。
一筋の銀光が、斬り断った。
青い水の流れが分かれる。
古代文字が、途中から消えた。
同時に。
ルシアンの左肩から、鈍い音が響く。
指が柄から離れた。
《試作ウルカーヌス》が石床へ落ちる。
「統括!」
「鍵を!」
ルシアンは肩を押さえながら、ノアへ叫んだ。
銀色の位相鍵へ、七つの光が揃っている。
「九秒!」
ノアが、両手で鍵を回した。
「現代測量経路――接続!」
青い光が、切断された命令溝へ流れ込む。
一つ目の座標。
スペルビア。
続いて、周囲の五島。
最後に、イーラ。
七つの現在座標が、古代文字の消えた場所へ新たな光の列を描いていく。
『古代記録座標――正規指定を解除』
球形空間へ、声が響く。
『現代測量経路――照合』
中央の水球で、古代の七つの窪みが消えた。
現在の集落を避けた岩盤地帯。
今を生きる者たちが選んだ七つの光だけが残る。
『現代帰還座標――正規系統として承認』
切断された命令溝へ、青い水が届く。
だが、元の古代文字を直そうとはしなかった。
新たに刻まれた七つの座標を囲み、そのまま一つの環を作る。
『降下軌道――再固定』
機構体の動きが止まった。
ノアへ向かっていた五本の腕が、宙で静止する。
一番外側の環から青い水が抜けていく。
腕は力を失ったのではない。
現代設備を異物として排除する理由を失ったのだ。
胸部へ突き刺さっていた巨刃が、ゆっくりと引き抜かれる。
五本の腕が折り畳まれた。
指が閉じ。
刃が背中へ沿う。
古代石をまとった上半身が、石床の下へ沈んでいく。
壊れてはいない。
古代の自律修復機構は、新たに与えられた役割を受け入れ、元の場所へ戻っていく。
円形に割れていた床が閉じた。
最後に残った胸部の環へ、七つの青い光が一度だけ灯る。
それも、石床の下へ消えた。
「……止まった」
ノアの手が、位相鍵から離れる。
包帯へ、薄く血が滲んでいた。
「止めたのではありません」
ルシアンが、動かなくなった左肩を押さえたまま答える。
「繋ぎ直したのです」
中央の水球で、七本の降下軌道が再び伸びていく。
空から地上へ。過去の故郷ではなく。
今の世界に選んだ、新たな帰る場所へ。
『降下軌道固定まで――五分四十八秒』
第三段階は、続いていた。
◇
残りの五分は、戦っていた時間より長く感じた。
動かなくなった機構体が、再び現れないか。
現代座標が古代の記録へ戻らないか。
誰も球形空間から離れず、回り続ける三つ目の石環を見守った。
ノアは制御盤へ残った。
包帯を巻き直すこともせず、七つの座標と降下軌道を何度も確認する。
ルシアンは床へ落ちた《試作ウルカーヌス》を拾えなかった。
俺が代わりに刃を鞘へ納め、傍らへ置く。
「ありがとうございます」
「左肩は大丈夫ですか」
「動きませんね」
「それを問題があると言うのでは」
「先ほどは、必要な一度でした」
否定する気にはなれなかった。
俺も、同じものを失ったばかりだ。
石床へ突き刺さった、切っ先側の長い刀身へ目を向ける。
青い光が、刃の表面を滑っていた。
何度も握った柄は、今も右手の中にある。
けれど、その先に続いていた重みはない。
刀が軽い。軽すぎた。
「レグルスさん」
ノアが、制御盤を見たまま声を出す。
「俺が、あそこから離れていれば……」
「違います」
「でも、その刀は俺を守って」
「俺が、守るために振ったんです」
ノアの言葉を遮る。
責めるつもりはない。
慰めるために、適当なことを言うつもりもなかった。
「ノアさんが制御盤から離れていたら、現代座標は登録できませんでした」
「それでも」
「この刀は、折られたんじゃありません」
手の中に残った刀へ目を落とす。
巨刃に負けたわけではない。
役目を果たせず砕けたのでもない。
最後の一撃を弾き。
ノアと制御盤を守り。
ルシアンが斬る一秒を作った。
七島が地上へ帰る道を残した。
「守るために振って、最後まで役目を果たしたんです」
ノアは、すぐには答えなかった。
やがて、制御盤から片手だけを離す。
工具鞄の中から、厚手の整備布を取り出した。
「油が染みてない、新しい布です」
「ありがとうございます」
受け取る。
柄側に残った刃を、布の半分で包む。
それから、石床へ突き刺さった刀身の前へ立った。
亀裂から折れた断面。
歪んではいない。
刀が耐えられる最後の瞬間まで、力を横へ流し切ったのだろう。
切っ先側の刀身を抜く。
残る布で包み、柄側と並べた。
どちらも捨てない。
折れたからといって。
ここへ置いていく理由にはならなかった。
『その刀、どうするつもり?』
セレスが、二つに分かれた刀の上へ浮かぶ。
「決まってる」
『そう』
何を考えているのか。
聞かなくても分かっていたのかもしれない。
「一緒に、地上へ帰る」
折れた二つの刃を、丁寧に一つへまとめる。
鞘へは戻せない。
布で包んだ刀を背へ固定し、空になった鞘だけを腰へ残した。
『降下軌道固定まで――十秒』
古代の声が響く。
中央の水球へ、七島の姿が浮かんだ。
スペルビア。
周囲を囲む五島。
そしてイーラ。
七つの大地から伸びた青い線が、地上の岩盤地帯へ届いている。
『九』
球形空間の床が、低く震え始めた。
『八』
空域保全本部から、幾つもの報告が重なる。
『七島、現代帰還座標を維持!』
『降下経路上の空域、封鎖完了!』
『地上誘導班、全地点で待機!』
『七』
ノアが、位相鍵へ手を添えた。
ルシアンは動かない左肩を押さえながら、三つ目の石環を見る。
セレスが、俺の左肩の近くへ浮かぶ。
『六』
青い女性の残響が、水球の中へ現れた。
顔のない輪郭。
水の中へ広がる長い髪。
人影は、古代座標ではなく。
今、新たに刻まれた七つの光へ手を伸ばしていた。
『五』
指先から零れた水滴が、七本の降下軌道へ溶ける。
『四』
地上へ続く青い線が太くなる。
七島の底部へ、《天水脈》の光が集まっていく。
『三』
足元から伝わる振動が、横向きから縦へ変わった。
水平移動が終わる。
『二』
七つの大地が、新たな帰る場所の上空へ到達した。
『一』
三つ目の石環が、完全な青い輪となる。
『降下軌道固定――完了』
古代文字が、一斉に灯った。
『最終段階』
水球の中で、七島の高度を示す数字がゆっくりと下がり始める。
『七島降下を開始』
身体が、僅かに浮く。
空へ留まり続けていた大地が。
今度は落ちるのではなく。
自分たちで選んだ道を通り、ゆっくりと高度を下げていく。
俺たちは、球形空間の出口へ向かう。
歩くたび、空になった鞘が腰へ触れた。
その軽さを抱いたまま、俺たちは地上へ向けて降り始めた。




