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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第四章 墜落する果てなき傲慢
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第51話 帰る場所

 七つの大地が、雲海の上を進んでいた。

 救助艇の窓から見える景色は、先ほどまでとはまるで違う。

 中央島スペルビア。

 その周囲を囲む五つの島。

 そして、傾きを戻したイーラ。

 七島の底部に浮かんだ青い環は、《天水脈》の光によって結ばれている。

 遠目には、空そのものへ巨大な星図が描かれているようだった。

 その星図が、形を崩さないまま、ゆっくりと地上へ向かっている。


 窓の向こう。

 イーラの外周道路では、救助を終えた空域保全隊員たちが小さく手を振っていた。

 スペルビアの避難広場にも、空を見上げる人々の姿がある。

 歓声を上げる者。

 抱き合う者。

 不安そうに、遠ざかっていく雲を見つめる者。

 地上へ帰る。

 言葉にすれば、それだけだ。

 だが、空で生まれ、空で暮らしてきた人々にとって、地上は故郷である前に未知の場所なのだろう。


「本当に、降りるんですね」

 隣の座席で、ノアが呟いた。


 工具鞄を膝へ載せたまま、窓の外を見ている。

 下層管理室で制御桿を押さえていた手は、まだ僅かに震えていた。


「後悔していますか」

 尋ねると、ノアはすぐには答えなかった。


 七島を結ぶ青い流れを目で追う。


「少しだけ」

 やがて、正直に答えた。


「物心がついた時から、地面の下には雲がありました。落ちないように機関を整備するのが、技師の仕事だって教えられてきたんです」


 工具鞄へ置かれた指が、ゆっくりと握られる。


「だから、機関を使い潰して地上へ降りるなんて、今でも変な感じがします」


「そうですね」


「でも」


 ノアが、窓から視線を戻した。


「残せたものの方が多いです」


 イーラは、そこにある。

 崩れた工場も。傾いた道路も。住民の暮らしてきた家も。

 空へ留めるための機関は失われる。

 それでも、機関が守ろうとしてきた大地と人は残った。


「それなら、正しい選択だったと思います」


「はい」

 ノアが頷く。


「降りた後は、もっと忙しくなりますけどね」


「もう次のことを考えているのですか」


「地上に合わせて、給水設備も交通網も作り直さないといけません。浮遊機関が壊れるなら、その部品を何に使えるかも調べたいです」


 話しているうちに、声にもいつもの調子が戻っていく。


『頼もしくなったわね』


 セレスが、俺たちの間へ浮かんだ。


「聞こえてますよ、セレスさん」


『聞こえるように言ったのよ』


「俺、最初からこれくらいは考えてました」


『それは失礼したわ』

 セレスが頁を揺らす。


 ノアは少しだけ口を尖らせた後、笑った。

 その笑みを見届けてから、俺は腰の刀へ目を落とす。

 鞘へ納めたままでは、亀裂の状態を確かめられない。

 だが、見なかったことにはできなかった。

 左手で鞘を支え、鍔を親指で押す。

 刀身を、指二本分だけ引き出した。

 救助艇の青い照明が、磨かれた地金を滑る。

 一見すれば、何も変わっていない。

 刃毀れも。

 歪みも。

 だが、角度を僅かに変えた瞬間。

 鍔元の近くに、髪の毛ほど細い線が浮かんだ。

 表側だけではない。

 刀身を返すと、同じ位置から伸びた線が裏側にも達していた。


『鞘へ戻しなさい』

 セレスの声から、先ほどまでの柔らかさが消える。


「もう少しだけ」


『駄目よ』

 刀身へ触れることもなく、セレスが俺の手元を塞いだ。


『亀裂は刀身を横断しかけている。次に強い衝撃を受ければ、どこまで保つか分からないわ』


「分かってる」


『あなたの“分かってる”は、信用できないのよ』


 同じ言葉を、これまで何度言わせただろう。

 否定できず、刀を鞘へ戻す。

 鍔が音を立てないよう、ゆっくりと納めた。


「今回は、黙って使うつもりはない」


『本当でしょうね』


「ああ」


「何の話ですか」


 ノアがこちらを見ていた。

 以前の俺なら、問題ないと答えていたかもしれない。

 刀の状態を隠し、必要になれば自分だけで使う。

 けれど、それでは何も変わらない。


「先ほど、補助機関室で金属塊を弾いた時、この刀へ亀裂が入りました」


「亀裂?」


 ノアが座席から身を乗り出す。


「見せてください」


「もう鞘へ戻しました」


「なら、そのままでいいです。外から測ります」


 工具鞄から細長い測定器を取り出し、鞘の上へ翳す。

 淡い光が、鍔元から切っ先へ向けて走った。

 途中で一度、赤く明滅する。

 ノアの表情が曇った。


「セレスさんの言うとおりです。内部まで入ってます」


「修復できますか」


「俺は刀鍛冶じゃないので、断言できません。でも、今すぐ使わない方がいいです」


「そうですか」


「そうですか、じゃありません」


 操縦席の方から声が飛んできた。

 カサンドラが、通信卓の前に立ったままこちらを見ている。


「あんた、今まで黙ってたのかい」


「今、確認したところです」


「確認する前から、変な音は聞こえてたんだろ」


「はい」


「なら、戻るまで抜くんじゃないよ。スペルビアへ着いたら、技師と鍛冶師の両方に見せな」


「承知しました」


『“できる限り”は付けないのね』

 セレスが念を押す。


「付けない」


 刀を腰へ固定し直す。

 亀裂を伝えたからといって、刀が元へ戻るわけではない。

 それでも、先ほどまでより僅かに息がしやすくなった。

 一人で抱えたものは、自分一人の判断で使えてしまう。

 誰かへ伝えれば、その判断に別の目が加わる。

 今は、それでよかった。


『スペルビア臨時発着場まで、残り二分』


 船内放送が流れる。

 前方の窓へ、中央島の白い街並みが迫っていた。

 七島は、今も動き続けている。

 しかし、その先にある地上はまだ雲に隠れていた。

 帰るための道は繋がった。

 次に決めなければならないのはどこへ帰るのかだった。


                 ◇


 旧第五整備区画の臨時発着場へ降りると、床そのものが微かに横へ揺れていた。

 七島が移動している証拠だ。

 発着場では、整備員と救護班が待っていた。

 救助艇の扉が開く。

 カサンドラは最初に降り、イーラの最終退避記録を隊員へ渡した。

 ノアも工具鞄を抱えて続く。

 救護員が伸ばした手を避けかけて、途中で止まった。


「検査だけですからね」


「それで十分です」


 両手へ簡単な治癒魔法を受けている間、視線は奥の通路へ向いたままだった。


「先に行ってもいいですよ」

 俺が言うと、ノアは首を横へ振る。


「駄目です。レグルスさんの刀も測ってもらいます」


『監視役が増えたわね』


「セレスが増やしたんだろ」


『あなたが減らさせてくれないだけよ』


 やがて、救護員がノアの手へ薄い包帯を巻いた。

 深い傷はない。

 制御桿を押さえ続けたことで、掌の皮膚が裂けているだけだった。


「行けます」

 返事を待たず、ノアが歩き出す。

 俺たちも後へ続いた。


 古代区画へ通じる扉は開いたままだった。

 石造りの通路には、現代の照明と測定器が増設されている。

 壁際を走る仮設導線。

 床へ固定された中継器。

 何人もの技師が端末を抱え、地上から届く測量結果を球形空間へ送っていた。


 その先。

 七枚の石環に囲まれた中央で、ルシアンが立っている。

 右手には、手首から肘近くまで固定具が巻かれていた。

 左手だけで幾つもの立体図を操作している。


「戻りました」


 ノアの声に、ルシアンが振り返る。

 最初にノアの両手を見る。次に俺とセレス。

 全員が揃っていることを確かめてから、小さく頷いた。


「おかえりなさい」


「イーラの位相鍵です」

 ノアが銀色の端末を差し出す。


「独立回路は帰還制御を維持しています。緊急高度保持も完全に停止。補助機関は、中央からの降下制動を受け入れています」


「記録も受信しています。よくやりました」


「はい」

 短い返事だった。

 それでも、ノアの背筋が僅かに伸びる。


「ただし、休ませる時間はありません」


 ルシアンが、中央の水球へ手を向けた。


「地上測量の最終結果が届きました」


 水球の中には、二つの地形が重なっていた。

 一つは、《天水脈》に残された数千年前の大陸南部。

 七島が切り離された跡には、同じ形をした七つの窪みがある。

 

 もう一つは、現在の地形。

 窪みの多くは湖や湿地へ変わり、河川がその間を縫うように流れている。

 土砂の堆積した平野には森が広がり、幾つもの小さな灯りが点在していた。

 集落だ。

 古代の地図には存在しない。

 今を生きる人々の暮らしが、そこにある。


「古代座標へ降下した場合の予測を表示します」


 ルシアンが左手を動かす。

 七島を示す青い地形が、古代の窪みへ重なった。

 すぐに、幾つもの場所が赤く染まる。


「スペルビア南端は、現在の湖へ三割近く沈みます。北東側の二島は、長年の隆起によって狭まった岩盤へ同時に接触する」


 立体図の一部が拡大される。

 二つの島の外縁が、僅かに重なっていた。


「このままでは、着地時に島体同士が衝突します」


「集落は」


「三か所が、七島の直下へ入ります」


 水球の中で、小さな灯りが赤い影に覆われる。

 一つの集落だけではない。

 森も。畑も。地上へ続く道も。昔と同じ場所へ戻れば、今あるものを押し潰す。


「別の場所はないのですか」

 尋ねると、ルシアンが新たな地形を表示した。


「空域保全本部とヴァルディア王国から送られた測量結果を照合しました。古代座標の南西側に、広い岩盤地帯があります」


 七島の影が、古代の窪みから僅かに離れる。

 相対位置を保ったまま、全体がゆっくりと回転した。

 細い河川を跨がないように。集落と森を避けるように。

 七つの大地が、扇を開くような角度で配置されていく。

 今度は、赤い表示がほとんど現れなかった。


「七島全体を南西へ移し、スペルビアを中心に僅かに回頭させる。これなら島体同士の間隔を保ったまま、現在の集落を避けられます」


「地盤は耐えますか」

 ノアが尋ねる。


「全地点で、露出した基盤岩を確認しています。ただし、古代機構がこの座標を帰還地として受け入れるかは分かりません」


「元の場所じゃないからですか」


「ええ」


 ルシアンは、二つ目の石環へ視線を向けた。

 欠けた部分を貫く、黒い供給幹線。

 現代の測量網は、そこを通して《天水脈》へ接続されている。


「第二段階は、本来、記憶された帰還地点と現在位置を照合する工程です。記憶にない場所を帰還地点として指定することは、設計に含まれていない可能性があります」


「試すしかないですね」

 ノアの言葉に、ルシアンが頷く。


「その前に、最高評議会の承認が必要です」


 通信画面が開かれる。

 映し出されたのは、エレノア議長だった。

 背後では、評議員と各部門の責任者が帰還地の資料を確認している。

 先ほどの決断から、まだそれほど時間は経っていない。

 それでも、議長の表情に迷いはなかった。


『報告は確認しました』

 エレノア議長が、古代と現在の地図を見比べる。


『ヴァルディア王国からは』


「岩盤地帯と周辺区域の緊急封鎖を開始したと連絡がありました。降下候補地から最も近い集落についても、念のため避難誘導を行っています」


『地上の住民へ危険が及ぶ可能性は』


「古代座標より大幅に低減できます。ただし、七島同時降下に前例はありません。完全にゼロとは申し上げられません」


『分かりました』


 一人の評議員が、古代座標を示した。


『本来の帰還地点へ降りる方が、《天水脈》の制御は安定するのではありませんか』


「その可能性はあります」

 ルシアンは否定しない。


『であれば、まず古代座標を優先し、直下の住民を避難させる方法も――』


『いいえ』


 エレノア議長が、静かに遮った。

 強い声ではなかった。

 だが、それ以上の言葉を続けさせない重さがあった。


『私たちは、過去の土地を取り戻すために降りるのではありません』


 古代地図の上に、現在の集落が映っている。


『数千年の間に、地上にも新しい暮らしが生まれました』


 議長の指先が、古代の窪みから現在の岩盤地帯へ移る。


『今を生きる者たちを押し潰してまで、故郷を求めるつもりはありません』


 通信の向こうで、評議員たちが地図を見つめる。

 反対の声は上がらなかった。


『ルミナスが新たに立つ場所を――今の世界の中から選びます』


 故郷へ帰る。

 それは、過去をそのまま取り戻すことではない。

 失われた場所を空けるよう、今いる誰かへ立ち退きを命じることでもない。

 空で生き延びてきた者たちが地上で積み重ねられた数千年を受け入れたうえで、同じ世界に新たな居場所を求めることだ。


『クロイツ統括技師』


「はい」


『現代座標を、ルミナスの帰還地点として承認します』


 エレノア議長が続ける。


『ヴァルディア王国へ正式に通達を。周辺住民の避難と、地上誘導への協力を要請してください』


『承知しました』


 別の通信画面で、担当者が応じる。


『私たちは空を捨てるのではありません』


 議長の視線が、七島の立体図へ向いた。


『七島と、そこに生きる人々を未来へ残すため、新たな大地へ降ります』


 通信が閉じる。

 短い沈黙の後、ルシアンがノアへ向き直った。


「現代測量網を、第二環へ接続します」


「はい」

 ノアが包帯の巻かれた両手を動かした。


                 ◇


 現在の帰還座標が、中央の水球へ入力されていく。

 最初に、ヴァルディア王国から送られた地上測量線。

 次に、七島の高度と移動速度。

 岩盤の広さ。河川までの距離。現在の集落と街道。

 幾つもの情報が細い光となり、現代の供給幹線へ集まった。

 黒い金属の内側を、青い光が走る。

 欠けた二つ目の石環へ届き、途切れていた古代文字の続きを描いていく。


「測量経路、接続」

 ノアが制御盤を操作する。


「現代座標を送ります」


 石環の半周が灯った。

 中央の水球に、七つの新たな降下地点が浮かび上がる。


 だが。

 青い女性の人影は、動かなかった。

 長い髪を水の中へ漂わせたまま、古代の座標へ手を伸ばしている。

 新たに浮かんだ七つの光へ、顔を向けることさえない。


「入力を受けつけていません」


 ノアが流量を確認する。


「供給幹線から第二環までは届いてます。でも、そこから水球へ渡らない」


「出力を上げますか」


「待ってください」


 ルシアンが、左手を上げる。

 銀縁眼鏡の奥で、幾重もの術式が回転していた。


「経路は閉じていません。古代機構が、記憶座標との不一致を検出している」


 水球の中で、二つの地図が重なり合う。

 新たに選んだ岩盤地帯。

 数千年前の七つの窪み。

 古代の方だけが強く青く輝き、現代の座標を押し退けていた。


「青い人影へ伝えられませんか」

 俺が尋ねる。


『難しいでしょうね』

 セレスが答える。


『あの残響は、初代国王本人ではないわ』


 セレスが、水球の前へ進む。

 人影は、セレスにだけ僅かに顔を向けた。


『残された記憶と、与えられた役目。それだけで形を保っている』


「記憶なら、今の地形も見せれば」


『見ることと、選ぶことは違うのよ』


 セレスの頁に刻まれた獅子座が、淡く灯る。


『記憶は、過去を残せる』


 水球の中で、古代の河川が流れる。

 青い人影の輪郭へ、水の記憶で見た初代国王の姿が重なった。


『けれど、記憶だけでは今を選べないわ』


 過去に定められた場所へ。

 過去に定められた順序で。

 七島を帰す。

 青い残響は、そのために残っている。

 数千年の間に地形が変わることも。

 かつて何もなかった場所に、人々の暮らしが生まれることも。

 残された記憶には、知りようがなかった。


「なら、俺たちが選ぶしかないな」


『ええ』


 人影へ届く保証はない。

 それでも、俺は中央の水球へ向いた。


「過去の人たちが、地上へ帰る道を残してくれました」


 青い人影は動かない。


「けれど、その先にある世界は変わっています」


 水球の中で、古代と現代の地形が重なっている。


「道を残した人たちには、今いる誰かを押し潰してまで戻るつもりはなかったと思います」


 初代国王の記憶。

 空へ逃れた七つの大地。

 いつか争いが終わった時、地上へ帰れるよう残された《天水脈》。

 それは、過去へ縛るためのものではなかったはずだ。


「帰る場所を決めるのは、今を生きている人たちです」


 返事はない。


 けれど。

 青い人影が古代座標へ伸ばしていた指先から、一滴の水が零れた。

 水滴は床へ落ちない。

 宙へ浮かび、新たに選ばれた岩盤地帯の上で止まった。

 残響が、新しい帰還地を選んだのではない。

 今を生きる者たちが選んだ道へ、古代の流れを明け渡したのだ。


『反応が変わったわ』

 セレスが告げる。


 水球の表面へ、細い波紋が広がる。


「今です」

 ルシアンの声。


「ノア技師。現代座標を再送してください」


「はい!」


 ノアが両手で制御盤へ触れる。


「空域保全本部、測量経路を全接続! 地上座標、再送!」


 黒い供給幹線が強く発光した。

 青い光が、欠けた二つ目の石環へ流れ込む。

 古代の石が残る半周。

 現代の金属が貫く欠損部。

 二つの異なる経路が、一つの流れになる。

 欠けていた部分へ、青い水そのものが環を描いた。

 一周。

 二つ目の石環が、数千年ぶりに完全な輪となる。


『帰還地照合――完了』


 球形空間へ、古代の声が響いた。

 中央の水球から、古代座標を示す光が消える。

 代わりに。

 現在の集落を避けた岩盤地帯へ、七つの青い光が灯った。


「受理されました!」

 ノアの声が弾む。


『七島、進路補正を開始!』


『現代帰還座標との誤差、縮小!』


 空域保全本部から届く報告。

 足元を伝う横向きの振動が、僅かに変わった。

 七島が、古代の窪みではなく。

 自分たちで選んだ、新たな大地へ向きを変えていく。

 青い女性の人影が、二つ目の石環から手を離した。

 長い髪が、水の中でゆっくりと広がる。

 顔のない輪郭が、俺たちへ向いたように見えた。


 次に。

 三つ目の石環へ、細い腕を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、環へ刻まれた古代文字が灯った。


『第三段階』

 セレスが読み上げる。


『降下軌道固定』


 七島の立体図が、水球から球形空間全体へ広がる。

 青い線が、現在位置から地上の岩盤地帯へ向けて引かれていく。

 上空の風。

 島体の重量。

 七島それぞれの高度。

 《天水脈》の残存流量。

 現代浮遊機関が使える最後の出力。

 無数の数値が、降下の道を一本ずつ形作っていく。


『降下軌道固定まで――十八分』


 第三段階が始まった。

 これが終われば、七島は地上への最終降下へ入る。

 そう思った時だった。

 球形空間の壁から、水音が聞こえた。


                 ◇


 一滴。


 二滴。


 その程度の音ではない。

 石壁の奥を、濁流が駆け抜けている。

 七枚の石環から溢れた青い光が、床と壁を走る無数の溝へ流れ込んでいく。


「流量が上がっています」


 ノアが測定器を向ける。


「第三段階へ必要な供給ですか」


「違います」


 ルシアンが、銀縁眼鏡の奥で術式を切り替える。


「石環へ向かう流れではない。外周設備へ分岐しています」


 重い音が響いた。球形空間へ続く通路。

 そこで、石が砕ける。


「あの場所は」

 俺は腰を落とした。


 以前。

 五本の黒い腕を止めるため、ノアが外周環へ楔を打ち込んだ場所だ。


「レグルスさん」

 ノアも気づき、戦斧へ手を掛ける。


「あの腕です」


 次の瞬間。

 通路の奥から、黒い楔が弾き飛ばされた。

 石床へ突き刺さり、幾度も跳ねる。

 楔を押さえていた外周環が、青い水に満たされながら回転を再開した。


 一つ。


 二つ。


 石壁の隙間から、黒い金属が伸びる。

 人の数倍ある腕。

 幾つもの関節。

 節の隙間を流れる青い水。

 天井から二本。

 左右の壁から三本。

 五本の《古代防衛腕》が、再び動き出した。

 だが、その動きは以前より速い。

 第二段階の完了によって、《天水脈》から送られる流量が増している。

 止まっていた指先まで青い光が満ち、黒い関節が一斉に伸びた。


「供給幹線を狙っています!」

 ノアが叫ぶ。


 五本の腕が向かう先。

 そこには、欠けた二つ目の石環を貫く黒い供給幹線があった。

 古代の水路を削り、後世の技師たちが通した現代の設備。

 今は、地上の測量結果を《天水脈》へ送るための道でもある。

 刃状の腕が振り上げられる。

 俺は鯉口へ手を掛けかけて、止めた。


 抜かない。

 足元へ緑色の魔力を巡らせる。


「《魔力身体強化【速】》」


 供給幹線と刃の間へ踏み込む。

 刀には触れない。

 右脚を高く上げ、振り下ろされる腕の側面へ踵を合わせた。

 正面から止めるのではない。

 刃が落ちる力を、横へずらす。

 黒い腕が供給幹線を外れ、石環の脇へ叩きつけられた。

 衝撃が脚を駆け上がる。

 骨が軋む感覚。

 それでも、刀身へは伝わっていない。


『右の壁、次は天井!』

 セレスの声。


 五本指の腕が、横から俺の身体を掴もうとする。

 床へ片手をつき、その下を潜る。

 続けて、頭上から伸びた刃を身を捻って躱した。

 黒い金属が石床へ突き刺さる。


「統括! あれは防衛機構じゃない!」


 ノアが、青い水の流れを測定している。


「第二環の欠損を検知してます! 現代の供給幹線を取り除いて、元の水路へ戻そうとしてる!」


「ええ」


 ルシアンが《試作ウルカーヌス》を左手で抜いた。

 固定された右手は動かさない。


「以前の推測どおり、修復と異物除去が本来の役割です」


 銀縁眼鏡へ、黒い腕の構造が映る。


「《古代防衛腕》という呼び方は、正確ではありませんでしたね」


 銀色の刃が、最小の軌道で走る。

 迫っていた腕の関節だけが斬り離された。

 切断面から青い水が溢れ、落ちた腕を引き上げようとする。


「古代の自律修復機構です」


 石と黒い金属が再び噛み合う。

 斬られた関節は、数秒も経たずに元の位置へ戻った。


「直るのが速くなってます!」


「供給量が増した影響です」


 ルシアンが《試作ウルカーヌス》を構え直す。

 左手だけでは、自動補正が求める動きを完全には再現できない。

 一度の斬撃で、肩が僅かに下がっていた。


「再接続される前に、命令経路を止めます」


 ノアが外周環へ向かおうとする。


「待ってください!」


 俺は腕を伸ばし、その身体を止めた。

 先ほど楔を打ち込んだ場所へ、二本の腕が重なっている。

 以前と同じ方法を警戒しているようにも見えた。


『腕ではなく、水を見て』

 セレスが、外周環へ表紙を向ける。


『五本は同時に命令を受けていないわ。青い流れが、一つずつ違う溝へ入っている』


 床を走る青い光。

 右の壁へ一本。

 天井へ二本。

 左の壁へ二本。

 流れは絶えず順番を変え、五本の腕へ命令を送っていた。


「セレス。順番を読めるか」


『やってみるわ』


「ノアさんは、制御盤へ戻ってください」


「でも、供給幹線が」


「俺とルシアンさんで守ります。測量経路を切られた時に、戻せるのはノアさんだけです」


 ノアが、俺の腰へ視線を落とす。


「刀は」


「抜きません」

 そう答えると、ノアは一度だけ頷いた。


「分かりました。切断された経路を、別の導線へ迂回させます」


 制御盤へ走る。

 五本の腕が、その背中を追おうとした。


『右、左、天井!』

 セレスの声に合わせ、床を蹴る。


 一つ目。

 右から伸びる五本指の内側へ入り、掌底を関節へ当てる。

 赤い魔力を、身体の中心へ通す。


「《魔力身体強化【剛】》」


 瞬間的な爆発力で、腕の向きを外へ押し返す。


 二つ目。

 左から迫る刃を、身を沈めて躱す。

 通り過ぎる関節へ肩をぶつけ、軌道を天井側へ逸らした。


 三つ目。

 頭上から落ちる指の間を、《速》で抜ける。

 黒い金属が、背後の床を砕いた。


 速。剛。再び、速。


 切り替えるたび、緑と赤の魔力波が足元で交差する。

 刀がなくとも、避けることはできる。

 軌道をずらすことも。

 一瞬だけなら、押し返すこともできる。


 だが。

 斬らないというだけで、戦い方は大きく変わった。

 届く距離。選べる角度。相手の力へ触れる時間。

 刀なら刃先だけで済むところへ、腕や脚を入れなければならない。

 黒い指が左腕を掠める。

 革のジャケットが裂け、皮膚へ熱が走った。


『無理に止めないで! 次は下から来るわ!』


 床の溝が強く光る。

 足元から突き上がった腕を跳んで躱す。

 空中では、次の動きを選べない。

 天井の刃が俺を待っていた。


「補正出力、十八パーセント」


 銀色の光が横切る。

 ルシアンの斬撃が刃型の腕の関節を断ち、軌道を変えた。

 俺の脇を、切断された黒い金属が通過する。

 着地と同時に、ルシアンの前へ回った。


「右手は大丈夫ですか」


「使ってはいません」


「身体まで大丈夫とは聞こえませんね」


「あなたにだけは言われたくありません」


『まったくだわ』

 セレスまで同意する。


「今は、後にしてください」


「ええ」


 僅かなやり取りの間にも、切断された腕は青い水によって引き戻されている。

 完全に壊す必要はない。

 第三段階が終わるまで。

 新たな帰還座標が固定されるまで。

 供給幹線とノアを守ればいい。

 だが、自律修復機構にとっては。

 現代の座標そのものが、直すべき異常だった。


『測量経路、第一幹線へ負荷集中!』

 制御盤から、ノアの声が飛ぶ。


『予備導線へ二割迂回!』


 その直後。

 五本の腕が、一斉に動きを止めた。

 攻撃を諦めたわけではない。

 すべての指先が、同じ一点へ向いている。

 黒い供給幹線。

 壁の中で、青い水が大きく脈打った。


『レグルス、同時に来るわ!』


 五本の腕が、別々の方向から供給幹線へ伸びる。


「ルシアンさん!」


「右側を」


「承知しました!」


 右から来る二本へ向かう。

 一つ目を《速》で躱し、通り過ぎた側面へ蹴りを入れる。

 僅かにずれた腕が、二つ目と衝突した。

 左側では、《試作ウルカーヌス》の銀光が二度走る。

 ルシアンが二本の関節を斬り離す。


 残る一本。

 天井から伸びた五指が、供給幹線へ巻きついた。


「離れろ!」


 赤い魔力を右脚へ集める。

 腕ではなく、供給幹線を掴んだ手首へ蹴り込んだ。


 一本。


 二本。


 黒い指が外れる。

 だが、最後の一本が金属の外装へ食い込んだ。


 軋む音。

 供給幹線の一部が、石環から引き抜かれる。

 束ねられていた導線が千切れ、青い火花を散らした。


『現代測量経路――第一幹線喪失!』


 中央の水球が明滅する。

 新たに選んだ七つの降下地点。

 そのうち、一つの光が消えた。


 代わりに。

 現在の湖と重なる古代座標へ、青い光が灯る。


『帰還座標――再照合』


『欠損経路を検出』


『古代記録座標への復帰を開始』


「そんな……」


 ノアが制御盤へ両手を走らせる。


「一つ切られただけで、戻るのか」


「古代機構にとって、現代座標は一時的に与えられた補正値です」


 ルシアンが、再接続を始めた腕を見つめる。


「補正経路が失われれば、残された記憶を正しい値として採用する」


「全部を切られたら」


「七島は、現在の地形を無視して古代座標へ降下します」


 住民の暮らす集落へ。湖へ。島同士が重なる場所へ。

 帰還のために選んだはずの道が、過去へ引き戻されていく。


「戻させません」


 ノアが、切断された導線を立体図の中で掴む。


「第二幹線から第一経路へ迂回させます。二分ください!」


「長いですね」

 ルシアンが告げる。


「では、一分半で!」


「承知しました」


 どこかで聞いたようなやり取りだった。

 だが、以前とは違う。

 五本の腕は、力任せに供給幹線を壊そうとしているだけではない。

 こちらが守る位置を見て。

 迂回させた流れを読み。

 より重要な場所へ狙いを変えている。

 自分で考えているわけではない。

 石環を元の状態へ戻すため、決められた処理を一つずつ実行しているだけだ。

 そこに、悪意はなかった。

 俺たちを恨んでいるわけでもない。

 ただ、古代の正しさへ戻そうとしている。

 だからこそ、止まらない。


『右二本、三呼吸遅れて左!』


「分かった!」


 セレスが読む青い流れに従い、供給幹線の前へ立つ。

 右の腕を《剛》で弾く。


 一呼吸。


 二呼吸。


 三呼吸。


 左から来る刃へ足を掛け、身体を回して床へ流す。

 石が砕ける。破片が頬を切った。

 痛みを無視し、次の腕へ向く。

 速と剛を切り替えるたび、身体の内側が熱を持っていく。

 呼吸が浅くなる。

 脚も。肩も。

 刀を使わない分だけ、すべての衝撃を身体で受けていた。


 それでも。

 鞘へ納めた刀には触れない。


「迂回率、四十パーセント!」

 ノアが叫ぶ。


「第一座標、あと少しで戻せます!」


『降下軌道固定まで――十六分十二秒』


 三つ目の石環は、今も回り続けている。

 時間だけは止まってくれない。

 七島の降下軌道が古代座標で固定されれば、その後から現代座標へ変えることはできない。


「レグルスさん、下がってください」

 ルシアンの声。

 銀縁眼鏡の内側で、これまでより複雑な術式が展開されている。


「五本の命令溝を、一度に切断します」


「右手が保ちません」


「右手は使わないと言ったはずです」


「左だけで補正動作を受ければ、肩が壊れます」


 ルシアンは答えなかった。

 否定しないということは、本人も分かっている。


「一度で十分です」


 それでも、《試作ウルカーヌス》を構える。

 俺は一歩も退かなかった。


「なら、俺が三本をずらします。残り二本だけ狙ってください」


「刀は」


「使いません」


「可能ですか」


「やります」


 ルシアンが、僅かに息を吐いた。


「分かりました。三秒だけ止めてください」


「承知しました」


『無茶を分け合えば、無茶ではなくなると思っていないでしょうね』

 セレスが呆れた声を出す。


「終わった後で聞く」


『必ず聞かせるわ』


 床の青い溝が、一斉に明滅した。


『来るわ!』


 五本の腕が、扇状に広がる。


 一つ目。

 右から迫る指の内側へ踏み込み、肘の関節へ両手を添える。

 《剛》。

 赤い魔力波とともに押し上げ、天井へ向きを変える。


 二つ目。

 足元を薙ぐ刃を跳ぶ。

 空中で身を捻り、踵を刃の腹へ叩き込む。

 床へ落とす。


 三つ目。

 正面。

 避ければ、供給幹線へ届く。

 止めれば、腕ごと押し潰される。

 踏み込む。

 黒い五指が閉じる直前、その手首へ肩を入れた。

 衝撃が全身を貫く。

 靴底が石床を滑る。


 一歩。


 二歩。


 押し返せない。なら、流す。

 腰を沈め、腕の力へ逆らわず身体を回す。

 黒い指先が供給幹線の脇を通過した。


「今です!」

 ルシアンが動く。


 右足。腰。左肩。左腕。

 《試作ウルカーヌス》の補正に従い、それぞれが僅かに異なる速度で連動する。


 二筋の銀光。

 残る腕の関節ではない。

 壁から青い水を送っている二本の命令溝だけが斬り開かれた。

 流れを失った腕が止まる。

 同時に、ルシアンの左肩から鈍い音が響いた。


「ルシアンさん!」


「問題ありません」


 《試作ウルカーヌス》を落とさないまま、一歩下がる。

 左腕は上がっている。

 だが、肩の動きが明らかに硬い。


「今のうちです、ノア技師」


「迂回、完了!」


 制御盤へ、青い光が戻る。


『現代測量経路――第一幹線、代替接続』


 消えていた降下地点が再び灯った。


 古代座標の光が薄れ、現在の岩盤地帯へ移る。


「戻りました!」

 ノアが顔を上げる。


 その時。

 五本の《古代防衛腕》が、すべて動きを止めた。

 青い水が途切れたからではない。

 切断された二本の命令溝から溢れた水が、床の中央へ集まり始めている。


「流れが変わっています」

 ルシアンが低く告げた。


 五本の腕が、ゆっくりと壁へ戻っていく。

 退いたのではなかった。


 天井から。

 左右の壁から。

 それぞれの根元が、球形空間の中央へ向けて動いている。

 石床へ刻まれた継ぎ目が、円形に割れた。

 下から、黒い金属がせり上がる。

 古代の石を外殻としてまとい。

 内部を青い水で満たした、巨大な機構体。


 脚はない。

 腰から下は、石床の中へ埋まっている。

 だが、突き出した上半身だけで、俺たちの数倍はあった。

 頭部に目も口もない。

 胸の中央には、幾重もの環が重なっている。

 戻ってきた五本の腕が、その背中と両肩へ接続された。


 一つの巨体へ。

 五つの異なる腕が繋がっていく。


「あれが、本体……」

 ノアが呟く。


「いいえ」

 ルシアンが、痛む左肩を押さえながら機構体を見上げる。


「本体というより、作業台でしょう。別々の腕では現代設備を排除できないと判断し、修復工程を切り替えた」


 巨体の胸で、青い環が回る。

 その動きに合わせ、五本の腕が同時に持ち上がった。


『降下軌道固定まで――十五分』


 古代の声が、球形空間へ響く。

 ノアは制御盤から離れられない。

 切断された経路を迂回させながら、七つの帰還座標を維持している。

 ルシアンは右手を固定され、左肩まで傷めている。

 俺の刀には、亀裂が入っている。

 それでも、第三段階は待ってくれない。

 巨体の五本の腕が広がった。

 二本は、黒い供給幹線へ。

 二本は、現代の制御盤へ。

 最後の一本。

 最も大きな刃を備えた腕が、頭上高く持ち上がる。

 狙っているのは、ノアだった。


 いや。

 ノアの背後にある、現代座標の制御盤。

 人を殺そうとしているわけではない。

 ただ、そこにいる人間ごと異物を排除する。


「ノアさん、離れてください!」


「駄目です! 今、手を離したら三つの座標が戻ります!」


 巨腕が振り下ろされる。

 距離がある。

 体術では届かない。

 《剛》で受ければ、俺ごと制御盤へ叩きつけられる。

 風だけでは、あの質量の軌道を変えられない。

 ルシアンが《試作ウルカーヌス》を持ち上げようとする。

 左肩が動かず、刃先が下がった。


『レグルス、駄目よ!』

 セレスの声が響く。


 分かっている。

 鍔元の亀裂は、刀身の裏側まで達している。

 次に強い衝撃を受ければ、折れるかもしれない。

 抜かなければ、刀は保つ。

 けれど。

 刀を残すために今ここにいる誰かを失うつもりはなかった。


「レグルスさん!」

 ノアの声。


 頭上の刃が、青い光を纏う。

 俺は右手を柄へ。

 左手を鞘へ添えた。

 折れるかもしれない。

 それでも、今ここで抜かなければ守れないものがある。

 俺は、亀裂を抱えた刀を鞘から抜いた。

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