第50話 七つを繋ぐ者たち
傾いた大地が、窓いっぱいに迫っていた。
第三工業区の屋上が、斜めに流れていく。
本来なら水平に並んでいるはずの煙突も、資材運搬用の軌道も、今はすべてが片側へ沈み込んでいた。
島の底部から噴き出す青白い光が、一定の間隔で整備艇を揺さぶる。
右から一度。
遅れて、左から二度。
不揃いな魔力流を受けるたび、船体の金属板が軋んだ。
『イーラ、島体傾斜四・二度!』
『補助浮遊機関の安全限界まで、残り十七分四十秒!』
「通常の発着場は使えません」
操縦士が制御桿を握ったまま告げる。
「第七資材棟の屋上へ寄せます。ただし、完全には停止できません。機体を留められるのは、屋上から六メートルが限界です」
窓の向こうで、傾いた屋上を金属製の箱が滑っていく。
柵へ衝突し、蓋が外れた。
中から工具が散らばり、そのまま建物の縁から雲海へ消えていく。
飛び移ること自体は難しくない。
だが、俺一人が降りても意味はなかった。
「ノアさん」
「はい」
測定器から顔を上げたノアへ尋ねる。
「着地した後、下層管理室まではどの経路を使いますか」
「第七資材棟を抜けて、中央昇降機へ向かいます。昇降機が止まってたら、東側の非常階段です」
「分かりました。俺が先に降りて、誘導索を固定します」
天井へ収められている巻き取り式の太い索を指す。
「固定を確認してから、ノアさんは滑車具で降りてください。操縦士さんは、それまで今の距離を保てますか」
「三十秒なら」
「十分です」
誘導索の先端を腰へ固定する。
ノアが折り畳まれた戦斧を背負い直し、工具鞄の留め具を確かめた。
「レグルスさん。屋上の北側に、資材搬入用の固定柱があります。細い柵じゃなくて、そっちへ」
「北側の固定柱ですね」
「はい。赤い標識が付いてます」
整備艇の側面扉が開く。
強烈な風が船内へ流れ込み、焦げ茶色の本が俺の背後へ回った。
『以前のあなたなら、何も言わずに飛び出していたでしょうね』
「飛び出すところは、あまり変わってないけどな」
『そうね』
セレスが、呆れたように頁を揺らす。
『でも、今回は一人ではないわ』
「ああ」
鯉口を切る。
身体の中心へ魔力を通すと、緑色の魔力波が足元へ広がった。
「――《纏風舞踏【ヴェンティトゥム】》」
整備艇の床を蹴る。
横から吹きつける魔力流が、空中の身体を大きく押した。
その流れへ逆らわず、左脚へまとわせた風を解放する。
軌道が変わる。
傾いた屋上へ足が触れた瞬間、膝を曲げ、滑り落ちる力を前へ逃がした。
靴底が数メートルにわたって屋上を擦る。
立ち止まらない。
赤い標識の付いた固定柱まで駆け上がり、誘導索を根元へ二重に回す。
金具を噛み合わせ、強く引いた。
「固定しました!」
頭上の整備艇から、索を伝って滑車具が降りてくる。
ノアは工具鞄を胸へ抱え、傾斜に足を取られながらも屋上へ着地した。
俺が腕を掴む。
「大丈夫ですか」
「はい。ありがとうございます」
二人が降りたことを確認すると、誘導索の金具が自動で外れた。
整備艇は不揃いな魔力流を避けるように上昇し、救助艇が集まる空域へ向かう。
「行きましょう」
ノアが第七資材棟の扉を示す。
その直後。
屋上全体が、さらに大きく傾いた。
◇
第三工業区では、道そのものが落下物の通り道へ変わっていた。
無人の運搬車。
固定の外れた資材箱。
工場から剥がれ落ちた金属板。
傾斜の低い側へ向かい、あらゆるものが速度を増しながら滑っていく。
『左前方!』
セレスの声と同時に、頭上で鋼線が弾けた。
資材用の小型起重機から外れた一本が、鞭のように通路を薙ぐ。
その先には、退避用の荷物を抱えた二人の作業員がいた。
刀を抜く。
迫る鋼線の軌道へ刃を合わせ、先端だけを斬り飛ばした。
張力を失った鋼線が足元へ落ちる。
「こちらへ!」
二人を建物の陰へ誘導した直後、今度は大きな金属板が飛んできた。
刃を返す。
刀身の腹で力の向きをずらすと、金属板は俺の肩を掠め、背後の壁へ突き刺さった。
「港へ向かってください! 外周道路には救助艇が来ています!」
「あ、あんたたちは」
「下層管理室へ向かいます」
答えている間にも、傾斜の上から低い駆動音が近づいてくる。
荷台へ鋼材を積んだ無人運搬車だった。
制動装置は動いていない。
このままでは、通路の先で避難者を誘導している隊員へ突っ込む。
積まれた鋼材を斬れば、かえって周囲へ散らばる。
俺は運搬車へ向かって踏み込んだ。
正面から止めるのではない。
狙うのは、左前輪。
刀を返し、峰を車輪の外側へ叩き込む。
金属が潰れる音と同時に、車体の進路が僅かに逸れた。
右後輪が路面の継ぎ目へ乗り上げる。
無人運搬車は大きく横を向き、資材倉庫の防護壁へ衝突して止まった。
「レグルスさん、上です!」
ノアの声に振り返る。
倉庫の入口を支えていた梁が外れ、作業員たちの退路を塞ごうとしていた。
ノアが背中の戦斧を引き抜く。
折り畳まれていた柄が伸び、左右の刃が展開した。
梁の下へ斧頭を滑り込ませる。
「加速機構、第一段!」
戦斧の中心で魔導筒が青く灯った。
短い爆発音。
下から打ち上げられた斧頭が、落ちかけていた梁を押し戻す。
「今のうちに!」
作業員たちが、その下を駆け抜けていく。
最後の一人が通過すると、ノアは戦斧を横へ引いた。
支えを失った梁が、通路を避けるように倉庫の内側へ落ちる。
「助かりました」
「俺は機械を動かしただけです」
ノアは荒い呼吸のまま、戦斧を担ぎ直す。
「車輪だけを狙ったレグルスさんの方が、よっぽどおかしいです」
「褒められている気がしませんね」
「褒めてます」
『たぶん、半分くらいは』
「セレス」
『急ぎましょう。まだ来るわ』
傾斜の上から、再び何かが崩れる音が響いた。
作業員を先へ逃がし、俺たちは中央昇降機へ向かって走る。
その途中。
右手の建物から、割れた硝子と一緒に一人の男性が投げ出された。
身体が路面へ落ち、そのまま低い側へ滑っていく。
先にあるのは、外壁ごと崩れた道路の端だ。
「風よ!」
左手を向ける。
放った風が男性の身体を下から押し上げ、滑る速度を落とした。
俺が腕を掴み、ノアが作業着の背中を引く。
二人で建物の陰へ引き込んだ。
「歩けますか」
「あ、ああ……」
男性は何度も息を吸い、震える脚で立ち上がる。
駆けつけた空域保全隊員へ引き渡したところで、ノアの測定器から警告音が鳴った。
『補助浮遊機関の安全限界まで、残り十四分二十一秒』
「退避対象の反応、あと三人です」
ノアが工業区の立体図を開く。
中央昇降機とは反対方向。
二棟の工場を繋ぐ連絡通路に、三つの光点が止まっていた。
「下層管理室へは、こっちです」
ノアの指が中央昇降機を示す。
次に、動かない三つの光へ向いた。
残り時間が、表示の端で減り続けている。
「助けてから行きましょう」
俺が告げると、ノアは顔を上げた。
「でも、残り時間が」
「ここで置いていけば、何のためにイーラを繋ぐのか分からなくなります」
ただし、俺たちだけですべてを背負う必要はない。
通信機を開き、三つの光点を救助回線へ送る。
「こちらレグルスです。第三工業区、第三区画連絡通路に三名が取り残されています。位置情報を送ります」
『受信したよ』
返ってきたのは、カサンドラの声だった。
『救助艇二番隊を向かわせる。あんたたちは、艇が入れるところまで道を開きな!』
「承知しました」
「行きます!」
ノアが先に走り出す。
◇
連絡通路は、中央から折れていた。
二棟の間に架けられていた硝子張りの通路が、片側の接続部だけを残し、斜めに垂れ下がっている。
その中に三人の作業員がいた。
一人は脚を負傷し、床へ座り込んでいる。
残る二人が両脇から身体を支えていた。
だが、割れた硝子の先には何もない。
僅かに動くだけで、通路全体が軋んだ。
「動かないでください!」
こちらの声に、三人が顔を上げる。
「救助艇が来ます! それまで通路を固定します!」
問題は、通路を支えている一本の骨組みだった。
建物側の基部が半ば裂け、風を受けるたびに金属が少しずつ剥がれている。
斬って分離すれば、三人ごと落ちる。
引き上げようにも、現在の角度では建物の外壁へ引っ掛かる。
「ノアさん。あの基部を、少しだけ持ち上げられますか」
「少しなら。でも、戦斧を外したら戻ります」
「戻るまで、俺が固定します」
外壁へ残された保守索を掴み、腰へ巻く。
ノアが戦斧の刃を裂け目へ差し込んだ。
「加速機構、第二段!」
青い光が一段強くなる。
斜めに垂れていた通路が、僅かに持ち上がった。
俺は建物側へ残された骨組みへ保守索を回し、刀の鞘を梃子にして締め上げる。
金属の裂け目が止まった。
『救助艇、接近するわ!』
雲海側から、小型艇が機首を上げて現れる。
通路の下へ潜り込み、側面扉から二人の隊員が固定索を射出した。
一本が通路の先端へ。
もう一本が中央の骨組みへ巻きつく。
『こちら二番隊! 固定を引き継ぐ!』
「お願いします!」
艇の巻き取り機が動き、垂れ下がっていた通路を下から支えた。
二人の隊員が内部へ入り、負傷者を担架へ固定する。
残る作業員も、一人ずつ艇へ移っていく。
最後の一人が収容された瞬間、通路の基部が完全に裂けた。
硝子と金属の塊が落ちる。
救助艇は固定索を解除し、間一髪でその下から離脱した。
『三名、収容完了!』
同時に、ノアの測定器が更新される。
『イーラ全域、一般退避対象者――残存反応なし』
住民も。
作業員も。
救護班も。
残るのは、下層管理室で操作を続ける二名の技師と、俺たちだけだった。
『こっちは引き受けた』
カサンドラの声が届く。
『あんたたちは管理室へ行きな!』
「はい!」
通信を閉じ、来た道を引き返す。
表示された残り時間は、十二分を切っていた。
◇
中央昇降機は、途中階で停止していた。
傾斜によって箱が案内軌道へ食い込み、扉は指一本分さえ開かない。
東側の非常階段も、二つ下の階で崩落していた。
鉄骨と壁材が吹き抜けを埋め、下層へ続く道を完全に塞いでいる。
「別の経路はありますか」
「保守用の垂直通路があります」
ノアが壁の一部を叩き、細い扉を見つける。
「浮遊機関の冷却管に沿って、下層管理室の一つ上まで降りられます。でも、今は……」
扉を開いた瞬間、冷たい水が横向きに噴き出した。
本来なら通路の底へ流れるはずの冷却水が、傾いた壁を川のように走っている。
奥には、金属製の梯子がどこまでも伸びていた。
だが、今のイーラでは下へ向かう梯子ではない。
巨大な横穴の中で、片側の壁へ張りつくための足場に変わっている。
冷却管の継ぎ目から、一定の間隔で白い蒸気が噴き出していた。
工具箱や折れた配管が、そのたびに通路を横切って飛んでいく。
「噴出は七秒ごとです」
ノアが測定器を冷却管へ向ける。
「止まってから五秒以内に、次の隔壁まで渡ります。六秒を越えたら、その場で固定してください」
「分かりました。ノアさんが先に行ってください」
「俺が?」
「この通路を知っているのは、ノアさんです」
少しだけ迷った後、ノアは頷いた。
「では、俺から行きます。レグルスさんも離れないでください」
「はい」
蒸気が噴き出す。
一秒。
二秒。
白い霧が薄れた瞬間、ノアが梯子を蹴った。
金属棒を掴み、冷却水の流れる壁を横へ進んでいく。
俺も後へ続いた。
三秒。
頭上ではなく、横から工具が落ちてくる。
鞘で弾き、進路を確保する。
四秒。
ノアが次の隔壁へ手を掛けた。
五秒。
二人で金属板の陰へ身体を入れる。
直後、背後を白い蒸気が薙いだ。
「次は、途中に掴める場所がありません」
ノアが前方を指す。
二つの隔壁の間で、梯子が数メートルにわたって外れていた。
壁を走る冷却水も、先ほどより速い。
「右側の太い管は掴まないでください。内部圧力が上がってます」
「細い銀色の管は」
「そっちは大丈夫です」
『噴出圧、上昇しているわ』
セレスが、冷却管の奥へ表紙を向ける。
『次は七秒より少し早いかもしれない』
ノアが測定値を見直す。
「六・四秒です。移動できるのは四秒」
「足りますか」
問い返すと、ノアは途切れた梯子と銀色の管を見比べた。
「足らせます」
蒸気が通路を満たす。
止まる。
「今です!」
ノアが先に飛んだ。
途切れた梯子を越え、銀色の管へ手を伸ばす。
濡れた手袋が滑った。
身体が冷却水へ引かれる。
俺は残された梯子を蹴り、ノアの工具鞄を掴んだ。
風を背中へ放ち、二人分の身体を向こう側へ押し込む。
三秒。
ノアが銀色の管を掴み直す。
四秒。
俺も次の隔壁へ手を掛けた。
五秒を待たず、白い蒸気が背後を通過する。
革のジャケットが熱風に煽られた。
それでも、二人とも手を離さない。
「ノアさん」
「大丈夫です」
短く答え、ノアは再び先へ進む。
力だけで抜けられる通路ではなかった。
俺一人なら、最初の噴出を避けた後、そのまま駆け抜けようとしたかもしれない。
そして、途中で変化した圧力に呑まれていた。
ノアが数値を読む。
セレスが魔力の変化を捉える。
俺が、二人の進路を塞ぐものを弾く。
違うものを見ているからこそ、一つの道を進める。
最後の隔壁を越えると、下層管理室へ続く保守扉が見えた。
残り九分三十六秒。
ノアが扉の開閉盤へ手を叩きつける。
◇
下層管理室は、赤い警告灯に染まっていた。
壁一面の魔導板へ、左右で異なる出力波形が表示されている。
床に固定された机も椅子も、今は斜めに突き出しているように見えた。
その中央に、二人の技師が残っていた。
一人は、以前ここで俺たちを迎えた白髪交じりの管理責任者。
もう一人は若い技師だった。
二人は左右に分かれ、壁から引き出された手動制御桿を押さえ続けている。
腕は震え、額から汗が落ちていた。
「ノア!」
管理責任者が声を上げる。
「なぜ戻ってきた!」
「イーラを帰還制御へ変えます!」
ノアは制御盤へ駆け寄り、工具鞄を開いた。
「中央からは接続できません。独立回路を使います」
「今、二人で出力差を抑えている! 操作を離せば傾斜が進むぞ!」
「ここからは俺が引き継ぎます」
ノアが二本の補助手桿を展開し、左右の制御へ接続する。
管理責任者は動かなかった。
「お前一人で、この偏差を見ながら位相鍵まで操作できると思っているのか」
「一人じゃありません」
ノアが、こちらを見る。
「中央にはクロイツ統括がいます。外には母さんたちがいる」
測定器を制御盤へ固定する。
「ここには、レグルスさんとセレスさんがいます」
俺は頷いた。
セレスが、その隣へ浮かぶ。
「だから、退避してください」
管理責任者が、ノアを見つめる。
迷っている時間はなかった。
残り九分を示す数字が、赤く明滅している。
『下層管理室、応答してください』
通信へ、カサンドラの声が届いた。
『外部保守口へ救助艇を着ける。現在の傾斜では四十秒しか保持できないよ!』
「聞こえましたよね」
ノアが二本の手動制御桿を掴む。
「俺が押さえます」
管理責任者が、若い技師へ目を向けた。
二人は同時に、制御桿から手を離す。
左右の出力波形が跳ね上がった。
「くっ……!」
ノアが歯を食いしばり、二本の桿を逆方向へ押し返す。
傾斜の進行が、僅かに鈍る。
「西側出力は、急に落とすな」
管理責任者が告げる。
「第三補助機関の遮断器が、停止工程から戻りきっていない。偏差が広がれば、独立回路は接続を拒む」
「分かりました」
「本当に分かっているな」
「はい」
今度の返事に、迷いはなかった。
管理責任者は操作卓へ手を伸ばし、自分の権限で独立回路の封鎖を解除する。
「イーラを頼む」
「任せてください」
俺は二人の技師を外部保守口まで送る。
扉の向こうでは、カサンドラの救助艇が島の揺れに合わせて上下していた。
隊員が固定索を放ち、二人の身体へ繋ぐ。
「行ってください!」
管理責任者が先に飛び移る。
若い技師が続く。
救助艇の中へ引き上げられた瞬間、再び強い魔力流が噴き上がり、機体を島から引き離した。
『二名、収容!』
カサンドラの声が響く。
『ノア! 次はあんたたちだよ!』
「必ず戻ります!」
ノアは制御盤から離れずに答えた。
外部保守口を閉じ、俺はその隣へ戻る。
「次は、何をしますか」
「位相鍵を繋ぎます」
工具鞄から、小型の銀色端末を取り出す。
補助浮遊機関の安全限界まで、残り八分四秒。
ノアが、独立回路の中央へ位相鍵を差し込んだ。
◇
銀色の端末から、青い術式が広がった。
一本の線が制御盤を走る。
二本。
三本。
古い配線と新しい魔導回路を繋ぎながら、下層管理室の壁全体へ伸びていく。
やがて、左右の補助浮遊機関を示す環へ到達した。
そこで、青い光が赤く変わる。
『接続不能』
『左右出力偏差――許容値超過』
「やっぱり、第三補助機関です」
ノアが片手で制御桿を押さえたまま、構造図を開く。
「緊急遮断器が四十一パーセントで固着してます。制御信号が先へ通ってない」
「ここから動かせますか」
「無理です。隣の補助機関室で、手動解除するしかありません」
「俺が行きます」
「でも、機関室は今――」
「どこを動かせばいいですか」
ノアの言葉を遮らないよう、落ち着いて尋ねる。
俺が機械を知らないことは変わらない。
だから、知らないまま刃を振るうつもりはなかった。
ノアは一度息を呑み、それから構造図を拡大した。
「中央に赤い環があります。あれは絶対に斬らないでください」
「赤い環は斬らない」
「その内側にある、銀色の固定具だけです。四か所あります」
「内側の銀色だけですね」
「はい。三つを外せば遮断器を動かせます。でも、赤い環を傷つけたら、蓄積魔力が全部噴き出します」
「分かりました」
『私も行くわ』
セレスが俺の肩口へ浮かぶ。
ノアは自分の通信機と俺の端末を繋いだ。
「見えてるものを、そのまま伝えてください。俺が確認します」
「承知しました」
補助機関室の扉を開く。
熱と光が、同時に噴き出した。
巨大な赤い環が、轟音を立てながら回転している。
本来は一定の速度を保つはずの環が、半周するたびに大きく跳ねていた。
その周囲を、幾つもの銀色の固定具が支えている。
四つのうち、一つは完全に外れていた。
二つは中途半端に開いている。
最後の一つだけが歪み、赤い環へ噛み込んでいた。
「ノアさん。銀色の固定具を四つ確認。一つは外れています。二つは半開き。奥の一つが環へ噛み込んでいます」
『構造図と同じです。手前の二つから外してください。固定具の根元に、細い留め棒があります』
「確認しました」
回転する環の間隔を読む。
刀を抜き、一本目の留め棒だけを斬る。
銀色の固定具が外側へ開いた。
『一番、解除を確認!』
二本目。
跳ねた赤い環が目の前を通過した直後、刃を差し込む。
留め棒が斬れ、固定具が開く。
『二番も解除! あと一つです!』
奥の固定具は、変形した環の下へ食い込んでいた。
刃を入れられる隙間はない。
動きを見極めようと、一歩踏み込む。
その時。
『レグルス、環の外側!』
セレスが叫んだ。
赤い環の外周に取りつけられていた調速板が、根元から折れる。
蓄積魔力に弾かれた金属塊が、一直線に制御室へ向かった。
隔壁の硝子を突き破る。
その先には、二本の制御桿を押さえたまま動けないノアがいた。
「ノアさん!」
床を蹴る。
身体と金属塊の間へ、刀を滑り込ませた。
止めるな。
正面から受ければ、刃も腕も保たない。
回転。
速度。
飛来する力の流れを読み、その外側へ刃を添える。
「――《獅吼爪弾【レルギウングィスペッレ】》!」
甲高い金属音が、機関室を貫いた。
刀身から緑色の衝撃が走る。
三本の爪痕が金属塊の表面へ食らいつき、その軌道を僅かに持ち上げた。
ノアの頭上を掠める。
巨大な金属塊は背後の壁へ突き刺さり、下層管理室全体を揺らした。
同時に。
手の中で、これまで聞いたことのない音が鳴った。
高く。
細く。
硝子の糸が、一本だけ切れたような音。
『レグルス、今の音……』
「俺にも聞こえた」
刀身へ目を走らせる。
折れてはいない。
刃にも、大きな欠けは見えなかった。
だが、鍔元の近く。
赤い警告灯が反射するたび、髪の毛ほど細い線が一瞬だけ浮かぶ。
『刀を使っては駄目よ』
「分かってる」
すぐに鞘へ納める。
「戻ったら確認する」
『必ずよ』
残り時間は、四分を切っていた。
『レグルスさん! 最後の固定具を外さないと、出力が揃いません!』
「今やります!」
歪んだ銀色の固定具へ向き直る。
刀は使わない。
斬るのではなく、噛み込んだ力を内側から砕く。
腰を落とす。
身体の中心へ流した魔力を、火属性へ変える。
赤い魔力波が脚から背中へ駆け上がった。
「《魔力身体強化【剛】》」
瞬間的な筋力と爆発力が、右腕へ集まる。
狙うのは、赤い環ではない。
その内側で固着している銀色の固定具だけ。
右の掌を、固定具の上から叩き込む。
同時に、踏み締めた脚から衝撃を突き上げた。
上から一つ。
下から一つ。
二つの力が、逃げ道を塞ぐ。
一瞬だけ、吼える獅子の輪郭が背後へ浮かんだ。
上下の牙が、銀色の固定具へ噛み合う。
「――《獅噛破打【レディル・フェリーレ】》!」
鈍い破砕音。
歪んでいた固定具だけが、内側へ潰れた。
赤い環は傷ついていない。
噛み込みから解放された緊急遮断器が、重い音を立てて動き始める。
『解除信号、来ました!』
通信の向こうで、ノアが叫ぶ。
『左右出力差、縮小! 三十二……二十一……九パーセント!』
回転する赤い環が、少しずつ一定の速度へ戻っていく。
俺は補助機関室を出て、下層管理室へ駆け戻った。
残り二分十七秒。
◇
「もう一度、位相鍵を繋ぎます!」
ノアが銀色の端末を握る。
二本の手動制御桿からは、まだ手を離せない。
俺は制御盤の前へ立った。
「俺にできることはありますか」
「右の桿を、この位置で押さえてください。動かすのは、俺が言ってからです」
「分かりました」
ノアに代わって、右側の制御桿を握る。
重い。
補助機関が空へ戻ろうとする力が、桿を通して腕へ伝わってくる。
「統括、聞こえますか!」
『こちら《天水脈》中枢。聞こえています』
通信の向こうから、ルシアンの声が返る。
「第三補助機関の遮断器を解除。左右出力差、許容値内まで縮小しました。イーラ浮遊系統を、帰還制御へ変更します」
『六島の主機は同期状態を維持しています。第七信号を受け取り次第、第二段階へ移行します』
「はい!」
ノアが位相鍵を押し込んだ。
再び、青い術式が制御盤へ広がる。
今度は赤く変わらない。
左右の補助浮遊機関を示す環を通過し、床の下へ伸びていく。
『出力偏差――許容値内』
『独立回路、接続』
「レグルスさん。右を二目盛り戻してください」
「二目盛りですね」
ノアの指示に従い、制御桿をゆっくりと動かす。
左側の波形と、右側の波形が重なる。
「今です。固定してください!」
桿を止める。
ノアが左手を離し、位相鍵を時計回りへ回した。
固い抵抗に阻まれ、途中で止まる。
「動け……!」
両手で端末を握り直す。
残り一分五十三秒。
一分五十二秒。
青い術式が、位相鍵へ逆流するように集まっていく。
その時。
床の下から、水音が聞こえた。
一滴ではない。
遠い場所から、幾つもの流れが集まってくる音。
『《天水脈》が応えているわ』
セレスが告げる。
セレスに刻まれた獅子座が、淡く灯っていた。
「ノアさん」
「はい」
「繋がっています」
ノアが、もう一度だけ位相鍵へ力を込める。
銀色の端末が、最後の位置まで回った。
『緊急高度保持機能――停止』
島の底から響いていた不揃いな唸りが、一斉に消えた。
『イーラ主機制御――帰還工程へ移行』
『基幹変換炉、停止状態を維持』
『補助浮遊機関、帰還制動へ変更』
青い光が床を走る。
現代の魔導回路を通り。失われた古代の水路へ届き。そのまま、七島を巡る《天水脈》へ溶けていく。
『第七同期信号――受理』
安全限界を示していた数字が止まった。
赤い表示が消える。代わりに、七つの青い光が制御盤へ並んだ。
「……繋がった」
ノアの口から、掠れた声が漏れる。
次の瞬間。
下層管理室が大きく揺れた。
先ほどまで身体を横へ引いていた力が薄れていく。
四度を超えていた床の傾きが、ゆっくりと戻り始めた。
倒れかけていた机が床へ戻る。
壁に見えていた場所が壁へ。
天井に見えていた場所が、再び天井へ変わっていく。
『イーラ、島体傾斜三度!』
『二・四! 補助浮遊機関、帰還制動下で安定!』
『一度を下回ります!』
空域保全本部の報告が、次々に重なる。
そこへ、ルシアンの静かな声が届いた。
『七島の同期を確認しました』
制御盤の中で、七つの光が同時に脈打つ。
『帰還工程――第二段階へ移行します』
◇
横向きの力が、島全体を掴んだ。
落下ではない。
これまでとは異なる方向へ、大地そのものが動き始める。
下層管理室の壁が震え、天井から細かな破片が降る。
『ノア! 外部保守口へ来な!』
カサンドラの通信が飛び込んでくる。
『第二段階が始まった! そこへ長居するんじゃないよ!』
「位相鍵を回収します!」
ノアが端末を引き抜く。
俺も制御桿から手を離した。
すでに手動で押さえる必要はない。
二本の桿は帰還制御に従い、同じ位置で固定されていた。
「行きましょう!」
警告灯の消えていく管理室を走る。
外部保守口を開くと、目の前へ雲海が広がった。
救助艇は、島から数メートル離れた場所にいた。
イーラが横へ動き始めたことで、機体を接触させられない。
開いた側面扉から、カサンドラが身を乗り出している。
「ノアさんが先に行ってください!」
「でも、レグルスさんは」
「すぐ後に続きます!」
救助艇から射出された固定索が、保守口の脇へ突き刺さった。
ノアが滑車具を掛ける。
横風に煽られながら索を渡り、救助艇へ手を伸ばした。
カサンドラが、その腕を掴み勢いのまま船内へ引き込んだ。
「レグルス!」
次の固定索が放たれる。
だが、イーラの移動速度が上がり、金具が保守口の縁へ届かない。
『下から魔力流が来るわ!』
島の底部で、青い光が膨らむ。
帰還制御へ移った補助機関が、横方向の姿勢を整えようとしている。
待てば、吹き上がる流れに呑まれる。
「先に行け、セレス!」
『一緒に行くと言ったでしょう!』
セレスが背後へ回る。
刀には触れない。
足元へ残る風だけを集める。
「《纏風舞踏》!」
保守口を蹴った。
下から噴き上がった青い魔力流が、身体を救助艇より高く押し上げる。
空中で腰を捻り、脚へまとわせた風を横へ解放した。
伸ばした右手が、側面扉へ届く。
隊員に手首を掴まれ、船内へ引き込まれた。
床へ転がった直後、固定索が外れる。
救助艇が急上昇した。
眼下で、イーラの外部保守口が遠ざかっていく。
『イーラ全域、生命反応を確認!』
空域保全本部からの報告。
『残留者なし! 救助対象、全員収容!』
島中で鳴り続けていた退避警報が、一つずつ止まっていった。
ノアは床へ座り込み、工具鞄を抱えたまま肩で息をしている。
カサンドラが、その前へ立った。
母親として抱き締めることはしない。
まず、空域保全総監として一人の技師へ向けるように、真っ直ぐノアを見る。
「よく繋いだね、ノア」
ノアが顔を上げる。
「俺だけじゃないよ」
「分かってる」
カサンドラが、僅かに笑った。
「だから全員、迎えに来たんだ」
その手が、ノアの頭へ一度だけ触れる。
今度はノアも、振り払わなかった。
◇
救助艇が高度を上げる。
雲海の上に、七つの大地が姿を現した。
中央島スペルビア。
その周囲を取り囲む五つの島。
そして、ようやく傾きを取り戻したイーラ。
七島の底部へ、巨大な青い環が浮かび上がる。
一つ。
二つ。
遠く離れた大地の下で、同じ光が順に灯っていく。
七つ目の環が完成した瞬間、スペルビアの底部から青い水の光が伸びた。
イーラへ。
五つの島へ。
七本の流れが雲海の上を渡り、大地と大地を結んでいく。
それは、空を覆うほど巨大な星図にも見えた。
『七島、相対位置を固定!』
『第二段階――帰還地照合を開始!』
空域保全本部の報告と同時に、七島の前方へ水の地図が広がる。
数千年前の大陸南部。
現在の河川と湖。
失われた古代の座標へ、現代の測量線が重なっていく。
欠けた帰りの環を、ルミナスの魔導回路が補っていた。
『地上照合、継続!』
『全島、水平移動を確認!』
七島が、ゆっくりと動く。
落ちているのではない。
空へ押し戻されているのでもない。
かつて切り離された大陸南部へ。
後にヴァルディア王国が築かれた、同じ故郷へ。
七つの大地が、自ら進む方向を選んでいた。
『帰るのね』
傍らへ浮かぶセレスが、静かに呟く。
「まだ、地上へ降りたわけじゃない」
『ええ』
帰還地点の照合。
七島の移動。
そして、すべての浮遊機関を使い切る最終降下。
やるべきことは、まだ残っている。
それでも。
七島はもう、互いを切り捨てるために繋がっているのではなかった。
古代の《天水脈》だけでもない。
ルシアンが六島を支えた。
ノアがイーラを繋いだ。
カサンドラたちが、最後の一人まで救い上げた。
評議会が、空へ留まり続けるための機関を手放すと決めた。
異なる場所で、異なる役割を担った者たちの意志が。
七つの大地を、同じ未来へ向けて動かしている。
俺は刀の柄へ手を添えた。
鍔元で鳴った、細い音が蘇る。
今は、抜かない。
次に刃を振るう時までに、確かめなければならない。
だが、目を向けるのは刀ではなく、その先だった。
雲海の彼方。
まだ見えない地上へ向かい、七つの光が進んでいく。
七つの大地は、空に留まるためではなく、自分たちの意志で地上へ帰るために――数千年ぶりの一歩を踏み出した。




