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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第四章 墜落する果てなき傲慢
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第50話 七つを繋ぐ者たち

 傾いた大地が、窓いっぱいに迫っていた。

 第三工業区の屋上が、斜めに流れていく。

 本来なら水平に並んでいるはずの煙突も、資材運搬用の軌道も、今はすべてが片側へ沈み込んでいた。

 島の底部から噴き出す青白い光が、一定の間隔で整備艇を揺さぶる。

 右から一度。

 遅れて、左から二度。

 不揃いな魔力流を受けるたび、船体の金属板が軋んだ。


『イーラ、島体傾斜四・二度!』


『補助浮遊機関の安全限界まで、残り十七分四十秒!』


「通常の発着場は使えません」

 操縦士が制御桿を握ったまま告げる。


「第七資材棟の屋上へ寄せます。ただし、完全には停止できません。機体を留められるのは、屋上から六メートルが限界です」


 窓の向こうで、傾いた屋上を金属製の箱が滑っていく。

 柵へ衝突し、蓋が外れた。

 中から工具が散らばり、そのまま建物の縁から雲海へ消えていく。

 飛び移ること自体は難しくない。

 だが、俺一人が降りても意味はなかった。


「ノアさん」


「はい」


 測定器から顔を上げたノアへ尋ねる。


「着地した後、下層管理室まではどの経路を使いますか」


「第七資材棟を抜けて、中央昇降機へ向かいます。昇降機が止まってたら、東側の非常階段です」


「分かりました。俺が先に降りて、誘導索を固定します」


 天井へ収められている巻き取り式の太い索を指す。


「固定を確認してから、ノアさんは滑車具で降りてください。操縦士さんは、それまで今の距離を保てますか」


「三十秒なら」


「十分です」


 誘導索の先端を腰へ固定する。

 ノアが折り畳まれた戦斧を背負い直し、工具鞄の留め具を確かめた。


「レグルスさん。屋上の北側に、資材搬入用の固定柱があります。細い柵じゃなくて、そっちへ」


「北側の固定柱ですね」


「はい。赤い標識が付いてます」


 整備艇の側面扉が開く。

 強烈な風が船内へ流れ込み、焦げ茶色の本が俺の背後へ回った。


『以前のあなたなら、何も言わずに飛び出していたでしょうね』


「飛び出すところは、あまり変わってないけどな」


『そうね』

 セレスが、呆れたように頁を揺らす。


『でも、今回は一人ではないわ』


「ああ」


 鯉口を切る。

 身体の中心へ魔力を通すと、緑色の魔力波が足元へ広がった。


「――《纏風舞踏【ヴェンティトゥム】》」


 整備艇の床を蹴る。

 横から吹きつける魔力流が、空中の身体を大きく押した。

 その流れへ逆らわず、左脚へまとわせた風を解放する。

 軌道が変わる。

 傾いた屋上へ足が触れた瞬間、膝を曲げ、滑り落ちる力を前へ逃がした。

 靴底が数メートルにわたって屋上を擦る。

 立ち止まらない。

 赤い標識の付いた固定柱まで駆け上がり、誘導索を根元へ二重に回す。

 金具を噛み合わせ、強く引いた。


「固定しました!」


 頭上の整備艇から、索を伝って滑車具が降りてくる。

 ノアは工具鞄を胸へ抱え、傾斜に足を取られながらも屋上へ着地した。

 俺が腕を掴む。


「大丈夫ですか」


「はい。ありがとうございます」


 二人が降りたことを確認すると、誘導索の金具が自動で外れた。

 整備艇は不揃いな魔力流を避けるように上昇し、救助艇が集まる空域へ向かう。


「行きましょう」


 ノアが第七資材棟の扉を示す。


 その直後。

 屋上全体が、さらに大きく傾いた。


                 ◇


 第三工業区では、道そのものが落下物の通り道へ変わっていた。

 無人の運搬車。

 固定の外れた資材箱。

 工場から剥がれ落ちた金属板。

 傾斜の低い側へ向かい、あらゆるものが速度を増しながら滑っていく。


『左前方!』

 セレスの声と同時に、頭上で鋼線が弾けた。

 資材用の小型起重機から外れた一本が、鞭のように通路を薙ぐ。

 その先には、退避用の荷物を抱えた二人の作業員がいた。


 刀を抜く。

 迫る鋼線の軌道へ刃を合わせ、先端だけを斬り飛ばした。

 張力を失った鋼線が足元へ落ちる。


「こちらへ!」

 

 二人を建物の陰へ誘導した直後、今度は大きな金属板が飛んできた。

 刃を返す。

 刀身の腹で力の向きをずらすと、金属板は俺の肩を掠め、背後の壁へ突き刺さった。


「港へ向かってください! 外周道路には救助艇が来ています!」


「あ、あんたたちは」


「下層管理室へ向かいます」


 答えている間にも、傾斜の上から低い駆動音が近づいてくる。

 荷台へ鋼材を積んだ無人運搬車だった。

 制動装置は動いていない。

 このままでは、通路の先で避難者を誘導している隊員へ突っ込む。

 積まれた鋼材を斬れば、かえって周囲へ散らばる。

 俺は運搬車へ向かって踏み込んだ。

 正面から止めるのではない。

 狙うのは、左前輪。

 刀を返し、峰を車輪の外側へ叩き込む。

 金属が潰れる音と同時に、車体の進路が僅かに逸れた。

 右後輪が路面の継ぎ目へ乗り上げる。

 無人運搬車は大きく横を向き、資材倉庫の防護壁へ衝突して止まった。


「レグルスさん、上です!」

 ノアの声に振り返る。


 倉庫の入口を支えていた梁が外れ、作業員たちの退路を塞ごうとしていた。

 ノアが背中の戦斧を引き抜く。

 折り畳まれていた柄が伸び、左右の刃が展開した。

 梁の下へ斧頭を滑り込ませる。


「加速機構、第一段!」


 戦斧の中心で魔導筒が青く灯った。

 短い爆発音。

 下から打ち上げられた斧頭が、落ちかけていた梁を押し戻す。


「今のうちに!」


 作業員たちが、その下を駆け抜けていく。

 最後の一人が通過すると、ノアは戦斧を横へ引いた。

 支えを失った梁が、通路を避けるように倉庫の内側へ落ちる。


「助かりました」


「俺は機械を動かしただけです」

 ノアは荒い呼吸のまま、戦斧を担ぎ直す。


「車輪だけを狙ったレグルスさんの方が、よっぽどおかしいです」


「褒められている気がしませんね」


「褒めてます」


『たぶん、半分くらいは』


「セレス」


『急ぎましょう。まだ来るわ』


 傾斜の上から、再び何かが崩れる音が響いた。

 作業員を先へ逃がし、俺たちは中央昇降機へ向かって走る。


 その途中。

 右手の建物から、割れた硝子と一緒に一人の男性が投げ出された。

 身体が路面へ落ち、そのまま低い側へ滑っていく。

 先にあるのは、外壁ごと崩れた道路の端だ。


「風よ!」

 左手を向ける。

 放った風が男性の身体を下から押し上げ、滑る速度を落とした。

 俺が腕を掴み、ノアが作業着の背中を引く。

 二人で建物の陰へ引き込んだ。


「歩けますか」


「あ、ああ……」

 男性は何度も息を吸い、震える脚で立ち上がる。

 駆けつけた空域保全隊員へ引き渡したところで、ノアの測定器から警告音が鳴った。


『補助浮遊機関の安全限界まで、残り十四分二十一秒』


「退避対象の反応、あと三人です」


 ノアが工業区の立体図を開く。

 中央昇降機とは反対方向。

 二棟の工場を繋ぐ連絡通路に、三つの光点が止まっていた。


「下層管理室へは、こっちです」


 ノアの指が中央昇降機を示す。

 次に、動かない三つの光へ向いた。

 残り時間が、表示の端で減り続けている。


「助けてから行きましょう」

 俺が告げると、ノアは顔を上げた。


「でも、残り時間が」


「ここで置いていけば、何のためにイーラを繋ぐのか分からなくなります」


 ただし、俺たちだけですべてを背負う必要はない。

 通信機を開き、三つの光点を救助回線へ送る。


「こちらレグルスです。第三工業区、第三区画連絡通路に三名が取り残されています。位置情報を送ります」


『受信したよ』

 返ってきたのは、カサンドラの声だった。


『救助艇二番隊を向かわせる。あんたたちは、艇が入れるところまで道を開きな!』


「承知しました」


「行きます!」

 ノアが先に走り出す。


                 ◇


 連絡通路は、中央から折れていた。

 二棟の間に架けられていた硝子張りの通路が、片側の接続部だけを残し、斜めに垂れ下がっている。

 その中に三人の作業員がいた。

 一人は脚を負傷し、床へ座り込んでいる。

 残る二人が両脇から身体を支えていた。

 だが、割れた硝子の先には何もない。

 僅かに動くだけで、通路全体が軋んだ。


「動かないでください!」

 こちらの声に、三人が顔を上げる。


「救助艇が来ます! それまで通路を固定します!」


 問題は、通路を支えている一本の骨組みだった。

 建物側の基部が半ば裂け、風を受けるたびに金属が少しずつ剥がれている。

 斬って分離すれば、三人ごと落ちる。

 引き上げようにも、現在の角度では建物の外壁へ引っ掛かる。


「ノアさん。あの基部を、少しだけ持ち上げられますか」


「少しなら。でも、戦斧を外したら戻ります」


「戻るまで、俺が固定します」


 外壁へ残された保守索を掴み、腰へ巻く。

 ノアが戦斧の刃を裂け目へ差し込んだ。


「加速機構、第二段!」


 青い光が一段強くなる。

 斜めに垂れていた通路が、僅かに持ち上がった。

 俺は建物側へ残された骨組みへ保守索を回し、刀の鞘を梃子にして締め上げる。

 金属の裂け目が止まった。


『救助艇、接近するわ!』


 雲海側から、小型艇が機首を上げて現れる。

 通路の下へ潜り込み、側面扉から二人の隊員が固定索を射出した。

 一本が通路の先端へ。

 もう一本が中央の骨組みへ巻きつく。


『こちら二番隊! 固定を引き継ぐ!』


「お願いします!」


 艇の巻き取り機が動き、垂れ下がっていた通路を下から支えた。

 二人の隊員が内部へ入り、負傷者を担架へ固定する。

 残る作業員も、一人ずつ艇へ移っていく。

 最後の一人が収容された瞬間、通路の基部が完全に裂けた。

 硝子と金属の塊が落ちる。

 救助艇は固定索を解除し、間一髪でその下から離脱した。


『三名、収容完了!』


 同時に、ノアの測定器が更新される。


『イーラ全域、一般退避対象者――残存反応なし』


 住民も。

 作業員も。

 救護班も。

 残るのは、下層管理室で操作を続ける二名の技師と、俺たちだけだった。


『こっちは引き受けた』


 カサンドラの声が届く。


『あんたたちは管理室へ行きな!』


「はい!」


 通信を閉じ、来た道を引き返す。

 表示された残り時間は、十二分を切っていた。


                 ◇


 中央昇降機は、途中階で停止していた。

 傾斜によって箱が案内軌道へ食い込み、扉は指一本分さえ開かない。

 東側の非常階段も、二つ下の階で崩落していた。

 鉄骨と壁材が吹き抜けを埋め、下層へ続く道を完全に塞いでいる。


「別の経路はありますか」


「保守用の垂直通路があります」


 ノアが壁の一部を叩き、細い扉を見つける。


「浮遊機関の冷却管に沿って、下層管理室の一つ上まで降りられます。でも、今は……」


 扉を開いた瞬間、冷たい水が横向きに噴き出した。

 本来なら通路の底へ流れるはずの冷却水が、傾いた壁を川のように走っている。

 奥には、金属製の梯子がどこまでも伸びていた。

 だが、今のイーラでは下へ向かう梯子ではない。

 巨大な横穴の中で、片側の壁へ張りつくための足場に変わっている。

 冷却管の継ぎ目から、一定の間隔で白い蒸気が噴き出していた。

 工具箱や折れた配管が、そのたびに通路を横切って飛んでいく。


「噴出は七秒ごとです」


 ノアが測定器を冷却管へ向ける。


「止まってから五秒以内に、次の隔壁まで渡ります。六秒を越えたら、その場で固定してください」


「分かりました。ノアさんが先に行ってください」


「俺が?」


「この通路を知っているのは、ノアさんです」


 少しだけ迷った後、ノアは頷いた。


「では、俺から行きます。レグルスさんも離れないでください」


「はい」


 蒸気が噴き出す。


 一秒。


 二秒。


 白い霧が薄れた瞬間、ノアが梯子を蹴った。

 金属棒を掴み、冷却水の流れる壁を横へ進んでいく。

 俺も後へ続いた。


 三秒。

 頭上ではなく、横から工具が落ちてくる。

 鞘で弾き、進路を確保する。


 四秒。

 ノアが次の隔壁へ手を掛けた。


 五秒。

 二人で金属板の陰へ身体を入れる。

 直後、背後を白い蒸気が薙いだ。


「次は、途中に掴める場所がありません」


 ノアが前方を指す。

 二つの隔壁の間で、梯子が数メートルにわたって外れていた。

 壁を走る冷却水も、先ほどより速い。


「右側の太い管は掴まないでください。内部圧力が上がってます」


「細い銀色の管は」


「そっちは大丈夫です」


『噴出圧、上昇しているわ』

 セレスが、冷却管の奥へ表紙を向ける。


『次は七秒より少し早いかもしれない』


 ノアが測定値を見直す。


「六・四秒です。移動できるのは四秒」


「足りますか」

 問い返すと、ノアは途切れた梯子と銀色の管を見比べた。


「足らせます」


 蒸気が通路を満たす。


 止まる。


「今です!」

 ノアが先に飛んだ。

 途切れた梯子を越え、銀色の管へ手を伸ばす。

 濡れた手袋が滑った。

 身体が冷却水へ引かれる。

 俺は残された梯子を蹴り、ノアの工具鞄を掴んだ。

 風を背中へ放ち、二人分の身体を向こう側へ押し込む。


 三秒。

 ノアが銀色の管を掴み直す。


 四秒。

 俺も次の隔壁へ手を掛けた。


 五秒を待たず、白い蒸気が背後を通過する。


 革のジャケットが熱風に煽られた。

 それでも、二人とも手を離さない。


「ノアさん」


「大丈夫です」

 短く答え、ノアは再び先へ進む。


 力だけで抜けられる通路ではなかった。

 俺一人なら、最初の噴出を避けた後、そのまま駆け抜けようとしたかもしれない。

 そして、途中で変化した圧力に呑まれていた。

 ノアが数値を読む。

 セレスが魔力の変化を捉える。

 俺が、二人の進路を塞ぐものを弾く。

 違うものを見ているからこそ、一つの道を進める。

 最後の隔壁を越えると、下層管理室へ続く保守扉が見えた。


 残り九分三十六秒。


 ノアが扉の開閉盤へ手を叩きつける。


                 ◇


 下層管理室は、赤い警告灯に染まっていた。

 壁一面の魔導板へ、左右で異なる出力波形が表示されている。

 床に固定された机も椅子も、今は斜めに突き出しているように見えた。

 その中央に、二人の技師が残っていた。

 一人は、以前ここで俺たちを迎えた白髪交じりの管理責任者。

 もう一人は若い技師だった。

 二人は左右に分かれ、壁から引き出された手動制御桿を押さえ続けている。

 腕は震え、額から汗が落ちていた。


「ノア!」

 管理責任者が声を上げる。


「なぜ戻ってきた!」


「イーラを帰還制御へ変えます!」


 ノアは制御盤へ駆け寄り、工具鞄を開いた。


「中央からは接続できません。独立回路を使います」


「今、二人で出力差を抑えている! 操作を離せば傾斜が進むぞ!」


「ここからは俺が引き継ぎます」


 ノアが二本の補助手桿を展開し、左右の制御へ接続する。

 管理責任者は動かなかった。


「お前一人で、この偏差を見ながら位相鍵まで操作できると思っているのか」


「一人じゃありません」


 ノアが、こちらを見る。


「中央にはクロイツ統括がいます。外には母さんたちがいる」


 測定器を制御盤へ固定する。


「ここには、レグルスさんとセレスさんがいます」


 俺は頷いた。

 セレスが、その隣へ浮かぶ。


「だから、退避してください」


 管理責任者が、ノアを見つめる。

 迷っている時間はなかった。

 残り九分を示す数字が、赤く明滅している。


『下層管理室、応答してください』


 通信へ、カサンドラの声が届いた。


『外部保守口へ救助艇を着ける。現在の傾斜では四十秒しか保持できないよ!』


「聞こえましたよね」


 ノアが二本の手動制御桿を掴む。


「俺が押さえます」


 管理責任者が、若い技師へ目を向けた。

 二人は同時に、制御桿から手を離す。

 左右の出力波形が跳ね上がった。


「くっ……!」

 ノアが歯を食いしばり、二本の桿を逆方向へ押し返す。

 傾斜の進行が、僅かに鈍る。


「西側出力は、急に落とすな」

 管理責任者が告げる。


「第三補助機関の遮断器が、停止工程から戻りきっていない。偏差が広がれば、独立回路は接続を拒む」


「分かりました」


「本当に分かっているな」


「はい」


 今度の返事に、迷いはなかった。

 管理責任者は操作卓へ手を伸ばし、自分の権限で独立回路の封鎖を解除する。


「イーラを頼む」


「任せてください」


 俺は二人の技師を外部保守口まで送る。

 扉の向こうでは、カサンドラの救助艇が島の揺れに合わせて上下していた。

 隊員が固定索を放ち、二人の身体へ繋ぐ。


「行ってください!」


 管理責任者が先に飛び移る。

 若い技師が続く。

 救助艇の中へ引き上げられた瞬間、再び強い魔力流が噴き上がり、機体を島から引き離した。


『二名、収容!』

 カサンドラの声が響く。


『ノア! 次はあんたたちだよ!』


「必ず戻ります!」


 ノアは制御盤から離れずに答えた。

 外部保守口を閉じ、俺はその隣へ戻る。


「次は、何をしますか」


「位相鍵を繋ぎます」


 工具鞄から、小型の銀色端末を取り出す。

 補助浮遊機関の安全限界まで、残り八分四秒。

 ノアが、独立回路の中央へ位相鍵を差し込んだ。


                 ◇


 銀色の端末から、青い術式が広がった。

 一本の線が制御盤を走る。

 二本。

 三本。

 古い配線と新しい魔導回路を繋ぎながら、下層管理室の壁全体へ伸びていく。

 やがて、左右の補助浮遊機関を示す環へ到達した。

 そこで、青い光が赤く変わる。


『接続不能』


『左右出力偏差――許容値超過』


「やっぱり、第三補助機関です」


 ノアが片手で制御桿を押さえたまま、構造図を開く。


「緊急遮断器が四十一パーセントで固着してます。制御信号が先へ通ってない」


「ここから動かせますか」


「無理です。隣の補助機関室で、手動解除するしかありません」


「俺が行きます」


「でも、機関室は今――」


「どこを動かせばいいですか」


 ノアの言葉を遮らないよう、落ち着いて尋ねる。

 俺が機械を知らないことは変わらない。

 だから、知らないまま刃を振るうつもりはなかった。

 ノアは一度息を呑み、それから構造図を拡大した。


「中央に赤い環があります。あれは絶対に斬らないでください」


「赤い環は斬らない」


「その内側にある、銀色の固定具だけです。四か所あります」


「内側の銀色だけですね」


「はい。三つを外せば遮断器を動かせます。でも、赤い環を傷つけたら、蓄積魔力が全部噴き出します」


「分かりました」


『私も行くわ』

 セレスが俺の肩口へ浮かぶ。


 ノアは自分の通信機と俺の端末を繋いだ。


「見えてるものを、そのまま伝えてください。俺が確認します」


「承知しました」


 補助機関室の扉を開く。

 熱と光が、同時に噴き出した。

 巨大な赤い環が、轟音を立てながら回転している。

 本来は一定の速度を保つはずの環が、半周するたびに大きく跳ねていた。

 その周囲を、幾つもの銀色の固定具が支えている。

 四つのうち、一つは完全に外れていた。

 二つは中途半端に開いている。

 最後の一つだけが歪み、赤い環へ噛み込んでいた。


「ノアさん。銀色の固定具を四つ確認。一つは外れています。二つは半開き。奥の一つが環へ噛み込んでいます」


『構造図と同じです。手前の二つから外してください。固定具の根元に、細い留め棒があります』


「確認しました」


 回転する環の間隔を読む。

 刀を抜き、一本目の留め棒だけを斬る。

 銀色の固定具が外側へ開いた。


『一番、解除を確認!』


 二本目。

 跳ねた赤い環が目の前を通過した直後、刃を差し込む。

 留め棒が斬れ、固定具が開く。


『二番も解除! あと一つです!』


 奥の固定具は、変形した環の下へ食い込んでいた。

 刃を入れられる隙間はない。

 動きを見極めようと、一歩踏み込む。


 その時。


『レグルス、環の外側!』

 セレスが叫んだ。


 赤い環の外周に取りつけられていた調速板が、根元から折れる。

 蓄積魔力に弾かれた金属塊が、一直線に制御室へ向かった。

 隔壁の硝子を突き破る。

 その先には、二本の制御桿を押さえたまま動けないノアがいた。


「ノアさん!」


 床を蹴る。

 身体と金属塊の間へ、刀を滑り込ませた。

 止めるな。

 正面から受ければ、刃も腕も保たない。


 回転。


 速度。


 飛来する力の流れを読み、その外側へ刃を添える。


「――《獅吼爪弾【レルギウングィスペッレ】》!」


 甲高い金属音が、機関室を貫いた。

 刀身から緑色の衝撃が走る。

 三本の爪痕が金属塊の表面へ食らいつき、その軌道を僅かに持ち上げた。

 ノアの頭上を掠める。

 巨大な金属塊は背後の壁へ突き刺さり、下層管理室全体を揺らした。


 同時に。

 手の中で、これまで聞いたことのない音が鳴った。


 高く。


 細く。


 硝子の糸が、一本だけ切れたような音。


『レグルス、今の音……』


「俺にも聞こえた」


 刀身へ目を走らせる。

 折れてはいない。

 刃にも、大きな欠けは見えなかった。

 だが、鍔元の近く。

 赤い警告灯が反射するたび、髪の毛ほど細い線が一瞬だけ浮かぶ。


『刀を使っては駄目よ』


「分かってる」

 すぐに鞘へ納める。


「戻ったら確認する」


『必ずよ』


 残り時間は、四分を切っていた。


『レグルスさん! 最後の固定具を外さないと、出力が揃いません!』


「今やります!」


 歪んだ銀色の固定具へ向き直る。

 刀は使わない。

 斬るのではなく、噛み込んだ力を内側から砕く。

 腰を落とす。

 身体の中心へ流した魔力を、火属性へ変える。

 赤い魔力波が脚から背中へ駆け上がった。


「《魔力身体強化【剛】》」


 瞬間的な筋力と爆発力が、右腕へ集まる。

 狙うのは、赤い環ではない。

 その内側で固着している銀色の固定具だけ。

 右の掌を、固定具の上から叩き込む。

 同時に、踏み締めた脚から衝撃を突き上げた。


 上から一つ。

 下から一つ。

 二つの力が、逃げ道を塞ぐ。

 一瞬だけ、吼える獅子の輪郭が背後へ浮かんだ。

 上下の牙が、銀色の固定具へ噛み合う。


「――《獅噛破打【レディル・フェリーレ】》!」


 鈍い破砕音。

 歪んでいた固定具だけが、内側へ潰れた。

 赤い環は傷ついていない。

 噛み込みから解放された緊急遮断器が、重い音を立てて動き始める。


『解除信号、来ました!』

 通信の向こうで、ノアが叫ぶ。


『左右出力差、縮小! 三十二……二十一……九パーセント!』


 回転する赤い環が、少しずつ一定の速度へ戻っていく。

 俺は補助機関室を出て、下層管理室へ駆け戻った。


 残り二分十七秒。


                 ◇


「もう一度、位相鍵を繋ぎます!」


 ノアが銀色の端末を握る。

 二本の手動制御桿からは、まだ手を離せない。

 俺は制御盤の前へ立った。


「俺にできることはありますか」


「右の桿を、この位置で押さえてください。動かすのは、俺が言ってからです」


「分かりました」


 ノアに代わって、右側の制御桿を握る。

 重い。

 補助機関が空へ戻ろうとする力が、桿を通して腕へ伝わってくる。


「統括、聞こえますか!」


『こちら《天水脈》中枢。聞こえています』

 通信の向こうから、ルシアンの声が返る。


「第三補助機関の遮断器を解除。左右出力差、許容値内まで縮小しました。イーラ浮遊系統を、帰還制御へ変更します」


『六島の主機は同期状態を維持しています。第七信号を受け取り次第、第二段階へ移行します』


「はい!」


 ノアが位相鍵を押し込んだ。

 再び、青い術式が制御盤へ広がる。

 今度は赤く変わらない。

 左右の補助浮遊機関を示す環を通過し、床の下へ伸びていく。


『出力偏差――許容値内』


『独立回路、接続』


「レグルスさん。右を二目盛り戻してください」


「二目盛りですね」


 ノアの指示に従い、制御桿をゆっくりと動かす。

 左側の波形と、右側の波形が重なる。


「今です。固定してください!」


 桿を止める。

 ノアが左手を離し、位相鍵を時計回りへ回した。

 固い抵抗に阻まれ、途中で止まる。


「動け……!」

 両手で端末を握り直す。


 残り一分五十三秒。


 一分五十二秒。

 青い術式が、位相鍵へ逆流するように集まっていく。


 その時。

 床の下から、水音が聞こえた。

 一滴ではない。

 遠い場所から、幾つもの流れが集まってくる音。


『《天水脈》が応えているわ』

 セレスが告げる。


 セレスに刻まれた獅子座が、淡く灯っていた。


「ノアさん」


「はい」


「繋がっています」


 ノアが、もう一度だけ位相鍵へ力を込める。

 銀色の端末が、最後の位置まで回った。


『緊急高度保持機能――停止』


 島の底から響いていた不揃いな唸りが、一斉に消えた。


『イーラ主機制御――帰還工程へ移行』


『基幹変換炉、停止状態を維持』


『補助浮遊機関、帰還制動へ変更』


 青い光が床を走る。

 現代の魔導回路を通り。失われた古代の水路へ届き。そのまま、七島を巡る《天水脈》へ溶けていく。


『第七同期信号――受理』


 安全限界を示していた数字が止まった。

 赤い表示が消える。代わりに、七つの青い光が制御盤へ並んだ。


「……繋がった」

 ノアの口から、掠れた声が漏れる。


 次の瞬間。

 下層管理室が大きく揺れた。

 先ほどまで身体を横へ引いていた力が薄れていく。

 四度を超えていた床の傾きが、ゆっくりと戻り始めた。

 倒れかけていた机が床へ戻る。

 壁に見えていた場所が壁へ。

 天井に見えていた場所が、再び天井へ変わっていく。


『イーラ、島体傾斜三度!』


『二・四! 補助浮遊機関、帰還制動下で安定!』


『一度を下回ります!』


 空域保全本部の報告が、次々に重なる。

 そこへ、ルシアンの静かな声が届いた。


『七島の同期を確認しました』


 制御盤の中で、七つの光が同時に脈打つ。


『帰還工程――第二段階へ移行します』


                 ◇


 横向きの力が、島全体を掴んだ。

 落下ではない。

 これまでとは異なる方向へ、大地そのものが動き始める。

 下層管理室の壁が震え、天井から細かな破片が降る。


『ノア! 外部保守口へ来な!』

 カサンドラの通信が飛び込んでくる。


『第二段階が始まった! そこへ長居するんじゃないよ!』


「位相鍵を回収します!」


 ノアが端末を引き抜く。

 俺も制御桿から手を離した。

 すでに手動で押さえる必要はない。

 二本の桿は帰還制御に従い、同じ位置で固定されていた。


「行きましょう!」


 警告灯の消えていく管理室を走る。

 外部保守口を開くと、目の前へ雲海が広がった。

 救助艇は、島から数メートル離れた場所にいた。

 イーラが横へ動き始めたことで、機体を接触させられない。

 開いた側面扉から、カサンドラが身を乗り出している。


「ノアさんが先に行ってください!」


「でも、レグルスさんは」


「すぐ後に続きます!」


 救助艇から射出された固定索が、保守口の脇へ突き刺さった。

 ノアが滑車具を掛ける。

 横風に煽られながら索を渡り、救助艇へ手を伸ばした。

 カサンドラが、その腕を掴み勢いのまま船内へ引き込んだ。


「レグルス!」


 次の固定索が放たれる。

 だが、イーラの移動速度が上がり、金具が保守口の縁へ届かない。


『下から魔力流が来るわ!』


 島の底部で、青い光が膨らむ。

 帰還制御へ移った補助機関が、横方向の姿勢を整えようとしている。

 待てば、吹き上がる流れに呑まれる。


「先に行け、セレス!」


『一緒に行くと言ったでしょう!』


 セレスが背後へ回る。

 刀には触れない。

 足元へ残る風だけを集める。


「《纏風舞踏》!」


 保守口を蹴った。

 下から噴き上がった青い魔力流が、身体を救助艇より高く押し上げる。

 空中で腰を捻り、脚へまとわせた風を横へ解放した。

 伸ばした右手が、側面扉へ届く。

 隊員に手首を掴まれ、船内へ引き込まれた。

 床へ転がった直後、固定索が外れる。

 救助艇が急上昇した。

 眼下で、イーラの外部保守口が遠ざかっていく。


『イーラ全域、生命反応を確認!』


 空域保全本部からの報告。


『残留者なし! 救助対象、全員収容!』


 島中で鳴り続けていた退避警報が、一つずつ止まっていった。

 ノアは床へ座り込み、工具鞄を抱えたまま肩で息をしている。

 カサンドラが、その前へ立った。

 母親として抱き締めることはしない。

 まず、空域保全総監として一人の技師へ向けるように、真っ直ぐノアを見る。


「よく繋いだね、ノア」


 ノアが顔を上げる。


「俺だけじゃないよ」


「分かってる」

 カサンドラが、僅かに笑った。


「だから全員、迎えに来たんだ」

 その手が、ノアの頭へ一度だけ触れる。

 今度はノアも、振り払わなかった。


                 ◇


 救助艇が高度を上げる。

 雲海の上に、七つの大地が姿を現した。


 中央島スペルビア。

 その周囲を取り囲む五つの島。

 そして、ようやく傾きを取り戻したイーラ。

 七島の底部へ、巨大な青い環が浮かび上がる。


 一つ。


 二つ。


 遠く離れた大地の下で、同じ光が順に灯っていく。

 七つ目の環が完成した瞬間、スペルビアの底部から青い水の光が伸びた。


 イーラへ。

 五つの島へ。

 七本の流れが雲海の上を渡り、大地と大地を結んでいく。

 それは、空を覆うほど巨大な星図にも見えた。


『七島、相対位置を固定!』


『第二段階――帰還地照合を開始!』


 空域保全本部の報告と同時に、七島の前方へ水の地図が広がる。

 数千年前の大陸南部。

 現在の河川と湖。

 失われた古代の座標へ、現代の測量線が重なっていく。

 欠けた帰りの環を、ルミナスの魔導回路が補っていた。


『地上照合、継続!』


『全島、水平移動を確認!』


 七島が、ゆっくりと動く。

 落ちているのではない。

 空へ押し戻されているのでもない。

 かつて切り離された大陸南部へ。

 後にヴァルディア王国が築かれた、同じ故郷へ。

 七つの大地が、自ら進む方向を選んでいた。


『帰るのね』

 傍らへ浮かぶセレスが、静かに呟く。


「まだ、地上へ降りたわけじゃない」


『ええ』


 帰還地点の照合。

 七島の移動。

 そして、すべての浮遊機関を使い切る最終降下。

 やるべきことは、まだ残っている。

 それでも。

 七島はもう、互いを切り捨てるために繋がっているのではなかった。

 古代の《天水脈》だけでもない。

 ルシアンが六島を支えた。

 ノアがイーラを繋いだ。

 カサンドラたちが、最後の一人まで救い上げた。

 評議会が、空へ留まり続けるための機関を手放すと決めた。

 異なる場所で、異なる役割を担った者たちの意志が。

 七つの大地を、同じ未来へ向けて動かしている。

 俺は刀の柄へ手を添えた。

 鍔元で鳴った、細い音が蘇る。

 今は、抜かない。

 次に刃を振るう時までに、確かめなければならない。

 だが、目を向けるのは刀ではなく、その先だった。


 雲海の彼方。

 まだ見えない地上へ向かい、七つの光が進んでいく。

 七つの大地は、空に留まるためではなく、自分たちの意志で地上へ帰るために――数千年ぶりの一歩を踏み出した。

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