第49話 帰還の条件
『果たせなかった帰還を――今度こそ始めようとしているのよ』
セレスの言葉と重なるように、七枚の石環が青い光を放った。
一つ目の環に刻まれていた古代文字が、端から順に水へ溶けていく。
『流量均衡、完了』
七本の水が、同じ太さで脈打った。
中継器の向こうから、空域保全本部の報告が届く。
『七島の高度差、測定誤差内まで縮小!』
『スペルビア、イーラ、外縁五島――全島、同一高度へ到達しました!』
球形空間を揺らしていた振動が、僅かに弱まる。
だが、止まったわけではない。
足元から伝わる感覚は、長く、緩やかに沈み続けている。
「下降速度は」
ルシアンが尋ねる。
「全島、揃ってます」
ノアは測定器へ七本の波形を重ねた。
「でも、下がったままです。第一段階が終わっても、高度は戻ってません」
「現在の高度で均衡させることが目的ではなかった、ということですね」
七島は揃った。
イーラだけが先に落ちる危機は、ひとまず避けられた。
それでも、七つの大地すべてが地上へ向かっている事実は変わらない。
「退避状況はどうですか」
俺が尋ねると、ノアが別の表示を開いた。
「イーラ全域で九十一パーセント。西側職員居住棟に残ってる人も、港へ移動を始めてます」
続いて、画面の端へ表示された時刻を確認する。
「補助浮遊機関の安全限界まで、残り三十九分です」
第一段階によって落下速度が抑えられた分、予測は僅かに延びている。
だが、余裕と呼べる時間ではない。
六島でも、全住民へ退避準備が発令されていた。
工場は停止。
空中魔導列車も運行を休止。
住民は荷物を最小限にまとめ、各区画に設けられた広場と港へ集まり始めている。
一島を救えば終わる状況ではなくなった。
「第一段階の次があるはずです」
ルシアンが、欠けた二つ目の石環へ近づく。
青い女性の人影も、中央の水球から両手を離した。
長い髪を漂わせながら、ルシアンの横を通り過ぎる。
足音はない。
人影の輪郭から零れた水滴だけが、石床へ落ちる前に消えていく。
青い指先が、二つ目の石環へ触れた。
環の表面に残された古代文字が、一つずつ灯り始める。
『第二段階』
セレスが読み上げる。
『帰還地照合』
「地上へ降ろす場所を確かめる工程ですね」
俺の言葉に、ルシアンが頷く。
「七島の現在位置と、古代機構が記憶している帰還地点を照合する。おそらく、その結果に合わせて横方向の移動と降下経路を決めます」
石環の光が半周する。
青い文字が次々に水へ変わり、中央の水球へ吸い込まれていく。
その内部へ、地上らしき輪郭が浮かび上がった。
河川、山脈、七つの窪み。
水の記憶で見た、大陸南部の陥没地帯だ。
だが、最後まで形を結ぶことはなかった。
光が、石環の欠けた部分で止まる。
水球に浮かんでいた地形も、端から崩れ始めた。
『帰還地――照合不能』
「やっぱり、欠損が原因ですか」
ノアが石環へ測定器を向ける。
ルシアンはすぐに答えなかった。
欠けた石の断面へ照明を当て、内部を走る細い溝を追っていく。
古い水路は、環の途中で途切れている。
その先にあるのは、古代の石ではなかった。
黒い金属。
何本もの太い導線を束ねた、現代の供給幹線が石環を貫いている。
「ノア技師。スペルビア中央主機の構造図を」
「はい」
ノアが測定器から立体図を展開する。
金色で描かれた現代の浮遊機関。
青色で描かれた《天水脈》の中枢。
二つを重ねると、黒い供給幹線が、二つ目の石環を斜めに横切った。
ノアが息を呑む。
「欠けたんじゃない……」
指先で立体図を拡大する。
「ここに、中央主機の供給路が通ってます」
数千年前に造られた石環。
その存在を知らなかった後世の技師たちは、スペルビアの巨大浮遊機関へ魔力を送るため、古代の帰還経路を削っていた。
壊れた石の代わりに、金属の管と魔導回路を通した。
《天水脈》を流れる魔力を利用しながら、その流れが何のために残されていたのかを知らないまま。
「俺たちが、塞いだ……」
ノアの声が掠れる。
「あなたが行ったことではありません」
ルシアンが告げる。
「当時の技師たちは、《天水脈》の存在を知らなかった。測定できる高密度魔力へ、最も効率のよい供給路を通しただけです」
「でも、今も使ってます」
ノアは石環を貫く黒い金属を見つめた。
「知らなかったで終わらせたら、また同じになります」
ルシアンは、僅かに目を細める。
「ええ。だから、ここから先は私たちの責任です」
◇
空域保全本部から、地上測量の第一報が届く。
中央の水球へ、現在の大陸南部を示す立体地図が重ねられた。
水の記憶に残されていた地形とは、あまりにも違う。
七島が抜けた跡にあった巨大な陥没地帯は、長い年月の中で水を湛えている。
幾つもの湖と湿地。
海へ続く河川。
崩れた山から運ばれた土砂が堆積し、浅い平野へ変わった場所もある。
古代にはなかった森や集落も確認された。
地脈そのものも、数千年前とは位置を変えている。
「古代座標との誤差を算出」
ノアが二つの地形を合わせようとする。
しかし、一つの川筋を重ねれば山がずれる。
陥没地帯を合わせれば、七島の外縁が現在の地表へ食い込む。
「駄目です。このまま昔の位置へ戻したら、島同士が重なる場所があります」
「帰りの環が、現在の地形を再測定できれば」
俺が言うと、ルシアンは二つ目の石環を見た。
「本来は、そのための第二段階でしょう。ですが、照合経路は中央主機の供給幹線によって分断されています」
「供給幹線を外せば、元に戻せませんか」
「失われた石環まで復元する必要があります。構造も術式も分からない状態では、数日でも不可能です」
残されているのは、三十九分にも満たない時間。
古代機構を完全に直す余裕はない。
球形空間へ、再び低い振動が響いた。
現代の供給幹線から、金属が軋む音が伝わってくる。
立体図の中で、二つの力が反対方向へ伸びていた。
《天水脈》は、七島を地上へ降ろそうとしている。
現代浮遊機関は、高度の低下を異常と判断し、大地を空へ押し戻そうとしている。
今は評議会の緊急命令によって、六島の主機出力が抑えられている。
だから、均衡は保たれていた。
だが、第二段階が始まり、七島が帰還地点へ向けて横移動を始めれば、現代浮遊機関の自動制御が反応する。
古代の水は地上へ。
現代の機関は空へ。
二つの力に上下から引かれれば、大地そのものが耐えられない。
「島体の予測応力を表示します」
ルシアンが解析板へ数値を入力する。
七島の立体図へ、赤い線が走った。
建物の亀裂ではない。
地中深く。
島を一つの大地として繋いでいる岩盤に、幾つもの断裂予測が浮かんでいる。
「《天水脈》だけを直しても、帰還はできません」
ルシアンの声が、静かに響く。
「私たちが造った浮遊機関を、帰還工程へ組み込む必要があります」
「組み込むって、どうやって……」
ノアが呟く。
答えを探すように、現代と古代の立体図を何度も回転させる。
中央主機の供給幹線。
欠けた二つ目の石環。
七島を巡る《天水脈》。
各島の底部へ組み込まれた主浮遊機関と、外縁へ配置された補助浮遊機関。
一つずつの構造を見ていたノアの手が、突然止まった。
「統括」
「何ですか」
「中央主機の供給幹線を、外さずに使えませんか」
ルシアンの視線が、立体図へ向く。
「続けてください」
「古代の流れを戻すんじゃなくて、ここから現代の制御回路へ渡すんです」
ノアが、欠けた石環と黒い供給幹線を一本の線で結ぶ。
「二つ目の環が知ろうとしてるのは、今の地形と七島の位置ですよね。だったら、空域保全本部の測量結果を中央主機へ入れて、供給幹線から《天水脈》へ返せばいい」
「現代の測量網を、失われた照合経路の代わりにする」
「はい」
返事をした後、ノアは自分の言葉に驚いたように立体図を見つめた。
それでも、手は止めない。
「主機も、止めるんじゃなくて使い方を変えます」
七島の下へ、上向きの力が表示される。
「これまでは、落ちないように大地を押し上げてた。でも、出力を全部切ったら、《天水脈》だけで重さを支えることになる」
上向きの矢印が細くなる。
代わりに、島の外縁へ幾つもの小さな矢印が現れた。
「主機は、下降速度に合わせて出力を落とす。補助機関は島の傾きと横移動を制御する。地上へ近づいたら、七島の蓄積魔力を浮遊板へ一斉に流して、最後の減速に使う」
「空へ留まるためではなく、地上へ降りるための制動機関にするのですね」
「できると思います」
ノアは一度言葉を切った。
「……違う。今の回路なら、できます」
ルシアンが、提案された経路を解析板へ取り込む。
膨大な数の術式が展開された。
出力配分。
七島の重量差。
下降速度。
横方向の推力。
《天水脈》から送られる水属性魔力と、現代浮遊機関の変換効率。
計算結果の幾つかは赤く弾かれる。
ノアが即座に補助機関の担当範囲を狭めた。
次の結果では、スペルビアの主機へ負荷が集中する。
ルシアンが七島の蓄積魔力を均等に分け直した。
二人の指が、同じ立体図の上を行き交う。
赤い表示が、一つずつ黄色へ変わっていく。
最後まで残ったのは、七島の主浮遊機関を示す警告だった。
「最終減速時の負荷、許容値を超えます」
ルシアンが告げる。
「積層魔導環は」
「焼損します。出力変換炉も、全基が再使用不能となる可能性が高い」
「補助機関は?」
「姿勢制御を最後まで続ければ、残りません」
ノアの手が止まった。
成功したとしても、七島の浮遊機関はほぼすべて失われる。
修理して、もう一度空へ戻れる程度の損傷ではない。
数百年をかけて改良されてきた主機。
島の下層を埋める巨大な魔導回路。
ルミナスの交通も、工業も、空域防衛も支えてきた国家の心臓。
それを、一度の帰還で使い潰す。
「別の方法を探しますか」
ルシアンが尋ねた。
ノアは立体図の中で回る七基の主機を見つめている。
やがて、ゆっくりと首を横へ振った。
「島が残るなら、機関は造り直せます」
自分に言い聞かせる声ではなかった。
「でも、島が割れたら、俺たちの技術じゃ直せません」
ルシアンが、小さく頷く。
「この案を、帰還制御案として最高評議会へ提出します」
◇
最高評議会の緊急回線が開かれる。
中央に議長。
その左右へ、複数の評議員と各部門の責任者が映し出された。
空域保全本部からは、カサンドラ。
中央ギルド支部からは、ヴィオラ。
七島の立体図を囲むように、幾つもの通信画面が球形空間へ並んだ。
ルシアンは、帰還制御案を最初から説明した。
欠けた古代術式を、現代の測量網と魔導回路で補うこと。
七島の主浮遊機関を、上昇ではなく降下制御へ使うこと。
最終減速と引き換えに、すべての浮遊機関を失うこと。
説明が終わると同時に、評議員の一人が口を開いた。
『安全な帰還地点すら、まだ確定していないのでしょう』
「はい」
『その段階で、七基すべての主機を焼損させる案を承認することはできません』
別の議員が続く。
『浮遊機関は、ルミナスの国家基盤です。仮に地上へ降りられたとしても、交通、物流、空域防衛のすべてを失う』
『王国大陸へ降りれば、地上国家との関係も変わります。空へ戻る手段を失った状態で、連合の独立をどう守るのですか』
反対意見は、間違っていない。
七島が地上へ降りれば、それまでと同じ暮らしは続けられない。
島同士を繋いでいた空中魔導列車は止まる。
海や大地の形によっては、七島が離れた場所へ降りる可能性もある。
肉や魚を輸入し、工業製品を輸出してきた流通経路も失われる。
何より、空にあるという事実そのものが、ルミナスを他国から切り離し、守ってきた。
地上へ降りることは、ただ高度を失うことではない。
数千年続いた国の形を失うことだった。
「現代浮遊機関を維持したまま、帰還工程を停止する方法はありません」
ルシアンが告げる。
「帰還を続ければ、古代機構と現代機構が衝突する。停止を選べば、欠損した《天水脈》が再び均衡を失う可能性があります」
『成功率は』
議長が尋ねた。
「算出できません」
ルシアンは、僅かにも誤魔化さなかった。
「古代機構が第二段階以降にどのような制御を行うか、すべては判明していない。七島規模の同時降下も、現代浮遊機関の全出力を使った減速も、前例がありません」
『では、何を根拠に提案していますか』
「現時点で確認できる構造と、測定できる数値です」
七島の断裂予測が、全員の画面へ送られる。
「何も行わなければ、帰還工程と浮遊維持機能は衝突します。第二段階への移行後、島体が耐えられる保証はありません」
ルシアンの左手が、帰還制御案へ触れた。
「この案だけが安全だとは申し上げません」
一度、言葉を切る。
「ですが、七島すべてを救う可能性を残したまま、現在の衝突を回避できる案は、これだけです」
議長はしばらく何も言わなかった。
次に、ノアへ視線を向ける。
『ノア・ヴェイン保守技師』
「は、はい」
突然名を呼ばれ、ノアの背筋が伸びる。
『この案を最初に提示したのは、あなたですね』
「はい」
『現場技師として、七島の浮遊機関を失うことをどう考えますか』
ノアはすぐに答えられなかった。
測定器へ視線を落とす。
そこには、自分が何度も整備してきた機関の構造が表示されている。
「……惜しいです」
正直な言葉だった。
「俺が造ったものじゃないです。でも、昔の技師が造って、直して、その次の技師がもっとよくしてきたものです」
ノアは顔を上げた。
「壊さないで済むなら、その方がいいに決まってます」
それでも、立体図から目を逸らさない。
「だけど、機関は大地を守るために造られたんだと思います」
少し不器用な言葉が、静かな評議会へ響く。
「空にいるために島が壊れるなら、使い方が逆です」
通信の向こうで、カサンドラが僅かに目を伏せた。
「壊れた機関なら、俺たちがまた造ります」
ノアは、今度こそ迷わず言い切った。
「だから、島と、そこにいる人を、未来へ残してください」
議長が長く息を吐く。
背後の窓から、スペルビアの街が見えていた。
高く伸びた硝子の建物。
空中を渡る連絡橋。
雲海の上に築かれた、空の国。
そのすべてを一度見渡した後、議長は正面へ向き直った。
『切り捨てるのは、イーラではありません』
誰も言葉を挟まない。
『そこに暮らす人々でもありません』
議長の手が、七島の立体図へ触れる。
『私たちが空へ居続けるために造った――七基の浮遊機関です』
静かな声だった。
だが、その決断は七島すべてへ届いた。
『ルミナス魔導連合は、帰還制御案を採用します』
反対意見を述べていた議員たちも、目を逸らさない。
『七島の主機および補助機関を、帰還工程へ接続。最高評議会、空域保全本部、中央浮遊機関管理局は、必要な権限をクロイツ統括技師へ移管してください』
「承知しました」
『ヴィオラ支部長』
『はい』
『六島の退避誘導を、引き続きギルドへ要請します。地上への降下後を想定し、食料、医薬品、飲料水を各避難区画へ分散してください』
『承りました。島が空にあろうと地上にあろうと、ギルドの仕事は変わりません』
ヴィオラは、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
『人と荷物の流れは、こちらで整えます』
『カサンドラ総監』
『空域保全隊は、イーラの救助を継続しています』
カサンドラが先に答えた。
『帰還制御へ移行するまでに、残る住民を運び出します。六島の上空にも誘導艇を配置します』
『お願いします』
議長は全員へ向き直る。
『私たちの国は、空にあるから国なのではありません』
七つの光が、その背後へ浮かぶ。
『七つの大地と、そこに生きる者が残る限り、ルミナスは続きます』
緊急回線が、各部門の作業回線へ切り替わった。
数千年もの間、空へ留まり続けた国が。
初めて、自らの意思で地上へ降りることを選んだ。
◇
ルシアンとノアが、七島の主機へ帰還制御を送る。
最初に、スペルビアを示す光。
続いて、その周囲に浮かぶ五島。
六つの島を示す光が、順に青色へ変わっていく。
最後まで残ったのは、イーラだった。
灰色の光から、反応が返らない。
「再送します」
ノアが接続を試す。
結果は同じだった。
『接続経路なし』
「中央側の中継器を切り替えます」
ルシアンが別の経路を開く。
それでも、イーラの主機は応答しない。
やがて、銀縁眼鏡の内側へ停止記録を呼び出したルシアンが、僅かに眉を寄せた。
「基幹変換炉を停止した際、自動接続を遮断しています」
「逆流を防ぐために、俺が切った回路です」
ノアが答える。
少し前、イーラの基幹変換炉を止め、《天水脈》を残る六島へ戻した時。
停止した変換炉が外部から再起動されないよう、中央との自動接続を切り離していた。
その判断が間違っていたわけではない。
あの時、回路を残していれば、変換炉が再び《天水脈》を吸い上げていた可能性がある。
だが今は、その遮断によって帰還制御を送れない。
「イーラだけ、手動で切り替える必要があります」
ノアが構造図を開く。
第三工業区。
先ほどまで俺たちがいた下層管理室。
基幹変換炉を停止した制御盤の隣に、補助浮遊機関の独立回路が残っている。
「ここなら、中央との接続を切ったまま、補助機関の制御だけ書き換えられます」
「主機が停止した状態で、帰還工程へ同期できますか」
俺が尋ねる。
「主機の代わりに、残ってる蓄積魔力を使います。イーラは最後の減速まで主機出力を使えない。その分は、六島から《天水脈》を通して補うしかないです」
「負担は増えますね」
「でも、できます」
ノアが断言する。
「手動で帰還制御へ変えて、同期信号を中央へ返せば、第二段階を始められます」
イーラの退避状況が更新された。
九十三パーセント。
残っているのは、西側職員居住棟から港へ向かう住民。
第三工業区で設備停止を続けている作業員。
昇降機を使えず、地上通路を移動している負傷者と救護班。
帰還制御へ変更するだけではない。
残された者たちを救いながら、下層管理室まで辿り着かなければならない。
「私が向かいます」
ルシアンが告げる。
だが、ノアがすぐに首を横へ振った。
「統括はここに残ってください」
「ノア技師」
「七島全部の同期を取れるのは、統括だけです」
ノアの視線が、治療布の巻かれた右手へ向く。
「それに、その手で下層管理室まで戻っても、細かい配線は触れません」
ルシアンの右手は、今も完全には閉じていない。
《試作ウルカーヌス》の反動によって、指先には震えが残っている。
「現場の回路は、俺が分かります」
ノアは折り畳まれた戦斧と工具鞄を持ち上げた。
「行かせてください」
ルシアンは答えず、ノアを見つめる。
若い保守技師。
旧水路の異常を最初に見つけた時は、報告するべきか迷っていた。
自分の考えに確信を持てず、敬語さえ何度も言い直していた。
そのノアが今は、七島を降ろす方法を自分で考え、統括技師へ現場を任せてほしいと告げている。
「帰還制御への変更手順を、説明してください」
ルシアンが言う。
ノアは僅かに目を見開き、それから測定器を開いた。
遮断回路の確認。
補助機関の自動高度保持を停止。
中央から送られた帰還制御を、独立回路へ手動で入力。
同期信号を《天水脈》中枢へ返す。
一つでも順序を誤れば、補助機関が緊急停止する。
ノアは途中で詰まることなく、すべての工程を説明した。
ルシアンが最後の手順を確認し、小さく頷く。
「イーラの手動変更を、ノア・ヴェイン保守技師へ任せます」
「……はい!」
「私はここで、六島の主機と《天水脈》中枢を同期させる。あなたから信号が届き次第、第二段階へ移行します」
「分かりました」
「ただし、時間を越えた場合は」
「分かってます」
ノアは途中まで言ってから、言い直した。
「承知しています」
その返事に、ルシアンの口元が僅かに緩んだ。
「俺も行きます」
二人の視線が、こちらへ向く。
「ノアさんを、下層管理室まで送り届けます」
「レグルスさん」
ノアが何かを言おうとする。
「制御は俺にはできません。ですが、途中で通路が崩れていても、魔物が現れても、道を作ることはできます」
腰の刀へ手を添える。
「それに、まだ住民と作業員が残っています。救助にも人手が必要です」
「危険性は理解していますか」
ルシアンが尋ねる。
「はい」
「イーラが帰還制御へ切り替わらなければ、第二段階は開始できません。ですが、安全限界を越えてまで待つこともできない」
「承知しています」
ルシアンの言葉は、見捨てるという意味ではない。
残る六島と、イーラにいる人々。
すべてを救うために使える時間には、限りがある。
俺は、その条件から目を逸らさずに頷いた。
『一人で行く、とは言わないのね』
傍らへ浮かぶセレスが、静かに尋ねる。
「さっき約束したばかりだからな」
『約束を覚えていたことは褒めてあげるわ』
「信用してなかったのか」
『ええ、あまり』
「正直だな」
『それでも、今回は一緒に行くのでしょう』
「もちろんだ」
セレスが、いつもの位置へ戻る。
背中に触れた表紙から、温かな魔力が伝わった。
『なら、私も手伝うわ』
前代の獅子は、一人で魔物の群れへ向かった。
誰かを守るために、自分が傷つくことを選んだ。
その背中は、今も胸に残っている。
だが、同じである必要はない。
俺にはセレスがいる。
ノアがいる。
残る六島を支えるルシアンと、空で人々を救い続けている者たちがいる。
すべてを一人で背負わなくても、同じ場所へ刃を向けることはできる。
◇
役割が、次々に決まっていく。
ルシアンはスペルビアの《天水脈》中枢に残り、六島の主機と帰還工程を同期させる。
ノアはイーラへ戻り、第三工業区の下層管理室で補助浮遊機関を手動変更する。
俺とセレスは、その護衛と残された者たちの救助。
カサンドラは救助艇部隊を率い、イーラの港と西側職員居住棟へ。
ヴィオラはギルドを通じ、六島の退避準備と物資の分散を続ける。
誰か一人が、七島すべてを救うわけではない。
異なる場所で。
異なる役割を担い。
七つの大地を、一つの目的へ繋いでいく。
球形空間を出る直前、青い女性の人影がこちらへ顔を向けた。
目も口もない輪郭。
それでも、水の記憶で見た初代国王の金色の瞳が、そこにあるように感じた。
「必ず、七つとも繋ぎます」
返事はない。
人影は二つ目の石環へ手を添え、途切れた光を支え続けていた。
◇
旧第五整備区画の臨時発着場へ戻ると、緊急整備艇はすでに用意されていた。
扉の前で、ルシアンが小型の銀色端末をノアへ渡す。
「帰還制御の位相鍵です。下層管理室の独立回路へ接続してください」
ノアは両手で受け取り、工具鞄の内側へ固定した。
「同期信号は、一度しか送りません」
「一度で十分です」
「失敗した場合」
「予備回路へ切り替えて、もう一度送ります」
ルシアンは僅かに眉を上げる。
「一度しか送らないのでは」
「最初の一度は、失敗しません」
ノアは気まずそうに視線を逸らした。
「でも、何が起こるか分からないので、準備はします」
「正しい判断です」
短いやり取りを終え、ルシアンが俺へ向き直る。
「レグルスさん。ノア技師をお願いします」
「はい。必ず、一緒に戻ります」
「帰還信号の送信後は、下層管理室に留まらないでください。第二段階が始まれば、島体の移動方向が変わる可能性があります」
「分かりました」
整備艇へ乗り込もうとした時、通信機へカサンドラの姿が映る。
『ノア』
総監としての硬い声ではなかった。
ノアが足を止める。
「母さん」
『下層管理室へ戻るそうだね』
「うん」
短い返事。
その後に何を言えばいいのか、ノアも分からないようだった。
カサンドラは一度目を閉じる。
次に開いた時には、空域保全総監の顔へ戻っていた。
『こちらは西側職員居住棟の救助を終え次第、第三工業区へ向かいます』
「分かった」
『それから』
一瞬だけ、声が柔らかくなる。
『必ず帰ってきな』
ノアは、工具鞄の肩紐を強く握った。
「母さんも」
『当然だよ』
通信が切れる。
整備艇の扉が閉じた。
機体が浮かび上がる。
窓の外で、スペルビアの臨時発着場が遠ざかっていく。
硝子の建物。
白い石造りの街。
青い誘導灯に従い、避難区画へ移動する人々。
その下では、七島を繋ぐ水が地上へ向けて流れ続けている。
「イーラ到着まで、七分」
操縦士が告げる。
ノアは座席へ固定した工具鞄を開き、位相鍵と予備部品を確かめ始めた。
俺も刀の鯉口を切り、セレスの位置を確認する。
『無茶はしないことね』
「分かってる」
『ノアさんを守ることと、自分を勘定から外すことは別よ』
「それも分かってる」
『本当に分かっているならいいのだけれど』
窓の向こうに、イーラが見えてくる。
工場の灯りを失った、巨大な黒い大地。
その周囲には、今も無数の救助艇が飛び交っていた。
港から離れた艇が、避難者を乗せてスペルビアへ向かう。
空いた空路へ、次の艇が降りていく。
退避率は九十五パーセント。
補助浮遊機関の安全限界まで、残り三十四分。
間に合う。
そう思った直後。
整備艇の警報が鳴った。
「前方空域、急激な魔力上昇!」
操縦士が制御桿を倒す。
機体が大きく右へ傾いた。
窓の向こうで、イーラの外縁に残されていた赤い警告灯が、一斉に点灯する。
一基。
二基。
島の底部で、停止していたはずの補助浮遊機関が次々に動き始めた。
「なんで……」
ノアが測定器を掴む。
表示された文字を見た瞬間、顔色を変えた。
「緊急高度保持です!」
「帰還工程に反応したのですか」
「中央との接続が切れてるから、イーラだけ帰還制御を受け取ってない!」
《天水脈》は、七島を同じ速度で地上へ降ろそうとしている。
だが、イーラの現代浮遊機関には、その目的が伝わっていない。
登録された高度から一定以上低下したことで、自動機能が異常落下と判断した。
空へ留まろうとする機関が、独断で目を覚ました。
「基幹変換炉は止まってるんですよね」
「はい。だから、補助機関が蓄積魔力を直接使ってます」
ノアが島体の出力分布を呼び出す。
左右で、数値が揃っていない。
第三工業区側の機関は、停止工程の影響で出力が遅れている。
反対側の外縁機関だけが、先に島を押し上げていた。
イーラの輪郭が、ゆっくりと傾く。
最初は、目の錯覚に思えるほど僅かだった。
だが、島の上に残された煙突が斜めへずれていく。
港の誘導灯が一直線ではなくなる。
固定の外れた資材が工場の通路を滑り、外壁へ叩きつけられた。
『イーラ、島体傾斜二度を突破!』
救助艇が次々に港から離れる。
着地していた機体は避難者を乗せたまま緊急上昇。
接近中の飛行艇は進路を変え、傾いていく外縁を回避する。
『三度! 第三工業区側の高度低下、継続!』
島の片側は、現代浮遊機関によって押し上げられる。
もう片側は、《天水脈》に従って降下する。
七つで一つに揃ったはずの流れが、イーラだけを捻り始めていた。
「補助機関を止められませんか」
「中央からは無理です。下層管理室へ行くしかない!」
測定器の残り時間が消える。
新たな出力と傾斜を取り込み、再計算が始まった。
数秒後。
表示された数字は、先ほどまでの半分近くまで減っていた。
「補助機関の安全限界、再算出――残り十八分!」
『島体傾斜四度を突破!』
緊急回線へ、カサンドラの声が響く。
『全艇、イーラへ!』
通信の向こうで、幾つもの返答が重なった。
『港へ降りられない艇は、外周道路と工場屋上を使いな!』
『残ってる連中を、一人も置いていくんじゃないよ!』
整備艇が、再び大きく旋回する。
傾いたイーラの第三工業区へ機首を向けた。
窓の向こうで、島の底部から不揃いな青白い光が噴き出している。
それは、空へ留まろうとする力だった。
人々の暮らしを守るため、長い年月をかけて造られた機関。
その機関が今は、《天水脈》と大地を奪い合っている。
空へ留まるために造られた機関が、今は地上へ還る道を拒むように唸っていた。




