表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第四章 墜落する果てなき傲慢
PR
51/86

第48話 水の記憶

『いつか七つの島を――地上へ降ろすためよ』

 セレスの言葉が、球形空間の奥へ消えていく。


 七枚の石環は回り続けていた。

 六本から一つへ。

 一つから七本へ。

 青い水が巡るたび、足元から大地を揺らす低い音が響く。

 中継器の向こうでは、空域保全本部からの報告が絶えない。


『スペルビア、下降を継続!』


『外縁五島も同じです。全島、ほぼ同一速度で下降!』


『イーラの落下速度は減少しています!』


 六島まで降ろす代わりに、イーラだけが落ちる速度を抑える。

 目の前で起きている現象は、セレスの言葉と一致していた。

 だが、理由が分かったわけではない。

 ルシアンは制御楔を第二固定点へ当てたまま、焦げ茶色の本へ視線を向ける。


「説明していただけますか」

 声は静かだった。


「《天水脈》を造った者と、その目的。そして、なぜセレスさんが知っているのか」

 

 セレスの頁が、微かに震える。


『ええ』


「その前に、俺からも聞かせてくれ」

 表紙へ置いた手を離さず、尋ねる。


「いつから知ってた?」


『すべてを知っていたわけではないわ』


「それでも、何かには気づいてたんだろ」


 短い沈黙の後、セレスは答えた。


『王都で、水瓶宮の封印が解かれた時からよ』


 脳裏に、王都ヴァルエストの地下で見た光景が蘇る。

 崩れた封印区画。

 蠍の契約者。

 そして、解き放たれた正体不明の何か。


『あの時、水瓶宮の力が遠くへ流れ始めたのを感じた。でも、どこへ向かったのかまでは分からなかったわ』


「ルミナスに来てからは?」


『《天水脈》という名を聞いた時、もしかしたらとは思った。青い残響を見た時には、その疑いが強くなったわ』


 セレスが、暗い水路の前に立つ人影へ向く。

 水中を漂うような長い髪、女性らしい細身の輪郭。

 そして、左手首で重なる三枚の環。


『でも、確信したのは今よ。あの三重環を見て、ようやく分かった』


『ただ、数千年を経た今も帰還機能が生きているのか、ルミナスの機関がどこまで《天水脈》へ入り込んでいるのかまでは知らなかったわ』


「それを、どうしてすぐに言わなかった」


『確証のない記憶で、あなたを動かしたくなかったの』


「違う」

 思ったよりも低い声が出た。


 セレスの頁が止まる。


「俺がどう動くかを、セレスが先に決めないでくれ」


『レグルス……』


「俺なら、七島全部を助けようとすると思ったんだろ」


 答えはない。

 それだけで十分だった。


「だから、確かめられるまで黙ってた」


『……ええ』


「確証がないなら、そう言ってくれればいい。間違ってるかもしれないって、最初から話してくれればよかった」


 声を荒らげているわけではない。

 それでも、胸の奥には抑えきれないものがあった。

 セレスは、俺がこの世界で最も信頼している相棒だ。

 だからこそ、俺を守るためという理由で一人だけ過去を抱え込んでいたことが、苦しかった。


「俺が無茶をするかもしれないことは、理由にならない」

 表紙へ触れる指に力が入る。


「セレスが、一人で全部を抱えていい理由にはならない」


『……ごめんなさい』

 謝罪は小さかった。

 その言葉へすぐに何かを返すことはできなかった。

 怒っている。

 けれど、セレスを責めたいわけではない。

 俺自身にも、その違いをうまく言葉にできなかった。


「レグルスさん」

 ルシアンが、俺たちの間へ静かに声を挟む。


「話を急かすことは本意ではありません。しかし、イーラの補助機関が安全限界を迎えるまで、残り四十五分を切っています」


「……すみません」


「謝る必要はありません。ですが、今は判断に必要な情報を優先させてください」


「分かりました」


 セレスも頁を一度だけ鳴らした。


『言葉だけでは、信じられないと思うわ』


 セレスが、俺の手から離れる。


『だから、あの残響に見せてもらいましょう』


「何をですか」

 ノアが尋ねる。


 セレスは、球形空間の中央に浮かぶ透明な水球へ向いた。


『水が覚えているものを』


                 ◇


 青い人影が、途切れた水路から手を離す。

 長い髪が、水のない空間でゆっくりと広がった。

 顔には目も口もない。

 それでも、セレスを見つめているのが分かった。

 

 セレスの表紙に刻まれた獅子座が、金色に灯る。

 人影の左手首で、三枚の環が応えるように回転した。


 一枚。


 また一枚。


 三枚の環が手首から離れ、異なる角度で透明な水球を囲む。

 中央の水が震えた。


「魔力密度が上昇!」

 ノアが測定器を構える。


「下がってください」

 俺は二人の前へ出て、柄へ手を掛けた。

 だが、水球から溢れたものに敵意はなかった。


 一滴の水が、空気の中へ浮かぶ。

 続いて、二滴。

 三滴。

 無数の水滴が球形空間へ広がり、俺たちを囲んでいく。


 冷たくはない。

 触れた感覚さえない。

 ただ、水滴の一つ一つに、見たことのない空と大地が映っていた。


『あれは、初代国王本人の魂ではないわ』

 セレスの声が、遠くなる。


『《天水脈》が、最後の契約者だった彼女の姿と、与えられた役目を記憶しているの』


 視界を水が覆う。

 回転していた石環が消えた。

 足元の感覚も、警報音も遠ざかる。


 次の瞬間。

 俺たちは、知らない大地の上に立っていた。


                 ◇


 空が、裂けていた。

 雲を貫く紫色の光。

 幾重にも重なった黒い亀裂。

 亀裂の向こうでは、昼とも夜ともつかない暗い光が明滅している。

 大地が鳴動するたび、山の稜線が崩れ、森が波のように揺れた。

 遠くに見える都市では、石造りの塔が根元から折れていく。

 河川は岸を越え、傾いた街路へ濁流となって流れ込んでいた。

 地面に走った亀裂からは、炎ではない青白い魔力が噴き上がっている。


「これが……天変地異」

 ノアの呟きに、セレスが答える。


『ええ』

 声だけが、記憶の中に重なっていた。


『ただし、世界すべてを襲ったものではないわ』


 景色が高く引いていく。

 眼下に、一つの巨大な大陸が広がった。

 北には山脈。

 中央には平野と河川。

 そして南部では、青白い光が地脈に沿って網の目のように走っている。


『天変地異が起きたのは、後にヴァルディア王国が築かれる、この大陸だけよ』


「では、帝国やほかの大陸は」

 ルシアンが尋ねる。


『空や海の異常は観測されたでしょう。でも、大地そのものが引き裂かれたのはここだけ』


 大陸南部で、光が弾けた。

 地面が、内側から持ち上がる。

 一つではない。

 街を載せた大地。

 森と湖を抱えた大地。

 農地や村を載せた大地。

 七つの巨大な地塊が、周囲から引き剥がされていく。

 断ち切られた河川が、巨大な滝となって地上へ零れ落ちた。

 石橋が砕け、家々が傾く。

 逃げ惑う人々を載せたまま、七つの大地は空へ押し上げられていった。


「浮遊大陸は、誰かが造ったものではなかったのか……」

 ノアの顔から血の気が引いている。


『ええ。あの方が、大地を空へ上げたのではないわ』


 七つの地塊が、異なる角度で傾く。

 外縁から、建物や木々が地上へ落ち始めた。


『浮かんでしまった大地を、落ちないように繋ぎ止めたのよ』


 景色が切り替わる。

 崩れかけた都市の中央。

 濁流へ呑まれた大通りを、一人の女性が歩いていた。

 長い青色の髪。

 光を受け、鋭く輝く金色の瞳。

 背は高く、青いドレスの肩には赤いマントが掛けられている。

 石畳へ打ちつけられる赤いピンヒール。

 その左手首には、三枚の環が重なった白銀のブレスレットがあった。

 環の隙間を、小さな水滴が重力に逆らって巡っている。

 崩れた建物の下から、子供の泣き声が響いた。

 女性が駆け寄る。

 倒れた石柱へ細い両腕を添えた。

 青い水が腕へ纏わりつき、螺旋を描く。


「離れていてください」

 穏やかな声だった。


 次の瞬間。

 女性は石柱を素手で持ち上げた。

 その下から、母親が子供を抱えて這い出す。

 礼を告げる声を背に、女性は次の崩落へ向かう。

 地割れが足元へ走った。

 赤い踵が石畳を強く踏む。

 水の輪が地面へ広がり、亀裂の内部を一瞬で満たした。

 直後、流れ込んだ水が凍りつく。

 広がりかけていた地割れが、青白い氷によって縫い止められた。


「この人が……」


『後に、ヴァルディア王国の初代国王となる方』

 セレスの声に、僅かな懐かしさが混じる。


『そして、当時の水瓶宮契約者よ』


 瓦礫の向こうから、獣の咆哮が響いた。

 地脈から噴き上がる魔力に引かれたのか。

 あるいは、天変地異そのものによって生まれたのか。

 体表を岩で覆われた巨大な魔物が、傾いた建物を踏み砕きながら現れる。

 初代国王となる女性は、逃げ遅れた人々を背に庇った。

 金色の瞳から慈愛の色が消え、大地を踏み込んだ。

 赤い踵の下で、水が弾ける。

 一歩で魔物の懐へ潜り込み、水を纏った掌底を腹部へ叩き込んだ。

 鈍い衝撃が、大気を震わせる。

 岩の外殻が砕け巨体が浮く。

 返す脚で、女性は魔物の顎を蹴り上げた。

 足先から放たれた薄い水の刃が、空へ伸びる。

 魔物の身体が斜めに断たれ、切断面から凍りついた。

 

 一切の迷いがない。

 人々へ向けていた優しさと、敵へ向ける冷酷さ。

 その二つが、同じ金色の瞳の中にあった。

 だが、一体を倒しても終わらない。

 地鳴りとともに、街の外から無数の影が迫っていた。

 空へ浮かび始めた七つの大地。

 逃げ場を失った人々。

 そして、魔力の乱れによって凶暴化した魔物の群れ。

 女性が左手首の三重環へ触れる。

 その横へ、黒い影が降り立った。


                 ◇


 黒髪の青年だった。

 風に乱れた短い髪に瞳も黒い。

 東方の衣装に似た暗色の着流しは、泥と魔物の血で汚れている。

 腰には、反りのある片刃剣。

 装飾のない柄と、使い込まれた黒い鞘。

 その輪郭を見た瞬間、息が止まった。


 獅子宮第二階層。

 台座から引き抜いた、あの錆びた刀。

 腐食に覆われる前なら、このような姿だったのではないか。

 そう思うほど、よく似ていた。


 青年の腰の後ろには、もう一つ、見覚えのあるものが吊られている。

 今よりも傷が少ない、焦げ茶色の本。

 背表紙には獅子座の星。

 表紙には、吼える獅子の顔。


「セレス……?」

 俺の声に、宙に浮かぶ現在の本が小さく揺れた。

 記憶の中のセレスが独りでに開く。


『遅いわ』

 聞き慣れた声だった。

 今よりも少しだけ鋭く、それでも間違えようがない。


「一番遠い島から来たんだ。文句を言うな」


『途中で三回も道を間違えたでしょう』


「着いたなら同じだ」


『同じではないわ』


 青年はセレスの言葉を聞き流し、片刃剣を肩へ担いだ。

 水瓶宮の契約者が、空へ浮かび上がる大地を見上げる。


「七つの大地を繋ぎます」


「できるのか」


「分かりません」

 女性は迷いなく答えた。


「ですが、ほかに方法はありません。すべてを繋ぎ止めるには、時間が必要です」


「どれくらいだ」


「それも、分かりません」


 七つの地塊から、悲鳴と魔物の咆哮が重なって聞こえる。

 女性は左手首の三重環を握った。


「その間、私はここを動けません」


 青年は、一度だけ彼女を見た。

 次に、迫ってくる魔物の群れへ顔を向ける。

 片刃剣を肩から下ろし、鯉口を切った。


「なら、大地はお前が支えろ」


「ですが――」


「その上にいる奴らは、俺が守る」

 言い終える前に、青年は駆け出した。

 あまりにも短い。

 作戦も、役割の確認もない。

 自分が何をするかだけを決め、相手が止める前に動いている。


『……本当に、変わらないわね』

 現在のセレスが呟いた。


「あの人は、誰なんだ」

 答えは分かりかけていた。

 それでも、セレスの言葉で聞きたかった。


『あなたの前に、獅子宮に選ばれた人よ』


『当時、私は彼の契約物として、この天変地異の中にいた。《天水脈》が造られるところも、【無窮の水瓶】が七つの大地を繋ぐところも見ていたわ』


 だから、セレスは知っていた、数千年前の記録を読んだのではない。

 前代の獅子とともに、そのすべてを目の前で見ていたのだ。

 

 黒髪の青年が地面を蹴る。

 魔力が全身を巡った。

 だが、風にも火にも形を変えない。

 ただ身体を強く、速くするためだけに使われている。


『魔法は、驚くほど苦手だったわ』


 青年の前に、火の魔法陣らしきものが一瞬だけ浮かぶ。

 輪郭を結ぶ前に歪み、煙を一筋残して消えた。


「……やっぱり駄目か」


『この状況で試すことではないでしょう!』


「少しは使えるかと思った」

 言いながら、青年は笑っていた。


 直後。

 前方から飛びかかった獣型の魔物へ、鞘に収めたままの片刃剣を叩き込む。

 顎が跳ね上がる。

 空いた腹部へ、左の拳。

 身体を折った魔物の首へ肘を落とし、その反動で鞘から刃を抜いた。


 一閃。

 背後から迫っていた二体が、同時に斬り裂かれる。


 止まらない。

 右手には片刃剣。

 左手と両脚は、剣を振るうためだけのものではなかった。


 拳で弾き。

 蹴りで崩し。

 鞘で受け流し。

 最も短い動きで、刃を急所へ届かせる。


 四足の大型魔物が、岩の外殻を纏って突進してきた。

 青年は正面から踏み込む。


『左へ避けて!』


「それじゃ駄目だ、後ろに逃げ遅れた人達がいる」


 背後には、崩れた家から逃げようとする人々がいる。

 青年は片刃剣の峰を左腕で支え、魔物の角を受け止めた。

 足元の石畳が砕け身体が僅かに沈んだ。

 それでも、退かない。

 角を外へ弾き、懐へ潜る。

 柄頭を顎へ、膝を前脚へ。

 体勢を崩した巨体へ肩からぶつかり、最後に首を斬り上げた。

 噴き出した血を浴びながら、青年は次の魔物へ向かう。


 その戦い方は洗練されている。

 けれど、自分の傷を後回しにするところまで、どこか見覚えがあった。


『不器用な人だったわ』

 セレスの声が、すぐ傍で響く。


『誰かを見捨てるくらいなら、自分が傷つく方を選ぶ。何も言わず、一人で決めて、一人で背負おうとする』


「……俺と同じに見えたのか」


『ええ』


 否定してほしかったわけではない。

 ただ、その答えが胸へ重く落ちた。


『だから、怖かったの』


 記憶の中で、前代の獅子が魔物の群れへ斬り込んでいく。

 次第に、その姿は土煙と青い光の向こうへ小さくなった。

 名前は呼ばれない。

 その後、彼がどうなったのかも映らない。

 水の記憶に残されているのは、七つの大地を守るため、迷わず刃を抜いた背中だけだった。


                 ◇


 水瓶宮の契約者が、空へ向けて左腕を掲げる。

 三枚の環が手首から離れた。

 白銀の腕輪が、青い光を放ちながら巨大化していく。

 一枚は、地平と重なるように横へ。

 一枚は、空と大地を分けるように縦へ。

 残る一枚は、その二つを結ぶように斜めへ。

 三重の環が、天球儀のように回転を始めた。

 中心に、透明な水球が生まれる。

 器はない、底もない。

 それでも水球は膨らみ続け、その内部に海と雲、川と雨の光景が映り込んでいく。


「【無窮の水瓶】」

 女性が、その名を告げる。


 声に応え、最も内側の環が輝いた。


「源を満たし」


 大気に含まれていた水が集まる。

 遠い海から、蒸気となった水が空を渡る。

 大地の奥を流れていた地下水さえ、青い光となって環の中心へ引き寄せられた。

 集められた水から、濁りと毒、乱れた魔力が削ぎ落とされていく。


『一枚目は、源の環』

 セレスが告げる。


『世界中を巡る水へ触れ、集め、浄化するための環よ』


 次に、横向きの環が回る。


「巡りを結び」


 中央の水球から、七本の流れが放たれた。

 一本は、都市を載せた大地へ。

 一本は、森と湖を抱えた大地へ。

 七本の水は空を渡り、浮かび上がった地塊の奥深くへ突き刺さる。

 亀裂を満たし。

 傾きを測り。

 一つへ集めた力を、それぞれの重さに合わせて分け与えていく。


『二枚目は、巡りの環』


『七つの大地へ水と魔力を送り、すべてを一つの流れとして繋ぐための環』


 最後の一枚が、ゆっくりと動き始めた。


「帰るべき道を、ここに」


 七つの大地から地上へ、細い水の光が伸びる。

 浮かび上がった場所と、地上に残された巨大な陥没地帯。

 その二つを結ぶように、光の道が刻まれていく。


『三枚目は、帰りの環』

 セレスの声が、僅かに震える。


『浮かび上がった七つの大地を、いつか地上へ還すための環よ』


 三枚の環が重なった。

 七本の水が脈打つ。

 落下しかけていた七つの地塊が、同時に青い光へ包まれた。

 大きく傾いていた一島が、ゆっくりと水平へ戻る。

 別の一島から零れ落ちていた大地が、水の膜によって縁へ押し留められる。

 七つの高度が揃っていく。

 空へ押し上げる力ではない。

 落ちようとする大地を受け止め、互いの重さを分かち合い、同じ高さへ整える力。


 《天水脈》の原形が、俺たちの目の前で生まれていた。


「無限に水と魔力を生み出しているわけではない……」

 ルシアンが、回転する三重環を見つめている。


『ええ』

 セレスが答える。


『【無窮の水瓶】は、何もない場所から水を生み続けるものではないわ。世界を巡る水を集め、浄化し、流し、また巡りへ返す』


「枯れないのではなく、巡りを止めない」


『それが、無窮と呼ばれた理由よ』


 七つの大地が止まる。

 空に、初めて静寂が戻った。

 生き残った人々が空を見上げている。

 泣く者。

 抱き合う者。

 膝をつき、祈る者。

 水瓶宮の契約者は、巨大な三重環の下へ立っていた。

 長い青髪は乱れ、赤いマントは端を失っている。

 それでも背筋を伸ばし、人々へ告げた。


「ここは、空に築く新たな国ではありません」


 ざわめきが静まる。


「大地が静まるまで、皆様の命を守るための仮初めの場所です」


 金色の瞳が、地上へ向く。


「必ず、帰る道を残します」

 その言葉とともに、三枚目の環が淡く輝いた。


                 ◇


 だが、帰還の日は訪れなかった。

 水の記憶が、流れるように時を進める。


 一日。


 一月。


 一年。


 大陸を襲った天変地異は、次第に弱まりながらも終わらなかった。

 地脈は何度も揺れ、七島が抜けた南部には、巨大な陥没地帯と幾筋もの裂け目が残された。

 雨が降るたび、その窪地へ水が集まる。

 地上へ戻そうとしても、七つの大地を受け入れられる場所がない。

 僅かに位置を違えれば、大地同士が衝突する。

 早く降ろしすぎれば、残された街も人も衝撃に耐えられない。

 水瓶宮の契約者は、帰りの環を止めた。

 帰還を諦めたのではない。

 地上が七つの大地を受け止められる日まで、眠らせた。


 その間にも、空の暮らしは続いていく。

 避難用の天幕は、木造の家へ変わった。

 木造の家は石造りの街となり、島と島の間には魔導艇が飛ぶようになった。

 子供が生まれる。

 空しか知らない世代が育つ。

 仮初めの避難地は、人々が生きる故郷へ変わっていった。

 それでも、《天水脈》は七つを一つとして繋ぎ続けた。

 一つだけを先に降ろすことはできない。

 一つだけを切り離すこともできない。

 帰還の日には、七つすべての高さを揃え、同時に地上へ降ろさなくてはならない。


 青い人影が繰り返していた言葉が、胸の中で繋がる。

 水は、七つを巡る。

 七つで、一つ。

 それは壊れた記憶の断片ではない。


 《天水脈》を造った者が、最後に残した絶対の条件だった。


 景色が、再び地上へ移る。

 天変地異を生き延びた人々が、一つの都市を築いていた。

 豊かな水路が街を巡り、その中央には白い城が建っている。

 後の王都ヴァルエスト。

 長い青髪の女性は、王冠を戴いていた。

 青いドレスと赤いマント。

 左手首には、変わらず三枚の環が重なっている。


『地上に残った人々をまとめ、あの方はヴァルディア王国を築いた』

 セレスが説明する。


『空へ取り残された者たちを見捨てたわけではないわ。《天水脈》を維持しながら、帰還できる地上を取り戻そうとしたの』


 王都の地下。

 見覚えのある石造区画に、初代国王が立っていた。

 王都で蠍の契約者と戦った場所。

 まだ崩れる前の地下には、巨大な水瓶の浮き彫りが完全な形で残っている。


 初代国王が左腕を差し出す。

 三枚の環が外れ、掌の上へ浮かんだ。


「私は、水瓶宮との契約をここで終えます」


 傍らに控える者たちが息を呑む。


「ですが、水の巡りは止めません」


 三枚の環が重なり、一つのブレスレットへ戻る。

 初代国王は、それを石の台座へ置いた。


「源の環と巡りの環は、王都と七つの大地を満たし続けます」


 白銀の環から、水が溢れた。

 台座の周囲に刻まれた溝を通り、王都の地下水路へ。

 そこから、目には見えない共鳴の流れとなって空の七島へ。


「帰りの環は、地上が再び大地を迎えられる時まで眠らせます」


 初代国王の手が、三重環から離れる。

 金色の光が薄れ、石の壁が台座を包み込んでいく。

 最後に、水瓶を抱く二本の腕が浮き彫りとなって封印を閉じた。


『契約を破棄した後も、【無窮の水瓶】は止まらなかった』


 王都の運河を水が満たす。

 空の七島へ、澄んだ水が湧き上がる。


『世界を巡る水を集め、浄化し、王都ヴァルエストと七つの大地へ送り続けた』


 時が流れる。

 初代国王の姿は歴史の奥へ消えた。

 地上では、ヴァルディア王国が大きくなっていく。

 空では、七つの島がルミナス魔導連合となった。

 古い石造建築の上へ、硝子と金属の建物が増えていく。

 島同士を空中魔導列車が結び、巨大な浮遊機関が大地の底へ組み込まれる。

 人々は、《天水脈》から溢れる水と魔力を利用した。

 やがて、その名さえ失われる。

 自分たちの技術だけで、島を空へ浮かべている。

 その下に、数千年前の手が残されていることを知らないまま。

 イーラの地底へ、巨大な吸収管が打ち込まれた。

 古代の水路と知らず、高密度の魔力が湧き出す天然の魔力溜まりとして。

 《天水脈》を流れる水と魔力が、基幹変換炉へ吸い上げられていく。

 それでも、源の環と巡りの環は均衡を保ち続けた。

 三枚目が眠っている間は。


 景色が、王都の地下へ戻る。

 石の封印に亀裂が走った。

 赤い瞳を眼鏡の奥へ隠した女が、台座へ手を伸ばす。

 水瓶を抱いていた石の腕が崩れた。

 白銀の三重環が、数千年ぶりに空気へ触れる。

 源の環が回る。

 巡りの環が続く。

 そして、眠っていた帰りの環が、ゆっくりと傾いた。


『王都で、蠍が封印を解いた』

 セレスの声が重なる。


『眠っていた【無窮の水瓶】は、果たせなかった帰還を再開しようとしたの』


 王都から放たれた青い流れが、遥か上空の七島へ届く。

 帰還のため、七つの高度を揃えようとする流れ。

 だが、イーラでは基幹変換炉が反対方向へ魔力を吸い上げている。

 二つの力が衝突した。

 青い水が逆巻く。

 一本の乱れが、巡りの環を通じて残る六本へ伝わる。

 浮遊大陸全体を揺らした異変。

 それは、古代機構が壊れたからではない。

 数千年前の帰還機構と、その存在を知らずに築かれた現代機構が、互いに逆の方向へ大地を動かそうとした結果だった。


                ◇


 水の膜が砕けた。

 見知らぬ過去が、無数の水滴となって遠ざかる。

 足元に、球形空間の石床が戻った。

 七枚の石環。

 透明な水球。

 途切れかけていたイーラの水路を支える、青い女性の人影。

 俺たちが見た長い記憶は、実際には数分も経っていなかった。

 測定器には、残り四十二分が表示されている。

 イーラの退避率は八十三パーセント。

 救助は進んでいる。

 だが、六島の下降も止まっていない。


「記録との照合、完了しました」

 ノアの手が、測定器の上を忙しく動く。


「三重環が動いた直後から、《天水脈》の波形に同じ三段階の信号が出ています。これ、ただの映像じゃありません。中枢の制御記録と繋がってます」


 ルシアンは、第二固定点から制御楔を離した。


「《天水脈》が七島の帰還機構であることは、これで証明できます」


 その言葉に、僅かな希望が生まれる。

 しかし、ルシアンの表情は緩まなかった。


「ですが、現代の七島を安全に降ろせるかは、まだ証明されていません」


「記憶どおりにはいかないのですか」

 俺が尋ねる。


「当時と現在では、七島の重量が違います。都市も、工場も、巨大浮遊機関も増設されている。地上の地形も数千年前とは異なるでしょう」


 ルシアンは、青い人影へ向き直る。


「帰還地点と、降下時の減速機能を確認する必要があります」


 人影は答えない。

 だが、左手首の三重環が一度だけ光った。

 七枚の石環に、青い文字が浮かび上がる。

 古代文字。

 俺には読めない。

 ルシアンとノアが同時に記録を取り、セレスが頁を広げた。


『帰還工程』


 一つ目の石環に刻まれた文字が、水へ溶ける。


『第一段階――流量均衡』


「第一段階……」

 ノアが七島の波形を重ねる。


「今の下降は、地上へ落としてるんじゃない。七島の高度差をなくしてるだけです」


「帰還に入る前の準備工程ですね」

 ルシアンが、次の石環へ視線を移す。

 そこにも文字らしきものはある。

 だが、表面の一部が欠け、青い光は灯っていない。


「第二段階以降は、まだ起動していません」


「なら、今すぐ七島すべてが地上まで落ちるわけではない?」


「その可能性は低いでしょう。ただし、第一段階がどの高度で終わるかは分かりません」

 ルシアンは入口の中継器へ解析板を接続した。


「最高評議会へ、記録と新たな解析結果を送ります」


 通信が開く。

 何度か乱れた後、最高評議会議長の姿が映った。


『クロイツ統括技師。状況を』


「《天水脈》の本来の目的が判明しました。これは七島の浮遊維持だけを目的とした機構ではありません。天変地異によって浮上した七つの大地を、いずれ地上へ帰還させるための制御機構です」


 議長の背後がざわめく。

 ルシアンは構わず、三重環の記録と七島の波形を送った。


「現在の下降は、帰還工程第一段階――流量均衡。七島を同一高度へ揃えるための動作と確認しました」


『安全性は証明できますか』


「いいえ」

 ルシアンは、正直に答えた。


「現代の重量に耐えられるか。第二段階以降が正常に動くか。地上へ安全に降ろせるかは、まだ不明です」


『では、永久封鎖を続行するべきではありませんか』


「先ほどの命令は、《天水脈》の目的が不明であり、自動再接続後の下降を制御不能と判断した上で下されたものです」

 銀縁眼鏡の奥で、ルシアンの目が真っ直ぐに議長を見つめる。


「前提が変わりました。少なくとも、現在の下降には目的と段階がある」


 回転する七枚の石環へ、左手を向ける。


「永久封鎖を実行すれば、帰還工程の前提である七島の均衡を、人為的に破壊することになります。その結果、六島が安定する保証も失われる可能性があります」


 議長は、送られた解析結果へ目を落とした。

 沈黙が続く。

 球形空間では、水音だけが響いていた。

 やがて、議長が顔を上げる。


『最高評議会の先の命令を一時保留とします』


 ノアが小さく息を吐いた。


『ただし、帰還工程の安全を認めたわけではありません。第二段階への移行条件、降下地点、現代浮遊機関との干渉を最優先で解析してください』


「承知しました」


『イーラの救助は継続。六島も、全住民へ退避準備を発令します』


「お願いします」


『異常な加速、島体の傾斜、流量の破綻。そのいずれかを確認した場合は、永久封鎖を含む緊急停止を現場判断で実行してください』


「承知しました」


 通信が切れる。

 ルシアンは三本の制御楔を回収し、腰の器具入れへ収めた。

 捨てたわけではない。

 必要になれば、今度こそ使う。

 七島を救う可能性が生まれても、その危険まで消えたわけではなかった。


「ノア技師。現代浮遊機関の重量と現在出力を、七島分集めてください。帰還工程の流量変化と重ねます」


「はい」


「空域保全本部へ、七島の地表測量を要請。現在位置の直下だけではなく、大陸南部全域を対象にしてください」


「地上へ降ろせる場所を探すんですね」


「まずは、古代機構がどこを目指しているのかを確かめます」


 二人が解析へ戻る。

 俺は、傍らへ浮かぶセレスを見た。


「セレス」


『……ええ』


「さっきは、言い方がきつかった」


『いいえ。怒って当然よ』


「怒ってはいる」

 正直に告げる。

 頁が少しだけ縮こまるように閉じた。


「でも、セレスが俺を心配して黙ってたことも分かってる」


『前の契約者と、あなたを重ねてしまったの』


「似てたな」


『ええ。驚くほど』


 記憶の中で、魔法陣を失敗させた青年の姿が浮かぶ。

 誰かを背に庇えば、退かない。

 説明を省き、自分だけで決める。

 それは、他人のことなら不器用だと分かるのに、自分のことになると気づけない姿だった。


「分からないことがあってもいい」


 焦げ茶色の表紙へ、もう一度手を置く。


「確証がなくても、間違ってるかもしれなくてもいい。今度からは、一人で抱え込まないでくれ」


『……ええ』


 触れた表紙から、いつもの温かさが返ってくる。


『ごめんなさい、レグルス』


「俺も、気をつける」


『何を?』


「一人で決めて、勝手に無茶をしないように」


 少し間を置いて、セレスが答えた。


『それは、あまり信用できないわね』


「自分でも、そう思う」


 小さな溜め息が聞こえた気がした。

 それでも、先ほどまで頁を縛っていた硬さは消えている。

 俺は青い人影へ向き直った。

 水の記憶で見た、初代国王。

 長い髪も、細身の輪郭も、左手首の三重環も同じだ。


「本当に、本人ではないんだな」


『ええ。魂でも、意思そのものでもないわ』


 人影は途切れた水路へ手を添え続けている。


『《天水脈》が最後の契約者の姿と声を写し取り、役目を与えた残響。彼女が果たせなかった願いを、今も繰り返しているの』


「あの人に、何が正しいかを聞くことはできない」


『できないわ』


「なら、俺たちで確かめるしかないな」


『ええ』


 その時。

 球形空間の中央で、透明な水球が大きく脈打った。

 七枚の石環が、同時に向きを変える。


「流量、再変化!」

 ノアが測定器を持ち上げる。

 七本の波形が、急速に近づいていく。

 高い位置にあったスペルビアと外縁島が下降する。

 低い位置まで落ちていたイーラは、青い水に支えられるように速度を落とす。

 七つの高さが、一つへ揃っていく。

 中継器から、空域保全本部の声が飛び込んできた。


『全島の高度が再び低下!』


『七島の高度差、急速に縮小しています!』


『イーラも同一高度へ接近! これは……七つの島が、同じ高さへ移動しています!』


 足元が長く沈む。

 天井から細かな石片が落ちる。

 だが、先ほどまでのような不規則な揺れではない。

 一定の速度。

 一定の方向。

 七島すべてが、同じ動きに揃えられている。

 石環に浮かんだ古代文字が、強い青色へ変わった。


『流量均衡、完了へ移行』

 セレスが読み上げる。


 青い人影が、中央の水球へ両手を伸ばした。

 長い髪が広がる。

 左手首の三重環が回転し、その姿が水の記憶で見た初代国王と重なった。

 空に浮かぶことを繁栄だと信じ、数千年を生きてきた七つの大地。

 その足元で、忘れられた機構だけが約束を守り続けていた。

 一つを落とすのではない。

 一つだけを救うのでもない。

 七つすべてを、同じ場所へ。

 同じ大地へ。

 セレスが、静かに告げる。


『浮遊大陸は、落ちようとしているのではないわ』


 七本の水が、一つの光となって脈打った。


『果たせなかった帰還を――今度こそ始めようとしているのよ』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ