第47話 切り捨てられる島
緊急整備艇が、眠りについた工業島を離れていく。
機体を囲む窓の向こうで、イーラはゆっくりと高度を失っていた。
少し前まで島の輪郭を縁取っていた工場の灯りは、もうない。
高い煙突から昇っていた白い蒸気も途絶え、巨大な金属環に残された赤い警告灯だけが、暗闇の中で短く明滅している。
それでも、島の周囲は静かではなかった。
空域保全隊の飛行艇。
ギルドが集めた民間艇。
荷を捨てて救助へ転じた輸送船。
大小の機影が幾重にも列を作り、イーラの港と住居区画へ次々に降りていく。
一隻が人を乗せて上昇すれば、空いた場所へ次の一隻が滑り込む。
空に道など見えない。
だが、すべての艇が衝突することなく、一本の流れとなって人々を運び出していた。
「東部住居区、退避率六十八パーセント」
ノアが測定器へ届いた報告を読み上げる。
「第三工業区は七十四。西側の職員居住棟が遅れてます。昇降機を止めた区画は、徒歩で港まで移動してる」
数字だけを聞けば、避難は進んでいる。
だが、測定器の端に表示された残り時間は、すでに五十三分を切っていた。
「現在の速度では、安全限界までに間に合いますか」
俺の問いに、ノアはすぐには答えなかった。
救助艇の到着間隔。
一隻に乗せられる人数。
港までの移動時間。
表示された数値を何度も確かめた後、首を横へ振る。
「このままなら、十四分足りません」
十四分。
僅かにも思える。
だが、最後に残された者にとっては、その十四分が生死を分ける。
「空域保全本部が空路を再編しています」
向かいの座席にいたルシアンが告げた。
「連絡橋の切り離しが終われば、牽引艇も救助へ回せる。ギルドも西側へ飛行艇を追加しています」
「それで、間に合うんですか」
ノアが尋ねる。
「間に合わせます」
短い返事だった。
根拠のない励ましではない。
間に合わないという結果を、最初から受け入れない者の声だ。
ルシアンの右手には、下層管理室で巻かれた治療布が残っている。
膝の上で指を曲げようとするたび、僅かに震えていた。
それでも視線は、イーラから一度も外れていない。
自分の判断で落とし始めた島を、最後まで見届けようとしている。
ノアも測定器を握ったまま、窓の外を見つめていた。
雲海が、先ほどよりもイーラへ近づいている。
島が落ちれば、工場も、住居も、ノアたち技師が積み上げてきたものも、すべて失われる。
人を救えても、そこにあった暮らしまでは運び出せない。
『レグルス』
腰の後ろで、セレスが静かに呼びかける。
「どうした」
『青い残響が止まりました』
「石扉の向こうか?」
『ええ。待っているのか、それとも、これ以上先へ進めないのかは分からないわ』
中央島スペルビアが近づく。
白い建物の連なる街並みにはまだ灯りが残っていた。
六島へ《天水脈》が戻り、高度低下も止まっている。
空中魔導列車は運行を停止していたが、島の上空では保全隊の飛行艇が行き交い、避難路を示す青い誘導灯が各所へ伸びている。
その光景の向こうで、イーラだけが取り残されるように沈んでいく。
一つを落とし、六つを残す。
それは、もう計器の中だけに並ぶ数字ではなかった。
窓の外にある二つの大地が、その違いを見せつけていた。
◇
緊急整備艇が、旧第五整備区画の臨時発着場へ着地する。
扉が開くと同時に、冷たい空気と無数の警報音が流れ込んできた。
石造区画へ続く通路は保全隊によって封鎖され、周囲には解析装置と照明器具が並べられている。
待機していた技師が、俺たちの姿を認めて駆け寄った。
「クロイツ統括技師。石造構造物の変化後、内部には誰も入れていません。水属性魔力は上昇を続けていますが、周辺設備への浸食は確認されていません」
「開いた時刻は」
「イーラの基幹変換炉停止から、〇・四秒後です」
ノアが測定器の記録を呼び出す。
「《天水脈》が六島へ戻ったのと、ほぼ同時です」
「やはり、偶然ではありませんね」
ルシアンは通路の奥へ目を向けた。
「イーラが《天水脈》から外れたことで、閉じていた弁が動いたのでしょう」
以前は巨大な石扉が塞いでいた場所、そこに、扉は残っていなかった。
左右へ開いたわけではない。
厚い石材の中央だけが、熱で溶けた蝋のように形を失っている。
縁には石扉の一部が残り、川や森、街へ続く浮き彫りも見える。
だが、両腕で抱えられていたはずの水瓶は消え、その位置から縦長の暗い空間が奥へ続いていた。
石が崩れた痕跡はない。
破片も、粉塵も落ちていない。
ただ、固いはずの石が水へ変わり、内側へ流れ去ったように見える。
照明を向けても、光は途中で青い闇へ呑み込まれた。
「底が見えない……」
ノアが入口から測定器を差し入れる。
直後、暗闇の中から一滴の水が浮かび上がった。
水滴は床へ落ちることなく、石壁に沿って上へ昇っていく。
俺たちの横を通り過ぎ、扉の浮き彫りへ残された川筋を巡り、やがて空気の中へ溶けた。
『この奥よ』
声と同時に、セレス自身僅かに熱を帯びる。
「内部の構造は分かりますか」
俺が尋ねると、ルシアンは入口の縁へ解析板を当てた。
青い線が石壁の内部へ走り、少しずつ空間の輪郭を描いていく。
「縦穴に見えますが、完全な落下空間ではありません。内周に沿って、下へ続く足場があります」
「人が通るための道ですか」
「そうは見えません」
映し出された足場は狭く、高さも幅も一定ではなかった。
階段も、手すりもない。
何枚もの石板が、巨大な筒の内側へ僅かな隙間を残して重なっている。
「石扉が巨大な弁なら、ここは弁の内側です。流れを調整する石板同士の隙間が、偶然、人の通れる幅になっているのでしょう」
「また閉じる可能性は?」
「あります」
ルシアンは迷いなく答えた。
「入口へ中継器を設置。内部の流量が急変した場合、すぐ知らせてください。私たちが戻らなければ、避難を優先します」
「統括だけで入るのですか」
「必要な人員は揃っています」
古代機構を解析できるルシアン。
最初から《天水脈》の波形を記録しているノア。
青い残響を感じ取れるセレス。
そして、何かが起きた時に二人を守るための俺。
人数を増やせば安全になる場所ではない。
むしろ、狭い足場では退路を塞ぐ。
「行きましょう」
ルシアンが左手で照明器具を持ち、石の内側へ足を踏み入れた。
俺が続き、その後ろへノアが入る。
最後に、セレスが独りでに浮かび、青い闇の中へ滑り込んだ。
◇
内部は、通路ではなかった。
巨大な何かの腹の中だ。
頭上から足元まで、湾曲した石壁が果てなく続いている。
壁面には幾筋もの溝が刻まれ、その中を青い水が上へ、横へ、時には俺たちの進む方向とは逆へ流れていた。
水音はする。
だが、足元が濡れることはない。
流れから零れた水滴さえ、見えない力に引かれて元の溝へ戻っていく。
足場となっている石板も、壁へ固定されてはいなかった。
何枚もの円弧が僅かに重なり、その間を水が通るたび、低い音を立てて位置を変える。
「止まってください」
先頭を進んでいたルシアンが片手を上げた。
直後、目の前の石板が壁の中へ沈んだ。
代わりに、頭上から別の一枚が降りてくる。
もし、そのまま進んでいれば、足場ごと暗い縦穴へ投げ出されていた。
「流量に合わせて、弁の内径を変えている……」
ノアが測定器を石壁へ向ける。
「動く直前に、水属性魔力が一度下がってます。間隔は六・二秒」
「一定ですか」
「今のところは。でも、七本全部が同じ周期じゃない」
壁面を走る流れへ、測定器から細い光が伸びていく。
青い水が強く輝くたび、奥で石板の擦れる音が響いた。
「右側の流れが弱くなった後、二秒だけ足場が止まります」
「その間に渡ります」
ルシアンが告げた。
「私が先に進みます。レグルスさんはノア技師の後ろを」
「いえ、俺が先に行きます」
「しかし」
「足場が崩れても、俺なら壁へ刀を打ち込めます。ルシアンさんは後ろから進む方向を指示してください」
ルシアンは一度だけ俺の刀へ目を向け、頷いた。
「分かりました。お願いします」
水の輝きが弱まる。
「今です!」
ノアの声に合わせ、石板を蹴る。
一枚。
二枚。
円弧に沿って奥へ進み、流れが戻る前に広い足場へ飛び移った。
続いてノアが走る。
その靴が三枚目の石板へ触れた瞬間、青い光が予定よりも早く強まった。
「周期がずれた!」
足場が傾く。
ノアの身体が横へ流れ、踏み外した片足が暗闇へ落ちた。
伸ばされた腕を掴む。
同時に、俺が立っていた石板も壁の中へ沈み始める。
「レグルスさん、上です!」
ルシアンの声に顔を上げる。
頭上から降りてきた石板の縁へ、刀の鞘を引っ掛けた。
左腕でノアを引き上げ、二人分の重さを鞘で支える。
「す、すみません」
「謝るのは後で大丈夫です。次はどこへ?」
ノアは片手で測定器を見た。
揺れる数値を追い、奥に現れた細い足場を指す。
「左です。次に止まるのは、あそこ――」
『右よ』
セレスの声が重なった。
ノアが示したものとは反対。
青い闇しか見えない壁際に、細い水の筋が走っている。
「セレス?」
『次は右。流れが開くわ』
理由を尋ねる暇はなかった。
俺はノアを抱えるようにして身体を振り、右側の石壁へ跳ぶ。
足が触れる直前、水の筋が二つに分かれた。
その間から、隠れていた石板がせり出す。
二人で着地した直後、背後の足場が閉じた。
ルシアンも流れの切れ目を渡り、こちらへ降り立つ。
「今の経路は、測定器には表示されていませんでした」
「青い残響が通った道を、セレスには感じ取れるようです」
『……ええ』
返事が僅かに遅れた。
セレスは、俺たちより少し先を浮いている。
『進みましょう。ここで止まっている時間はないわ』
セレスの言うとおりだ。
測定器に残る時刻は、五十分を切っている。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。
セレスは、残響の通った跡を追っているだけなのだろうか。
石扉の前で《天水脈》という名を聞いた時も、セレスは何も言わなかった。
青い人影が「水瓶は、すでに傾いた」と告げた時も、その意味をすぐには話さなかった。
知らないのではない、確かめようとしていた。
そして今は、測定器にも映らない流れの先を知っている。
俺は問いかけようとして、やめた。
ここで足を止めれば、イーラに残された時間が減る。
話を聞くのは、この先へ辿り着いてからでいい。
ノアが水の周期を測り、ルシアンが動く石板の順序を読む。
俺は二人の前に立ち、セレスが示す青い残響の跡を追った。
それぞれが見えているものは違う。
だが、その四つを重ねることで、人が通るために造られていない道を少しずつ進んでいく。
やがて、壁面を走る水が七本へ分かれた。
絡み合っていた流れが互いに離れ、巨大な筒の奥へ向かって真っ直ぐ伸びている。
その先で、青い闇が淡く開けていた。
◇
最後の石板を越えた瞬間、上下の感覚が消えた。
目の前に、球形の空間が広がっている。
七枚の巨大な石環が、異なる角度で中央を取り囲んでいた。
横に巡るもの。
縦に立つもの。
斜めに交差するもの。
それぞれが触れ合うことなく、低い音を響かせながらゆっくりと回転している。
石環の表面には、大地の輪郭と水の流れが刻まれていた。
一枚ごとに形が違う。
「七つの島……」
ノアが呟く。
石環の内側には、七本の水路が伸びていた。
六本には青い水が流れ、空間の中央で一度重なった後、別の環へ分かれていく。
残る一本だけが暗い。
水はなく、石の溝も途中で途切れている。
「イーラの系統です」
ルシアンが解析板を向ける。
「形状と方角が一致します」
暗い水路の前に、青い人影が立っていた。
先ほどまでのような、曖昧な影ではない。
青い水が集まり、細い身体の輪郭を形作っている。
腰よりも長い髪が、流れのない空間で水中のように揺れていた。
肩から腕へ続く線は細く、身体つきは女性を思わせる。
左手首には、三枚の環が重なるような淡い光。
だが、顔だけは水面の向こうにあるように滲み、目も口も見えない。
人影はこちらを振り返らない。
途切れた水路へ両手を添え、何度も青い水を流そうとしている。
一滴が生まれる。
溝を僅かに進み、消える。
また一滴。
同じ場所で途切れる。
何度失敗しても、人影は同じ動きを繰り返していた。
『……まだ、繋ごうとしている』
セレスの声に、痛みに似たものが混じる。
「あれが、青い残響ですか」
ノアにも見えている。
ルシアンも銀縁眼鏡を通して、人影を見つめていた。
「前回は、セレスさんの魔力が反応した後に可視化されました。ここでは《天水脈》そのものの密度が高いため、形を保てるのでしょう」
セレスが、俺の傍らへ浮かび上がる。
表紙の獅子座が淡く灯ると、人影の輪郭が一度だけ強く輝いた。
それでも、こちらへ言葉を向けることはない。
空間の中央には、石で作られた小さな台座が浮かんでいた。
上面には何かを置くための窪みがある。
水瓶の形ではない。
三つの細い円が重なったような溝だけが残り、その中心には透明な水球が浮いている。
水球から生まれた水が六本の流れへ分かれ、石環を巡っている。
「ここが、《天水脈》の源ですか」
「いいえ」
ルシアンが、水球へ解析板を近づける。
「流れ込む量と、出ていく量が一致しています。この場所で水や魔力を生み出しているわけではありません」
ノアも測定器を接続する。
球形空間の上に、七島の波形が浮かび上がった。
「七つから集めて、七つへ戻してる……」
「分配機構です」
ルシアンは回転する石環を見上げた。
「島ごとの高度、重量、必要出力に合わせ、《天水脈》の流れを均等に調整している。スペルビアの石扉は、この中枢へ入る流量を制限する外側の弁だったのでしょう」
空に浮かぶ七つの大地。
そのすべてが、この球形空間で一度繋がっている。
だが、イーラへ向かう一本だけは水を失い、青い人影が途切れた流れを戻そうとしていた。
「統括。イーラ系統の縁が動いてます」
ノアが暗い水路を指す。
途切れていた溝の断面から、薄い水の膜が伸びていた。
僅かずつ。
だが、確実に向かい合う断面へ近づいている。
「自動修復でしょうか」
「その可能性が高いですね」
ルシアンが解析板へ数値を取り込む。
回転する七枚の石環が、立体図の中で重なった。
六本の流れ。
途切れた一本。
それらを繋ぎ直した場合の変化が、七島の波形へ反映されていく。
「再接続まで、推定十一分」
ノアが息を詰める。
「繋がったら、イーラへ《天水脈》が戻るんですよね」
「戻ります」
「なら、落下を止められる?」
ルシアンは答えず、計算結果を表示した。
イーラを示す一本の波形が、緩やかになる。
完全には止まらない。
だが、現在よりも遥かに遅い。
代わりに、安定していた六本が同じ角度で下がり始めている。
「浮遊出力の総量が足りません」
ルシアンが告げる。
「再接続すれば、残された出力は七島へ均等に分けられます。イーラの落下速度は抑えられるでしょう」
七本の波形が、同じ高さへ揃っていく。
「ただし、残る六島も下降を始めます」
「どこまで落ちるんですか」
「分かりません」
ノアの問いに、ルシアンは首を横へ振った。
「この機構が、どの高度を基準にしているのか。地上へ近づいた時、減速する機能があるのか。現在の主機や建造物を積んだ重量に耐えられるのか。その記録が一つもない」
未知の古代機構に、七つの大地すべてを委ねる。
救われる可能性はある。
だが、失敗すれば七島すべてが落ちる。
「もう一つの方法は?」
俺が尋ねる。
ルシアンの左手が、暗い水路の根元を示した。
そこには、他の六本にはない細い亀裂が走っている。
「イーラ系統の永久封鎖です」
「永久……」
「自動修復が完了する前に、この分流弁を閉じる。イーラを《天水脈》から完全に切り離せば、六島へ流れが再分配されることはありません」
立体図の中で、暗い一本が消える。
残る六本は、現在の高さを保ち続けていた。
「六島は安定します」
ノアが、消えた一本を見つめる。
「イーラは?」
「戻れません」
静かな声だった。
「補助機関が限界を迎えれば、そのまま落下します」
イーラの基幹変換炉を止めた時に下したのは、時間を作るための決断だった。
先に落とし、落ちきるまでに救う。
まだ、七島すべてを救うための選択だった。
だが、今、目の前にあるのは違う。
イーラへ続く流れを永久に閉ざす。
空へ戻る道そのものを断ち、六島だけを残す。
「この機構は、一つの島だけを救うことも、捨てることも想定していません」
ルシアンが回転する七枚の石環を見上げる。
「七つすべてを、一つの大地として扱っています」
だから、一つが失われれば繋ぎ直そうとする。
残された力を七つへ分け、同じ高さへ揃えようとする。
ここにある仕組みにとって、イーラだけを切り離すという判断は存在しない。
それを選ぼうとしているのは、今を生きる人間だった。
◇
ノアが入口に残した中継器を通し、解析結果を空域保全本部へ送る。
球形空間の中では通信が安定せず、声は何度も途切れた。
それでも、七島の予測波形と二つの選択肢は届いた。
返答を待つ間にも、暗い水路の修復は進んでいく。
十ミリ。
二十ミリ。
薄い水の膜が途切れた溝を埋め、向かい側へ伸びている。
青い人影は、その前から動かない。
長い髪を揺らしながら、何度も水を送り続けていた。
測定器に、イーラから新たな報告が届く。
「残り四十六分。退避率七十九パーセント」
ノアが読み上げた。
「西側へ牽引艇が到着。輸送速度、上がってます」
間に合うかもしれない。
だが、それは人の避難だけだ。
島を残せるかどうかは、別の場所で決められようとしている。
通信機が青く灯った。
空域保全本部からではない。
その上位にある、最高評議会の緊急回線。
途切れた映像の向こうに、長い髪の女性が映る。
最高評議会議長だった。
背後には複数の議員と、空域図を囲む技師たちがいる。
『クロイツ統括技師。送信された解析結果を確認しました』
「はい」
『再接続後、七島が安全に停止する高度を算出できますか』
「現時点では不可能です。《天水脈》中枢の記録がなく、古代機構の制御基準も判明していません」
『現代の浮遊機関で、下降を制御できる可能性は』
「あります。ただし、七島すべてを同時に支えられる保証はありません。主機同士の同期も、これまで試されたことがない」
『承知しました』
議長は一度目を閉じた。
ほんの僅かな沈黙。
その間にも、イーラへ続く水の膜は伸び続けている。
『最高評議会の決定を伝えます』
球形空間に、落ち着いた声が響いた。
『イーラ系統を永久封鎖。現在安定している六島の浮遊維持を最優先とします』
ノアの指が、測定器の縁を強く掴んだ。
ルシアンは、表情を変えない。
「承知しました。封鎖工程は、私が実行します」
『お願いします』
「ただし、イーラの救助は最後まで継続してください」
ルシアンの声が、僅かに強くなる。
「系統を封鎖することと、島に残る者を切り捨てることは同じではありません。補助機関の安全限界を越えるまで、すべての救助艇を運用してください」
『当然です』
議長は迷わず答えた。
『空域保全隊、ギルド、民間艇による救助を継続します。イーラに残る全住民の退避は、ルミナス魔導連合の責任で完遂します』
「ありがとうございます」
『クロイツ統括技師』
「はい」
『この判断の責任を、現場のあなた一人へ負わせるつもりはありません。封鎖は、最高評議会の決定です』
ルシアンの銀縁眼鏡へ、暗い水路が映っている。
「……承知しました」
通信が終わる。
石環の擦れる低い音だけが、再び空間を満たした。
誰か一人の冷酷さによって、イーラは切り捨てられたわけではない。
未知の可能性へ六島すべてを賭けることはできない。
より多くの命を、より確実に守る。
理由は理解できる。
俺が評議会にいたとしても、別の答えを出せたかは分からない。
それでも。
立体図からイーラを示す一本が消えた瞬間を、正しい判断の一言だけで受け入れることはできなかった。
「ほかに方法はないのですか」
俺はルシアンへ尋ねた。
「あります」
意外な返事だった。
「自動再接続を受け入れ、七島すべての下降を始める。それも、一つの方法です」
「なら――」
「ですが、安全であることを証明できません」
ルシアンは俺の言葉を遮らず、静かに続ける。
「レグルスさん。可能性があることと、人の命を預けられることは同じではありません」
回転する七枚の石環へ、左手が向けられる。
「ここにいる私たちは、この機構の目的も、造った者も、停止する場所も知らない。分からないものへ期待するだけで六島を降下させれば、それは救助ではありません」
「……賭けになる」
「はい。そして、賭け金は七島に暮らすすべての人間です」
ルシアンは、イーラだけを軽く見ているわけではない。
だからこそ、一つを落として六つを残す。
確かめられる数値の中で、最も多くを救える道を選ぶ。
その考えに、間違いがあるとは言えなかった。
だが、セレスは、先ほどから一度も声を発していない。
「封鎖工程へ移ります」
ルシアンが解析板を暗い水路へ接続する。
ノアも無言で測定器を開き、分流弁の構造を重ねた。
「自動修復は、両側の流れを同じ位相へ揃えることで進んでいます。逆位相の魔力を一度だけ流せば、接続動作を停止させられる」
「その後、分流弁を閉鎖位置で固定します」
ルシアンが説明を引き継ぐ。
「現代の制御楔を三か所へ打ち込み、イーラ系統への流れを物理的に遮断する。古代機構が再び修復を始めても、開くことはありません」
閉じれば、戻せない。
ノアが三本の細い金属楔を取り出した。
整備用の道具に過ぎない。
刃もなければ、強い魔力を放つものでもない。
それでも今は、刀よりも確実に一つの大地を切り離す道具だった。
「第一固定点、見つけました」
ノアが水路の根元を示す。
「第二は石環の裏側。第三は……中央の分配弁です」
「私が第二へ回ります。ノア技師は第一を。レグルスさんは、中央で流量が変化した場合の対応をお願いします」
「分かりました」
答えながら、暗い水路の前に立つ。
青い人影は、すぐ向こうにいる。
顔は見えない。
それでも、こちらを見ているように感じた。
左手首で、三枚の環が淡く揺れる。
「封鎖開始まで、十秒」
ノアが数える。
制御楔へ青い光が灯る。
「九」
人影が、途切れた流れへ片手を伸ばした。
「八」
水の膜が大きく脈打つ。
「七」
セレスが、俺の腰から独りでに浮かび上がった。
「六」
『待って』
セレスの声が落ちる。
同時に、青い人影の掌が水路へ触れた。
球形空間を巡る六本の水が、一斉に止まった。
「流量、急変!」
ノアが叫ぶ。
中央の水球が大きく歪み、六本の流れから細い水が引き抜かれていく。
暗かったイーラの水路へ、青い光が戻った。
一筋。
また一筋。
途切れていた溝が水によって繋がり、七枚の石環すべてが同時に回転を始める。
足元が沈んだ。
球形空間だけではない。
スペルビアそのものが、高度を失っている。
中継器から、空域保全本部の声が飛び込んできた。
『六島の高度低下を確認! 全島、ほぼ同一速度で下降しています!』
ノアの測定器に、二つの変化が表示される。
イーラの落下速度は半分以下へ下がっていた。
その代わり、安定していた六本の波形が揃って沈んでいく。
予測どおりだ。
この機構は、一つだけを落とそうとはしない。
残されたすべてを分け合い、七つを同じ高さへ戻そうとしている。
「封鎖を続行します」
ルシアンが制御楔を握る。
右手はまだ震えている。
それでも左手だけで、第二固定点へ楔を押し当てた。
青い人影が、初めてこちらへ顔を向けた。
目も口もない顔から、水底を渡るような声が響く。
「水は――七つを巡る」
左手首の三重環が、ゆっくりと回転する。
「七つで、一つ」
それは、俺たちを説得する言葉ではなかった。
かつて与えられた役目を、断片のまま繰り返している。
失われた何者かの願いだけが、今も《天水脈》の中に残っている。
「根拠にはなりません」
ルシアンの声が、低く響いた。
「あなたが何者で、何を目的としているのか。私たちは何も知らない」
制御楔へ、魔力が集まっていく。
「七島を下降させるなら、その先に何があるのかを示してください」
青い人影は答えない。
ただ、途切れた水路を両手で支え続けている。
「説明できないのであれば、六島を危険へ晒すことはできません」
ルシアンが楔を打ち込もうとした。
『その流れを切っては駄目よ』
セレスの声が、球形空間を震わせた。
これまでよりも強い。
迷いも、躊躇いもない。
ルシアンの左手が止まる。
「理由を、説明していただけますか」
セレスは宙に浮いたまま、頁を開かない。
『…………』
「セレスさん」
ルシアンは声を荒らげなかった。
だが、その視線は逸らさない。
「イーラの残り時間は四十五分を切っています。六島も下降を始めた。止めるのであれば、判断に足る根拠が必要です」
セレスは答えなかった。
答えられないのではない。
話すことを恐れている。
そんな沈黙だった。
胸の奥に残っていた違和感が、確かな形へ変わる。
《天水脈》という名を聞いた時。
青い残響が水瓶へ触れた時。
測定器にも映らない道を選んだ時。
セレスは、ずっと何かを知っていた。
「セレス」
焦げ茶色の表紙へ手を置く。
いつもならすぐに返る温かさが、今は遠い。
「何を知ってる?」
『……レグルス』
「今度は、確かめてからじゃなくていい」
青い人影の左手首で、三枚の環が回り続けている。
七本の水路を巡る流れが、足元から大地そのものを揺らしていた。
「知っていることを話してくれ」
長い沈黙の後、頁が一枚だけめくれた。
『あなたに、話さなくてはならないことがあるわ』
セレスの声は、静かだった。
けれど、逃げるような響きはもうない。
『《天水脈》は、七つの島を空へ浮かべ続けるために造られたものではないの』
ルシアンの手から、制御楔へ送られていた魔力が止まる。
ノアも測定器から顔を上げた。
「なら、何のためにあるんだ」
青い人影が両腕を広げる。
六本から一つへ。
一つから七本へ。
青い水が、回転する石環すべてを繋いでいく。
セレスは、その中心で告げた。
『いつか七つの島を――地上へ降ろすためよ』




