第45話 青き残響
研究区画を出てから、緊急整備艇が空へ上がるまで、十分もかからなかった。
艇内は、旅客用の飛行艇とは比べものにならないほど狭い。
向かい合わせに設けられた四つの座席。壁には工具箱や交換用の魔石が隙間なく固定され、足元では浮遊機関の振動が絶えず響いている。
俺の隣では、ノアが膝の上に測定器を置き、次々と表示を切り替えていた。
「イーラ系統、水属性反応はまだ上昇中。主機出力は補助機関が埋めてるけど、変換炉の取り込み量が百十八パーセントまで上がってます」
人へ向ける敬語は相変わらず不安定だが、機械を前にした言葉には迷いがない。
前方の操縦席では、ルシアンが片手で操縦桿を握り、もう片方の手で通信板を操作している。
「第三工業区。基幹変換炉の停止状況を」
『第一炉、減圧工程へ移行。第二炉は排出路を切り替えています。完全停止まで、最短で十九分です』
「旧接続区画への立ち入りは?」
『封鎖しました。ただ、退避人数が作業記録と合いません。現在、確認中です』
「分かり次第、連絡してください。変換炉は手順を省略せず、順に停止を」
『了解しました』
通信が切れる。
窓の外へ目を向けると、夜の雲海を挟んだ先に工業島イーラが見えた。
昼間、空中魔導列車から見下ろした時には、無数の工場が白い蒸気を吐き、貨物艇が絶え間なく行き交っていた。
今は、島の輪郭に沿って赤い警告灯が明滅している。
巨大な煙突から立ち上る蒸気も、場所によって濃さが違う。奥の工場から順に灯りが落とされ、そのたびに別の区画から白い蒸気が勢いよく噴き上がっていた。
「すべての工場を、すぐに止めることはできないのですか」
「動いている機械は、止めれば終わりじゃありません」
ノアが測定器から顔を上げる。
「大型の変換炉には、高密度の魔力が圧力をかけた状態で残ってます。急に入り口と出口を閉じたら、行き場を失った魔力が炉壁や配管を内側から壊す。先に取り込み量を落として、余った魔力を逃がして、それから温度を下げないと」
「緊急停止の機構は?」
「あります。でも、あれは炉を守るためじゃなくて、周りを守るためのものです。最悪の場合、炉を一基潰して、魔力を上空へ放出する」
工場の上には、今も何隻もの作業艇が飛び交っている。
それだけではない。
第三工業区の外縁には、作業員とその家族が暮らす住居棟も見えた。
ただ機械の動きを止めればいいわけではない。
止め方を誤れば、その機械に支えられている人々まで巻き込むことになる。
「それでも十九分は、長いですね」
「ええ」
ルシアンは前を向いたまま答えた。
「ですから、その時間を稼ぎます」
艇が高度を落とす。
工場群の間に設けられた発着場が近づき、赤い誘導灯が左右へ流れていった。
着地の直前。
工業島全体が、僅かに下へ沈んだ。
腹の底が持ち上がるような感覚。
壁へ固定された工具が、一斉に音を鳴らす。
「高度低下、二・三メートル!」
ノアが測定器を押さえる。
「補助機関が戻しました。でも、次はもっと下がるかもしれない」
ルシアンは返事をせず、艇を発着場へ滑り込ませた。
◇
第三工業区の下層管理室では、十人近い技師が慌ただしく動いていた。
壁一面を覆う魔導板には、変換炉の温度、魔力圧、浮遊出力が色の異なる線で表示されている。
どの数値も絶えず上下しているが、中央に大きく映し出された水属性反応だけは、一度も下がっていなかった。
「クロイツ統括技師」
白髪交じりの作業員が、俺たちへ駆け寄ってくる。
「退避人数を確認しました。旧接続区画へ手動弁を閉めに向かった二名が戻っていません」
「通信は?」
「一人とは繋がりました。隔壁が歪み、区画内に閉じ込められています。もう一人は脚を負傷しているようです」
「現在位置を表示してください」
管理室の魔導板へ、第三工業区の断面図が浮かび上がった。
上部に三基の巨大な変換炉。
その下を複数の供給管と排出管が走り、さらに深い場所へ一本の細い通路が伸びている。
赤い光点は、その通路の途中で止まっていた。
「ここが閉鎖水路ですか」
「はい。ただ、水路というのは古い呼び名です。少なくとも、私たちが管理を始めてから水を流した記録はありません」
作業員が別の表示を開く。
旧接続区画を映した監視映像だった。
薄暗い通路。
天井を走る太い配管。
床には、いくつもの水滴が浮かんでいる。
落ちているのではない、水滴は床から離れ、壁を這い、天井へ向かって昇っていた。
その先には、変換炉へ繋がる吸収管がある。
水滴が金属の表面へ触れるたび、吸い込まれるように消えていく。
「水が、機械へ入っている……」
『ええ。それに、あの奥にいます』
セレスの声が響く。
「青い人影ですか」
『まだ遠いわ。けれど、石扉の向こうへ渡ったものと同じ気配です』
ルシアンが断面図を拡大する。
現在の配管を示す白い線へ、先ほど石扉で記録した《天水脈》の構造が重ねられた。
七島へ伸びていた青い流路の一つが、第三工業区の真下を通っている。
そして、基幹変換炉の吸収管は、その流路へ上から突き刺さるように接続されていた。
「一致していますね」
「統括。でも、この吸収管は岩盤から漏れ出す余剰魔力を集めるためのものです。《天水脈》へ繋いだなんて、建設記録には――」
「当時は、《天水脈》の存在を把握していなかったのでしょう」
ルシアンは二つの構造図が重なる地点を示した。
「岩盤の亀裂から、常に高密度の魔力が漏れ出していた。技師たちは天然の魔力溜まりと判断し、変換炉へ接続した」
「実際には、古代の流路だった……」
「まだ推測です。ただ、確かめる価値はあります」
ルシアンは管理室の責任者へ向き直った。
「変換炉の停止を継続してください。私たちは取り残された二名を救出し、そのまま旧接続区画を調べます」
「しかし、下では吸収管の圧力が上がっています」
「だからこそ、急ぐ必要があります」
ルシアンが歩き出す。
その腰には、《試作ウルカーヌス》が固定されていた。
◇
下層へ続く業務用昇降機を降りるほど、空気は熱くなっていった。
壁の向こうを大量の魔力が流れている。
低い唸りが床から足裏へ伝わり、配管の継ぎ目からは白い蒸気が噴き出していた。
だが、旧接続区画へ近づいた途端、その熱が薄れる。
代わりに、肌へまとわりつくような冷気が漂ってきた。
「この先です!」
歪んだ隔壁の向こうから、男の声が返ってくる。
「怪我人は?」
「意識はあります! ただ、足を挟まれて動けません!」
隔壁は中央から大きくへこみ、枠へ噛み込んでいた。
俺は打刀の柄へ手を掛ける。
「待ってください」
ノアが隔壁の脇へ屈み込み、測定器を翳した。
「このすぐ裏に、変換炉の圧力調整管があります。斬った時に巻き込めば、魔力が噴き出す」
「では、どうしますか」
「枠を残して、中央だけを外側へ引きます」
ノアは腰に差していた小型の金属器具を抜いた。
握りを捻る。
折り畳まれていた柄が二段階に伸び、先端から厚い刃が左右へ開いた。
片側は幅の広い斧刃、反対側には、円筒形の魔導機関が取りつけられている。
小型の器具だったものが、ノアの身長に近い戦斧へ変わった。
「それは、武器だったのですか」
「一応。でも、こういう時にも使えます」
ノアは斧刃を隔壁の窪みへ差し込み、柄の根元にある目盛りを合わせた。
「加速機構、低出力。六パーセント」
円筒形の機関から、短い駆動音が鳴る。
斧を振るための機構なのだろう。
だが、ノアは刃を固定したまま、加速する力を隔壁の外側へ向けていた。
「レグルスさん、枠の右側を押さえてください。統括は左を」
「分かりました」
「いつでも」
俺とルシアンが隔壁へ手を掛ける。
ノアが柄の引き金を僅かに引いた。
鈍い衝撃が、金属板の中央へ叩き込まれる。
隔壁が軋んだ。
一度。
二度。
三度目の衝撃で、噛み込んでいた中央部が外側へ浮き上がる。
「今です!」
斧を梃子にして、三人で隔壁を引く。
人一人が通れる隙間が開いた。
中には、二人の作業員がいた。
一人が床へ座り込み、もう一人がその身体を支えている。
負傷した男の足首には金属片が食い込んでいたが、意識ははっきりしている。
「立てますか」
「肩を借りれば、なんとか」
俺は男の腕を肩へ回し、身体を持ち上げた。
もう一人の作業員が、隔壁を抜ける直前に何度も奥を振り返る。
「何があったのですか」
「水です」
男の声が震えていた。
「閉じていたはずの通路から水音がして……床から水が浮かび上がった。配管が破れたと思ったんです。でも、違った」
「どこへ流れましたか」
「上です。あの吸収管が、水を呑み込んだんです」
水が配管から漏れたのではない。
乾いていたはずの古い通路から現れ、機械の方へ吸い込まれていった。
作業員たちを昇降機まで送り、待機していた救護班へ引き渡す。
戻ってきた時には、床を這う水滴の数がさらに増えていた。
「この先からです」
ノアが戦斧を折り畳まず、そのまま握り直す。
俺たちは、閉鎖されていた旧接続区画へ足を踏み入れた。
◇
金属製の壁が途切れたのは、通路へ入って百歩ほど進んだ頃だった。
補強板の隙間から古びた石壁が現れ、やがて床も天井も石造へ変わっていく。
第三工業区の設備は、その石造区画へ後から押し込まれていた。
太い吸収管が天井を貫き、何本もの金属枠によって古代の壁へ固定されている。
その下には、川筋に似た細い溝が刻まれていた。
青い水が重力に逆らって溝を昇り、吸収管へ集まっていく。
『近いわ』
セレスの声が低くなる。
『青い人影は、この先で止まっています』
「こちらを待っているのでしょうか」
『分からない。私たちを見ている様子もないわ』
不意に、吸収管が大きく脈打った。
金属の内側を、何かが勢いよく吸い上げられていく。
同時に、石壁の奥から重い音が響いた。
一つ。
二つ。
積み重なっていた石板が左右へずれ、その隙間から黒い金属が覗く。
「下がってください」
ルシアンが足を止める。
壁の中から伸びてきたのは、人の腕に似た機構だった。
ただし、大きさは人間の数倍。
石と黒い金属を組み合わせた腕が、幾つもの関節を連ねている。節の隙間には青い水が満ち、脈を打つたびに指先まで光が走った。
天井からも二本。
反対側の壁からも三本。
五指を備えた腕に加え、指の代わりに薄い刃を持つものまである。
どの腕も、俺たちを見てはいなかった。
一斉に向いた先は、古代の石壁へ打ち込まれた吸収管だった。
「人を襲うためのものではありませんね」
ルシアンが腕の動きを見つめる。
「本来は、施設の修復と異物除去を行う作業機構なのでしょう」
「作業にしては、随分と乱暴です」
「私たちの設備が、異物と判断されたようです」
ルシアンは壁や天井へ繋がった腕を見渡した。
「記録上の名称はありません。便宜上、《古代防衛腕》と呼びましょう」
刃を備えた腕が、吸収管へ振り下ろされる。
「斬らせてはいけません!」
ノアが叫んだ。
「今あの管を壊されたら、変換炉から押し戻された魔力が全部ここへ噴き出します!」
考えるより先に、床を蹴っていた。
緑色の魔力を脚へ巡らせる。
刃と吸収管の間へ滑り込み、打刀を抜く。
振り下ろされた一撃へ、刃を斜めに合わせた。
正面から受ければ、力に押し潰される。
触れた瞬間だけ角度を変え、腕の勢いを横へ逃がす。
金属の刃が火花を散らし、吸収管の脇へ叩きつけられた。
弾く。
獅子宮で、何度も繰り返した基本の一つ。
腕の関節が不自然な方向へ折れ曲がり、先端だけが俺へ向いた。
人を敵と見たわけではない。
異物の排除を妨げるものとして、俺を認識したのだろう。
残る四本も動きを変える。
「レグルスさん、右から二本!」
ノアの声。
五本指の腕が、左右から挟み込むように迫る。
一歩下がり、右の手首へ刀の鎬を当てる。
押し込まれる力を使って身体を回し、その軌道を左の腕へ重ねた。
黒い金属同士が激突する。
頭上から刃型の腕。
身を沈めた直後、髪の先を冷たい風が撫でた。
石床が深く抉れる。
「中に核らしき反応はありません!」
ノアが測定器を片手で操作している。
「全部の腕へ、壁の溝から水が送られてる! たぶん、あの青い水が動力と命令を兼ねてます!」
「ならば、関節を斬れば止まりますか」
「一度なら! でも――」
澄んだ金属音が、ノアの言葉を追い越した。
ルシアンが《試作ウルカーヌス》を抜いている。
銀縁眼鏡の奥で、幾重もの術式が回転していた。
「補正出力、三十パーセント」
構えに、力の集まる気配はない。
次の瞬間、右足、腰、肩、腕が、それぞれ別の糸に引かれたように動いた。
銀色の刃が、一筋の光となって走る。
黒い腕の関節だけが、音もなく斬り離された。
正確だった。
分厚い石の外殻には触れず、その奥にある金属の接合部だけを断っている。
落下した腕が床を打つ。
だが、切断面から青い水が溢れた。
水は無数の細い糸となって斬り離された腕へ伸び、落ちた関節を再び引き上げていく。
「再接続します!」
ノアの警告どおり、黒い金属が元の位置へ嵌まった。
青い光が一度脈打つ。
止まっていた指が、何事もなかったように動き出した。
「斬っても、流れを止めない限り戻るのですね」
ルシアンは《試作ウルカーヌス》を構え直す。
声は平静だった。
だが、柄を握る右手の指が僅かに強張っている。
たった一度の斬撃。
それでも、演算どおりの動きを押しつけられた身体は、確実に軋んでいる。
「統括、もう斬らなくていい!」
ノアが突然、通路の奥を指した。
「腕が動く直前、あの外周の溝だけ先に光ってる。水を送る量じゃなくて、関節を動かす順番を決めてるはずです!」
五本の腕が、再び吸収管へ向かう。
「止められますか」
「外周環を固定できれば、たぶん! 十秒ください!」
「長いですね」
「じゃあ八秒!」
「そこは短くできるのですね」
ルシアンの声に、僅かな笑みが混じった。
「レグルスさん」
「分かっています」
息を整える。
腕は速い、だが、斬撃として磨かれた動きではない。
対象へ最短で届くことだけを求め、同じ軌道を繰り返している。
右から来る刃を弾く。
返した刀の峰で、下から伸びた五本指を叩く。
その反動に逆らわず身体を沈め、背後から迫った腕を躱す。
地面を踏み、腰を回す、肩から腕へ、途切れることなく力を伝える。
目の前で見た《試作ウルカーヌス》とは違う。
一つ一つは、何度も失敗しながら身体へ覚え込ませてきた動きだ。
五本目の刃を鎬で受け流し、石床へ突き立てる。
「今です!」
俺が叫ぶ。
ノアが戦斧を担ぎ、腕の間へ飛び込んだ。
外周の溝から青い光が集まる地点へ、工具鞄から抜いた黒い楔を差し込む。
戦斧を振り上げた。
「加速機構、十四パーセント!」
円筒機関が唸る。
加速された斧の背が、楔を真正面から叩いた。
轟音。
黒い楔が石の継ぎ目へ深く食い込み、外周環の回転を止める。
青い光が行き場を失い、溝の中で激しく明滅した。
一本。
二本。
俺へ迫っていた腕が、順に動きを止めていく。
最後の刃が、吸収管まで指一本ほどの場所で静止した。
「止まった……」
ノアが戦斧へ身体を預け、大きく息を吐く。
「壊したのですか」
「固定しただけです。楔を抜けば、また動きます。たぶん」
「最後の一言が気になりますね」
「初めて見る機械なんだから、絶対なんて言えません」
「それで構いません」
ルシアンは、動かなくなった外周環を確認した。
「分からないことを、分かったふりで埋められる方が困ります」
石扉で聞いたのと同じ言葉だった。
ノアは一瞬だけ目を丸くし、それから照れたように顔を逸らした。
『レグルス』
セレスの声が、通路の奥から意識を引き戻す。
『人影が動きました』
止まった防衛腕の間を抜け、さらに奥へ進む。
水音が、少しずつ大きくなっていった。
◇
通路の最奥には、巨大な円形の空間が広がっていた。
壁も、床も、天井も古い石で造られている。
幾重もの環が部屋の中心を取り囲み、その内側には水瓶の浮き彫りが刻まれていた。
水瓶から流れ出した七本の溝が、放射状に壁へ伸びている。
その美しい構造を押し潰すように、天井から巨大な金属管が突き出していた。
第三工業区の基幹変換炉へ続く吸収管。
後から打ち込まれた金属枠が古代の環を跨ぎ、七本の溝のうち一本へ直接接続されている。
青い水は水瓶へ向かって流れていない。
すべてが逆向きに吸い上げられ、金属管の中へ消えていた。
「取り込み量、百二十六パーセント」
ノアの声が強張る。
「変換炉を止めてるのに、まだ上がってる」
「自動補正です」
ルシアンが管理室から送られてきた数値を、眼鏡の内側へ映す。
「イーラの浮遊出力が低下したため、変換炉は魔力不足と判断し、吸収弁をさらに開いている」
「でも、吸い上げるほど《天水脈》の流れが乱れる。流れが乱れれば浮遊出力が下がって、また吸収量が上がる……」
「悪循環に入っています」
「では、この変換炉が空震の原因なのですか」
「いいえ」
ルシアンは首を横へ振った。
「最初の逆流が起きた時刻には、吸収量は基準値のままでした。変換炉が取り込みを増やしたのは、イーラの出力低下を検知した後です」
原因ではない。
だが、先に起きた異常へ反応し、今度は異常そのものを大きくしている。
人を守るために組み込まれた自動補正が、古代の機構を相手にしたことで、別の危険を生み出していた。
「停止まで、あと何分ですか」
「最短で十三分です」
「その前に吸収管が耐えられなくなったら?」
ノアの問いに、ルシアンは答えなかった。
答える必要もなかった。
天井から低い軋みが響く。
金属管を固定している枠の一つに、細い亀裂が走っていた。
『いました』
セレスの声が落ちる。
『水瓶の前です』
浮き彫りへ目を向ける。
俺には、何も見えない。
ただ、水瓶の前だけ空気が揺れ、水面に似た淡い波紋が広がっている。
「人影は何をしていますか」
『水瓶へ手を伸ばしています。けれど、まだ触れてはいないわ』
「水属性反応、さらに上昇!」
ノアが測定器を見た。
「吸収量も上がってる。人影が水瓶に触る前からです!」
「時刻と数値を記録してください」
ルシアンが即座に告げる。
「この現象も、人影が起こしたとは限りません」
波紋の中心で、青い光が揺れた。
人の輪郭を取り戻すように、光がゆっくりと集まっていく。
それでも、俺の目には影にしか見えない。
腰の後ろで、セレスが熱を帯びた。
「セレス?」
『私ではないわ』
本が独りでに浮かび上がる。
留め具が外れ、閉じていた頁が風もないのにめくられていった。
白紙だった一頁で止まる。
そこへ、獅子座を形作る星々が淡い金色に灯った。
水瓶の浮き彫りから、青い光が返る。
二つの光が重なった瞬間。
それまで見えなかった人影が、はっきりと姿を現した。
青い水だけで形作られた人。
長い髪にも、細い腕にも見える。
だが、顔には目も口もなく、男か女かさえ分からない。
人影は水瓶へ伸ばしていた手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
視線のない顔が、俺ではなく宙に浮かぶセレスへ向けられる。
「……獅子」
水底から響くような声だった。
「水瓶は、すでに傾いた」
「どういう意味だ」
問いかけても、人影は答えない。
再び水瓶へ向き直り、その掌を浮き彫りへ重ねた。
青い光が弾ける。
床の溝から水が噴き上がった。
水は落ちることなく壁を昇り、天井へ集まり、巨大な逆さの滝となって円形空間を巡っていく。
七本の溝が、一斉に青く灯った。
水瓶から外へ。
止まりかけていた流れを押し戻すように、青い水が七つへ分かれる。
だが、そのうち六本が途中で大きく歪んだ。
すべての流れが、イーラへ繋がる一本へ引き寄せられていく。
変換炉の吸収管が、獣の咆哮にも似た音を上げた。
「吸収量、二倍! まだ上がる!」
「全員、何かに掴まってください!」
ルシアンが叫んだ直後。
足元から支えが消えた。
円形空間が大きく傾く。
身体が宙へ浮き、俺は石床へ刀を突き立てた。
隣では、ノアが戦斧の刃を溝へ引っ掛けている。
ルシアンも金属枠を左手で掴んでいた。
右手は、思うように動かないのか、《試作ウルカーヌス》の柄へ届いていない。
遠くで、工場の警報が一斉に鳴り始める。
島を囲む巨大な金属環が軋み、岩盤の奥から低い振動が押し寄せた。
「イーラ高度、七・八メートル低下!」
ノアが片手で測定器を確認する。
「天水脈の流入量が増えてます。中央から二倍……三倍――」
「違います」
ルシアンの声が、警報を縫って届く。
銀縁眼鏡に、七本の波形が映っていた。
イーラへ向かう一本だけが跳ね上がり、残る六本は同じ割合で落ち続けている。
「中央から流れ込んでいるのではありません」
ルシアンが、青く染まった水瓶を見上げる。
「イーラが、残る六島から《天水脈》を吸い上げています」
水瓶へ触れていた人影は、もういなかった。
青い水へ溶け、七つの流れの中へ消えている。
「セレス。今のは、何だったんだ」
返事は、すぐにはなかった。
宙に浮いていた焦げ茶色の本が閉じ、俺の手元へ戻ってくる。
『……今ので、ようやく確かめられたわ』
セレスの声には、微かな痛みが混じっていた。
『あれは、侵入者ではありません』
「なら、青い人影は?」
『何者かの意思が《天水脈》へ焼きつき、形も名前も失った後まで、与えられた役目だけを繰り返している』
六つの島から奪われた青い流れが、頭上の吸収管へ呑み込まれていく。
『壊れた流れに残された――青い残響よ』




