第44話 天を巡る水
『……今は、何も言えません』
セレスの声が途切れる。
その直後、石扉を巡っていた青い光が、水瓶の浮き彫りへ吸い込まれるように消えていった。
壁の奥から聞こえていた水音も遠ざかっていく。
一滴。
もう一滴。
やがて、それすら聞こえなくなった。
「セレス。青い人影は?」
『消えたのではないわ』
今度の返事に、迷いはなかった。
『水瓶へ溶け込むように、この先へ渡りました』
「石扉の向こうへ?」
『正確には、この奥を流れている何かへ……かしら』
そこまで言うと、セレスは再び口を閉ざした。
問い詰めても、今は答えないだろう。
セレスに触れていた指を離し、石扉へ向き直る。
光は消えている。
だが、扉の中央に彫られた水瓶だけが、わずかに濡れているように見えた。
「統括技師に繋がりました」
少し離れた場所で、ノアが通信機を耳へ当てている。
「はい。旧第五整備区画の最奥です。図面にはない石造構造物を確認。水属性反応は、いま低下しました。浮遊出力も……戻っています」
言葉を切り、手元の測定器を見下ろす。
「発光を確認した時刻と、出力低下の記録も残っています。分かりました。ここで待機します」
通信を終えたノアは、ようやく息を吐いた。
「統括技師が直接来ます。それまで、この区画には触らないようにって」
「随分と早い判断ですね」
「七島全部の浮遊出力が落ちた直後ですから。それに、統括は分からないものを放っておけない人なので」
「厳しい方なのですか」
「厳しいというか……数字をごまかすと、すぐに見つかります」
ノアは自分の測定器を見て、表情を強張らせた。
「俺、旧第五整備区画より先へ入るなって言われてたんです。ここが図面にないなら、どこからが先なのか……」
「それを確かめるためにも、正確に報告した方がいいでしょう」
「そうなんですけど」
『怒られるのが怖いのね』
セレスの声に、ノアの肩が跳ねた。
「こ、怖いわけじゃないです。ただ、母さんにも連絡が行くと面倒で……」
『それを怖いと言うのではなくて?』
「違います」
否定は早かった。
だが、説得力はなかった。
◇
待つこと十数分。
暗い通路の向こうから、複数の足音と白い光が近づいてきた。
先頭を歩いてきたのは、金色の髪を短く整えた男だった。
年齢は三十代の後半ほど。
銀縁の眼鏡を掛け、濃紺の作業用コートを身につけている。細身に見えるが、足場の悪い通路を歩く姿勢に揺らぎはない。
後ろには三人の技師。
それぞれが、金属製の箱や折り畳まれた支柱を運んでいた。
「ノア・ヴェイン保守技師」
「は、はい!」
男に名を呼ばれ、ノアが背筋を伸ばす。
「謝罪は後で構いません。まず、測定記録を見せてください」
「……はい」
ノアが差し出した魔導板を、男は無言で確認していく。
指を滑らせるたび、表示される数値と波形が切り替わった。
「水属性反応の上昇を検知したのが二十一時十三分四秒。中央主機の出力低下が、その一・八秒前」
男の指が止まる。
「発光が先ではありませんね」
「はい。石扉が原因で出力が落ちたんじゃなくて、出力の変化に反応して光ったんだと思います」
「私も同意見です。結果が原因より先に起きることはありません」
男は次に、床へ刻まれた薄い線を照明で照らした。
金属製の通路と古い石床の境目に、小さな番号が刻まれている。
「ここが旧第五整備区画の境界です。この石造区画は、図面上では第五区画の内側に含まれています。ノア技師は許可範囲を越えていません」
「本当ですか」
「ええ。ただし、未知の構造物へ近づく前に、距離を取って測定するべきでした」
「……すみません」
「その判断については、後で報告書を提出してください。ですが、水属性反応を追跡し、この場所を発見したことは正しい。よく記録を残しました」
ノアの表情から、目に見えて力が抜けた。
叱るべきところと、認めるべきところを分けている。
年下の少年ではなく、一人の技師として扱っているのだろう。
男は魔導板をノアへ返すと、俺へ向き直った。
「お待たせしました。ルミナス魔導連合、中央浮遊機関統括技師のルシアン・クロイツです」
「レグルス・クレハルトです。王国の冒険者ギルドに所属しています」
「お名前は伺っています。水属性の人影を発見されたのは、レグルスさんの相棒だとか」
「はい。セレスといいます」
腰の後ろに差している焦げ茶色の本へ手を添える。
『初めまして、ルシアン・クロイツ』
ルシアンは驚いた様子もなく、本へ小さく頭を下げた。
「初めまして、セレスさん。あなたに見えた人影について、後ほど詳しく聞かせてください」
『話せる範囲でよければ』
「十分です。分からないことを、分かったふりで埋められる方が困りますから」
穏やかな口調だった。
だが、その言葉にセレスは何も返さなかった。
「調査を始めます」
ルシアンの合図で、同行していた技師たちが動き出した。
石扉から数歩離れた位置へ、四本の細い支柱が立てられる。
支柱の先端から銀色の線が伸び、中央に置かれた解析装置へ繋がった。
「触れずに調べるのですか」
「最初は、その方が安全です」
ルシアンは石壁へ向けて、平たい金属板を設置した。
「これから、属性を持たない弱い魔力波を石壁へ送ります。内部に空洞や異なる材質があれば、戻ってくるまでの時間と波形が変わる。その差から、石の奥にある構造を組み上げます」
「壁を叩いて、返ってくる音を聞くようなものですか」
「ええ。音の代わりに魔力を使います。ただ、この石は通常の魔力波をほとんど吸収している。ノア技師、水属性を一パーセントだけ混ぜてください」
「分かりました」
ノアが解析装置の側面を開き、小さな青い魔石を差し込んだ。
「一パーセントで足りるのですか」
「反応させるだけなら十分です。未知の術式へ強い魔力を流すのは、鍵穴の形を確かめずに扉を蹴るようなものですから」
ノアが目盛りを合わせる。
「混合率、一・〇。出力、探査基準の五分の一。いつでもいけます」
「照射してください」
低い音が鳴った。
四本の支柱から放たれた淡い光が石扉へ重なる。
初めは何も起きなかった。
やがて、壁へ刻まれた細い溝の一つが青く灯り、その光が枝分かれしながら上下へ走っていく。
解析装置の上に、半透明の立体図が浮かび上がった。
石扉。
その背後に広がる無数の細い管。
さらに奥には、島の岩盤を貫くほどの太い流路がある。
「これは……」
「一つの設備ではありませんね」
ルシアンが立体図を回転させる。
光の流路は石扉の奥から下へ伸び、複数に分かれていた。
一方は、スペルビアの中央主機よりも深い岩盤の中心へ。
残る流れは外側へ広がり、途中で像が途切れている。
ただ、途切れた先には六つの小さな光点が浮かんでいた。
「残りの六島ですか」
「位置関係は一致します」
ノアが息を呑む。
「でも、島と島の間には何もない。配管なんて通せるはずが……」
「物質として繋がっているわけではありません」
ルシアンは六つの光点を拡大した。
それぞれの中心で、同じ形の紋様が明滅している。
「同じ術式を刻んだ二つの魔石は、距離が離れていても片方の振動をもう片方へ伝えることがあります。現在の魔導通信にも使われている、共鳴式の伝送です」
「この規模で、七つの島を共鳴させているのですか」
「おそらくは。ただし、私たちの技術とは方式が違う。流しているのも、魔力だけではないようです」
ルシアンが表示を切り替える。
青い流れの中心に、水滴に似た反応が現れた。
「水……」
「正確には、水を媒体とした高密度の魔力です。水が魔力を運び、魔力が水の流れを保っている。島の中では実際の流路を通り、島と島の間だけを共鳴によって渡しているのでしょう」
空に浮かぶ七つの大地。
その間を、目には見えない水が巡っている。
「古い技術資料に、名前だけが残っています」
ルシアンは、石扉に彫られた水瓶を見上げた。
「《天水脈》」
その言葉が発せられた瞬間、セレスから微かな熱が伝わってきた。
セレスを見る。
だが、何も言わない。
「この石扉が、《天水脈》の入口なのですか」
「入口ではありません」
ルシアンは扉の縁へ照明を向けた。
「蝶番がなく、左右にも上下にも動かすための隙間がない。代わりに、すべての溝が中央の水瓶へ集まっています」
立体図の中でも、流路は水瓶の背後で一度細くなり、その先で再び広がっている。
「これは、人が出入りするための扉ではない。流量を絞り、必要なら止めるための巨大な弁です」
「水道の栓みたいなものですか」
「簡単に言えば。ただし、これ一つで動かしているのは、街の水道ではなく浮遊大陸全体かもしれません」
ノアの顔から、先ほどまでの安堵が消えた。
「統括。空震の時の記録と重ねます」
「お願いします」
ノアが自分の魔導板を解析装置へ接続する。
立体図の上に、七本の波形が並んだ。
どの線も同じ時刻に大きく沈み、数秒後には元の位置へ戻っている。
だが、その直前、流れの向きを示す小さな矢印がすべて反対へ向いていた。
「逆流……」
「二・六秒間だけです」
ノアが波形を拡大する。
「《天水脈》の流れが反転した直後、七島の主機出力が一斉に低下。その後、補助機関が不足分を補って出力を戻してる」
「七つの機関が、同時に故障したわけではないのですね」
「独立した七基が、一秒以下の誤差で同じ故障を起こす可能性は、まずありません」
ルシアンの指が、一つだけ細かく揺れている波形を示した。
「原因は、各島の機関よりも上流にある。そして正常へ戻った後も、工業島イーラへ続く系統だけが安定していない」
「では、石扉が光ったのはなぜですか」
「逆流を検知し、弁を調整しようとしたのでしょう。発光までに一・八秒の遅れがあることからも、この石扉は原因ではなく、異常へ反応した側と考えるべきです」
先ほどの振動を思い出す。
大地そのものが、一瞬だけ支えを失ったような揺れ。
「《天水脈》が止まれば、この大陸は落ちるのですか」
「すぐには落ちません」
ルシアンは否定した。
「古代の機構が生み出す浮力を、現在の主機が増幅し、補助機関が島の傾きと高度を調整しています。《天水脈》が停止しても、蓄積槽と予備機関で一定時間は高度を維持できる」
「一定時間、ですか」
「現在の高度を保てるのは、長く見積もっても半日です。その後は、落下速度を抑えながら全島を計画降下させることになるでしょう」
七つの島を、安全な場所へ降ろす。
口で言うほど簡単なことではない、下には海もあれば町や森もある。
僅かに着地点を誤るだけで、空の国だけではなく、地上にまで被害が及ぶ。
「正体の分からないものに、この国を支えさせているのですか」
思わず、そう尋ねていた。
ルシアンは気を悪くした様子もなく、立体図を見つめる。
「その通りです」
否定も、言い訳もしなかった。
「私たちは《天水脈》を造った者も、すべての仕組みも知りません。だから、流量を測り、異常を逃がし、一つが止まっても別の機関で支えられるようにした」
青い光が、銀縁眼鏡の奥へ映り込んでいる。
「分からない力を、誰もが扱える形へ変える。そのために、私たち技師がいます」
「誰もが……」
「技術は、才能も血筋も選びません。正しい手順と道具があれば、同じ結果へ近づける。それが、技術の価値だと私は考えています」
黄道十二宮は、契約する者を選ぶ。
俺がセレスと出会ったことも、獅子宮へ入れることも、誰にでも与えられるものではない。
だが、目の前の解析装置は違う。
術式を理解し、正しい手順を覚えれば、ノアにも、ルシアンにも、その後を継ぐ誰かにも扱える。
受け継がれるのは力ではない。
力へ至るための方法だ。
『随分と、技師らしい人ね』
セレスが小さく呟く。
「褒め言葉として受け取っておきます」
ルシアンは立体図を閉じると、同行していた技師たちへ指示を出した。
「石造区画を一時封鎖。接触は禁止しますが、流量、魔力密度、弁の発光を常時記録してください。五分ごとに中央制御室へ自動送信を」
「了解しました」
「空震前後の七島の記録を、評議会と港湾管理局へ共有。カサンドラ管理官には、私から説明します」
その名を聞いた瞬間、ノアが僅かに視線を逸らした。
「ノア技師」
「はい」
「あなたには、イーラ系統の測定器を調整してもらいます。最初の反応を記録した者が扱う方が、誤差を減らせる」
「俺が行っていいんですか」
「発見者だからではありません。現時点で、この反応を最も正確に測れる技師だからです」
ノアは一度口を閉じ、それから力強く頷いた。
「分かりました」
ルシアンは、今度は俺へ向き直る。
「レグルスさん。あなたにも、同行をお願いできますか」
「俺が、ですか」
「私たちの装置は水属性反応を数値として捉えられます。しかし、人に似た形をしているか、どちらへ移動したかまでは判断できない」
銀縁眼鏡の奥の視線が、焦げ茶色の本へ向けられる。
「セレスさんの感知能力を、お借りしたいのです。中央ギルドには、こちらから正式な調査依頼として連絡します」
『目的地は、イーラね』
「ええ。異常が残っている工業島です」
「分かりました。俺も、青い人影の行方を確かめたいと思っています」
「ありがとうございます。出発前に、一か所だけ寄らせてください」
「どちらへ寄るのですか」
「私の研究区画です。イーラの旧接続区画には、どのような防衛機構が残っているか分かりません」
ルシアンは穏やかな口調のまま、続けた。
「念のため、武器を持っていきます」
◇
中央制御室に隣接する研究区画は、下層の工房よりも静かだった。
白い壁。
等間隔に並ぶ魔導灯。
硝子で仕切られた部屋の中には、分解された小型浮遊機関や、幾重もの術式を刻んだ金属板が置かれている。
ルシアンは最奥の扉を開き、壁際に固定されていた細長い金属ケースへ手を翳した。
銀縁眼鏡から青い光が放たれる。
光がケースの表面を走り、三つの錠が順番に外れた。
「統括。本当に持っていくんですか」
ノアの声に、不安が混じる。
「必要にならないことを願っています」
ケースが開く。
内部に収められていたのは、一振りの片刃剣だった。
俺の打刀とよく似ている。
刀身は緩やかに反り、刃は片側にしかついていない。
だが、刀として見れば、あまりにも異質だった。
峰には細い銀線が幾重にも埋め込まれ、柄には小さな魔石と金属製の接点が並んでいる。鍔も装飾ではなく、複数の薄い板を重ねた機構の一部に見えた。
「刀……ですか」
「東方では、そう呼ばれているようですね」
ルシアンは片刃剣を持ち上げ、柄尻の端子へ小さな共鳴石を差し込んだ。
「正式名称は、自動補正機構搭載型片刃剣。《試作ウルカーヌス》です」
青い光が柄から峰へ走る。
同時に、ルシアンの銀縁眼鏡にも細かな術式が浮かび上がった。
「自動補正とは、どういうものですか」
「使用者の斬撃を、機構が正しい軌道へ修正します」
ルシアンは眼鏡の右側へ触れた。
左右の硝子に、いくつもの円と線が重なっていく。
「眼鏡に組み込んだ二つの測距術式で、対象までの距離、移動方向、身体の傾きを読み取る。左右で僅かに異なる像を比較すれば、奥行きも計算できます」
「人が両目で距離を見るのと同じですね」
「その通りです。算出した斬撃軌道は、共鳴石を介して柄へ送られる。柄の接点から体内の魔力経路へごく弱い刺激を流し、手、腕、腰、脚の運動神経へ順番に伝えることで、必要な筋肉が動く順序を補正します」
目で測り、術式が考え、柄から身体へ命令する。
「使用者が刀を動かすのではなく、機構が身体を動かすのですか」
「起動を選ぶのは使用者です。どの相手へ、いつ仕掛けるかまで装置へ任せるつもりはありません」
ルシアンが柄を軽く握る。
「握る強さと親指の位置で、斬撃、停止、補正解除を選ぶ。機構が介入するのは、その後です。刃筋、入射角、軌道の三つを揃え、斬撃として成立させる」
「峰の銀線は、そのための術式ですか」
「ええ。刀身の曲がり、加速、刃へ加わった抵抗を測り、眼鏡へ戻すための感応回路です。計算と実際の動きに差が出れば、次の瞬間の刺激を弱めるか、強める。測定と補正を繰り返すことで、軌道のずれを小さくしています」
随分と複雑な仕組みだ。
それでも、一つ分からないことがある。
「なぜ、刀なのですか」
ルミナスでも、王国でも、主に使われているのは騎士剣だ。
わざわざ珍しい武器を基にするより、使い慣れた騎士剣へ機構を組み込む方が自然に思える。
「最初の試作機は、騎士剣でした」
ルシアンは俺の疑問を予想していたように答えた。
「ですが、騎士剣は自動補正に適していなかった」
「両刃だからですか」
「それも理由の一つです。両刃剣には、左右どちらの刃を使うか、斬るか突くか、受けるか弾くかという選択があります。柄や鍔を使う技術まで含めれば、有効な動作が多すぎる」
ルシアンが、空中へ複数の線を表示する。
一つの標的へ向けて、左右、上、正面から何本もの軌道が伸びた。
「人間なら、経験から一つを選べます。しかし、演算術式は条件に合う答えをすべて候補に挙げる。使用者の判断を読み取ってから絞り込むと、その僅かな遅れが実戦では致命的になる」
「装置が選んだ動きと、使用者が選んだ動きが違った場合は、どうなるのですか」
「補正同士が衝突します。初期試験では、剣先が止まる、狙いとは逆の刃が向く、受けようとした腕を突きへ移行させる、といった不具合が起きました」
「危なすぎます」
ノアが真顔で言う。
「だから騎士剣型は封印しました」
ルシアンは表示を消し、《試作ウルカーヌス》の峰を指でなぞった。
「その点、片刃湾刀は制限が多い。使用する刃は一つ。刀身の反りによって、斬撃に適した方向もある程度決まる。補正する項目を、刃筋、角度、軌道へ絞り込めます」
「峰なら、回路を埋め込んでも刃として使われませんね」
「ええ。両刃剣では、どちらへ回路を置いても衝撃を受ける可能性がある。片刃なら、峰を測定器と伝導路に使える」
ルシアンは僅かに笑った。
「刀が騎士剣より優れているから選んだのではありません。機構が迷わずに済むほど、用途を限定できたからです」
その説明には納得できた。
刀は、何でもできる武器ではない、刃筋を立て、反りに沿って引き斬る。
正しく扱わなければ、刃は通らない。
だからこそ、正しさを数値に置き換えやすい。
「剣士を育てるには、長い時間がかかります」
ルシアンは、壁際に置かれた試験用の柱へ向かった。
「ですが、事故も魔物も、訓練が終わるまで待ってはくれない。技師や一般の警備員でも、最低限、自分と周囲を守れるようにする。それが、この機構の目的です」
「量産するつもりなのですか」
「安全性を証明できれば、いずれは。ただ、現状では試作の域を出ません」
ルシアンが柱の前で、《試作ウルカーヌス》を鞘へ納める。
俺は無意識に、その足元を見た。
構えは自然だ、重心も崩れていない。
しかし、剣士が刀を抜く直前に見せるはずの力の集まりがない。
「低出力で接続試験を行います」
眼鏡の術式が回転する。
柄を握る指が、一度だけ震えた。
次の瞬間。
ルシアンの右足が半歩前へ滑り、腰が回る。
銀色の刃が鞘から走った。
乾いた音が一つ。
試験用の柱に取りつけられていた樹脂板が、斜めに切断されて床へ落ちる。
刃筋に狂いはない、角度も軌道も正確だった。
それなのに、背筋へ冷たいものが走る。
「どうですか、レグルスさん」
刀を鞘へ戻し、ルシアンが尋ねてくる。
「斬撃そのものは、正確です」
「そのものは?」
「刃が動き始める直前まで、身体に斬る気配がありませんでした。足、腰、肩が、それぞれ別の命令で動いたように見えます」
人が刀を振るえば、どれほど隠しても力の流れが生まれる。
地面を踏み、その力が腰を通り、肩から腕へ伝わる。
だが、今の動きには流れがなかった。
必要な場所だけが、必要な瞬間に動かされている。
「相手からすれば、読みにくい動きになるのでは?」
「初めて見る相手なら、そうかもしれません。ただ……」
言葉を選びながら、《試作ウルカーヌス》を見る。
「ルシアンさんが刀を振るったというより、刀にルシアンさんの身体が振るわれたように見えました」
ノアの視線が、ルシアンの右腕へ向く。
本人は平然としている。
だが、柄から手を離した指が、僅かに強張っていた。
「的確な評価です」
ルシアンは右手を開き、ゆっくりと握り直した。
「今の出力は三十パーセント。これ以上になると、演算上の正しさへ身体が追いつかない。筋肉や腱へ掛かる負荷と、使用者自身の動きをどこまで残すかが、まだ解決できていません」
「でしたら、使用は――」
「必要な場合に限ります」
ルシアンは言葉を遮らず、静かに答えた。
「未知の区画へ何の備えもなく入ることと、不完全な道具を制限して使うこと。その二つを比べた結果です」
腰へ《試作ウルカーヌス》を固定する。
技術は、誰にでも同じ結果を与える、だが、人の身体まで同じではない。
完全に見えた一閃の裏側で、機構と肉体が噛み合わず、軋んでいる。
その違和感が、胸の奥に残った。
突然、研究区画の警告灯が赤く染まった。
短い警報音。
壁面の通信板へ、工業島イーラの紋章が浮かび上がる。
「こちら中央制御室、クロイツ統括技師」
ルシアンが通信を繋ぐ。
『イーラ第三工業区、下層管理室です! 閉鎖済みの旧水路から流水音を確認! 水属性反応が急上昇しています!』
「主機出力は?」
『基準値から一・七パーセント低下! 補助機関で維持していますが、旧接続区画の内部で青色発光を確認しました!』
「人員を退避させ、区画を封鎖してください。水路にも、発光部にも触れないように」
『了解!』
通信が切れる。
ルシアンは研究区画の灯りを落とし、こちらへ向き直った。
「ノア技師。測定器を」
「準備できてます」
「レグルスさん、セレスさん。予定を早めます」
『ええ。その方がよさそうね』
セレスが、先ほどよりも強い熱を帯びている。
青い人影は、やはり消えていない。
天を巡る水を渡り、次の島へ移ったのだ。
ルシアンが《試作ウルカーヌス》の柄へ手を添える。
「目的地は、工業島イーラです」
研究区画の扉が開く。
その先には、遥か上層へ続く昇降機の灯りが見えた。
「では、行きましょう」
ルシアンは歩き出しながら、穏やかな声で付け加えた。
「落下には、気をつけてください」
この国へ来てから、何度か聞いた言葉だった。
だが、その時初めて、冗談には聞こえなかった。




