第42話 空に浮かぶ国
警報は、鳴り止まなかった。
高く、低く、異なる音が幾重にも重なり、港の隅々まで震わせている。
浮き上がった荷車が床へ落ち、積み上げられていた金属箱が崩れた。作業員たちは声を掛け合いながら負傷者を安全な場所へ運び、別の者たちは停止した魔導機関へ駆け寄っていく。
俺は片膝をついたまま、足元へ掌を押し当てていた。
硬い床から、細かな振動が伝わってくる。
「まだ揺れているのか」
『いいえ。今は、浮遊機関の振動だけよ』
「また落ちる可能性は?」
『分からないわ。少なくとも、さっきの現象は正常なものではないでしょうね』
焦げ茶色の本から返るセレスの声は、いつになく慎重だった。
俺は立ち上がり、周囲を見回す。
救助した五人は、港の内側へ避難していた。子供を抱いた女性も、老爺も、自分の足で歩いている。大きな怪我はなさそうだ。
そのことに安堵した直後、頭上から鋭い駆動音が降ってきた。
一隻の小型飛行艇が、港の上空へ滑り込んでくる。
艇体の側面には、翼を円環で囲んだ紋章が描かれていた。港の作業員たちがそれを見るなり道を空ける。
飛行艇は着地せず、床からわずかに浮いた状態で停止した。
側面の扉が開く。
最初に降りてきたのは、淡い色の軍服を思わせるスーツ姿の女性だった。
白いシャツの襟元にはネクタイが締められ、身体に沿ったジャケットの腰から下には浅いスリットが入っている。細身のパンツも裾の外側が割れ、足運びを妨げない造りになっていた。
風に揺れる赤銅色のセミロングの髪を片手で押さえながら、女性は港の状況を一度だけ見回した。
腰には、銃身と細身の刃を一つにした見慣れない武器が収められている。
「第三、第五係留区画を封鎖! 大型艇は西側待機空域へ回しな! 負傷者は昇降機を使うんじゃない。北側通路から運ぶんだ!」
落ち着いた声だった。
しかし、その言葉に迷いはない。
「各浮遊機関の出力記録も集めな! 一基ずつじゃなく、同時刻の変動を照合するんだよ!」
「承知しました、総監!」
後から降りてきた隊員たちが散っていく。
女性はそれを見送ることなく、次の指示を出しながら港の中央へ進んだ。
作業員の一人が駆け寄り、手元の薄い魔導板を差し出す。
「カサンドラ総監。連絡橋に残されていた五名は全員救助されました。うち一名が腕を負傷していますが、命に別状はありません」
「そうかい。よかった」
「ただ、救助したのは保全隊ではなく――」
作業員の視線が、こちらへ向いた。
カサンドラと呼ばれた女性も、その視線を追う。
俺と目が合った。
彼女は何かを確かめるように俺の全身を眺め、腰の刀とギルドカードへ視線を止めた後、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「橋へ飛び込んだ冒険者というのは、あなたですね」
「はい。レグルス・クレハルトと申します」
「私はカサンドラ・ヴェイン。ルミナス魔導連合で、空域保全総監を務めています」
差し出された手を握る。
細い指だったが、掌には硬いものが触れた。武器を長く握ってきた者の手だ。
「助けてくださって、ありがとうございます。あのまま橋が落ちていれば、全員を救うのは難しかったでしょう」
「間に合ってよかったです」
「ええ。ただ、次からは私たちが到着するまで待ってくださいね」
感謝を口にした時と同じ穏やかな声だった。
「あなたまで落ちてしまったら、助けなければならない人が増えてしまいますから」
「……気をつけます」
「本当に分かっていますか?」
「できる限りは」
正直に答えると、カサンドラは小さく息を吐いた。
「その答え方をする人は、たぶんまた飛び込みますね」
怒っているわけではないらしい。
口元には、わずかに困ったような笑みが浮かんでいた。
『よく分かっている人ね』
腰元から聞こえたセレスの声に、俺は返事をしなかった。
「右腕を見せてもらえますか」
カサンドラに促され、袖を捲る。
支柱を弾いた時に受けた衝撃で、前腕が赤く腫れていた。
「治療班に診てもらいましょう。骨に異常がなくても、魔力を流した時に痛める可能性があります」
「この程度なら動かせます」
「動くことと、傷めていないことは別ですよ」
柔らかな口調のまま言い切られた。
反論できず、近くにいた治療班へ腕を差し出す。
生活魔法よりも冷たい光が前腕を包み、痺れが少しずつ引いていった。
その間にも、カサンドラのもとへ次々と報告が集まってくる。
「総監。最初に沈下したのは、第十二補助島です。浮遊機関の第三系統が一時停止していました」
「原因は?」
「確認中です。ただ、その直後――中央島スペルビアを含む七つの主要島でも、浮遊出力が同時に低下しています」
カサンドラの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「七島すべてかい?」
「はい。低下時間は数秒ですが、記録上の時刻は一致しています」
「各島の保全局へ連絡! 主機だけじゃない、補助機関と魔力供給路も全部点検しな! 結果が出るまで、島間連絡橋は通行制限だ!」
「しかし、それでは物流が――」
「大地がもう一度落ちたら、物流どころじゃないよ! 安全が確認できた区画から戻せばいい。急ぎな!」
「承知しました」
作業員が走り去る。
俺はカサンドラへ尋ねた。
「こういったことは、以前にもあったのでしょうか」
「小規模な《空震》なら、ごくまれに起こります。強い風や浮遊機関の出力差で、小型島が揺れることはありますから」
彼女は一度言葉を切り、遠くに浮かぶ島々を見た。
「ですが、七つの主要島が同時に沈んだ記録は、私の知る限りありません」
『やはり、局所的な故障ではなさそうね』
セレスの声が、重く響く。
その時、カサンドラが俺の手にあるギルドカードへ目を留めた。
「レグルスさんは、観光でいらしたわけではなさそうですね」
「王都ヴァルエストのギルドから、連合中央支部への紹介状を預かっています」
懐から革の書類入れを取り出す。
封蝋を確認したカサンドラは、小さく頷いた。
「中央支部には私から連絡しておきます。ここは中央島スペルビアの南部連絡港ですから、空中魔導列車で上層区画まで行けます」
「列車は動いているのですか」
「安全確認が終わった路線から、間もなく運転を再開します。この国では、交通をすべて止めたままにはできませんから」
その言葉の直後、停止していた高架軌道へ淡い光が戻った。
遠くで、試運転用らしい短い車両がゆっくりと走り始める。
空に築かれた国が、再び動き出そうとしていた。
◇
事故から一時間ほどが経った頃、大型魔導艇の緊急着艇と乗客の荷物返却が始まった。
預けていた荷物を受け取り、俺はカサンドラから渡された一時通行証を手に、港駅の改札を抜けた。
「中央支部には連絡を入れてあります。到着したら受付で名前を伝えてください」
「何から何まで、ありがとうございます」
「こちらこそ、港の人たちを助けてもらいましたから。それと――」
カサンドラは俺の右腕へ視線を落とした。
「今日は、あまり無茶をしないでくださいね」
「努力します」
「やっぱり、約束はしてくれないのですね」
困ったように笑ってから、彼女は隊員たちのもとへ戻っていった。
俺は一時通行証を改札の魔導板へ翳し、空中魔導列車へ乗り込む。
車内は、王都の魔導列車よりも明るく、広かった。
長椅子の上には柔らかな布が張られ、扉の上には路線と現在地を示す光の図が浮かんでいる。中央島の外縁から上層部へ向けて、線路は大きな螺旋を描いていた。
発車を知らせる音が鳴る。
ほとんど揺れを感じさせず、列車が動き始めた。
港の発着場が下へ遠ざかっていく。
「復旧が早いな」
『止まれば、国そのものが動かなくなるのでしょうね』
窓の外には、幾重にも重なった街が広がっていた。
下層には倉庫や整備場が並び、その上には作業員向けらしい集合住宅が連なっている。さらに高度を上げると、硝子を多用したビルや、同じ形の窓が規則正しく並ぶマンションが姿を現した。
建物の外壁を、箱型の昇降機が絶え間なく上下している。
空中連絡橋の上を歩く人々の服装もさまざまだった。
スーツにネクタイを締めた者。パーカーへスラックスを合わせた者。半袖のTシャツに作業用のパンツを穿いた者。王都より形は簡素だが、動きやすさを重視しているように見える。
列車の横を、一人乗りの小さな飛行具が通り過ぎた。
操縦しているのは、俺よりもずっと幼く見える少年だった。機体には目立つ色の標識が取りつけられ、その後ろを指導員らしい大人の小型艇が追っている。
「子供まで空を飛ぶのか」
『足元が空なのだもの。地上で馬車の扱いを覚えるのと、同じ感覚なのかもしれないわね』
「慣れるまで時間がかかりそうだ」
『あなたの場合、移動手段より先に飛び降りることを覚えてしまったけれど』
「まだ言うのか」
『反省はしてもらうと言ったでしょう』
俺は窓の外へ視線を戻した。
建物の屋上には、透明な屋根に覆われた農園があった。背の低い果樹と野菜が整然と並び、隣接する建物の壁面には、乳牛らしき絵が描かれた看板が掲げられている。
一方、駅の近くに並ぶ飲食店の前には、海魚や肉料理を大きく描いた広告が目立つ。
港で見た冷却箱の中身は、こうして各区画へ運ばれていくのだろう。
ふと、車内放送が流れた。
「右手下方に見えますのは、主要浮遊島イーラです。大型魔導機関、飛行艇、浮遊機関部品を扱う工業区画となっております」
窓の向こうに、中央島よりも低い位置を漂う大地が見えた。
住宅や商店の多いスペルビアとは、景色がまるで違う。
巨大な工場が並び、煙突から白い蒸気が立ち上っている。飛行艇の骨組みを収めた格納庫や、環状魔導機関を組み上げるための巨大な設備も見えた。
何隻もの貨物艇が工場の間を往来し、完成した部品を別の島へ運び出している。
「あれだけの工場まで、空に浮かべているのか」
『主要な大型機関を作る島なのでしょうね。ルミナスの工業を支える場所と考えてよさそうだわ』
イーラのさらに奥には、形も高さも異なる浮遊島が見える。
中央島スペルビアを中心に、六つの主要島と無数の小型島が空へ広がっている。
国境を一本の線で区切る地上国家とは、成り立ちからして違っていた。
列車は高度を上げ続ける。
雲海は遥か下へ遠ざかり、頭上には薄雲一つない青空が広がっていた。
先ほど国全体が沈んだというのに、風も気温もほとんど変わっていない。
天候調整術式が、何事もなかったかのように空を保っている。
その整いすぎた青さが、今は少し不気味に見えた。
◇
中央島スペルビアの上層駅を出ると、目の前に広い空中広場があった。
淡い石材を敷き詰めた地面の中央には噴水があり、その周囲を硝子と金属で組まれた建物が囲んでいる。
王都ヴァルエストのような石造りの重厚さはない。
細い柱と大きな窓を組み合わせた建物は、空へ伸びることを前提に作られていた。
案内板に従って進むと、剣と杖、そして天秤を組み合わせた紋章が見えてくる。
ルミナス魔導連合冒険者ギルド中央支部。
十階を超える縦長の建物だった。
正面扉をくぐると、複数階を貫く大きな吹き抜けが広がっている。受付窓口が円形に並び、壁面の魔導掲示板には、依頼内容と報酬が次々と書き換えられていた。
武器を携えた冒険者たちだけではない。飛行艇の操縦士や技師、工場の責任者らしき者まで受付へ並んでいる。
地上とは、依頼の内容も大きく違うのだろう。
「レグルス・クレハルト様ですね。お話は伺っております」
受付で名前を伝えると、すぐに案内役が現れた。
「ギルド長がお待ちです。こちらへどうぞ」
「分かりました」
昇降機で最上階近くまで上がる。
案内された部屋は、王都ギルドの執務室よりも広かった。
壁の大半が硝子でできており、眼下には中央島の街並みと、その周囲に浮かぶ島々が見渡せる。
机の前に、人が立っていた。
腰まで届く茶色の長髪。
身体を覆う丈の長いコートには、腰から下へ深いスリットが入り、裾が足の動きを妨げないよう分かれている。その内側にも動きやすい服とパンツを合わせ、手には複数の指輪が嵌められていた。
「ようこそ、空に浮かぶ国へ」
女性は机へ寄りかかり、俺を見て笑った。
「ずいぶん派手な到着になったみたいですね、レグルスさん」
「俺が起こしたわけではありません」
「分かっています。冗談です」
女性は机から身体を離し、コートの裾を揺らしながらこちらへ歩いてきた。
「ヴィオラ・ミストラル。ここのギルド長をしています」
「レグルス・クレハルトです。こちらを王都支部から預かっています」
紹介状を差し出す。
ヴィオラは封蝋を確かめてから中身へ目を通した。
「なるほど。王都での功績と、Dランクへの特例昇格。それに、中央支部への紹介ですか」
「何か、問題があるのでしょうか」
「いいえ。むしろ歓迎します。冒険者は、自分の知らない場所へ足を運んでこそですから」
紹介状を机へ置き、ヴィオラは右手を上げた。
親指と中指を重ねる。
嵌められた指輪へ淡い魔力が集まり――乾いた音が鳴った。
ぱちん。
部屋の中央へ、巨大な立体地図が展開される。
一つの大きな浮遊島と、それを囲む六つの島。
さらに、その周囲を漂う無数の小型島。
先ほど列車の窓から見たルミナス魔導連合の全体像だった。
七つの主要島の中心部には、それぞれ光の柱が浮かんでいる。
そのすべてに、短い赤色の線が刻まれていた。
「先ほど、七島すべての浮遊出力が同時に低下しました」
「カサンドラさんからも聞きました」
「話が早くて助かります。今のところ、主浮遊機関そのものに大きな損傷は見つかっていません。だからこそ、原因が分からない」
ヴィオラが指先を動かすと、七本の光の柱が拡大される。
どれも同じ時刻に、ほぼ同じ形で細くなっていた。
「一基が壊れたのなら、その一基を直せばいい。ですが、異なる島の機関が同時に同じ異常を起こしたとなれば、話は別です」
『機関ではなく、機関へ力を送る側に異常がある……』
セレスの呟きが腰元から聞こえた。
ヴィオラは立体地図を見たまま、反応を示さなかった。
「俺にできることはありますか」
「到着したばかりのあなたへ、いきなり国の命運を預けるほど人手には困っていません」
ヴィオラはそう言って、立体地図を閉じた。
「今日は休んでください。中央支部の登録と、滞在用の部屋はこちらで用意します」
「ありがとうございます」
「ただし、各島の下層区画と整備区画は、現在立ち入りを制限しています。観光気分で降りないようにしてくださいね」
「分かりました」
「いい返事です。港で空へ飛び出したという話を聞いた後では、あまり信用できませんけれど」
「……努力します」
「カサンドラにも、同じことを言ったのでしょう?」
返す言葉がなく、黙り込む。
ヴィオラは声を上げて笑った。
◇
ギルドを出た頃には、陽が西へ傾き始めていた。
用意された宿泊施設は、中央支部から空中連絡橋を二本渡った先にあるという。
街には魔導街灯が灯り、硝子張りの建物が橙色の光を反射していた。
それでも空は晴れたままだ。
風は穏やかで、気温もほとんど変わらない。
「奇妙な国だな」
『気に入らない?』
「いや。歩いているだけで、知らないものがいくつも見つかる」
『それなら、来た意味はあったわね』
「まだ一日目だけどな」
連絡橋の中ほどで足を止め、欄干の向こうを見下ろす。
下には別の街路があり、そのさらに下を空中魔導列車が走っている。灯りの層が幾重にも重なり、夜空を逆さにしたようだった。
ここが空の上であることを忘れそうになる。
再び歩き出そうとした時だった。
『レグルス、止まって』
焦げ茶色の本から、鋭い声が響いた。
足を止める。
「どうした?」
『正面の建物。その屋上に、魔力反応があります』
硝子張りの建物を見上げる。
屋上には細い柵と、天候調整術式の一部らしい柱が並んでいた。
人の姿はない。
「俺には何も見えない」
『ええ。けれど、確かにいます。人の形をした、水属性の魔力です』
目を凝らしても、硝子へ反射する夕日のほかには何も見えない。
直後、俺と建物の間を空中魔導列車が横切る。
窓からこぼれる光が連なり、視界を覆い隠した。
列車が通り過ぎる。
屋上には、やはり誰もいなかった。
「消えたのか」
『いいえ。移動しています』
「どこへ?」
『建物の裏側。整備用の昇降機へ向かっているわ』
欄干から身を乗り出し、下層へ続く昇降機を探す。
建物の背面に沿って、細い金属製の箱が降下していた。
表示灯は消えている。
人が使っている様子もない。
「前にも感じた魔力か?」
短い沈黙があった。
『ええ』
セレスの声が、わずかに低くなる。
『王都の封印区画に残っていたものと、同じ魔力です』
「どこへ向かっている?」
『……下です』
整備用昇降機は、街の灯りから遠ざかっていく。
中央島スペルビアの下層。さらに、その下へ。
『この国の、さらに下へ』




