第41話 雲海の向こう
窓の向こうから、海が現れた。
王都ヴァルエストを発ってから、魔導列車はひたすら南へ走り続けていた。
初めは運河と湖のきらめきが見えていた。やがて石造りの街並みが途切れ、畑と牧草地が広がり、それすらも背の低い草原へと変わっていった。
そして今、水平線の彼方まで続く群青が、車窓いっぱいに広がっている。
「まもなく終点、南方連絡港。南方連絡港です。お降りの際は、お手回り品をお忘れになりませんよう――」
天井に埋め込まれた通信用の魔導具から、車掌の声が流れた。
俺は座席から立ち上がり、懐へ手を入れる。
王都冒険者ギルドから預かった紹介状は、折れることなく革の書類入れに収まっていた。腰には刀。その反対側には、焦げ茶色の表紙を持つセレスが革製の留め具で固定されている。
忘れ物はない。
列車が速度を落とすにつれ、車輪と軌道が擦れ合う低い音が長く車内へ響いた。
やがて短い衝撃とともに、完全に停止する。
扉が開いた瞬間、潮の匂いを含んだ風が流れ込んできた。
「ここが、南方連絡港か」
『ええ。アストレア大陸から、ルミナス魔導連合へ渡るための玄関口ね』
乗客の流れに沿って列車を降りる。
駅舎は王都ヴァルエスト中央駅よりも簡素だったが、遥かに広い。何本もの線路が並び、その先は巨大な倉庫群へと延びている。
作業着姿の人々が、魔導機関で動く荷車を忙しなく行き交わせていた。
積み上げられているのは、冷却術式の刻まれた金属箱だ。蓋の隙間から白い冷気がこぼれ、側面には鮮魚、燻製肉、加工肉と内容物を示す札が下がっている。
その一方で、別の線路には、見慣れない部品や硝子板を積んだ貨車が停まっていた。おそらく、浮遊大陸から運ばれてきたものだろう。
人と物が、絶え間なく大陸と空を行き来している。
駅舎を抜けると、視界が一気に開けた。
眼前には海が広がっている。
だが、俺の足を止めたのは海ではなかった。
海岸から突き出すように築かれた何本もの塔。その最上部に、巨大な船が浮かんでいた。
帆はない。
灰白色の船体は、王都で見かけた魔導列車を何両も束ねたほどに長く、腹部は濃紺の装甲板で覆われている。船体の左右には翼に似た構造物が張り出し、その内側で巨大な環状魔導機関が青白い光を脈打たせていた。
海面から伸びる係留塔と幾本もの太い鎖が、その巨体を地上へ繋ぎ止めている。
それでも、船体は波に揺られる船のように、空中でゆっくりと上下していた。
『あれが、ルミナスへ渡る大型魔導艇ね』
「……大きいな」
『感想が短いわね』
「本当に驚いた時は、言葉が減るものだろ」
『それもそうね』
かすかに楽しそうな声が、腰元から返ってきた。
俺はしばらく大型魔導艇を見上げてから、乗船口へ向かった。
◇
「渡航証と身分証を拝見します」
「はい。お願いします」
係員へ乗船券とギルドカードを渡す。
青い作業着の上から濃紺の上着を羽織った男は、カードへ刻まれた文字を確認すると、わずかに眉を上げた。
「Dランク冒険者、レグルス・クレハルト様。渡航目的は、連合中央支部への訪問で間違いありませんか」
「はい。王都支部から紹介状を預かっています」
「承知しました。武器の携行は認められていますが、艇内では緊急時を除いて抜かないようお願いいたします」
「分かりました」
返されたカードを受け取り、昇降機へ乗り込む。
金属製の箱が、壁に沿って垂直に上昇していく。窓の外で地上の人々が小さくなり、代わりに大型魔導艇の船腹が迫ってきた。
やがて昇降機が停止し、扉の先に船内へ続く連絡通路が現れる。
足を踏み入れた艇内は、外から見た印象よりも明るかった。
床と壁には木材が使われているが、角や継ぎ目は金属で補強されている。天井を走る細い魔導回路が淡い光を放ち、魔導機関の低い唸りが足裏から絶えず伝わってきた。
荷物を預けた後、案内板に従って上層の展望甲板へ向かう。
甲板を囲むように透明な防風障壁が張られており、その向こうには港と海を遮るものなく見渡せた。
ほどなくして、腹の底へ響く鐘が三度鳴った。
「当艇はこれより、ルミナス魔導連合へ向けて出港いたします。出港時は船体が大きく揺れる場合がございます。手すり、または座席の固定具をご利用ください」
俺は甲板の手すりを掴んだ。
左右の環状魔導機関から発せられる光が、徐々に強くなっていく。
足元を通り抜ける振動が細かくなり――次の瞬間、身体がわずかに沈んだ。
違う。
沈んだのは身体ではない。
地面の方が、遠ざかっている。
係留鎖が一本ずつ外され、大型魔導艇が音もなく上昇を始めた。
倉庫の屋根が低くなり、魔導列車が細い玩具のように見えてくる。やがて係留塔の先端を越え、遮るもののない海上へ出た。
防風障壁に守られているはずなのに、足元が妙に頼りなく感じる。
『怖いの?』
「怖くはない。ただ、足場の下に何もないというのは落ち着かないな」
『走行中の魔導列車の屋根で戦った人の言葉とは思えないわね』
「あの時は、下に地面があった」
『落ちれば助からない高さだったと思うけれど』
「地面があるのと、ないのとでは違う」
『そういうものかしら』
セレスの声に、少しだけ呆れた響きが混じる。
俺は手すりから手を離し、遠ざかっていく大陸を見つめた。
海岸線はみるみるうちに小さくなり、青い海と空の境目へ溶けていく。
大型魔導艇はさらに高度を上げた。
やがて白い雲が船体を包み込む。
視界が閉ざされ、細かな水滴が防風障壁を流れていった。冷えた空気が頬を撫で、湿り気を含んだ匂いが鼻を掠める。
雲の中では、上下の感覚すら曖昧になる。
それでも魔導艇は迷うことなく進み続けた。
白一色だった世界が、次第に明るくなっていく。
そして――雲を抜けた。
「……これは」
言葉が、そこで止まった。
眼下には、果ての見えない雲海が広がっている。
陽光を受けた雲の起伏は、白銀の海そのものだった。その遥か先に、黒い影が浮かんでいる。
初めは、雲だと思った。
だが、魔導艇が近づくほど、その輪郭は明確になっていった。
大地だった。
山を逆さに吊るしたような巨大な岩盤が、雲海を押し分けて空に浮かんでいる。岩肌には青白い魔導回路が幾筋も走り、縁を囲む巨大な環状機関が、ゆっくりと明滅を繰り返していた。
その上に――都市がある。
陽光を反射する硝子張りの高層建築。
白や灰色を基調とした集合住宅が、幾何学的に区切られた街路に沿って連なっている。その間を縫うように高架軌道が走り、数両編成の魔導列車が滑るように行き交っていた。
建物の外壁を、箱型の昇降機が上下している。
大地の周囲には大小さまざまな浮遊島があり、幅の広い連絡橋が島同士を結んでいた。橋の上を人と荷車が行き交い、そのさらに上を、小型の飛行船が規則正しく飛んでいる。
空は、何もない場所ではなかった。
ここでは空そのものが、道になっている。
「あれが、ルミナス魔導連合……」
『ええ。魔導技術によって空へ領土を築いた国よ』
「同じ世界とは思えないな」
王都ヴァルエストでは、水路が人と物を運んでいた。
ここでは、その役割を空が担っている。
大地の広さに縛られず、上へ、下へ、島から島へ。都市そのものが立体的に広がっていた。
さらに近づくと、街の細部まで見えるようになってくる。
硝子窓の向こうには人影があり、屋上には果樹や野菜らしき緑が並んでいる。地上の農村とは比べものにならないほど限られた土地を、一つとして無駄にしない造りなのだろう。
それにしても、不自然なほど空が晴れていた。
振り返れば、俺たちが抜けてきた雲海が白い壁となって続いている。だが、浮遊大陸の上空には薄雲一つない。
『風の流れも、湿度も一定に整えられているわ』
「それも魔導技術か」
『おそらくは、天候そのものを調整する術式が組まれているのでしょうね』
「空に大地を浮かべるだけでも信じられないのに、天気まで変えるのか」
『レグルス。驚くと、言葉が増えることもあるのね』
「……放っておいてくれ」
セレスの声に、今度ははっきりと笑いが混じった。
大型魔導艇が徐々に速度を落とす。
浮遊大陸の外縁部には、何層もの発着場が張り出していた。大型艇用の広い桟橋、小型飛行船が並ぶ発着台、貨物を運ぶための昇降機。それぞれが複雑に組み合わさり、一つの巨大な港を形作っている。
「まもなく、ルミナス魔導連合側の連絡港へ入港いたします。着艇が完了するまで、その場を動かず――」
放送の途中だった。
どん、と。
腹の奥を叩くような衝撃が走った。
大型魔導艇の船体が大きく軋む。
甲板にいた乗客たちから、小さな悲鳴が上がった。俺も手すりを掴み直し、足を踏ん張る。
「乱気流か?」
『……違うわ』
即座に返ったセレスの声は、先ほどまでとは違っていた。
低く、鋭い。
次の瞬間、港全体にけたたましい警報音が鳴り響いた。
「空震……?」
近くにいた乗務員が、信じられないものを見るように呟く。
「固定術式の出力を上げろ! 着艇を中止、船体を港から離せ!」
別の乗務員が声を張り上げた。
環状魔導機関が唸り、大型魔導艇が再び上昇しようとする。
その時だった。
港の左側に浮かんでいた小島が、沈んだ。
ほんの数メートル。
だが、巨大な大地が何の前触れもなく落下する光景は、距離の感覚を狂わせるほど異様だった。
小島と港を結ぶ連絡橋が、大きく歪む。
金属の骨組みが悲鳴を上げ、硝子板が次々と砕け散った。
橋の中央が折れ曲がる。
そこには、まだ人がいた。
作業員が二人。大きな鞄を抱えた老爺。そして、幼い子供を連れた女性。
傾いた床の上で、五人の身体が一斉に滑る。
「橋が落ちるぞ!」
「緊急障壁を展開しろ!」
港側の作業員たちが叫ぶ。
橋の下に魔法陣が浮かびかけたが、明滅するだけで形を保てない。大地を浮かせるための術式そのものが乱れているのかもしれない。
連絡橋と大型魔導艇の距離は、十数メートル。
遠くはない。
『レグルス』
「分かってる」
考えるより先に、身体が動いていた。
手すりへ片足を掛ける。
「お客様、何を――!」
背後から制止の声が飛んできた。
だが、もう遅い。
魔力を身体の中心へ通す。
緑色の魔力波が足元で弾け、周囲の風が脚へまとわりついた。
「――纏風舞踏」
甲板を蹴る。
防風障壁を突き抜けた瞬間、強烈な風圧が全身を叩いた。
空中で身体が流される。
腰を捻り、右足へ集めた風を解放する。噴き出した風が軌道を押し戻し、傾いた連絡橋の上へ俺の身体を運んだ。
着地と同時に膝を曲げ、衝撃を逃がす。
橋はすでに大きく傾いていた。
足場が揺れ、靴底が滑る。
目の前を、幼い子供が転がるように落ちてきた。
左足を骨組みへ引っ掛け、片手を伸ばす。
子供の腕を掴んだ瞬間、肩が抜けそうな衝撃が走った。それでも手を離さず、風を脚へ集中させて身体ごと引き寄せる。
「大丈夫か」
子供は声も出せず、何度も頷いた。
「その子を……!」
床にしがみついていた女性が、必死に腕を伸ばしている。
俺は子供を抱え直し、傾斜を駆け上がった。
「走ってください! 港側へ、振り返らずに!」
女性へ子供を渡す。
老爺と作業員たちも、手すりを掴みながら港側へ進み始めた。
しかし、その進路へ頭上から巨大な影が落ちる。
『右上! 支柱が落ちるわ!』
折れた金属支柱だった。
橋の上部を支えていた太い梁が、回転しながら人々へ迫っている。
斬るには厚すぎる。
受け止めれば、傾いた足場ごと押し潰される。
なら――流れを逸らす。
俺は腰を落とし、刀を抜いた。
落ちてくる支柱の速度、回転、重さ。
すべてを止めようとするな。
力の向きを読み、最も小さな一点へ刃を差し込む。
右足を踏み込み、身体の中心を通した魔力を腕へ送る。
支柱と刃が触れ合った。
「――獅吼爪弾!」
甲高い金属音が空へ弾けた。
刀身から放たれた衝撃が、落下の力へ食らいつく。
一瞬だけ、巨大な支柱の動きが止まった。
次いで、その表面を三本の緑色の爪痕が駆け抜ける。
支柱は俺たちの頭上を掠め、軌道を変えて雲海へ落ちていった。
「今です!」
最後の作業員が、港側の足場へ飛び移る。
その直後、俺の足元で金属板が裂けた。
連絡橋が、完全に崩れる。
踏み出した右足の下から、足場が消えた。
身体が宙へ投げ出される。
眼下にあるのは、底の見えない白い雲だけだ。
崩れ落ちる橋の破片を視界の端に捉える。
空中で身体を丸め、その一つへ左足を叩きつけた。
足場にした金属板が落下の勢いで沈む。
同時に、脚へ残していた風を解放した。
「《纏風舞踏》!」
風が背中を押す。
伸ばした右手が、港側から突き出した手を掴んだ。
「引き上げろ!」
数人の作業員に腕を掴まれ、身体が固い床の上へ転がり込む。
背後で、連絡橋の残骸が雲の中へ消えていった。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
警報音と、魔導機関の唸りだけが響いている。
「……助かった」
先ほどの老爺が、掠れた声を漏らした。
子供を抱きしめた女性が、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます。この子まで……本当に……」
「怪我がないなら、それで十分です」
そう答えてから、俺は立ち上がった。
刀を鞘へ戻す。
右腕に痺れが残っていた。完全に弾いたつもりだったが、支柱の重さを殺しきれず、衝撃の一部を受けている。
それでも、動かせないほどではない。
『無茶をしたわね』
「間に合うと思った」
『間に合ったから、今回はそれでいいわ』
「怒らないんだな」
『あとで反省はしてもらうけれど』
「……やっぱりか」
息を整えながら、周囲を見回す。
大型魔導艇は港から距離を取り、空中で停止していた。小島は先ほどより低い位置で不安定に揺れ、断ち切られた連絡橋の断面から火花が散っている。
港では作業員たちが負傷者の確認へ走り、停止した昇降機や発着設備の復旧に取りかかっていた。
事故は起きた。
だが、ひとまず最悪の事態は避けられた。
誰もが、そう思ったはずだ。
――次の衝撃が来るまでは。
音はなかった。
突然、足元から重さが消えた。
胃が持ち上がり、身体が床からわずかに浮く。
港にいた人々が一斉に姿勢を崩した。
係留されていない荷車が跳ね、積み上げられた金属箱が激しくぶつかり合う。
俺は片膝をつき、床へ手を突いた。
落ちている。
先ほどの小島だけではない。
俺たちが立っている、この巨大な大地そのものが。
視界の先で、硝子張りの建物がゆっくりと揺れた。外壁を走っていた昇降機が緊急停止し、空中魔導列車が軌道の上で次々と速度を落としていく。
大型魔導艇と港を繋ごうとしていた係留索が、弓弦のように張り詰めた。
数秒にも満たない落下。
それでも、空に浮かぶ大地が沈んだことだけは、はっきりと分かった。
やがて重さが戻り、身体が床へ押しつけられる。
遅れて、都市の各所から警報音が鳴り始めた。
「今のは……」
乱気流ではない。
周囲の小型飛行船は、風に流されることなくその場へ留まっている。衣服も、旗も、大きくはためいていない。
俺は刀と反対側の腰へ手を添えた。
「セレス」
わずかな沈黙の後、焦げ茶色の本から静かな声が返ってきた。
『風ではありません』
警報が鳴り響く中、その声だけが不自然なほど明瞭に聞こえた。
『今、空に浮かぶ大地そのものが揺れました』




