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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
幕間 勇者誕生
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外伝 第1話 黄昏に生まれた極光

外伝です。世界の裏側の勇者の物語です。

 リュミエールの朝は、温めた乳と焼きたてのパンの匂いで始まる。


 ヴァルディア王国の外れ。

 王都から遠く離れた場所にありながら、リュミエールは村と呼ぶにはあまりにも大きい。

 なだらかな丘陵の先まで畑が続き、低い石垣によって区切られた農地には、季節ごとに色を変える野菜が整然と植えられている。

 今の季節は、瑞々しい葉を広げた青菜や、赤く熟した実をつける夏野菜が収穫の時期を迎えていた。土の中から掘り出されたばかりの根菜は、朝露を纏ったまま木箱へ詰められていく。

 さらに、その外側には広大な牧草地が広がっている。

 白や茶色の牛が朝靄の中で草を食み、遠くから首につけられた鐘の音が聞こえてくる。搾りたての乳は銀色の容器に移され、村の工房でバターやチーズへと加工される。

 新鮮な野菜と乳製品。

 それが、リュミエールを豊かにしてきた特産品だった。


 村の中央へ近づくにつれて、景色は急速に変わっていく。

 土の道は石畳へと変わり、その両側には白壁と木組みで造られた二階建ての家々が並ぶ。窓辺には色とりどりの花が飾られ、通りには朝早くから幌馬車や荷車が行き交っていた。

 中心街の規模は、王国内の地方都市と比べても遜色がない。

 その発展を支えているのが、村の東側に設けられた魔導列車の駅だった。

 大きなアーチ屋根に覆われた駅舎には、旅客用と貨物用の複数の乗降場がある。

 青白い魔力光を帯びた線路が遠くまで延び、貨物区画では早朝から作業員たちが忙しなく動き回っていた。


 採れたばかりの野菜を詰めた木箱。

 冷却術式の刻まれた銀色の乳缶。

 蝋紙に包まれたチーズや、樽に詰められたバター。

 それらが次々と魔導貨車へ積み込まれ、王都をはじめとした各地へ運ばれていく。

 停車中の魔導列車から低い駆動音が響く。

 車体の下を走る青い光が少しずつ強くなり、やがて長い汽笛とともに、何両もの貨車を連ねた列車が滑るように走り出した。

 そんな光景を、私は屋敷の裏手にある訓練場から眺めていた。


「セフィリア。余所見をする余裕があるのか?」


「――ありません!」

 声に反応し、すぐに正面へ意識を戻す。

 次の瞬間、木剣が目の前まで迫っていた。

 私は咄嗟に身体を沈める。

 頭上を木剣が通過した。

 風を切る鋭い音が、結んだ金髪を揺らす。

 回避した勢いを利用して右足を踏み込み、握っていた木剣を下から斬り上げた。

 だが、指南役は身体を半歩ずらしただけで、私の一撃を避ける。

 木剣が空を切った。


「踏み込みが浅い」


「はい!」


「腕だけで振るな。足で大地を捉え、腰を回し、その力を肩から剣へ伝えろ」


「もう一度、お願いします」

 私は両手で木剣を構え直した。


 額から落ちた汗が、乾いた地面へ小さな染みを作る。

 青を基調とした訓練着は汗を吸い、肌へ張りついていた。何度も木剣を握り直したせいで、両手の皮膚も熱を持っている。

 けれど、剣を下ろすつもりはなかった。

 指南役が再び間合いを詰めてくる。

 今度は上段からの振り下ろし。

 受け止めれば力で押し切られる。

 だから、受けない。

 相手の木剣へ斜めに刃を添え、力の向きを僅かに横へずらす。

 木剣同士が打ち合わされ、乾いた音が響いた。

 指南役の剣が、私の肩を掠めて地面を叩く。

 そのまま横へ踏み込み、相手の脇腹を狙う。

 けれど――指南役の足元に、淡い青色の魔力が灯った。

 一瞬で間合いを外される。

 私の木剣が届くよりも早く、相手の切っ先が喉元で止まった。


「……参りました」

 息を吐き、構えを解く。


「剣筋は悪くない。相手の力を正面から受けず、流した判断もいい」


「ですが、最後はまったく見えませんでした」


「魔力による身体強化だ。実戦では、当然のように使われる」


 分かっている。

 だからこそ、悔しかった。

 幼い頃に行われた属性判定で、私の水晶はどの色にも染まらなかった。

 火、水、風、土。

 一般的な四属性はもちろん、光や闇といった希少属性の反応もなかった。

 属性がなくても魔法を学べないわけではない。

 だが、私の魔力量は多くなく、魔力を操作する才能にも恵まれていなかった。

 簡単な生活魔法を一つ発動させるだけで、人の倍近い時間がかかる。

 剣へ魔力を纏わせることも、身体能力を引き上げることも、今の私にはできない。


「もう一度、お願いします」


「休息も鍛錬のうちだ」


「あと一度だけです」


 指南役は呆れたように息を吐いた。

 それでも、再び木剣を構えてくれる。

 私は相手の肩、肘、腰、足元を見る。

 魔力で速さを補えないのなら、動き出す前に読む。

 剣を受けられないのなら、剣が来る場所に立たなければいい。

 指南役の右足が僅かに沈んだ。


 来る。

 木剣が横薙ぎに振るわれるよりも早く、私は前へ出た。

 低く潜り込み、相手の懐へ踏み込む。

 木剣の柄頭を押し上げ、振り抜かれるはずだった軌道を崩す。そのまま身体を回し、相手の手首へ木剣を打ち込んだ。

 軽い音が鳴った。

 指南役の木剣が、地面へ落ちる。


「……一本、取れました」


「ああ。見事だ」


 初めて聞く素直な称賛に、思わず笑みがこぼれた。

 その直後、頭を軽く小突かれる。


「だが、実戦なら相手は一人とは限らない。一本取った程度で気を抜くな」


「はい……」


「それに、今の踏み込みでは足を痛める。百回繰り返しても崩れない形を身につけろ」


 厳しい言葉だった。

 それでも、声には僅かな優しさが含まれている。

 私が剣術を学び始めたのは、領主の娘として必要な礼儀作法の一環だった。

 王国の貴族にとって、剣舞や形式的な型を身につけることも教養の一つとされている。


 だが、それだけではない。

 王都から離れた土地では、魔物や盗賊による被害も珍しくなかった。

 いざという時、自分の身くらいは自分で守れるように。

 そんな父の考えから、私は幼い頃より剣を握ってきた。


「朝から精が出るな」

 訓練場の入口から、よく通る声が聞こえた。


「父様」


 領主である父が、数枚の書類を片手に立っていた。

 華美な服は好まず、今日も動きやすい上着と長靴を身につけている。その裾には、畑を歩いた時についたらしい土が残っていた。


「今の一撃は悪くなかった」


「見ていたのですか?」


「少し前からな」

 父は地面に落ちた木剣を拾い、指南役へ渡した。


「だが、あまり無理はするな。剣を学ばせたのは、お前を戦わせるためではない」


「分かっています。ですが、何かあった時に守られているだけなのは嫌なのです」


「セフィリア」


「領主の娘なら、この村の人たちを守る側でなければならないと思っています」


 父はすぐには答えなかった。

 やがて、困ったように笑いながら私の頭へ手を置く。


「逃げるべき時に逃げることも、誰かを守ることへ繋がる。その判断だけは間違えるな」


「……はい」


「それでも剣を握るというのなら、途中で投げ出すな」

 そう言い残し、父は屋敷へ戻っていく。

 私はその背中を見送り、もう一度木剣を握り直した。


          ◇


 午後になると、リュミエールの中央通りは朝以上の賑わいを見せていた。

 屋根のついた露店には、収穫されたばかりの野菜が色鮮やかに並んでいる。

 艶のある赤い実。

 葉を大きく広げた青菜。

 土の匂いを残した根菜。

 籠いっぱいに積まれた豆や香草の隣では、乳製品を扱う店が、切り分けたチーズを試食用に並べていた。

 焼きたてのパンへ溶かしたバターを塗る香りが漂い、子どもたちが物欲しそうに店先を眺めている。


「セフィリア様、今日も剣の稽古ですか?」


「ええ。ですが、まだまだです」


「十分ですよ。私なんて薪を割るだけで腕が上がらなくなるんですから」

 店主の女性が笑いながら、籠の中へ小さなチーズを入れた。


「これは?」


「今朝できたばかりです。お屋敷の皆さんで食べてください」


「代金を払います」


「いつも領主様には世話になっていますから」


 受け取らないと言っても、彼女は聞いてくれそうになかった。

 私はお礼を告げ、代わりに近くの子どもたちへ配るための焼き菓子をいくつか購入した。

 中央広場には、大きな噴水がある。

 豊穣を願って造られたもので、石造りの女神が抱える壺から、澄んだ水が絶えず流れ落ちていた。

 噴水の周囲には長椅子が並び、魔導列車を待つ旅人や、仕事を終えた農夫たちの休憩場所になっている。

 広場から東へ延びる道の先には、魔導列車の駅が見えた。

 夕方の便へ荷物を積み込むため、貨物区画ではまだ多くの人が働いている。

 やがて、空が茜色へ変わり始めた。

 西へ傾いた陽光が、家々の白い壁を蜂蜜のような色へ染める。店先の魔導灯が一つ、また一つと灯り、中央広場には夕食を知らせる鐘の音が響いた。

 いつもと変わらない、リュミエールの黄昏。

 私は、明日も同じ景色を見るのだと思っていた。


 ――その瞬間までは。


 最初に異変を告げたのは、音ではなかった。

 噴水から流れ落ちていた水が、不自然に揺れた。

 風は吹いていない。

 それなのに水面には細かな波紋が生まれ、壺から落ちた雫が、地面ではなく空へ向かって昇っていく。


 一滴。


 二滴。


 やがて無数の水滴が、重さを忘れたかのように噴水の上へ集まり始めた。


「……何?」

 周囲の人々も異変に気づき、次々と空を見上げる。


 噴水の真上。

 何もない空間に、髪の毛ほどの細い線が浮かんでいた。

 黒い線だった。

 けれど、それは何かに描かれた線ではない。

 こちら側の空と、その向こう側にある何かとの境目。

 世界そのものに、僅かなずれが生じている。

 そんな感覚を抱かせる線だった。

 目を凝らしても、距離を測れない。

 噴水のすぐ上にあるようにも、遥か彼方の空に走っているようにも見える。

 線の左右で景色が僅かに食い違っていた。

 片側の屋根はほんの少し高く、もう片側の空は僅かに暗い。西の空に沈みかけていた太陽すら、その線を境にして上下へずれている。


 ――キィン。

 ようやく、音が響いた。


 薄い硝子の縁を、濡れた指でなぞったような音。

 耳からではなく、頭蓋骨の内側へ直接入り込んでくる。

 歯の根が震え、身体の奥まで冷たくなった。

 黒い線の中央に、小さな亀裂が走った。


 一本だった亀裂が二本へ。

 二本が四本へ。

 枝分かれしたひびが、夕暮れの空へ蜘蛛の巣のように広がっていく。

 だが、そこには割れるはずの壁も、硝子も存在しない。

 何もない空間が、音を立てて砕けている。

 亀裂の隙間から、黒とも紫ともつかない色が滲み出した。

 夜の暗さとは違う。

 光が届いていないのではなく、触れた光そのものを呑み込み、存在しなかったことにしてしまうような色だった。


 広場の魔導灯が激しく明滅する。

 灯りから漏れていた光が細く引き伸ばされ、亀裂へ吸い込まれていく。

 人々の足元に伸びた影までもが、夕日の方向を無視して、黒い亀裂へ向かって傾き始めた。


「みんな、広場から離れて!」

 私は叫んだ。


 同時に、亀裂が大きく開いた。

 世界が、裂けた。

 空間の左右が無理やり引き剥がされ、巨大な傷口のような穴が生まれる。

 裂け目の縁では白い光が明滅し、その内側には、リュミエールとはまるで異なる景色が広がっていた。

 空も、大地もない。

 赤黒い雲と、尖った岩山のような影が、上下の区別なく浮かんでいる。

 遠くには巨大な何かが蠢いていた。

 それが生物なのか、建造物なのかすら分からない。無数の腕のような影が絡み合い、赤い光の中でゆっくりと形を変えている。


 熱気と冷気が同時に吹き出した。

 焼けた鉄。

 湿った土。

 古い血。

 いくつもの不快な臭いが混ざり合い、広場へ広がっていく。

 噴水の石像に亀裂が入り、周囲の石畳が一枚ずつ浮かび上がった。

 窓硝子が一斉に割れる。

 破片は地面へ落ちず、裂け目へ向かって吸い込まれていった。


「離れろ!」


「子どもを連れて駅の反対側へ!」


「騎士団へ知らせろ!」

 悲鳴と怒号が飛び交う。


 その中で、黒い革靴が裂け目から現れた。

 一人の男が、広場へ降り立つ。

 人間に見えた。

 痩身で背が高く、黒い燕尾服を隙なく着こなしている。白いシャツには皺一つなく、首元には暗い赤色の飾り布が結ばれていた。

 まるで、これから王城の夜会へ向かう貴族のようだった。

 しかし、その肌は死人のように白い。

 整った顔には穏やかな微笑みが浮かんでいるが、細められた瞳は血を固めたような暗赤色をしていた。

 縦に細長い瞳孔。

 額から髪に紛れるように伸びた、短い二本の角。

 そして、その足元に落ちた影だけが、人間とは違う。

 影の背には巨大な翼があり、頭部からは捻れた角が伸びていた。

 男は燕尾服の袖についた、存在しない埃を払う。


「接続は良好。空気、魔力濃度ともに適合範囲内」

 静かな声だった。

 あれほどの異変を起こしながら、男は夕食の献立でも確かめるような口調で告げた。

 そして、逃げ惑う人々へ視線を向ける。


「実に穏やかな土地です」

 微笑みが、僅かに深くなる。


「焼き払うには、少々惜しい」

 男が白い手袋に包まれた指を鳴らした。


 裂け目の奥から、無数の咆哮が響く。

 最初に現れたのは、石畳へ伸びる赤黒い腕だった。

 節くれ立った五本の指。

 その先端には、刃物のように湾曲した黒い爪が生えている。

 続いて、異様に長い頭部が裂け目から突き出された。

 額から伸びる二本の角。

 獣とも人間とも異なる顔。

 口は耳元まで裂け、隙間なく並んだ細かな牙の奥で、濁った唾液が糸を引いている。

 赤黒い皮膚には濡れたような光沢があり、その下では何本もの血管が、生き物のように脈打っていた。

 それが裂け目を押し広げ、広場へ降り立つ。

 人間よりも一回り大きな身体には、歪に盛り上がった筋肉が張りついている。

 背中から生えているのは、蝙蝠を思わせる皮膜の翼。

 けれど、その皮膜はところどころ破れ、黒ずんだ骨が剥き出しになっていた。

 脚は獣のように逆向きへ曲がり、長い尾の先には、もう一つの爪を思わせる黒い突起がある。


 一体。

 また一体。


 同じ姿をした異形が、次々と裂け目から這い出してくる。


「なに……あれ……」

 近くにいた女性が口元を押さえ、後ずさった。


 私も、目を逸らしたくなる衝動に駆られていた。

 恐ろしいからではない。

 もちろん恐怖もある。

 だが、それ以上に――見ているだけで胸の奥を掻き回されるような、強烈な嫌悪感があった。

 肌の内側を無数の虫が這っている。

 汚れた指で、魂を直接撫でられている。

 そんな、理由の分からない不快感。

 姿や臭いだけが原因ではない。

 あれは、この世界に存在してはならない。

 理解するよりも早く、身体のすべてがそう訴えていた。

 子どもが火のついたように泣き始める。

 立っていられなくなった男性が石畳へ膝をつき、胃の中のものを吐き出した。

 騎士たちも剣を構えてはいたが、その顔からは血の気が引いている。

 誰一人として、あの魔物の名を知らない。

 知るはずがなかった。

 あれは、この世界に生息する魔物ではない。

 次元の亀裂の向こう側から、初めて現れた存在なのだから。


「おや」

 燕尾服の魔族が、広場の反応を見回す。


「やはり、こちらの世界の方々には刺激が強すぎましたか」


 その口調は、夜会へ招いた客に珍しい料理を紹介するように穏やかだった。

 魔族は一歩横へ退くと、異形の魔物たちを手のひらで示す。


「こちらは、【レッサーデーモン】と呼ばれるものになります」

 胸へ片手を添え、丁寧に一礼する。


「私どもの世界では、もっともありふれた下位の魔物でございまして。知性には乏しいものの、命を奪い、建物を壊し、火を放つことには大変優れております」


 レッサーデーモン。

 それが、あの異形に与えられた名前だった。


「では皆様」

 燕尾服の魔族が、穏やかに微笑む。


「どうか存分に――この美しい村の終わりをお楽しみください」


 レッサーデーモンたちが一斉に咆哮した。

 その喉の奥へ、赤黒い炎が灯る。


「伏せて!」

 私が叫んだ直後、広場を炎が薙ぎ払った。

 騎士たちが飛び込んでくる。

 前列の騎士が盾を構え、その表面に青い魔法陣を展開した。

 赤黒い炎が防壁へ激突する。

 爆発音とともに熱風が吹き荒れ、周囲の露店が吹き飛ばされた。


「住民を退避させろ!」


「駅前通りを開けろ! 女子どもを先に!」


 魔導列車と流通拠点を守るため、リュミエールには常に騎士団の一隊が駐留している。

 その対応は早かった。

 騎士たちは広場へ通じる道を封鎖し、住民を西側の農道と駅の待避区画へ誘導していく。


 だが、裂け目から現れる魔物の数が多すぎた。

 一体のレッサーデーモンが建物の屋根へ飛び乗る。

 鋭い爪が瓦を砕き、口から吐かれた炎が二階の窓を突き破った。

 乾いた木材へ火が燃え移る。

 白い壁を赤い炎が舐め、黒煙が黄昏の空へ立ち昇り始めた。


「セフィリア!」

 聞き慣れた声がした。


「父様!」


 父が数人の騎士を率いて広場へ駆け込んでくる。

 腰には剣を佩き、手には村の紋章が刻まれた盾を持っていた。


「なぜここにいる! 駅へ向かえ!」


「私も避難を手伝います!」


「ここは騎士に任せろ!」


 父の背後で、レッサーデーモンが翼を広げた。


「後ろです!」


 父が振り返る。

 同時に、魔物の爪が振り下ろされた。

 父は盾で受け止めたが、凄まじい力に身体ごと吹き飛ばされる。


「父様!」


 私は腰の後ろへ佩いていた騎士剣を抜いた。

 焦げ茶色の鞘から、幅広の両刃が滑り出る。

 青い持ち手を両手で握り、父へ迫るレッサーデーモンの前へ飛び込んだ。

 振り下ろされた爪に、斜めから剣を合わせる。

 受け止めない。

 力を流す。

 朝の訓練で、何度も繰り返した動き。

 火花が散った。

 腕が痺れる。

 それでも爪の軌道は僅かにずれ、私の肩を掠めて石畳へ突き刺さった。


「はあっ!」

 踏み込む。

 足で大地を捉え、腰を回し、その力を肩から剣へ伝える。

 幅広の刃が、レッサーデーモンの脇腹へ命中した。


 だが――斬れない。


「そんな……!」

 硬い皮膚に阻まれ、刃が弾かれた。

 レッサーデーモンの口元が歪む。

 笑ったのだ。

 太い腕が横薙ぎに振るわれる。

 私は剣で防いだが、身体ごと石畳の上を転がされた。

 肺から空気が押し出される。

 起き上がろうとしても、足に力が入らない。


「ほう」

 燕尾服の魔族が、興味を引かれたようにこちらを見ていた。


「魔力を纏わず、下位眷属の攻撃を逸らしましたか。技量は悪くありません」

 暗赤色の瞳が、私を見下ろす。


「ですが――何の属性も持たぬ人間が、戦場へ立つべきではありませんね」


 魔族が片手を持ち上げた。

 その掌に、黒い光が集まる。


「セフィリア!」

 父が私の前へ飛び込んだ。

 黒い光が、一本の槍となって放たれる。

 父の盾が砕けた。

 黒い槍は脇腹を深く切り裂き、その身体を地面へ叩きつける。


「父様――!」

 私は這うようにして父へ近づいた。

 服の脇腹が赤く染まり、石畳へ血が広がっていく。

 けれど、息はある。


「逃げろ……セフィリア……」


「置いていけるはずがありません!」


 影が差した。

 顔を上げる。

 先ほどのレッサーデーモンが、私たちの前に立っていた。

 口の端から炎を漏らしながら、鋭い爪を振り上げる。

 剣を構える。

 腕は震えていた。

 魔力もない。

 属性もない。

 私の剣では、あの皮膚を斬れない。

 それでも、父の前から退くことだけはできなかった。

 レッサーデーモンの爪が振り下ろされる。


 その瞬間――。

 世界から、音が消えた。

 炎が止まっている。

 崩れ落ちようとしていた瓦も、空中に浮かんだまま動かない。

 魔導列車の煙突から立ち昇っていた白い蒸気は、硝子細工のような形を残して静止していた。

 父の傷口から落ちた血の雫さえ、石畳へ届くことなく宙に留まっている。

 目の前には、私の頭を砕こうとしていたレッサーデーモンの爪。

 あと僅か。

 指一本分にも満たない距離で止まっていた。

 身体は動かない。

 声も出せない。

 それなのに、意識だけが鮮明だった。


 ――セフィリア。


 誰かに、名を呼ばれた。

 女性とも男性とも判断できない声。

 耳から聞こえたのではない。

 もっと深い場所。

 胸の奥にある、これまで一度も触れたことのない何かへ、声が直接響いていた。


 ――問います。


 ――世界の境界を越え、外より訪れる災厄へ抗う力を望みますか。


 静止した世界の中で、私は父を見る。

 燃え続ける家々。

 逃げる途中で動きを止めた村の人たち。

 毎朝、野菜を積んでいた農夫。

 小さなチーズを持たせてくれた店主。

 焼き菓子を手に笑っていた子どもたち。

 これは、私の故郷だ。

 私が生まれ、育ってきた場所。

 世界がどれほど広いのか、私にはまだ分からない。

 けれど、この村こそが、私の知る世界のすべてだった。


 ――その力を受け入れれば、以前と同じ日々へ戻ることはできません。


 ――あなたは、人の領域を越えた災厄と戦い続けることになります。


 怖かった。

 逃げたかった。

 本当は、誰かに助けてほしかった。

 それでも。

 誰かが来るのを待っている間に、目の前の大切なものは失われてしまう。


 ならば――。


「力を、ください」

 止まっていたはずの唇が、僅かに動いた。


「父様を……この村のみんなを守れる力を、私にください」


 声が、問いかける。


 ――その選択に、偽りはありませんか。


「ありません」

 私は、はっきりと答えた。


「私は戦います。たとえ、これまでと同じ日々へ戻れなくても」


 一瞬の沈黙。

 やがて、声が告げた。


 ――選択を確認しました。


 ――勇者としての覚醒を承認。


 ――境界を照らし、異界を祓う光。


 ――【極光】を、あなたへ。


 胸の奥で、何かが弾けた。

 これまで、どれほど意識を集中させても感じられなかった力。

 小さな火種にも満たなかった私の魔力が、一瞬で燃え上がる。


 白、金、青、紫、緑。


 いくつもの光が混ざり合いながら、決して濁ることなく、白金色の輝きへ変わっていく。

 それは、ただ明るいだけの光ではなかった。

 薄い光の帯が幾重にも重なり、風に揺れる天幕のように私の周囲へ広がっていく。

 世界を照らしながら、異界から流れ込む黒い魔力だけを焼き払う。

 通常の光属性とは異なる力。

 境界の向こう側から訪れるものへ対抗するために生まれた、私だけの属性。


 ――極光。


 止まっていた時間が、再び動き出した。

 レッサーデーモンの爪が振り下ろされる。

 私は剣を構えた。

 白金色の極光が両腕を包み、幅広の刀身へ流れ込む。

 青い持ち手。

 金色の柄。

 見慣れていたはずの剣が、重なり合う光の帯を纏い、夜明け前の星のような輝きを放っていた。

 不思議と、恐怖はなかった。

 何をするべきなのか、分かっている。

 足で大地を捉える。

 腰を回す。

 その力を肩へ伝え、剣へ乗せる。

 今日まで積み重ねてきた、ただの一振り。

 けれど、今はそこに極光がある。


「――【極光一閃アウロラ・セイバー】!」


 白金色の軌跡が、黄昏の広場を走った。

 振り下ろされた爪ごと、レッサーデーモンの身体が斜めに両断される。

 切断面から血は流れなかった。

 異界の魔力が極光に焼かれ、巨体は端から黒い灰へと変わっていく。

 光の余波が広場を駆け抜けた。

 燃え盛っていた赤黒い炎が掻き消され、亀裂から漏れ出していた不快な空気が、一瞬だけ押し戻される。


「……極光?」

 初めて、燕尾服の魔族から笑みが消えた。

 暗赤色の瞳が大きく見開かれる。


「まさか、この世界にはすでに――勇者が……?」


 勇者。

 その言葉が、私の胸へ重く落ちる。

 それが何を意味するのか、まだ分からない。

 目の前には、今も開き続ける次元の亀裂がある。

 その奥には、数え切れないほどの異形の影が蠢いていた。

 背後には、傷ついた父がいる。

 逃げ遅れた人々がいる。

 そして、炎に包まれた私の故郷がある。

 私は父を庇うように立ち、白金色の剣を構え直した。

 怖くないわけではない。

 足も、まだ震えている。

 それでも、もう背を向けるつもりはなかった。


「ここから先へは、行かせません」


 黄昏の空に、白金色の極光が揺れる。

 それは後に、世界を照らす希望と呼ばれる光。


 この日。

 リュミエールで暮らしていた一人の領主の娘は、これまでの日常と別れを告げた。

 そして――勇者セフィリアが生まれた。

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