第40話 空へ続く道
側壁へ激突した岩盤が砕け、封印区画を濃い土煙が覆った。
視界が利かない。
それでも、天井が崩れる音だけは途切れなかった。
「レグルス、無事か!」
土煙の向こうから、ガレスの声が響く。
「はい! ミレナさんたちも無事です!」
背後を確認する。
魔術師のミレナと水路管理官は、崩れた石床の上で身を伏せていた。
二人に目立った傷はない。
俺は刀を握り直し、土煙の奥へ目を凝らした。
赤金の爪痕を刻まれた岩盤は、側壁へめり込んだまま動かない。
俺が弾いた。
あれほど巨大な岩を。
だが、それを確かめている時間はなかった。
再び、天井から石片が降り注ぐ。
「立てますか!」
ミレナへ手を差し出す。
「え、ええ……。ありがとう」
ミレナを引き起こし、水路管理官の腕を取る。
前方では、ガレスが負傷したラウルの身体を支えていた。
ラウルの右脇腹に巻かれた布が、赤黒く染まっている。
それでも意識はある。
「悪いな……。足を引っ張った」
「喋る余裕があるなら、自分の足を動かせ!」
「相変わらず厳しい隊長だ……」
ガレスがラウルの腕を肩へ回し、出口へ向かって歩き出す。
「全員いるな! 封印区画を出るぞ!」
崩壊した通路を駆ける。
石床には無数の亀裂が走り、その下を濁流が激しく逆巻いていた。
崩れ落ちた水瓶の浮き彫りから溢れた水は、行き場を失ったように壁や天井へ逆流している。
水路そのものが、悲鳴を上げているようだった。
『右側の天井が崩れます』
セレスの声が届く。
「ガレスさん、右から来ます!」
ガレスが振り返り、大盾を掲げた。
直後、天井から落下した石塊が盾へぶつかる。
鈍い衝突音。
ガレスの膝が僅かに沈む。
「止まらないで!先へ行ってください!」
俺はミレナと水路管理官を先へ進ませ、ガレスの横へ回り込んだ。
刀の峰を石塊へ当てる。
先ほどの感覚を思い出す。
力を正面から受けるのではない。
重さの中心から僅かに外し、進む方向を変える。
「ふっ――!」
腰を捻り、石塊を通路の端へ押し流す。
ガレスが大盾を引き、こちらへ短く頷いた。
「今のが、さっきの技か」
「たぶん、そうです」
「たぶんで、あれを弾いたのか?」
「俺にも、まだよく分かっていません」
「まったく……とんでもないDランクだな」
ガレスは小さく笑い、再びラウルを支えて走り出した。
地上へ続く階段が見える。
出口を塞いでいた鉄扉は、異常な水圧によって外側へ歪んでいた。
水路管理官が壁際の操作盤へ手を伸ばす。
「開閉術式が反応しない……!」
「下がっていてください」
刀を鞘へ収める。
歪んだ鉄扉の隙間へ両手をかけた。
通常の魔力を全身へ巡らせ、身体の軸を作る。
そのうえで火属性へ切り替える。
「《剛》!」
赤い魔力波が背中から両腕へ流れた。
力が爆ぜる一瞬に合わせ、鉄扉を外側へ押し開く。
蝶番が弾け飛んだ。
扉の向こうから、地上の空気が流れ込んでくる。
「開いた! 全員、上へ!」
ミレナと水路管理官が階段を駆け上がる。
続いて、ラウルを支えたガレスが出口を抜けた。
俺も後を追おうとして、足を止める。
『レグルス、何をしているのです。早く――』
言いかけたセレスの声が、不意に途切れた。
「セレス?」
『……いいえ。何でもありません』
何でもない声ではなかった。
俺は振り返る。
崩れゆく水路。
砕けた封印区画の奥から、青白い水が流れてくる。
その中に、何かが見えた気がした。
だが、目を凝らしたときには、濁った水と土煙しか残っていなかった。
「本当に何でもないのか?」
『今は、脱出を優先してください』
「分かった」
セレスがそう言うなら、ここへ残る理由はない。
階段を駆け上がる。
俺が地上へ出た直後、背後から地鳴りが響いた。
地下へ続く階段が崩れ、出口が大量の岩と土砂に呑み込まれる。
あと数秒遅れていれば、俺も巻き込まれていた。
地上には、ギルドから派遣された救護班と水路管理局の職員たちが集まっていた。
負傷したラウルが担架へ乗せられる。
ガレスとミレナも治療を受けながら、崩れた入口を見つめていた。
「全員、生きて出られたな」
ガレスの言葉に、ようやく身体から力が抜けた。
刀を杖代わりにして、その場へ片膝をつく。
直後。
頭の奥へ、無機質な声が響いた。
《基本行為・弾くが規定値に到達しました》
《派生技・弾く――獅吼爪弾を獲得しました》
やはり、あの瞬間に生まれた技だった。
落下する岩の流れを見極め、その進む先を変える。
獅子の爪で、空間ごと薙ぎ払うように。
「獅吼爪弾……」
呟きながら、自分の両手を見る。
指先が細かく震えていた。
偶然ではない。
けれど、完全に扱えるとも言えない。
まだ一度、できただけだ。
『また、振る理由が増えましたね』
「ああ」
刀の柄を握り直す。
「次は、狙って出せるようにする」
『ええ。それでこそ、あなたです』
セレスの声はいつもの調子へ戻っていた。
だが。
地下を振り返ったときに感じた、僅かな迷い。
あれが何だったのか。
セレスは、その答えを口にしなかった。
◇
地下水路の封印区画が崩壊してから、三日が過ぎた。
ヴァルディア王国の王都ヴァルエストでは、急速に復旧作業が進められていた。
地下水路の逆流によって、運河沿いの一部区画が浸水。
石畳には泥が残り、幾つかの橋には通行を禁じる柵が設けられている。
それでも、王都の営みが止まることはなかった。
水路管理局の職員が運河の水位を調整し、土属性の魔術師たちが崩れた護岸を修復している。
商人たちは店先から泥を搔き出し、料理店からは早くも温かな湯気と香辛料の匂いが漂っていた。
街路を照らす魔導灯も、一つ、また一つと明かりを取り戻している。
王都ギルドへ入ると、依頼掲示板の前には普段以上の冒険者が集まっていた。
地下水路の警戒。
浸水区画の救援。
物資の運搬。
復旧に関する依頼書が、掲示板を埋め尽くしている。
「よう、レグルス」
聞き覚えのある声に振り向く。
ガレスが受付近くの長椅子へ座っていた。
隣にはミレナ。
そして、右脇腹へ厚い包帯を巻いたラウルもいる。
「もう動いて大丈夫なんですか?」
「走り回るのは無理だが、歩くくらいなら問題ない」
ラウルが脇腹を庇いながら笑う。
「治療院の魔術師には、あと十日は安静にしろって言われてるけどな」
「それを無視してギルドまで来たから、私たちが見張っているの」
ミレナが呆れた顔で付け加える。
「俺たちが戻ってきたのは、報告書への署名が必要だったからだ」
ガレスが立ち上がり、俺の前へ来る。
「それと、お前に礼を言っておきたかった」
「お礼ですか?」
「あの封印区画から全員が生きて戻れたのは、お前のおかげだ」
ガレスが右手を差し出す。
「今回の調査で、俺たちは何度もお前に助けられた。改めて感謝する」
「俺一人じゃ、あの魔物は倒せませんでしたよ」
差し出された手を握る。
「ガレスさんが正面を押さえて、ラウルさんとミレナさんが隙を作った。全員で倒したんですよ」
「そう言ってもらえると助かる」
ガレスは口元を緩めた。
「だが、落石を弾いた最後の一撃まで俺たちの手柄にされたら、さすがに居心地が悪い」
「俺も、どうやったのか説明できないですよ」
「なら、説明できるようになるまで鍛えるんだな」
「はい。そのつもりです」
ガレスが笑う。
ラウルも笑い、ミレナは小さく肩を竦めた。
短いやり取りだった。
それでも、この三人と一緒に戦えてよかったと思う。
「レグルスさん」
受付嬢が近づいてきた。
「ギルドマスターがお呼びです。お時間はよろしいでしょうか」
「分かった」
ガレスたちへ別れを告げ、ギルドの上階へ向かう。
案内された執務室は、以前訪れたときと変わっていない。
大きな机。
壁一面に並んだ書棚。
王都と周辺地域を記した地図。
ただ、机の上には地下水路に関する報告書が何冊も積み重ねられていた。
「来たか。座れ」
ギルドマスターが椅子を示す。
俺が腰を下ろすと、彼は一冊の報告書を閉じた。
「まず、今回の働きについて礼を言う。封印区画の調査だけでなく、同行者と管理官を全員生還させた。ギルドとしても相応の追加報酬を支払う」
「俺だけの功績じゃないです」
「ガレスからも同じことを聞いた」
ギルドマスターが僅かに笑う。
「似た者同士らしいな」
机の端に置かれていた革袋を、こちらへ滑らせる。
硬貨の音。
だが、ギルドマスターが俺を呼んだ理由は、報酬だけではないらしい。
彼は椅子の背へ身体を預け、俺の顔を見た。
「レグルス。お前は、この先どうするつもりだ」
「この先?」
「Dランクへ上がり、王都でも十分な実績を残した。しばらく復旧依頼を受けるのもいい。だが、お前は一つの場所に留まり続ける性格には見えん」
すぐには答えられなかった。
王都へ来た目的は、強くなることだった。
実際、ここで多くのものを得た。
姉との再会。
『蠍』の契約者との戦い。
獅子宮第二階層の踏破。
火属性の魔力。
《速》と《剛》。
そして、《獅牙突》《獅噛破打》《獅吼爪弾》。
だが、世界には俺の知らないものが、まだいくらでもある。
「行ってみないか」
ギルドマスターが、壁に掛けられた世界地図へ視線を向けた。
「ルミナス魔導連合へ」
「ルミナス魔導連合ですか……」
「ヴァルディア王国の南方。魔導技術によって空へ浮かぶ大陸に築かれた連合国家だ」
名前と概要だけなら知っている。
魔導艇。
空中都市。
幾つもの小国家や都市が集まって成立した、魔導技術の先進地域。
だが、実際に見たことはない。
「どうして俺に?」
「特別な理由はない」
ギルドマスターは即座に答えた。
「Dランクになったばかりの冒険者が、自分の常識を広げるには悪くない土地だ。王国とは魔物も文化も、戦い方さえ違う」
「俺に向いていると思ったのか」
「少なくとも、同じ依頼を繰り返して満足する人間には見えん」
否定はできなかった。
「ルミナス魔導連合の中央支部へ宛てた紹介状なら用意できる。南方の連絡港までは魔導列車。そこから先は魔導艇だ」
ギルドマスターが続ける。
「もちろん、決めるのはお前だ。王都へ残ることを選んでも、誰も責めはしない」
『決めるのは、あなたです』
セレスの声が重なる。
命令ではない。
俺自身が選ぶ道だ。
これまで、俺は狭い世界の中で生きてきた。
家。
町。
ギルド。
その中で、兄や姉と自分を比べ続けていた。
けれど、地下遺跡でセレスと出会ってから、少しずつ世界が広がった。
なら。
今度は自分の足で、もっと遠くへ行ってみたい。
「行きます」
自然と、答えが口から出た。
「ルミナス魔導連合へ行ってみます」
「そうか」
ギルドマスターは、それ以上勧めることも、理由を尋ねることもしなかった。
ただ机の引き出しから一枚の書類を取り出し、俺の前へ置く。
「紹介状は三日後までに用意しておく。出発までに必要な手続きを済ませろ」
「分かりました。ありがとうございます」
報酬の革袋を受け取り、椅子から立ち上がる。
扉へ向かいかけたところで、ギルドマスターが口を開いた。
「レグルス」
振り返る。
「外の世界は、王都ほど優しくない」
「王都も、十分優しくありませんでしたけど」
ギルドマスターが僅かに目を見開き、すぐに笑った。
「それだけ言えるなら大丈夫だ。行ってこい」
「はい」
執務室を出る。
扉が閉じる直前、ギルドマスターの横顔が見えた。
どこか遠くを見ているような目だった。
◇
扉が閉じたあとも、王都ギルドマスターは暫く動かなかった。
レグルスの足音が遠ざかってから、机の奥へ視線を落とす。
そこには、一つの通信装置が置かれていた。
黒い台座に埋め込まれた、透明な結晶。
普段は何の光も宿していない。
だが、今朝。
結晶はギルドマスターの意思とは関係なく、淡い銀色の光を放った。
光の中に、人の輪郭が浮かび上がる。
男にも見える。
女にも見える。
だが、そのどちらとも言い切れない。
人の姿をしていながら、人という枠から外れた存在。
世界各地のギルド支部を統べる者。
『天秤』の契約者。
通信装置から、性別を感じさせない声が響いた。
《獅子に、ルミナス魔導連合へ続く道を示してください》
「命令でしょうか」
《いいえ》
天秤は静かに答えた。
《選ぶのは、彼自身です。あなたは、道があると伝えるだけで構いません》
「なぜ、ルミナスへ?」
僅かな沈黙。
銀色の人影が揺らぐ。
《水瓶が傾きました》
感情の読めない声が続く。
《次に揺れるのは、空です》
それだけを告げ、通信は途絶えた。
銀色の光が消え、透明な結晶へ戻る。
ギルドマスターは、目の前の通信装置を見つめた。
天秤が何を見ているのか。
自分には分からない。
ただ一つ確かなのは、世界の均衡が僅かに崩れ始めているということだけだった。
「獅子と、空か……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その声は、静かな執務室へ溶けて消えた。
◇
その日の夕方。
俺はノヴァ・アカデミアを訪れていた。
地下の異変によって被害を受けた学園でも、復旧作業が進んでいる。
中庭には補修用の石材が積まれ、地面へ走っていた亀裂は土属性魔法で塞がれていた。
姉さんは、中庭に面した回廊で待っていた。
「急に話があるなんて、珍しいわね」
「少し、報告しておこうと思って」
「地下水路のことなら聞いているわ。また無茶をしたそうね」
「姉さんに言われたくない」
「私は無茶をしても、きちんと帰ってこられるもの」
「俺も帰ってきただろ」
「それなら、今回は引き分けにしておきましょう」
姉さんが僅かに笑う。
事件の前よりも、こうして普通に話せるようになった気がする。
「姉さん」
「何?」
「俺、王都を出ることにした」
姉さんの表情から笑みが消えた。
「どこへ行くの?」
「ルミナス魔導連合。魔導列車で南方の連絡港まで行って、そこから魔導艇に乗る」
「随分、遠くへ行くのね」
「ああ」
「いつ出るの?」
「三日後」
姉さんは何も言わなかった。
回廊の向こうから、復旧作業を続ける魔術師たちの声が聞こえてくる。
俺は一度息を吸い、言葉を続けた。
「姉さんも、一緒に来ないか」
「私も?」
「ルミナスは魔導技術の中心なんだろ。姉さんなら、興味があると思って」
「そうね。行ってみたいわ」
即答だった。
だが、姉さんはすぐに首を横へ振った。
「でも、私は行かない」
「学園があるからか?」
「それもあるわ」
姉さんが一歩近づく。
「けれど、一番の理由は別」
細い指が、俺の上着の襟を整える。
子供の頃にも、何度か同じことをされた。
「本当は、私も一緒に行きたい」
「なら――」
「でも、今は胸を張って、一人で世界を見てきなさい」
姉さんの黒い瞳が、真っ直ぐ俺を見る。
「兄さんや私と比べる必要はない。誰かの後ろを歩く必要もない」
「あなた自身の目で世界を見て、あなた自身の道を選びなさい」
胸の奥へ、言葉がゆっくりと沈んでいく。
以前の俺は。
自分には何もないと思っていた。
家族に。
兄さんや姉さんに。
胸を張って会うことさえできないと思っていた。
けれど、今は違う。
まだ兄さんにも、姉さんにも届かない。
それでも、俺には俺の歩いてきた道がある。
「次に帰ってきたとき、あなたが見たものを話して」
姉さんが微笑む。
「そのときは、今よりもっと胸を張って帰ってきなさい」
「ああ」
短く答える。
それ以上言葉にすれば、声が震えそうだった。
「行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい、レグルス」
姉さんへ背を向け、回廊を歩き出す。
中庭を抜けたところで、セレスの声が聞こえた。
『一人で、という部分には異議があります』
「そこを気にするのか」
『当然です。あなたは一人ではありません』
思わず笑う。
「ああ。分かってる」
腰に提げた焦げ茶色の本へ、そっと手を触れる。
「これからも頼む、セレス」
『ええ。どこまでもお供します』
◇
三日後。
王都ヴァルエスト中央駅。
高い天井を支える鉄骨の間に、巨大な硝子窓が並んでいる。
朝の光が差し込み、何本もの線路と停車中の魔導列車を白く照らしていた。
行商人。
旅装を整えた冒険者。
家族へ別れを告げる者。
到着した列車から降りてくる者。
無数の声と足音が、広い駅舎の中で重なり合っている。
俺は南方連絡港行きの魔導列車を前に立っていた。
肩には必要最低限の荷物。
腰には刀。
反対側にはセレス。
懐には、ギルドマスターから受け取ったルミナス魔導連合中央支部への紹介状が入っている。
列車へ乗り込み、窓際の席へ腰を下ろした。
やがて、低い駆動音が車内へ響く。
床下を走る魔力が青白い光となり、車輪へ伝わっていく。
汽笛。
魔導列車が、ゆっくりと動き始めた。
窓の外を、駅舎の柱が流れていく。
王都の街並みが見える。
水路に架かる白い石橋。
魔導灯が並ぶ大通り。
遠くには、ノヴァ・アカデミアの尖塔。
さらにその先には、朝日に照らされた王城の屋根が輝いていた。
俺が王都へ来たとき、ここまで遠くへ行くことになるとは思っていなかった。
強くなりたい。
始まりは、それだけだった。
だが今はまだ知らないものを見たいと思う
まだ出会っていない強者と戦いたい。
世界がどこまで広がっているのか、自分の目で確かめたい。
「ルミナス魔導連合か」
窓の外で、王都ヴァルエストの街並みが少しずつ遠ざかっていく。
『ええ』
セレスの声が、静かに答えた。
『空には、空の物語があるわ』
俺は膝の上へ置いた刀に手を添える。
王都で得たもの。
ここに残していくもの。
そのすべてを胸に刻み、前を見る。
魔導列車は速度を上げる。
ヴァルディア王国の南方。
まだ見ぬ空の大地へ続く道を、列車は走り始めた。




