第38話 逆流する水路
刃引きされた大剣が、俺の頭上へ落ちてきた。
空気が押し潰され、低い唸りを上げる。
まともに受ければ、訓練用の武器であっても無事では済まない。
俺は右足で石床を蹴り、斬撃の軌道から外れた。
だが、身体が想定していたよりも深く前へ出る。
原因は分かっていた。
◇
獅子宮から帰還したあと、俺は傷を休ませながら、第二階層で得た力を一つずつ確かめた。
試行錯誤を経て、火属性の魔力を全身へ巡らせ、打撃が届く刹那にだけ爆発的に解放する、魔力身体強化の変化形――《剛》を覚えた。
火属性の持つ、爆ぜる性質。
それを身体の内側で解放することはできる。
だが、身体の外へ導き、別の形で扱う術式を俺は知らなかった。
そこで右肩の痛みが引いたあと、俺はノヴァ・アカデミアの訓練場を訪ねた。
「属性魔力を武器へ纏わせたい?」
話を聞いた姉さん――アリシアは、少し考えるように俺の刀へ目を向けた。
俺が鞘へ手を伸ばすと、すぐにその手を押さえられる。
「最初から自分の刀を使うつもり?」
「そのほうが感覚を掴みやすいだろ」
「術式に失敗して、刀身を焼いてもいいなら止めないけれど」
思わず手を止める。
獅子宮では、錆びた刀を使っていた。
俺が普段使う刀で属性を纏わせるのは、これが初めてになる。
「……模擬剣を借りる」
「それが賢明ね」
姉さんは小さく笑い、学園の備品庫から二本の模擬剣を借りてきた。
どちらも刃引きされた訓練用の鉄剣だ。
多少の魔力には耐えられるよう、刀身へ簡単な補強術式が施されている。
「まずは見ていて」
姉さんが模擬剣を正面へ構える。
指先から流れ出した淡い青色の魔力が、柄を通って刀身へ入った。
鍔元から切っ先へ。
剣の形に沿って、水が薄い膜となって広がっていく。
水は床へ落ちない。
透き通った膜となって刃へ密着し、切っ先から鍔元へ戻りながら静かに循環していた。
「武器の表面へ、無理に属性を貼り付けようとしては駄目」
姉さんが水を纏った模擬剣を軽く振る。
青い軌跡が空中へ残り、遅れて細かな水滴へ変わった。
「武器を、身体から続くもう一本の魔力路だと思いなさい。柄から流し、切っ先まで通し、再び自分へ戻す。循環が途切れなければ、属性は武器の形に沿って安定するわ」
「もう一本の魔力路……」
俺は借りた模擬剣を握った。
身体の中心へ集めた魔力を火属性へ変え、柄を通して刀身へ流す。
赤い光が鍔元から伸びた。
しかし、刀身の半ばへ届く前に魔力が膨れ上がる。
小さな爆発。
模擬剣が手の中で跳ね、赤い火花が床へ散った。
「閉じ込めようとするから爆ぜるのよ」
姉さんは驚きもせず、刀身を指先で示した。
「火は留まることを嫌う。押さえ込むのではなく、刃に沿って切っ先へ逃がしてみなさい」
「逃がしたら、纏えないんじゃないか?」
「すべてを留める必要はないわ。流し続ければいいの。特にあなたの火は、溜めるほど不安定になるみたいだから」
もう一度、魔力を流す。
今度は固めない。
鍔元から切っ先へ。
火属性の魔力を細く引き延ばし、模擬剣の形に沿わせる。
赤い光が刀身を走った。
一呼吸。
それだけの間、模擬剣が赤い魔力を纏う。
熱で周囲の空気が揺らぎ、刀身から僅かに煙が立ち上った。
「そのまま維持して」
姉さんが左手を掲げる。
空中に人の頭ほどの水球が生まれた。
「斬ってみなさい」
俺は一歩踏み込み、火を纏わせた模擬剣を振る。
赤い刀身が水球へ触れた。
激しい音とともに、白い蒸気が弾ける。
水球は接触した一点から急激に膨張し、その形を保てないまま四散した。
訓練場へ生温かい霧が広がる。
「水が必ず火に勝つとは限らないわ」
姉さんが残った水滴を見ながら言った。
「凝縮された水へ一点から急激な熱を通せば、内部から膨張させられる。属性同士の相性だけではなく、結局は使い方次第よ」
「使い方次第……」
「ただし、今のまま長く纏えば、模擬剣でも耐えられないでしょうね」
見ると、模擬剣の刀身が僅かに赤熱していた。
俺はすぐに火属性の魔力を解く。
「あなたの場合、常に纏わせる必要はないと思う」
姉さんが俺の持つ模擬剣を軽く叩く。
「斬撃が触れる刹那にだけ、火を流す。あなたが話してくれた《剛》と同じ使い方ね」
常に力を纏うのではない。
必要な瞬間だけ解放する。
術式の基礎は掴んだ。
だが、火を安定させられたのは、まだ一呼吸だけだ。
実戦で使えるかどうかは分からない。
それでも、その一呼吸があれば、斬撃へ火の性質を乗せられる。
姉さんとの訓練を終えた翌日。
今度は王都ギルドから呼び出しを受けた。
「学園地下での功績は、王国から正式に認定された」
ギルドマスターは、机の上へ俺の依頼記録を置いた。
「これまでに達成した依頼数も、昇格に必要な規定を満たしている。ギルド内で再査定した結果、お前には現在のFランク以上の実力があると判断された」
「ランクを上げるということか?」
「お前が望むなら、Dランクへの特例昇格試験を受けてもらう」
「Eランクを飛ばしてか?」
「ああ。その判断が正しいかどうかは、Dランク冒険者との模擬戦で確認する」
断る理由はなかった。
「受ける」
そうして立つことになったのが、この試験場だ。
◇
獅子宮で抑え込まれていた身体。
新たに得た火属性。
姉さんから学んだ、属性を武器へ巡らせる術式。
身体も魔力も、俺が思っている以上に変化している。
その変化へ、感覚のほうがまだ追いついていない。
「――っ」
左足を強引に踏み込み、前へ流れた身体を捻る。
直後、大剣が背後の石床を叩いた。
鈍い轟音。
試験場全体が震え、細かな砂が足元から跳ね上がった。
「よそ見している暇はないぞ!」
試験官を務めるDランク冒険者が、大剣を床へ叩きつけた姿勢から強引に引き上げる。
分厚い刀身が斜め下から迫った。
俺は訓練用の刀を横にして受ける。
刃と刃がぶつかった。
重い。
衝撃が手首から肘へ抜け、そのまま右肩まで突き抜ける。
傷はすでに塞がっている。
それでも、獅子宮で酷使した肩の奥には、まだ僅かな鈍痛が残っていた。
力で押し返そうとした瞬間、大剣の重さが変わる。
試験官が刀身を滑らせ、俺の刀を下へ押し込んできた。
そこから柄頭による打撃。
狙いは顔面。
首を傾けてかわす。
鉄の塊が鼻先を通り過ぎた。
俺は相手の脇腹へ刀を走らせる。
だが、大剣の鍔元が進路を塞いだ。
甲高い音とともに、刀が弾かれる。
そのまま互いに距離を取った。
「なるほど。動きは悪くない」
試験官が大剣を肩へ担ぐ。
「だが、ベルグラード支部から上がってきたFランクが、Dランクへの特例昇格か。少し話が出来すぎているとは思わないか?」
「俺に言われても困る」
「違いない」
男は短く笑った。
だが、その目から警戒は消えていない。
試験内容は単純だ。
Dランク冒険者との模擬戦で、一定以上の戦闘能力を示すこと。
勝利は必須条件ではないと聞いている。
だが、最初から負けるつもりで刀を握ることなど、俺にはできなかった。
試験官が腰を落とす。
両腕を覆う魔力が濃くなった。
大剣の切っ先が僅かに沈む。
来る。
俺も魔力を全身へ巡らせた。
属性は混ぜない。
風による《速》も、火による《剛》も使わない。
姉さんから学んだ術式も、まだ模擬戦で使えるほど安定していない。
通常の魔力身体強化だけで、相手の動きを捉える。
試験官が石床を蹴った。
巨体に似合わない速度で間合いを詰めてくる。
最初の一撃は横薙ぎ。
俺は身を沈めた。
大剣が頭上を通り過ぎ、髪が巻き上げられる。
そこから返す刃。
立ち上がれば斬られる。
俺は低い姿勢のまま、試験官の懐へ踏み込んだ。
刀の柄で腹を狙う。
だが、男は左膝を持ち上げ、こちらの打撃を受け止めた。
衝撃がぶつかる。
男の身体が僅かに揺れた。
それだけだった。
逆に大剣の柄が、俺の背中へ振り下ろされる。
前へ転がって回避した。
背後で石床が鳴る。
起き上がるより早く、次の斬撃が迫っていた。
速い。
重い。
それでいて、大剣の長さを持て余していない。
斬撃を途中で止め、別の軌道へ変える技術もある。
Dランクという評価は飾りではない。
俺は迫る切っ先を刀の峰で逸らす。
完全には流しきれない。
刃引きされた大剣が左腕をかすめ、服の表面を削っていった。
一歩遅ければ、腕の骨を折られていた。
「まだ余所行きの動きだな!」
試験官が吼える。
大剣が右から、左から、絶え間なく迫る。
受ける。
かわす。
潜る。
斬り返す。
俺の刀は何度も相手へ届きかけ、そのたびに大剣の厚い刀身に阻まれた。
こちらから見れば、紙一重の攻防だ。
一つ判断を誤れば、それだけで決着がつく。
だが、不思議と焦りはなかった。
相手の呼吸。
足の向き。
肩の沈み。
柄を握る指の力。
攻防を重ねるほど、大剣が通る軌道が鮮明になっていく。
第一階層の騎士人形は、力で俺を圧倒した。
第二階層の騎士人形は、こちらの動きを読み、攻撃の軌道さえ変えてきた。
あれに比べれば――見える。
試験官が踏み込んだ。
右肩が僅かに下がる。
下段からの斬り上げ。
そう見せかけて、直前で腕を返した。
大剣が頭上へ持ち上がる。
こちらの回避先まで潰す、真っ向からの振り下ろし。
男の腕を包んでいた魔力が、大剣へ流れ込んだ。
これまでで最も重い一撃。
避けることはできる。
風を脚へ流せば、余裕を持って間合いから離れられる。
だが、それでは何も変わらない。
目の前へ迫る大剣を見る。
受け止めるのではない。
斬るのでもない。
俺が斬るための道から――退かす。
刀を斜めに構えた。
大剣が触れる。
重さが両腕へ流れ込むより早く、右手首を僅かに返した。
同時に左足を踏み込み、刀身を滑らせる。
力へ逆らわない。
相手が振り下ろす方向を、ほんの僅か横へずらす。
耳元で金属が擦れ合った。
接触した箇所から、金色の火花が三筋走る。
まるで、何かの爪痕のように。
大剣が俺の左側を通り過ぎた。
「なっ――」
試験官の体勢が前へ崩れる。
俺は踏み込んだ左足を軸に身体を回し、男の懐へ入った。
刀を返す。
次の瞬間、刃引きされた切っ先が試験官の喉元へ触れていた。
一瞬の静寂。
「そこまで!」
審判を務めていたギルド職員の声が、試験場へ響き渡る。
「勝者、レグルス・クレハルト!」
俺は息を吐き、刀を引いた。
試験官は前へ崩れかけた姿勢のまま、大剣を石床へ下ろす。
やがて、自分の喉元へ触れた。
「負けたか」
「危なかったです」
「どこがだ」
男が呆れたように眉を寄せる。
「俺の剣は一度も、お前を追い込めていない。お前は最初から最後まで、全部見ていただろう」
「二度は本気で当たると思ってました」
「それでも当たっていない。しかも、最後まで名のある技を一つも使わずに、だ」
周囲から遅れて歓声が上がった。
試験場を囲む柵の向こうには、昇格試験を見物していた冒険者たちがいる。
「本当にFランクだったのか?」
「Dランク相手に、正面から勝ちやがった」
「いや、正面からじゃない。最後のあれ……大剣の軌道だけを消したぞ」
圧倒したつもりはない。
俺にとっては、何度も判断を迫られる戦いだった。
だが、見ていた者たちには違って映っていたらしい。
腰に下げた茶色い魔導書から、小さな声が聞こえた。
『惜しかったわね』
「何がだ」
『最後の一合です』
セレスはどこか楽しそうだった。
『あなたは大剣を受け止めたのではありません。逃がしただけでもない。力の向きを読み、自分の軌道から相手の剣を弾き出した』
「弾いた……」
刀を握る右手を見る。
手首の内側に、まだ大剣の重さが残っている。
力と力がぶつかった感触ではない。
流れてきたものへ刃を触れさせ、その行き先だけを変えた。
これまでの《弾く》とは、何かが違う。
あと僅かで、別の形へ届きそうな感覚があった。
『まだ偶然に近いでしょう。形と呼ぶには足りません』
セレスはそこで言葉を切る。
『けれど、今の感覚を忘れないでください。次は――「弾く」かしら』
「ああ」
目を閉じ、先ほどの一瞬を頭の中で繰り返す。
踏み込み。
接触。
手首の返し。
大剣が軌道から外れた瞬間、走った金色の光。
今すぐ同じことをしろと言われても、できるかどうかは分からない。
だからこそ、忘れるわけにはいかなかった。
◇
「レグルス・クレハルト様。こちらが新しいギルド証になります」
受付職員が、魔導板の上へ俺のギルド証を置いた。
細い光が表面を走る。
刻まれていたFの文字が溶けるように消え、代わりにDの文字が浮かび上がった。
「これをもって、Dランクへの昇格が正式に認められました。Eランクを経ない特例昇格となりますので、受注可能な依頼と義務については――」
受付職員の説明を遮るように、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
建物全体を揺らす、低く重い音。
賑わっていたギルド内から、瞬く間に声が消えた。
壁際の魔導灯が青白い光から赤へ切り替わる。
「緊急招集!」
二階からギルド職員が声を張り上げた。
「王都所属のDランク以上は大広間へ集合! 依頼受注中の者を除き、全員その場に残れ!」
受け取ったばかりのギルド証へ目を落とす。
先ほどまでなら、俺は招集の対象外だった。
『昇格した直後に、ずいぶんな歓迎ね』
「本当にな」
喜ぶ時間すらないらしい。
俺は冒険者たちの流れに加わり、大広間へ向かった。
ほどなくして、ギルドマスターが二階の張り出し廊下へ姿を現す。
手には、王都地下水路の見取り図が握られていた。
「先ほど、王都北部の水門から緊急報告が入った」
広間に集まった冒険者たちを見渡し、ギルドマスターが口を開く。
「運河の水が逆流している」
ざわめきが広がった。
「逆流だと?」
「今日は雨も降っていないぞ」
「水門の操作を間違えたんじゃないのか?」
「水門は正常だ」
ギルドマスターの声が、冒険者たちの疑問を押し潰す。
「北部第一水門だけではない。地下水路の三系統で、通常とは逆方向の流れが確認されている。水門を閉じても水位の上昇は止まらず、現在も増え続けている」
職員が見取り図を広げる。
赤い印が、王都北部から中心街へ向かって伸びていた。
本来、水は王都の高所から低所へ流れ、地下水路を通って外へ排出される。
だが、図に描かれた矢印は、そのすべてを遡っていた。
「さらに、旧水路の封鎖区画に設置していた仮設障壁が破損した。調査に向かった管理員が、正体不明の魔物に襲われている。幸い死者は出ていないが、二名が負傷した」
封鎖区画。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
黒みがかった石の通路。
古代文字のような文様。
円形の広間。
そして、あの赤い瞳の女。
封印を解いたのは、あいつだ。
あのとき本体へ届くことができなかった結果が、今になって王都全体へ広がろうとしている。
「調査隊を三班編成する。第一班は封鎖区画。第二班は北部第一水門。第三班は避難経路の確保と、地上へ出た魔物の討伐だ」
次々に名前が呼ばれ、冒険者たちが分けられていく。
やがて、ギルドマスターの視線が俺を捉えた。
「レグルス・クレハルト。少し話がある」
周囲の冒険者たちが移動を始める中、俺は張り出し廊下の下へ向かった。
「お前は以前、地下水路の封鎖区画まで入っているな」
「ああ」
「現場を見た者が必要だ。昇格直後で悪いが、第一班へ加わってもらう」
「そのつもりだ」
俺の答えを聞き、ギルドマスターは僅かに目を細めた。
「一つだけ言っておく。前回と同じだと思うな」
その声は低かった。
「異常を感じたら、必ず班の者へ伝えろ。単独では動くな」
「ああ」
「気を付けろ」
短い言葉だった。
それでも、その表情からは単なる水路の異常ではないと察していることが伝わってきた。
◇
王都外れに設けられた鉄扉を開いた瞬間、湿った空気が顔へまとわりついた。
濁った水。
濡れた苔。
錆びた鉄と腐った木。
以前と変わらない地下水路の臭い。
だが、耳へ届く音は明らかに違っていた。
ごうごうと水が唸っている。
石段を下りる。
青白い魔導灯に照らされた水路では、黒く濁った水が勢いよく流れていた。
問題は、その方向だ。
「本当に逆だ……」
同行していた水路管理官が、壁に刻まれた矢印と水面を見比べる。
矢印は王都の外側へ向いている。
水はその正反対。
王都の中心へ向かって流れていた。
水面に浮かぶ腐木や苔までが、緩やかな傾斜を遡っていく。
「水門を閉じたんじゃなかったのか?」
第一班を率いるCランク冒険者が尋ねる。
「閉じています。それも二重にです。本来なら、ここは膝下まで水位が下がっているはずです」
だが、現在の水位は太腿に届きかけていた。
管理官が壁際の目盛りへ魔導灯を向ける。
「また上がっている……」
「どれくらいだ」
「緊急報告を出してから、すでに二段階です」
水路の奥で、何かが石壁を引っ掻く音がした。
全員が武器を構える。
だが、音の主は姿を現さない。
逆流する水面だけが、不自然に盛り上がっている。
やがて、その膨らみも流れの奥へ消えていった。
「先ほど管理員を襲った魔物かもしれません」
管理官の声が震える。
水路脇の足場には、深い爪痕が残されていた。
近くの壁には、青黒い鱗のような欠片が付着している。
「先を急ぐぞ。ここで待ち伏せされるほうが危険だ」
班長の言葉に、全員が頷いた。
進むにつれ、水路の構造が変わっていく。
王都建設後に整備された灰色の石材から、黒みを帯びた古い石へ。
壁面には細かな文様が刻まれている。
曲線と点が複雑に重なり、文字のようにも、星を結んだ図のようにも見えた。
魔導灯の光が弱くなる。
代わりに、壁の文様が微かな青白い光を放ち始めた。
『レグルス』
セレスの声が、頭の奥へ響く。
『水属性の魔力が濃くなっています』
「魔術師が水を生み出しているのか?」
『いいえ。一人の魔術師が扱える量ではありません』
声が硬い。
『そもそも、これは魔法で水を生み出している感覚とは異なります。どこか別の場所から、絶え間なく流れ込んでいるような……』
水路が大きく揺れた。
右側の石壁に亀裂が走る。
「伏せろ!」
亀裂から、圧縮された水が噴き出した。
狙われたのは水路管理官だ。
俺は咄嗟に鞘を抜き、噴き出す水へ触れさせる。
正面から止めるのではない。
流れを感じる。
勢いを殺さず、その向きだけを変える。
鞘を僅かに返した。
水流が左右へ裂け、管理官の脇を通り過ぎる。
先ほど、大剣を逸らしたときと同じ感覚。
だが、それを確かめる暇はなかった。
亀裂はすぐに閉じ、後には濡れた壁だけが残る。
「助かりました」
「礼はあとだ。急ごう」
水位は、さらに上がっていた。
やがて、通路の先に赤い札が見えた。
立入禁止。
以前と同じ文字が記されている。
だが、札は水に濡れ、半ばから破れていた。
その奥に設けられていた仮設の鉄柵も、大きく外側へ湾曲している。
内側から、何かに押された形だ。
鉄柵へ巻かれていた封印布は裂け、魔力を通す銀色の杭も二本が折れていた。
「ここから先が封鎖区画です」
管理官が震える声で言う。
「前回の事件後、ギルドと水路局で仮設障壁を設置しました。ですが、これは……」
班長が鉄柵の隙間から奥を覗く。
「水圧で壊れたのか?」
「あり得ません。この先には、大量の水を貯める場所などありません」
俺たちは鉄柵を外し、封鎖区画へ入った。
黒みがかった石の通路。
青白く明滅する古い文様。
進むほどに、水の音が大きくなる。
川の音ではない。
もっと深く、重い。
まるで地下に閉じ込められた海が、壁の向こうで唸っているようだった。
通路の先が開ける。
以前にも見た円形の広間。
壁面に刻まれた古い紋章。
床を走る、黒い封印の跡。
中央には、枯れた噴水のような台座があった。
かつては一滴の水もなかった場所。
その広間が、今は水に沈んでいた。
「これは……」
誰かが息を呑む。
水位はすでに、円形広間の半分に達している。
黒い封印跡は水底へ沈み、中央の台座からは青白い水が溢れ続けていた。
水は広間から四方の通路へ流れ出している。
それだけの水量が外へ排出されているにもかかわらず、水面は下がっていない。
むしろ、ゆっくりと上昇していた。
管理官が壁際の測量杭を水へ差し込む。
その顔から血の気が引いた。
「おかしい……」
「何がだ」
「この広間の容積では、説明がつきません。これだけの水が外へ流れ続ければ、とうに空になっているはずです」
その言葉を証明するように、水面が石段を一段飲み込んだ。
ほんの数秒。
それだけで、指一本分以上も水位が上がっている。
『レグルス』
セレスの声から、いつもの余裕が消えていた。
『これは、水路の水が逆流しているのではありません』
「どういう意味だ」
『ここから溢れた水が、王都の水路すべてを逆向きに押し返しているのです』
円形広間の奥から、低い音が響いた。
水面に、幾つもの気泡が浮かび上がる。
その直後。
青白く濁った水の底で、巨大な影が身を翻した。
魚のようにも見える。
だが、その影には水底を掻く四本の脚があった。
俺は刀の柄へ手をかける。
脳裏をよぎったのは、姉さんとの訓練で白い蒸気を上げて弾けた水球だった。
この広間の下に、湖があるわけではない。
川へつながる水脈も存在しない。
それでも、封鎖区画の奥では――王都の地下に存在するはずのない水量が、今も増え続けていた。




