第31話 『蠍』
王立魔術学園の地下は、息をしていなかった。
そう思った。
石畳を踏む俺の足音だけが、湿った闇の奥へ吸い込まれていく。
壁には一定間隔で魔導灯が埋め込まれている。淡い青白い光が地下水路を照らしているが、それでも奥までは見えない。光が届かない場所には、粘ついた影が溜まっている。
天井から水滴が落ちた。
ぽたり。
その音が、やけに大きく響く。
「……静かすぎるな」
俺は刀の柄に右手を添えながら呟いた。
地下水路なら、本来は魔物がいてもおかしくない。
ジェイドラット。
腐った水と魔力溜まりに引き寄せられる魔物。
そういうものが一匹や二匹いても不思議じゃない場所だ。
なのに、何もいない。
足音もない。
唸り声もない。
気配すらない。
その静けさが、逆に気持ち悪かった。
『レグルス』
腰のベルトに固定したセレスが、静かに声を掛けてくる。
『警戒してください』
「ああ」
『これは静寂ではありません』
セレスの声は、いつもより少しだけ硬い。
『周囲から意図的に音が消されています』
「……誰かがやったってことか」
『はい』
俺は足を止めた。
薄暗い通路の奥を見る。
何も見えない。
けれど、見られている感覚だけがある。
背中ではない。
頭上でもない。
もっと嫌な場所。
思考の内側を覗き込まれているような感覚。
『狩人は獲物を楽しむ時、周囲の雑音を消すことがあります』
「いい趣味してるな」
『褒めるところではありません』
「分かってる」
短く返して、俺は歩き出す。
引き返す気はない。
ここで足を止めれば、その間にも姉さんや学園の生徒達が危険に晒されるかもしれない。
俺ができることは多くない。
だからこそ、進むしかない。
地下水路は、進むほどに形を変えていった。
最初はただの排水路に見えた。
だが奥へ進むにつれて、壁の造りが明らかに古くなる。
石材の色が変わる。
表面に刻まれた模様も、王都でよく見るものとは違う。
古い。
ただ古いだけじゃない。
今の王国が作ったものじゃない。
壁には意味の分からない文字が並び、ところどころに崩れた魔法陣の跡が残っていた。
魔導灯の光がそれらを撫でるたびに、古代文字が一瞬だけ濡れた鱗のように光る。
「学園の地下に、こんなものがあるのか」
『王国成立以前の遺構と思われます』
「……本当に何でも出てくるな、この王都は」
『地下に秘密を抱えていない王都の方が珍しいかと』
「それは慰めか?」
『事実です』
セレスらしい返答に、少しだけ口元が緩む。
けれど、すぐに息を整えた。
気を抜ける場所じゃない。
俺は足裏に意識を落とす。
湿った石畳。
わずかな傾斜。
右側に流れる地下水。
左側の壁には、崩れかけた古い柱。
逃げ場は少ない。
戦うなら、通路よりも広い場所の方がいい。
そう考えた瞬間だった。
水音が消えた。
「……」
俺は足を止めた。
さっきまで確かに流れていた地下水の音がない。
水が止まったわけじゃない。
そこにあるのに、音だけが消えている。
鳥肌が立つ。
『近いわ』
セレスが告げた。
『契約物反応を確認』
喉の奥が、僅かに強張る。
「十二宮か」
『間違いありません』
俺は深く息を吸った。
地下の湿った空気が肺に入る。
冷たい。
だが、その冷たさで頭が冴えた。
「場所は」
『この先です』
通路の奥に、巨大な石扉が見えた。
高さは十メートル近い。
両開きの扉。
表面には十二の星座が円を描くように刻まれている。
その中央。
最も大きく刻まれた紋章だけが、淡く蒼白い光を放っていた。
水を注ぐ者。
水瓶座。
光は弱い。
今にも消えそうに明滅している。
けれど、その奥に何かが眠っていることだけは分かった。
理屈じゃない。
獅子宮に契約した時と同じだ。
俺の中にある何かが、あの紋章を見た瞬間に反応した。
「……これが、水瓶」
『そうね』
セレスの声が、少しだけ低くなる。
「そして、その前にいるんだな」
『そうよ、そこにいるわ』
俺は刀の柄を握り直した。
手の中にある感触。
鍛冶師が打ち、俺が磨き、何度も振ってきた刀。
この感触だけは、いつも俺を現実に繋ぎ止めてくれる。
「行くぞ」
『はい』
巨大な石扉へ近付く。
足音が響く。
一歩。
また一歩。
扉の前に立った瞬間、蒼白い水瓶座の紋章が強く脈動した。
まるで俺の到着を待っていたかのように。
石扉が、低い音を立てて開き始める。
地鳴りにも似た重い音。
隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。
俺は刀から手を離さない。
扉の向こう。
広がっていたのは、地下とは思えないほど巨大な円形広間だった。
天井は高い。
魔導灯の光が届かないほど上にある。
白い石柱が何本も円を描くように立ち並び、床には古代文字が幾重にも刻まれていた。
広間の奥には、さらに巨大な石門。
その中央に、水瓶座の封印。
淡い蒼白い光が、地下の闇を静かに照らしている。
そして。
その一つ手前。
一人の女性が立っていた。
長い銀髪を後ろで束ねている。
黒を基調とした細身のスーツ。
銀縁の装飾眼鏡。
片手には細身のダガー。
ローブでもない。
鎧でもない。
戦場に立つには、あまりにも整いすぎた姿。
けれど、その背中を見た瞬間、俺は理解した。
こいつだ。
この地下の静けさを作ったのは。
この場を支配しているのは。
どこかで見たことがあるあの女だ
ヒールが石畳を叩いた。
コツ。
ゆっくりと彼女が振り返る。
眼鏡の奥から、赤い瞳がこちらを見た。
驚きはない。
殺気もない。
ただ、観察するような視線。
俺という存在を、目の前の人間ではなく、実験結果の一つとして見ているような目だった。
数秒、沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「待っていたわ」
声は静かだった。
高くも低くもない。
けれど、不思議と広間の隅まで届く。
彼女は薄く微笑んだ。
「小さな獅子」
その瞬間、俺の指が刀の柄を強く握った。
そして、俺は、どこかでこの女に出会っていると思うのに、思い出そうとすると頭に霞がかかったように思い出せない。
「……俺を知っているのか」
「ええ」
彼女は当然のように頷く。
「獅子宮の契約者」
俺の名前を呼ぶように、赤い瞳が細くなる。
「レグルス・クレハルト」
名前まで知られている。
それだけで、喉の奥が少し冷えた。
『確認したわ』
セレスが告げる。
『十二宮契約者』
『識別名、蠍』
女性は眼鏡の奥で目を細めた。
「相変わらず優秀ね」
彼女の視線が俺の腰元へ落ちる。
「獅子の契約物」
セレスは返事をしない。
俺も問いを重ねる。
「目的は何だ」
蠍は封印の石門へ視線を向けた。
「簡単よ」
蒼白い水瓶座の光が、彼女の横顔を照らす。
「これを解く」
その一言だけで、俺は刀を半ば抜いた。
鯉口が鳴る。
「封印を解く?」
「ええ」
「何のために」
「知りたいから」
あまりにも短い答えだった。
だから、一瞬意味が分からなかった。
だが蠍は、こちらの反応を楽しむでもなく、静かに続ける。
「その先に何があるのか」
「封印が解ければ、世界はどう変わるのか」
「英雄が勝つのか」
「怪物が勝つのか」
「王国が揺れるのか」
「それとも、何も変わらないのか」
彼女は俺を見る。
赤い瞳には、熱がない。
狂気というほど激しくもない。
ただ、底が見えない。
「私は結末を観測したいだけ」
「……ふざけるな」
思わず声が低くなった。
「そのために学園を巻き込んだのか」
「そのために姉さん達を危険に晒したのか」
「必要だったから」
蠍は静かに答えた。
「世界を動かすには、少しだけ揺らす必要があるもの」
少しだけ。
その言葉に、胸の奥で何かが熱くなる。
こいつにとっては、学園も、生徒も、姉さんも、俺も。
全部ただの盤面だ。
結果を見るために動かす駒。
俺は刀を抜いた。
銀の刃が、蒼白い封印の光を受けて冷たく光る。
「悪いが」
切っ先を蠍へ向ける。
「そんな理由で見逃すほど、俺は甘くない」
蠍は少しだけ口元を緩めた。
「そう」
眼鏡へ指先を添える。
カチリ。
小さな音が、広間に響いた。
その瞬間、蠍の輪郭が揺らいだ。
水面に落ちた月のように、姿がぶれる。
一人。
二人。
三人。
五人。
同じ姿の蠍が、広間に立っていた。
全員が同じ顔で微笑んでいる。
全員が同じ赤い瞳で俺を見ている。
「分身……?」
『違います』
セレスが即座に否定した。
『ですが』
珍しく、言葉が止まった。
『解析できない』
解析できない。
その言葉の重さを、俺は知っている。
セレスが分からないなら、俺が考えてもすぐに答えは出ない。
なら。
「全部斬るしかないな」
五人の蠍が、同時に一歩を踏み出した。
ヒールの音が五つ重なる。
コツ。 コツ。 コツ。
地下広間の空気が、ゆっくりと刃物のように研がれていく。
蠍達は同じ声で告げた。
「さあ」
「始めましょう」
俺は息を吐いた。
足裏へ魔力を流す。
刀を構える。
相手は十二宮契約者。
ここから先は、今までの魔物狩りとは違う。
分かっている。
それでも。
俺は前へ出た。
床を蹴る。
最も近い蠍へ、一気に間合いを詰める。
刃が走る。
だが、斬った瞬間。
蠍の身体は砂のように崩れた。
「……っ!」
手応えがない。
肉を裂く感覚も、骨に当たる抵抗もない。
崩れた砂は床へ落ちる前に霧のように消えた。
直後。
背後でヒールが鳴る。
コツ。
「鋼槍波破」
蠍の声が、静かに響いた。
彼女が軽く足を踏み鳴らす。
震脚。
その瞬間、床が爆ぜた。
鋼色の槍が、石畳を突き破って生える。
一本じゃない。
二本でもない。
十。
二十。
無数の槍が波のように連なり、俺へ向かって殺到した。
「ちっ!」
刀を返す。
一本目を弾く。
二本目を叩き落とす。
三本目を身体を捻って躱し、四本目を柄尻で軌道から外す。
金属音が地下に反響する。
火花が視界を散らした。
『右、下方です』
セレスの声に従い、膝を抜く。
足元から突き出た槍が、頬の横を掠めた。
薄く皮膚が裂ける。
熱い。
血が流れる。
「近付けないな……!」
「ええ」
蠍は微笑んだ。
「そのための魔法だもの」
別の蠍が右手を掲げる。
また一人。
さらに一人。
同時に地面を踏む。
鋼槍の波が角度を変え、四方から迫った。
逃げ場が消える。
息を吐く。
ただ避けるな。
ただ斬るな。
流れを見ろ。
槍は地面から生える。
なら、魔力は地面を走っている。
獅子宮で叩き込まれた感覚が、身体の奥で蘇る。
俺は刀を短く振った。
切るのではなく、弾く。
刃で槍先を撫でるように逸らす。
反動で身体を回し、次の槍を叩く。
さらに次を突きで砕く。
切る。
突く。
叩く。
弾く。
派手な技じゃない。
泥臭い基礎だ。
けれど、今の俺を生かしているのは、それだけだった。
俺は槍の波を割って前へ出る。
一歩。
さらに一歩。
蠍の一人へ肉薄する。
「捕らえた!」
刀を振り下ろす。
だが、蠍は慌てない。
銀縁眼鏡の奥の赤い瞳が、ただ俺を見ている。
「金剛城壁」
彼女の前に壁が生まれた。
岩壁じゃない。
黒銀色に鈍く輝く、分厚い合金の壁。
俺の刀がぶつかる。
甲高い音が鳴った。
「ぐっ……!」
腕が痺れる。
刃が入らない。
斬れない。
『複数鉱物を圧縮した合金壁よ』
『現状の通常斬撃では突破困難です』
「便利すぎるだろ……!」
俺は壁を蹴って後方へ跳ぶ。
その瞬間、壁の向こうから蠍の声が届いた。
「生成・鎢・掃射」
空中に黒い球体が生まれた。
小さな粒。
だが数が異常だ。
瞬く間に広間の上空を埋め尽くす。
「……何だ、あれ」
『鎢。タングステンです』
『高密度鉱物弾。来ます』
次の瞬間。
黒い雨が降った。
空気が破裂する。
石床が砕ける。
俺は刀を構え直し、全身へ魔力を巡らせる。
避け切れない。
なら弾く。
「っ、らぁ!」
一発目。
二発目。
三発目。
重い。
小粒なのに、一つひとつが岩みたいに重い。
弾くたびに手首が軋む。
足裏が床を削る。
防ぎ切れなかった一発が肩を掠めた。
布が裂ける。
肉が抉れる。
痛みで視界が白くなりかける。
それでも、目は逸らさない。
俺は前へ出た。
黒い弾雨の中を、身体を低くして駆ける。
足元へ風を集める。
「纏風舞踏」
靴底を風が押す。
一瞬、身体が軽くなった。
床を滑るように横へ抜け、合金壁の端を回り込む。
そこにいた蠍へ刃を突き出す。
突き。
最短距離。
だが、また手応えがない。
蠍の身体が砂のように崩れる。
「またか……!」
「惜しいわ」
背後。
俺は振り返らず、刀を背中側へ回した。
金属音。
蠍のダガーを受け止める。
初めての近接。
赤い瞳が、すぐ近くにあった。
「反応が良いのね」
「褒められても嬉しくないな」
「褒めているわ」
「なおさら嫌だ」
俺は身体を捻り、刀を押し返す。
蠍は軽やかに後退した。
無駄のない動き。
魔法使いの足捌きじゃない。
かといって剣士でもない。
必要な分だけ、近接戦闘を磨いている。
嫌な相手だ。
距離を取られた瞬間、また床が震える。
鋼槍。
黒弾。
合金壁。
砂の分け身。
次々に戦場が塗り替えられていく。
俺は歯を食いしばった。
近付けば逃げられる。
斬れば砂のように崩れる。
本体が分からない。
このままじゃ、いつまで経っても届かない。
『レグルス』
「分かってる」
『相手は倒すことを目的としていません』
「……だろうな」
俺も気付き始めていた。
蠍の攻撃は強い。
殺傷力もある。
けれど、どこか詰め切ってこない。
殺すための攻撃じゃない。
足止めだ。
俺をこの場所に縫い付けるための戦い。
「何を待ってる……?」
蠍が微笑む。
「さあ」
赤い瞳が細くなる。
「あなたは、どう思う?」
その答えが、胸の奥を冷やした。
彼女は最初から言っていた。
封印を解く。
それだけだと。
俺は奥の石門を見る。
水瓶座の封印が淡く明滅している。
その前に、蠍はいない。
いや。
今この広間にいる蠍達のどれかが本体だと思っていた。
でも、本当にそうか。
「まさか……!」
『レグルス!』
セレスが叫ぶ。
同時に、蠍が右手を掲げた。
地面へではない。
天井へ。
掌を向ける。
その仕草は祈りにも似ていた。
けれど、そこに慈悲はない。
「逃げる気か!」
俺は踏み込む。
蠍は首を横に振った。
「逃げる?」
唇が僅かに弧を描く。
「違うわ」
地下の空気が震える。
「舞台を変えるだけ」
頭上。
暗い天井一面に、黄色い光が走った。
一本の線。
さらに一本。
蜘蛛の巣のように魔法陣が広がっていく。
黄金色の紋様が何重にも重なり、古代文字が高速で回転する。
広間全体が低く軋み始めた。
柱が震える。
石壁に亀裂が走る。
床に刻まれた古代文字が鈍く明滅する。
俺は思わず天井を見上げた。
「……嘘だろ」
あれは俺を狙っているんじゃない。
この空間そのものを壊す気だ。
蠍の声が、崩壊の予兆を縫うように響く。
「地脈崩壊」
轟音。
天井が割れた。
岩盤が砕け、巨大な石塊が落下する。
柱が折れる。
床が跳ねる。
地下広間そのものが悲鳴を上げた。
「なんだよ、あの威力、姉さんと同じ魔法でも段違いだ」
『レグルス!』
セレスの声と同時に、考えるのをやめ俺は走った。
落ちてくる瓦礫を斬る。
斬れない塊は叩いて逸らす。
細かい破片は風で払い、鋼槍の残骸を足場にして跳ぶ。
蠍は崩壊する石柱の上を軽やかに移動していた。
崩れる場所を、全部知っているみたいに。
瓦礫を足場に。
壁を蹴り。
天井に開いた穴へ向かって上がっていく。
「待て!」
俺は叫んだ。
地下の奥。
水瓶座の封印が視界の隅で明滅する。
嫌な予感が胸を刺した。
けれど、今は追うしかない。
『上です!』
「ああ!」
足元へ風を集める。
魔力による身体強化。
脚。
腰。
背中。
全身を一つの矢にする。
「纏風舞踏」
風が爆ぜた。
俺の身体が瓦礫の間を駆け上がる。
落下する石塊を蹴る。
砕けた柱を踏む。
さらに風。
さらに一歩。
以前なら届かなかった。
以前なら落ちていた。
でも今は違う。
風は足場になる。
魔力は身体を支える。
セレスはもう細かく指示しなかった。
ただ一言。
『あなたを信じるわ』
「任せろ」
俺は崩壊する地下から、空へ飛び出した。
冷たい空気が、肺に刺さった。
轟音と共に石畳が吹き飛び、俺は地下から王都の空へ投げ出される。
魔術学園の外縁。
夜の王都。
空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
風が強い。
ぽつり。
頬に冷たいものが当たる。
雨だ。
最初は小さな粒だった。
だが、それはすぐに数を増やし、王都の夜を濡らしていく。
その雨の中を、蠍が跳んだ。
崩れた瓦礫を足場にし、宙を舞うように。
その先には、高架を走る魔導列車。
車体に刻まれた魔導紋が青く光り、雨を弾きながら夜の王都を駆けている。
蠍はその屋根へ降り立った。
ヒールが金属の屋根を叩く。
コツ。
雨音の中でも、その音だけがはっきり聞こえた。
「逃がすか……!」
俺は空中で歯を食いしばる。
距離がある。
落ちれば終わり。
でも、ここで止まるわけにはいかない。
足元へ風を重ねる。
魔力で身体を無理やり引き上げる。
一つ目の瓦礫を蹴る。
二つ目。
まだ届かない。
なら、もう一歩。
「纏風舞踏」
風が爆ぜた。
俺の身体が雨を裂いて跳ぶ。
魔導列車の屋根が迫る。
着地。
膝を曲げ、衝撃を逃がす。
濡れた金属の上で靴が滑った。
だが倒れない。
足元へ風を薄く流し、無理やり踏み止まる。
雨が強くなる。
王都の光が、流れるように後方へ消えていく。
魔導列車は止まらない。
その屋根の上で、俺と蠍は向かい合った。
蠍は濡れた銀髪を指先で払い、静かに微笑む。
「本当に来たのね」
「当たり前だ」
俺は刀を構える。
「まだ終わってない」
「ええ」
蠍は細身のダガーを構えた。
「まだ、時間はあるもの」
その言い方が引っかかった。
時間。
やっぱり、こいつは何かを待っている。
俺を倒すためじゃない。
何かが終わるまで、俺をここに留めるため。
『レグルス』
「分かってる」
考えろ。
だけど、考えすぎるな。
目の前の蠍を止めなければ、何も始まらない。
俺は魔力を脚へ流した。
列車の屋根は濡れている。
足場としては最悪だ。
けれど、俺には風がある。
低く構え、一気に踏み込む。
蠍は後退しない。
ダガーを逆手に持ち、俺の斬撃を受け流す。
金属音が雨の中に散った。
軽い。
けれど、いやらしい。
俺の力を正面から受けず、刃の流れだけを滑らせる。
「近接もできるのかよ」
「最低限は」
「十分すぎるだろ」
俺は二撃目を放つ。
蠍は半歩だけ身を引き、ダガーで軌道を逸らした。
そこへ膝。
脇腹へ入る。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
だが退かない。
柄尻を返し、蠍の肩口へ叩き込む。
当たった。
初めて、確かな手応え。
蠍の身体がわずかに揺れる。
砂にはならない。
「やっと……当たったな」
蠍は肩を押さえ、少しだけ目を細めた。
「今のは痛かったわ」
「もっと痛くする」
「怖いことを言うのね」
雨粒が刀身を叩く。
雷鳴が遠くで鳴った。
俺は呼吸を整える。
列車の振動。
雨。
風。
足場の傾き。
全部が邪魔だ。
けれど、全部使える。
俺は風を靴底へ流し、踏み込みの瞬間だけ滑りを殺す。
蠍はそれを見て、僅かに笑った。
「上手いわね」
「褒められても」
「嬉しくない?」
「二回目だ」
俺は踏み込む。
横薙ぎ。
蠍が屈む。
その上を刃が通過する。
直後、蠍の足が屋根を叩いた。
「鋼槍波破」
列車の屋根が盛り上がった。
「ここでもか!」
金属の屋根を突き破り、鋼色の槍が飛び出す。
地下ほどの数はない。
だが、足場が狭い分だけ厄介だ。
俺は後ろへ跳ぶ。
一瞬遅れて、槍が腹の前を掠めた。
風で身体を横へ流す。
さらに二本。
刀で弾く。
屋根の上に火花が散り、雨粒が弾ける。
『左よ』
「見えてる!」
左から伸びる槍を叩き落とし、その反動で身体を前へ運ぶ。
蠍へ近付く。
だが彼女の前に黒銀の壁が生まれる。
「金剛城壁」
合金壁。
またか。
普通に斬っても通らない。
だから、斬らない。
俺は刀を壁へ叩きつける寸前で、足元の風を横へ流した。
身体を滑らせる。
壁の側面へ回り込む。
蠍の赤い瞳が、初めて僅かに動いた。
「そこだ!」
突き。
蠍はダガーで受ける。
でも、受け切れない。
俺は刀を押し込むのではなく、弾いた。
ダガーの軌道をずらし、体勢を崩す。
そのまま踏み込み、肩からぶつかる。
蠍の身体が後方へ飛んだ。
列車の屋根を滑る。
ヒールが火花を散らす。
「……なるほど」
蠍が小さく呟いた。
「地下より動きが良い」
「こっちは必死なんでな」
雨がさらに強くなる。
髪が額に張り付く。
肩の傷が熱い。
血が雨で流されていく。
でも、身体は動く。
獅子宮での修行。
姉さんとの模擬戦。
地下水路での依頼。
全部が、今の足を支えている。
蠍が眼鏡へ指を添えた。
また空気が揺れる。
分け身か。
そう思った瞬間、視界の中に蠍が二人、三人と増える。
列車の屋根という狭い場所で。
雨の中で。
同じ姿が重なる。
『レグルス、惑わされないでください』
「ああ」
目で追うな。
魔力で見るな。
どっちも騙される。
なら、足音だ。
雨音。
列車の振動。
ヒールの音。
コツ。
右。
俺は振り返らずに刀を振った。
金属音。
ダガーを弾いた。
そこにいた蠍の表情が、少しだけ変わる。
「……よく分かったわね」
「勘だ」
「嫌な勘」
「褒め言葉だと思っておく」
俺は一気に踏み込む。
もう距離を取らせない。
鋼槍が伸びる。
弾く。
黒い鉱物弾が生まれる。
斬る。
合金壁が立つ。
回り込む。
砂の分け身が現れる。
足音で捉える。
完璧じゃない。
何度も掠る。
何度も血が飛ぶ。
けれど、少しずつ届いている。
蠍の余裕が、薄く削れていくのが分かる。
「……本当に、面白いわね」
蠍が小さく笑った。
「あなたはまだ小さい」
「けれど、確かに伸びている」
「観察対象としては、申し分ない」
蠍がダガーを逆手に持ち替えた。
雨粒が刃を滑り、細い光になって落ちる。
「これは凌げるかしら」
次の瞬間、蠍の姿が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
速い。
風ではない。
魔力で無理やり身体を押し出したような、直線的で鋭い踏み込み。
「散華鮮血」
赤い軌跡が咲いた。
短剣の突き。
一撃ではない。
二撃、三撃、五撃、十撃。
雨の中に血の華が開くように、蠍のダガーが連続で俺の急所を狙ってくる。
「ぐっ……!」
肩。腕。脇腹。
防いだはずの刃が、皮膚を浅く裂いた。
血が雨に混じって散る。
鮮やかで、気持ち悪いほど綺麗だった。
『レグルス!』
「分かってる!」
速い。
しかも、ただ速いだけじゃない。
突きの角度が細かく変わる。
初撃を弾いても、次の刃がもう別の場所へ滑り込んでいる。
魔法主体の相手だと思っていた。
だが違う。
こいつは、近接も殺すために磨いている。
俺は刀を短く使い、突きを弾く。
弾く。叩く。逸らす。
それでも全ては防げない。
頬を掠めた刃が血を散らし、蠍の赤い瞳がその血を映した。
「よく持つわね」
「……こっちは、しぶといのが取り柄なんでな」
息が荒い。
足場は濡れている。
身体は傷だらけ。
けれど、ここで退けば終わる。
このまま通常の斬撃を重ねても、たぶん押し切れない。
こいつはまだ何か隠している。
でも、今の俺にも一つだけある。
未完成。
まだ試しの型。
それでも、今この場で使うしかない。
俺はダガーの連撃を弾きながら、一歩引いた。
刀を鞘へ納める。
蠍の赤い瞳が、俺の構えを捉えた。
「抜刀術?」
「ただの抜刀術じゃない」
呼吸を整える。
風を集める。
刀へではない。
腕へ。肩へ。背中へ。足へ。
抜くための一瞬、その全てを揃える。
風属性の力で、速度を加算する。
完成形じゃない。
壱之太刀と呼ぶには、まだ粗い。
だからこれは、試し。
今の俺が届かせるための、未完成の一閃。
蠍が魔力を練る。
空中に黒い球体。足元に鋼槍。前方に合金壁。
三つ同時。
俺を止めるための壁。
だが。
「セレス」
『はい』
「行く」
『信じています』
その言葉だけで十分だった。
俺は足元へ風を爆ぜさせた。
踏み込む。
濡れた屋根が沈むように軋む。
合金壁が生まれる。鋼槍が伸びる。黒い弾丸が降る。
その全てが、遅く見えた。
「壱之太刀・試」
鯉口が鳴る。
風が脚を押す。
抜刀の瞬間に、背中から肩、腕、指先まで魔力が一本に繋がる。
「獅吼・一閃」
銀の刃が走る。
「――風」
風が吼えた。
雨が裂けた。
合金壁の端を抉り、鋼槍の根元を断ち、黒い弾雨をまとめて弾き飛ばす。
完全には斬れない。
けれど、道は開いた。
俺はその一瞬の隙間を抜ける。
蠍の目が僅かに見開かれた。
間合いの内。
「袈裟吼絶」
俺は威力を抑えて刀を返し、峰で蠍の胸元から左腰部までを打った。
殺すつもりはない。
止める。
そのための一撃。
鈍い音。
蠍の身体が吹き飛び、列車の屋根に叩きつけられる。
「俺は観察されるために生きてるんじゃない」
俺は刀を握り直す。
銀縁眼鏡が雨に濡れ、赤い瞳が細く揺れた。
蠍は立とうとして、膝をついた。
俺は荒い息を吐きながら、切っ先を向ける。
「……俺の勝ちだ」
雨が降る。
魔導列車は走り続ける。
蠍は膝をついたまま、俺を見上げた。
悔しそうではなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ、笑っていた。
「そうね」
彼女は静かに言った。
「あなたの勝ちよ」
その言葉に、嫌な違和感が走った。
勝ったはずなのに。
何かが、おかしい。
『レグルス』
セレスの声が震えた。
俺は目を細める。
「どうした」
『違います』
「何が」
『地下です』
雨音の中で、セレスが告げる。
『封印前に、契約物反応』
俺の呼吸が止まった。
蠍を見る。
目の前で膝をついている蠍は、静かに微笑んでいる。
まるで最初から、これでよかったと言うように。
「……まさか」
その瞬間。
王都の地下から、蒼白い光の柱が立ち昇った。




