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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第二章 王都、暗躍する影
PR
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第31話 『蠍』

 王立魔術学園の地下は、息をしていなかった。

 そう思った。

 石畳を踏む俺の足音だけが、湿った闇の奥へ吸い込まれていく。


 壁には一定間隔で魔導灯が埋め込まれている。淡い青白い光が地下水路を照らしているが、それでも奥までは見えない。光が届かない場所には、粘ついた影が溜まっている。


 天井から水滴が落ちた。


 ぽたり。

 その音が、やけに大きく響く。


「……静かすぎるな」

 俺は刀の柄に右手を添えながら呟いた。


 地下水路なら、本来は魔物がいてもおかしくない。

 ジェイドラット。

 腐った水と魔力溜まりに引き寄せられる魔物。

 そういうものが一匹や二匹いても不思議じゃない場所だ。


 なのに、何もいない。

 足音もない。

 唸り声もない。

 気配すらない。

 その静けさが、逆に気持ち悪かった。


『レグルス』

 腰のベルトに固定したセレスが、静かに声を掛けてくる。


『警戒してください』


「ああ」


『これは静寂ではありません』

 セレスの声は、いつもより少しだけ硬い。


『周囲から意図的に音が消されています』


「……誰かがやったってことか」


『はい』


 俺は足を止めた。

 薄暗い通路の奥を見る。

 何も見えない。

 けれど、見られている感覚だけがある。

 背中ではない。

 頭上でもない。

 もっと嫌な場所。

 思考の内側を覗き込まれているような感覚。


『狩人は獲物を楽しむ時、周囲の雑音を消すことがあります』


「いい趣味してるな」


『褒めるところではありません』


「分かってる」

 短く返して、俺は歩き出す。


 引き返す気はない。

 ここで足を止めれば、その間にも姉さんや学園の生徒達が危険に晒されるかもしれない。

 俺ができることは多くない。

 だからこそ、進むしかない。

 地下水路は、進むほどに形を変えていった。

 最初はただの排水路に見えた。

 だが奥へ進むにつれて、壁の造りが明らかに古くなる。


 石材の色が変わる。

 表面に刻まれた模様も、王都でよく見るものとは違う。


 古い。

 ただ古いだけじゃない。

 今の王国が作ったものじゃない。

 壁には意味の分からない文字が並び、ところどころに崩れた魔法陣の跡が残っていた。

 魔導灯の光がそれらを撫でるたびに、古代文字が一瞬だけ濡れた鱗のように光る。


「学園の地下に、こんなものがあるのか」


『王国成立以前の遺構と思われます』


「……本当に何でも出てくるな、この王都は」


『地下に秘密を抱えていない王都の方が珍しいかと』


「それは慰めか?」


『事実です』

 セレスらしい返答に、少しだけ口元が緩む。


 けれど、すぐに息を整えた。

 気を抜ける場所じゃない。

 俺は足裏に意識を落とす。

 湿った石畳。

 わずかな傾斜。

 右側に流れる地下水。

 左側の壁には、崩れかけた古い柱。

 逃げ場は少ない。


 戦うなら、通路よりも広い場所の方がいい。

 そう考えた瞬間だった。

 水音が消えた。


「……」


 俺は足を止めた。

 さっきまで確かに流れていた地下水の音がない。

 水が止まったわけじゃない。

 そこにあるのに、音だけが消えている。

 鳥肌が立つ。


『近いわ』

 セレスが告げた。


『契約物反応を確認』


 喉の奥が、僅かに強張る。


「十二宮か」


『間違いありません』


 俺は深く息を吸った。

 地下の湿った空気が肺に入る。

 冷たい。

 だが、その冷たさで頭が冴えた。


「場所は」


『この先です』


 通路の奥に、巨大な石扉が見えた。

 高さは十メートル近い。

 両開きの扉。

 表面には十二の星座が円を描くように刻まれている。


 その中央。

 最も大きく刻まれた紋章だけが、淡く蒼白い光を放っていた。

 水を注ぐ者。

 水瓶座。

 光は弱い。

 今にも消えそうに明滅している。

 けれど、その奥に何かが眠っていることだけは分かった。


 理屈じゃない。

 獅子宮に契約した時と同じだ。

 俺の中にある何かが、あの紋章を見た瞬間に反応した。


「……これが、水瓶」


『そうね』

 セレスの声が、少しだけ低くなる。


「そして、その前にいるんだな」


『そうよ、そこにいるわ』


 俺は刀の柄を握り直した。

 手の中にある感触。

 鍛冶師が打ち、俺が磨き、何度も振ってきた刀。

 この感触だけは、いつも俺を現実に繋ぎ止めてくれる。


「行くぞ」


『はい』


 巨大な石扉へ近付く。


 足音が響く。


 一歩。


 また一歩。


 扉の前に立った瞬間、蒼白い水瓶座の紋章が強く脈動した。

 まるで俺の到着を待っていたかのように。

 石扉が、低い音を立てて開き始める。

 地鳴りにも似た重い音。

 隙間から冷たい空気が流れ込んでくる。


 俺は刀から手を離さない。

 扉の向こう。

 広がっていたのは、地下とは思えないほど巨大な円形広間だった。


 天井は高い。

 魔導灯の光が届かないほど上にある。

 白い石柱が何本も円を描くように立ち並び、床には古代文字が幾重にも刻まれていた。

 広間の奥には、さらに巨大な石門。

 その中央に、水瓶座の封印。

 淡い蒼白い光が、地下の闇を静かに照らしている。


 そして。

 その一つ手前。

 一人の女性が立っていた。


 長い銀髪を後ろで束ねている。

 黒を基調とした細身のスーツ。

 銀縁の装飾眼鏡。

 片手には細身のダガー。

 ローブでもない。

 鎧でもない。

 戦場に立つには、あまりにも整いすぎた姿。


 けれど、その背中を見た瞬間、俺は理解した。

 こいつだ。

 この地下の静けさを作ったのは。

 この場を支配しているのは。

 どこかで見たことがあるあの女だ


 ヒールが石畳を叩いた。


 コツ。


 ゆっくりと彼女が振り返る。


 眼鏡の奥から、赤い瞳がこちらを見た。

 驚きはない。

 殺気もない。

 ただ、観察するような視線。

 俺という存在を、目の前の人間ではなく、実験結果の一つとして見ているような目だった。

 数秒、沈黙が落ちた。

 先に口を開いたのは、彼女だった。


「待っていたわ」

 

 声は静かだった。

 高くも低くもない。

 けれど、不思議と広間の隅まで届く。

 彼女は薄く微笑んだ。


「小さな獅子」


 その瞬間、俺の指が刀の柄を強く握った。

 そして、俺は、どこかでこの女に出会っていると思うのに、思い出そうとすると頭に霞がかかったように思い出せない。


「……俺を知っているのか」


「ええ」

 彼女は当然のように頷く。


「獅子宮の契約者」


 俺の名前を呼ぶように、赤い瞳が細くなる。


「レグルス・クレハルト」


 名前まで知られている。

 それだけで、喉の奥が少し冷えた。


『確認したわ』

 セレスが告げる。


『十二宮契約者』 

『識別名、蠍』


 女性は眼鏡の奥で目を細めた。


「相変わらず優秀ね」


 彼女の視線が俺の腰元へ落ちる。


「獅子の契約物」


 セレスは返事をしない。


 俺も問いを重ねる。


「目的は何だ」


 蠍は封印の石門へ視線を向けた。


「簡単よ」


 蒼白い水瓶座の光が、彼女の横顔を照らす。


「これを解く」


 その一言だけで、俺は刀を半ば抜いた。

 鯉口が鳴る。


「封印を解く?」


「ええ」


「何のために」


「知りたいから」

 

 あまりにも短い答えだった。

 だから、一瞬意味が分からなかった。

 だが蠍は、こちらの反応を楽しむでもなく、静かに続ける。


「その先に何があるのか」


「封印が解ければ、世界はどう変わるのか」


「英雄が勝つのか」


「怪物が勝つのか」


「王国が揺れるのか」


「それとも、何も変わらないのか」


 彼女は俺を見る。

 赤い瞳には、熱がない。

 狂気というほど激しくもない。

 ただ、底が見えない。


「私は結末を観測したいだけ」


「……ふざけるな」

 思わず声が低くなった。


「そのために学園を巻き込んだのか」


「そのために姉さん達を危険に晒したのか」


「必要だったから」

 蠍は静かに答えた。


「世界を動かすには、少しだけ揺らす必要があるもの」


 少しだけ。

 その言葉に、胸の奥で何かが熱くなる。

 こいつにとっては、学園も、生徒も、姉さんも、俺も。

 全部ただの盤面だ。

 結果を見るために動かす駒。

 俺は刀を抜いた。

 銀の刃が、蒼白い封印の光を受けて冷たく光る。


「悪いが」

 切っ先を蠍へ向ける。


「そんな理由で見逃すほど、俺は甘くない」


 蠍は少しだけ口元を緩めた。


「そう」


 眼鏡へ指先を添える。


 カチリ。


 小さな音が、広間に響いた。


 その瞬間、蠍の輪郭が揺らいだ。


 水面に落ちた月のように、姿がぶれる。

 一人。

 二人。

 三人。

 五人。

 同じ姿の蠍が、広間に立っていた。

 全員が同じ顔で微笑んでいる。

 全員が同じ赤い瞳で俺を見ている。


「分身……?」


『違います』

 セレスが即座に否定した。


『ですが』

 珍しく、言葉が止まった。


『解析できない』


 解析できない。

 その言葉の重さを、俺は知っている。

 セレスが分からないなら、俺が考えてもすぐに答えは出ない。

 なら。


「全部斬るしかないな」


 五人の蠍が、同時に一歩を踏み出した。

 ヒールの音が五つ重なる。

 

 コツ。 コツ。 コツ。


 地下広間の空気が、ゆっくりと刃物のように研がれていく。


 蠍達は同じ声で告げた。


「さあ」


「始めましょう」


 俺は息を吐いた。

 足裏へ魔力を流す。

 刀を構える。


 相手は十二宮契約者。

 ここから先は、今までの魔物狩りとは違う。

 分かっている。

 それでも。

 俺は前へ出た。


 床を蹴る。

 最も近い蠍へ、一気に間合いを詰める。

 刃が走る。

 だが、斬った瞬間。

 蠍の身体は砂のように崩れた。


「……っ!」

 手応えがない。

 肉を裂く感覚も、骨に当たる抵抗もない。

 崩れた砂は床へ落ちる前に霧のように消えた。


 直後。

 背後でヒールが鳴る。


 コツ。


鋼槍波破フェルハスタペルフォラ


 蠍の声が、静かに響いた。

 彼女が軽く足を踏み鳴らす。


 震脚。


 その瞬間、床が爆ぜた。

 鋼色の槍が、石畳を突き破って生える。

 一本じゃない。

 二本でもない。

 十。

 二十。

 無数の槍が波のように連なり、俺へ向かって殺到した。


「ちっ!」

 刀を返す。


 一本目を弾く。

 二本目を叩き落とす。

 三本目を身体を捻って躱し、四本目を柄尻で軌道から外す。

 金属音が地下に反響する。

 火花が視界を散らした。


『右、下方です』

 セレスの声に従い、膝を抜く。


 足元から突き出た槍が、頬の横を掠めた。

 薄く皮膚が裂ける。

 熱い。

 血が流れる。


「近付けないな……!」


「ええ」

 蠍は微笑んだ。


「そのための魔法だもの」

 

 別の蠍が右手を掲げる。


 また一人。

 さらに一人。


 同時に地面を踏む。

 鋼槍の波が角度を変え、四方から迫った。

 逃げ場が消える。


 息を吐く。

 ただ避けるな。

 ただ斬るな。

 流れを見ろ。

 槍は地面から生える。

 なら、魔力は地面を走っている。

 獅子宮で叩き込まれた感覚が、身体の奥で蘇る。


 俺は刀を短く振った。

 切るのではなく、弾く。

 刃で槍先を撫でるように逸らす。

 反動で身体を回し、次の槍を叩く。

 さらに次を突きで砕く。

 切る。

 突く。

 叩く。

 弾く。

 派手な技じゃない。

 泥臭い基礎だ。

 けれど、今の俺を生かしているのは、それだけだった。


 俺は槍の波を割って前へ出る。


 一歩。

 さらに一歩。


 蠍の一人へ肉薄する。


「捕らえた!」


 刀を振り下ろす。

 だが、蠍は慌てない。

 銀縁眼鏡の奥の赤い瞳が、ただ俺を見ている。


金剛城壁アダマスマルス


 彼女の前に壁が生まれた。

 岩壁じゃない。

 黒銀色に鈍く輝く、分厚い合金の壁。


 俺の刀がぶつかる。

 甲高い音が鳴った。


「ぐっ……!」


 腕が痺れる。

 刃が入らない。

 斬れない。


『複数鉱物を圧縮した合金壁よ』


『現状の通常斬撃では突破困難です』


「便利すぎるだろ……!」


 俺は壁を蹴って後方へ跳ぶ。

 その瞬間、壁の向こうから蠍の声が届いた。


「生成・鎢・掃射ヴォルフラム・サギッタ


 空中に黒い球体が生まれた。

 小さな粒。

 だが数が異常だ。

 瞬く間に広間の上空を埋め尽くす。


「……何だ、あれ」


『鎢。タングステンです』


『高密度鉱物弾。来ます』


 次の瞬間。

 黒い雨が降った。

 空気が破裂する。

 石床が砕ける。

 俺は刀を構え直し、全身へ魔力を巡らせる。

 避け切れない。

 なら弾く。


「っ、らぁ!」


 一発目。

 二発目。

 三発目。


 重い。

 小粒なのに、一つひとつが岩みたいに重い。

 弾くたびに手首が軋む。

 足裏が床を削る。

 防ぎ切れなかった一発が肩を掠めた。

 布が裂ける。

 肉が抉れる。

 痛みで視界が白くなりかける。

 それでも、目は逸らさない。


 俺は前へ出た。

 黒い弾雨の中を、身体を低くして駆ける。

 足元へ風を集める。


纏風舞踏ヴェンティトゥム


 靴底を風が押す。

 一瞬、身体が軽くなった。

 床を滑るように横へ抜け、合金壁の端を回り込む。

 そこにいた蠍へ刃を突き出す。


 突き。

 最短距離。


 だが、また手応えがない。

 蠍の身体が砂のように崩れる。


「またか……!」


「惜しいわ」


 背後。

 俺は振り返らず、刀を背中側へ回した。

 金属音。

 蠍のダガーを受け止める。

 初めての近接。

 赤い瞳が、すぐ近くにあった。


「反応が良いのね」


「褒められても嬉しくないな」


「褒めているわ」


「なおさら嫌だ」


 俺は身体を捻り、刀を押し返す。

 蠍は軽やかに後退した。

 無駄のない動き。

 魔法使いの足捌きじゃない。

 かといって剣士でもない。

 必要な分だけ、近接戦闘を磨いている。


 嫌な相手だ。

 距離を取られた瞬間、また床が震える。

 

 鋼槍。

 黒弾。

 合金壁。

 砂の分け身。


 次々に戦場が塗り替えられていく。

 俺は歯を食いしばった。

 近付けば逃げられる。

 斬れば砂のように崩れる。

 本体が分からない。

 このままじゃ、いつまで経っても届かない。


『レグルス』


「分かってる」


『相手は倒すことを目的としていません』


「……だろうな」

 

 俺も気付き始めていた。

 蠍の攻撃は強い。

 殺傷力もある。

 けれど、どこか詰め切ってこない。

 殺すための攻撃じゃない。

 足止めだ。

 俺をこの場所に縫い付けるための戦い。


「何を待ってる……?」


 蠍が微笑む。


「さあ」


 赤い瞳が細くなる。


「あなたは、どう思う?」


 その答えが、胸の奥を冷やした。

 彼女は最初から言っていた。

 封印を解く。

 それだけだと。

 俺は奥の石門を見る。

 水瓶座の封印が淡く明滅している。

 その前に、蠍はいない。


 いや。


 今この広間にいる蠍達のどれかが本体だと思っていた。

 でも、本当にそうか。


「まさか……!」


『レグルス!』

 セレスが叫ぶ。


 同時に、蠍が右手を掲げた。

 地面へではない。

 天井へ。

 掌を向ける。

 その仕草は祈りにも似ていた。

 けれど、そこに慈悲はない。


「逃げる気か!」 

 俺は踏み込む。


 蠍は首を横に振った。


「逃げる?」


 唇が僅かに弧を描く。


「違うわ」


 地下の空気が震える。


「舞台を変えるだけ」


 頭上。

 暗い天井一面に、黄色い光が走った。

 一本の線。

 さらに一本。

 蜘蛛の巣のように魔法陣が広がっていく。

 黄金色の紋様が何重にも重なり、古代文字が高速で回転する。

 広間全体が低く軋み始めた。


 柱が震える。

 石壁に亀裂が走る。

 床に刻まれた古代文字が鈍く明滅する。

 俺は思わず天井を見上げた。


「……嘘だろ」


 あれは俺を狙っているんじゃない。

 この空間そのものを壊す気だ。

 蠍の声が、崩壊の予兆を縫うように響く。


地脈崩壊テルラヴェナルイナ


 轟音。

 天井が割れた。

 岩盤が砕け、巨大な石塊が落下する。

 柱が折れる。

 床が跳ねる。

 地下広間そのものが悲鳴を上げた。


「なんだよ、あの威力、姉さんと同じ魔法でも段違いだ」


『レグルス!』

 セレスの声と同時に、考えるのをやめ俺は走った。


 落ちてくる瓦礫を斬る。

 斬れない塊は叩いて逸らす。

 細かい破片は風で払い、鋼槍の残骸を足場にして跳ぶ。

 蠍は崩壊する石柱の上を軽やかに移動していた。

 崩れる場所を、全部知っているみたいに。

 瓦礫を足場に。

 壁を蹴り。

 天井に開いた穴へ向かって上がっていく。


「待て!」

 俺は叫んだ。


 地下の奥。

 水瓶座の封印が視界の隅で明滅する。

 嫌な予感が胸を刺した。

 けれど、今は追うしかない。


『上です!』


「ああ!」

 

 足元へ風を集める。

 魔力による身体強化。

 脚。

 腰。

 背中。

 全身を一つの矢にする。


纏風舞踏ヴェンティトゥム


 風が爆ぜた。

 俺の身体が瓦礫の間を駆け上がる。

 落下する石塊を蹴る。

 砕けた柱を踏む。

 さらに風。

 さらに一歩。

 以前なら届かなかった。

 以前なら落ちていた。

 でも今は違う。


 風は足場になる。

 魔力は身体を支える。

 セレスはもう細かく指示しなかった。


 ただ一言。


『あなたを信じるわ』


「任せろ」

 俺は崩壊する地下から、空へ飛び出した。


 冷たい空気が、肺に刺さった。

 轟音と共に石畳が吹き飛び、俺は地下から王都の空へ投げ出される。

 

 魔術学園の外縁。

 夜の王都。

 空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。

 風が強い。


 ぽつり。


 頬に冷たいものが当たる。


 雨だ。

 最初は小さな粒だった。

 だが、それはすぐに数を増やし、王都の夜を濡らしていく。

 その雨の中を、蠍が跳んだ。

 崩れた瓦礫を足場にし、宙を舞うように。

 その先には、高架を走る魔導列車。

 車体に刻まれた魔導紋が青く光り、雨を弾きながら夜の王都を駆けている。

 蠍はその屋根へ降り立った。


 ヒールが金属の屋根を叩く。


 コツ。


 雨音の中でも、その音だけがはっきり聞こえた。


「逃がすか……!」

 俺は空中で歯を食いしばる。


 距離がある。

 落ちれば終わり。

 でも、ここで止まるわけにはいかない。


 足元へ風を重ねる。

 魔力で身体を無理やり引き上げる。

 

 一つ目の瓦礫を蹴る。

 

 二つ目。

 

 まだ届かない。


 なら、もう一歩。


纏風舞踏ヴェンティトゥム


 風が爆ぜた。

 俺の身体が雨を裂いて跳ぶ。

 魔導列車の屋根が迫る。


 着地。

 膝を曲げ、衝撃を逃がす。

 濡れた金属の上で靴が滑った。

 だが倒れない。

 足元へ風を薄く流し、無理やり踏み止まる。


 雨が強くなる。

 王都の光が、流れるように後方へ消えていく。

 魔導列車は止まらない。

 その屋根の上で、俺と蠍は向かい合った。

 蠍は濡れた銀髪を指先で払い、静かに微笑む。


「本当に来たのね」


「当たり前だ」

 俺は刀を構える。


「まだ終わってない」


「ええ」

 蠍は細身のダガーを構えた。


「まだ、時間はあるもの」


 その言い方が引っかかった。


 時間。

 やっぱり、こいつは何かを待っている。

 俺を倒すためじゃない。

 何かが終わるまで、俺をここに留めるため。


『レグルス』


「分かってる」


 考えろ。

 だけど、考えすぎるな。

 目の前の蠍を止めなければ、何も始まらない。

 俺は魔力を脚へ流した。

 列車の屋根は濡れている。

 足場としては最悪だ。

 けれど、俺には風がある。

 低く構え、一気に踏み込む。

 

 蠍は後退しない。

 ダガーを逆手に持ち、俺の斬撃を受け流す。

 金属音が雨の中に散った。


 軽い。


 けれど、いやらしい。

 俺の力を正面から受けず、刃の流れだけを滑らせる。


「近接もできるのかよ」


「最低限は」


「十分すぎるだろ」


 俺は二撃目を放つ。

 蠍は半歩だけ身を引き、ダガーで軌道を逸らした。

 そこへ膝。

 脇腹へ入る。


「ぐっ……!」

 息が詰まる。


 だが退かない。

 柄尻を返し、蠍の肩口へ叩き込む。


 当たった。

 初めて、確かな手応え。

 蠍の身体がわずかに揺れる。

 砂にはならない。


「やっと……当たったな」


 蠍は肩を押さえ、少しだけ目を細めた。


「今のは痛かったわ」


「もっと痛くする」


「怖いことを言うのね」


 雨粒が刀身を叩く。

 雷鳴が遠くで鳴った。

 俺は呼吸を整える。

 

 列車の振動。


 雨。


 風。


 足場の傾き。


 全部が邪魔だ。

 けれど、全部使える。

 俺は風を靴底へ流し、踏み込みの瞬間だけ滑りを殺す。

 蠍はそれを見て、僅かに笑った。


「上手いわね」


「褒められても」


「嬉しくない?」


「二回目だ」


 俺は踏み込む。


 横薙ぎ。


 蠍が屈む。

 その上を刃が通過する。


 直後、蠍の足が屋根を叩いた。


鋼槍波破フェルハスタペルフォラ


 列車の屋根が盛り上がった。


「ここでもか!」


 金属の屋根を突き破り、鋼色の槍が飛び出す。

 地下ほどの数はない。

 だが、足場が狭い分だけ厄介だ。

 俺は後ろへ跳ぶ。

 一瞬遅れて、槍が腹の前を掠めた。

 風で身体を横へ流す。


 さらに二本。


 刀で弾く。

 屋根の上に火花が散り、雨粒が弾ける。


『左よ』


「見えてる!」


 左から伸びる槍を叩き落とし、その反動で身体を前へ運ぶ。

 蠍へ近付く。

 だが彼女の前に黒銀の壁が生まれる。


金剛城壁アダマスマルス


 合金壁。

 またか。

 普通に斬っても通らない。

 だから、斬らない。

 俺は刀を壁へ叩きつける寸前で、足元の風を横へ流した。


 身体を滑らせる。

 壁の側面へ回り込む。

 蠍の赤い瞳が、初めて僅かに動いた。


「そこだ!」


 突き。

 蠍はダガーで受ける。

 でも、受け切れない。

 俺は刀を押し込むのではなく、弾いた。

 ダガーの軌道をずらし、体勢を崩す。

 そのまま踏み込み、肩からぶつかる。

 蠍の身体が後方へ飛んだ。


 列車の屋根を滑る。

 ヒールが火花を散らす。


「……なるほど」

 蠍が小さく呟いた。


「地下より動きが良い」


「こっちは必死なんでな」


 雨がさらに強くなる。

 髪が額に張り付く。

 肩の傷が熱い。

 血が雨で流されていく。

 でも、身体は動く。

 獅子宮での修行。

 姉さんとの模擬戦。

 地下水路での依頼。

 全部が、今の足を支えている。


 蠍が眼鏡へ指を添えた。

 また空気が揺れる。


 分け身か。

 そう思った瞬間、視界の中に蠍が二人、三人と増える。


 列車の屋根という狭い場所で。

 雨の中で。

 同じ姿が重なる。


『レグルス、惑わされないでください』


「ああ」


 目で追うな。

 魔力で見るな。

 どっちも騙される。

 なら、足音だ。


 雨音。

 列車の振動。

 ヒールの音。


 コツ。


 右。


 俺は振り返らずに刀を振った。

 金属音。

 ダガーを弾いた。

 そこにいた蠍の表情が、少しだけ変わる。


「……よく分かったわね」


「勘だ」


「嫌な勘」


「褒め言葉だと思っておく」


 俺は一気に踏み込む。

 もう距離を取らせない。

 

 鋼槍が伸びる。

 弾く。

 黒い鉱物弾が生まれる。

 斬る。

 合金壁が立つ。

 回り込む。

 砂の分け身が現れる。

 足音で捉える。

 完璧じゃない。

 何度も掠る。

 何度も血が飛ぶ。

 けれど、少しずつ届いている。

 蠍の余裕が、薄く削れていくのが分かる。


「……本当に、面白いわね」

 蠍が小さく笑った。


「あなたはまだ小さい」


「けれど、確かに伸びている」


「観察対象としては、申し分ない」

 

 蠍がダガーを逆手に持ち替えた。

 雨粒が刃を滑り、細い光になって落ちる。


「これは凌げるかしら」


 次の瞬間、蠍の姿が消えた。

 いや、消えたように見えただけだ。


 速い。

 風ではない。

 魔力で無理やり身体を押し出したような、直線的で鋭い踏み込み。


散華鮮血サングイスフロス


 赤い軌跡が咲いた。

 短剣の突き。

 一撃ではない。

 二撃、三撃、五撃、十撃。

 雨の中に血の華が開くように、蠍のダガーが連続で俺の急所を狙ってくる。


「ぐっ……!」


 肩。腕。脇腹。

 防いだはずの刃が、皮膚を浅く裂いた。

 血が雨に混じって散る。

 鮮やかで、気持ち悪いほど綺麗だった。


『レグルス!』


「分かってる!」


 速い。

 しかも、ただ速いだけじゃない。

 突きの角度が細かく変わる。

 初撃を弾いても、次の刃がもう別の場所へ滑り込んでいる。

 魔法主体の相手だと思っていた。


 だが違う。

 こいつは、近接も殺すために磨いている。

 俺は刀を短く使い、突きを弾く。


 弾く。叩く。逸らす。


 それでも全ては防げない。

 頬を掠めた刃が血を散らし、蠍の赤い瞳がその血を映した。


「よく持つわね」


「……こっちは、しぶといのが取り柄なんでな」


 息が荒い。

 足場は濡れている。

 身体は傷だらけ。

 けれど、ここで退けば終わる。

 このまま通常の斬撃を重ねても、たぶん押し切れない。

 こいつはまだ何か隠している。

 でも、今の俺にも一つだけある。


 未完成。

 まだ試しの型。

 それでも、今この場で使うしかない。


 俺はダガーの連撃を弾きながら、一歩引いた。

 刀を鞘へ納める。

 蠍の赤い瞳が、俺の構えを捉えた。


「抜刀術?」


「ただの抜刀術じゃない」


 呼吸を整える。

 風を集める。

 刀へではない。

 腕へ。肩へ。背中へ。足へ。

 抜くための一瞬、その全てを揃える。

 風属性の力で、速度を加算する。

 完成形じゃない。

 壱之太刀と呼ぶには、まだ粗い。

 だからこれは、試し。

 今の俺が届かせるための、未完成の一閃。


 蠍が魔力を練る。

 

 空中に黒い球体。足元に鋼槍。前方に合金壁。


 三つ同時。


 俺を止めるための壁。


 だが。


「セレス」


『はい』


「行く」


『信じています』


 その言葉だけで十分だった。

 俺は足元へ風を爆ぜさせた。


 踏み込む。

 濡れた屋根が沈むように軋む。

 

 合金壁が生まれる。鋼槍が伸びる。黒い弾丸が降る。


 その全てが、遅く見えた。


「壱之太刀・試」


 鯉口が鳴る。

 風が脚を押す。

 抜刀の瞬間に、背中から肩、腕、指先まで魔力が一本に繋がる。


「獅吼・一閃」


 銀の刃が走る。


「――風」


 風が吼えた。

 雨が裂けた。

 合金壁の端を抉り、鋼槍の根元を断ち、黒い弾雨をまとめて弾き飛ばす。


 完全には斬れない。

 けれど、道は開いた。

 俺はその一瞬の隙間を抜ける。

 蠍の目が僅かに見開かれた。


 間合いの内。

 

 「袈裟吼絶ルギトゥス・カエスーラ

 俺は威力を抑えて刀を返し、峰で蠍の胸元から左腰部までを打った。


 殺すつもりはない。

 止める。

 そのための一撃。

 鈍い音。

 蠍の身体が吹き飛び、列車の屋根に叩きつけられる。


「俺は観察されるために生きてるんじゃない」

 俺は刀を握り直す。

 

 銀縁眼鏡が雨に濡れ、赤い瞳が細く揺れた。

 蠍は立とうとして、膝をついた。

 俺は荒い息を吐きながら、切っ先を向ける。


「……俺の勝ちだ」


 雨が降る。

 魔導列車は走り続ける。

 蠍は膝をついたまま、俺を見上げた。

 悔しそうではなかった。


 むしろ。

 ほんの少しだけ、笑っていた。


「そうね」

 彼女は静かに言った。


「あなたの勝ちよ」


 その言葉に、嫌な違和感が走った。

 勝ったはずなのに。

 何かが、おかしい。


『レグルス』

 セレスの声が震えた。


 俺は目を細める。


「どうした」


『違います』


「何が」


『地下です』

 雨音の中で、セレスが告げる。


『封印前に、契約物反応』


 俺の呼吸が止まった。

 蠍を見る。

 目の前で膝をついている蠍は、静かに微笑んでいる。

 まるで最初から、これでよかったと言うように。


「……まさか」


 その瞬間。

 王都の地下から、蒼白い光の柱が立ち昇った。


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