第29話 静寂の綻び 前編
朝の陽光が、宿の窓から静かに差し込んでいた。
白いカーテンが初夏の風に揺れ、運河を渡ってきた爽やかな空気が部屋の中をゆっくりと満たしていく。
俺は寝台から身を起こし、大きく息を吸い込んだ。
石造りの街特有のひんやりとした匂いに混じり、どこか甘い焼き立てのパンの香りが漂ってくる。
「……いい朝だな」
窓を開ける。
眼下には、水都ヴァルエストの朝が広がっていた。
幾筋もの運河は朝日を受けて銀色に輝き、石造りの橋を人々が忙しなく行き交っている。
白い外壁と青い屋根が並ぶ街並みは、朝露をまとって宝石のように煌めき、その遥か向こうには、王都の象徴とも言える壮麗な王城が静かにそびえていた。
幾本もの尖塔が空へ向かって伸び、その姿はまるで雲を支える巨木のようだ。
さらに視線を右へ向ければ、ノヴァ・アカデミア王立魔術学園。
そして、王都の外周へと続く高架橋では、一台の魔導列車が青白い魔導光を帯びながら滑るように走り去っていった。
車輪が石を打つ音ではない。
低く澄んだ魔導機関の駆動音だけが、朝の空へ静かに溶けていく。
「何度見ても綺麗な街だな……」
思わずそんな言葉が漏れる。
ベルグラードも好きだった。
だけど、この王都には人の営みそのものが息づいている。
剣を振る者。
学びを志す者。
商いに励む者。
誰もが、それぞれの今日を生きている。
そんな当たり前の光景が、不思議と心地よかった。
「ふふっ」
腰の鞘に宿るセレスが、小さく笑う。
「どうした?」
『あなたが、この街を気に入ってくださったようなので。』
「まあな。最初は都会すぎて落ち着かなかったけど、少し慣れてきた。」
『努力して、その土地に馴染もうとするところも、あなたらしいですね。』
「そんな大したことじゃないさ。」
苦笑しながら身支度を整える。
刀を腰に差し、ロングコートを羽織る。
鏡に映る自分は、王都へ来た頃よりほんの少しだけ精悍な顔つきになっていた。
地下水路での戦い。
魔導鼠ジェイドラット。
グール。
決して楽な依頼ではなかった。
それでも乗り越えられた。
その積み重ねが、自信という形で少しずつ身体に宿り始めている。
『…………』
「セレス?」
返事がない。
珍しい。
俺は鏡越しに首を傾げた。
「何かあったのか?」
少しだけ間が空く。
やがて、彼女は静かな声で答えた。
『……いいえ。』
『少しだけ、胸騒ぎがしただけよ。』
「胸騒ぎ?」
『ええ。理由は分からないわ。だが……。』
言葉はそこで途切れた。
いつもの穏やかな声色だった。
けれど、長く旅を共にしてきた俺には分かる。
セレスが理由もなく不安を口にすることは、ほとんどない。
「疲れてるんじゃないか?」
『そうだと良いのだけれど……。』
窓の外では、一羽の白い鳥が王城の上空を旋回している。
どこまでも澄み渡った青空。
雲一つない、穏やかな朝。
なのに、胸の奥へ小さな棘が刺さったような違和感だけが残った。
俺はその感覚を振り払うように軽く肩を回し、宿をあとにした。
王都の朝は、今日も活気に満ちていた。
石畳の通りには露店が並び始め、果物を売る店主の威勢の良い声が響く。
焼き立てのパンを抱えた少女が母親と笑い合い、運河では荷船がゆっくりと水面を滑っていく。
広場の噴水では子どもたちが水飛沫を上げながら追いかけっこをしていた。
平和。
その一言が、この街にはよく似合う。
俺はそんな景色を眺めながら、冒険者ギルドへ向かって歩き出した。
冒険者ギルドの重厚な扉を押し開くと、朝の活気が一気に耳へ飛び込んできた。
木造だったベルグラード支部とは違い、王都支部は三階建ての壮麗な石造り。
吹き抜けの天井からは大きな魔導照明が吊り下げられ、磨き上げられた大理石の床には朝日が反射して柔らかな光を落としている。
壁には天秤を象った黄金の紋章。
剣士、魔術師、商人。
様々な者たちが依頼書を眺め、受付では絶え間なく依頼の受注や達成報告が続いていた。
「おはようございます、レグルスさん。」
聞き慣れた声に振り向く。
受付に立っていた女性が、柔らかな笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「おはようございます。」
「地下水路の依頼、本当にお疲れ様でした。ギルドでもかなり話題になっているんですよ?」
「話題?」
「はい。一人でジェイドラットの群れとグールを討伐した新人なんて滅多にいませんから。」
少し照れ臭くなり、頬をかく。
「運が良かっただけですよ。」
「その"運"を掴めるのも実力です。」
そう言って微笑む受付嬢に苦笑しながら礼を返す。
「あと、少し時間があればギルドマスターの部屋に行ってもらえませんか。話は通してありますのでそのまま上がれます。地下水路の件で少しお話があるみたいです。」
少し雑談を交わしたあと、俺はギルド長の執務室へ向かった。
扉を軽く叩く。
「失礼します。」
「入れ。」
低い声。
中へ入ると、以前と変わらぬ厳つい体格のギルド長が机に肘をつき、分厚い書類へ目を通していた。
「地下水路の件、ご苦労だった。」
「ありがとうございます。」
「……少しは王都にも慣れたか?」
「ええ。ようやく街の道も覚えてきました。」
「それなら結構だ。」
短い会話。
この人は口数こそ少ないが、不思議と嫌な空気はない。
そんな時だった。
机の端に置かれていた小さな魔導通信具が淡く光る。
青白い魔法陣が浮かび、誰かの声が微かに流れた。
内容までは聞き取れない。
だが、ギルド長の表情だけが僅かに変わった。
「……グール、か。」
ぽつり、と独り言のように漏れる。
「グール?」
思わず聞き返す。
ギルド長はすぐにいつもの表情へ戻り、軽く首を振った。
「気にするな。」
「最近、周辺地域で少し報告が増えているだけだ。」
「そうですか……。」
地下水路で戦ったばかりだったこともあり、少しだけ胸に引っ掛かった。
だが、王都ほどの大都市なら魔物の報告くらい珍しくないのかもしれない。
俺は深く考えず、一礼して部屋を後にした。
その背中を、ギルド長だけが静かに見送っていた。
「……嫌な予感がする。」
その呟きは、誰にも届かなかった。
◇
ギルドを出た俺は、そのまま王立魔術学園へ向かう。
運河沿いの石畳を歩く。
青々と茂る街路樹が風に揺れ、橋の上では学生たちが教科書を片手に楽しそうに談笑していた。
焼き菓子を頬張る少女。
魔導書を読みながら歩く青年。
教師らしき男性が学生へ穏やかに声を掛けている。
どこを見ても平和だった。
「今日は姉さんと昼を食べる約束なんだ。」
『そういえば楽しみにしてたわね。』
「久しぶりだからな。」
学園の白亜の門をくぐる。
噴水広場では色鮮やかな花々が咲き誇り、巨大な時計塔が静かに時を刻んでいた。
この学園は学ぶ場所というより、一つの街だ。
校舎だけではない。
図書館、研究棟、温室、公園、劇場、そして学生用のカフェまである。
そのカフェのテラス席。
「あっ、レグルス!」
聞き慣れた明るい声。
振り向くと、姉が手を振っていた。
陽光を受けた髪がさらりと揺れ、柔らかな笑顔が自然とこちらまで明るい気持ちにさせる。
「待った?」
「全然。私も今来たところ。」
向かいへ腰を下ろす。
運河を望む席。
風が心地いい。
「それで?」
姉が身を乗り出した。
「地下水路の依頼、どうだったの?」
その瞳はまるで子どものように輝いている。
俺は思わず笑ってしまった。
「そんなに気になるのか?」
「もちろん!」
「レグルスが一人で受けた依頼なんだから。」
俺は地下水路での出来事を順を追って話し始めた。
暗い地下道。
ジェイドラットの群れ。
風魔法を刀へ纏わせた応用。
そして、最後に現れたグール。
姉は何度も表情を変えながら話を聞いてくれる。
「……なるほど。」
「風を刀に乗せたのね。」
「うまくいくか賭けだったけど。」
「でも成功した。」
姉は優しく微笑んだ。
「ちゃんと成長してる。」
その一言が、何より嬉しかった。
子どもの頃から姉は、俺の努力を誰より見てきた。
だからこそ、その言葉には重みがある。
「ありがとう。」
料理が運ばれてくる。
最初に鼻をくすぐったのは、澄んだ魚介の香りだった。
白磁の器に注がれた運河魚のスープは、黄金色に透き通り、表面には細かく刻まれた香草が静かに浮かんでいる。朝に水揚げされた白身魚を丁寧に煮込み、香味野菜と数種類の香草で仕上げた王都ヴァルエストの定番料理だ。
隣には、こんがりと焼き色の付いた厚切りのトースト。
表面は香ばしく、中は湯気を立てるほど柔らかい。発酵乳から作られた香草クリームが薄く塗られ、焼き立てならではの小麦の甘い香りが食欲を誘う。
さらに、淡い琥珀色をした果実のジュース。
王都近郊で採れる柑橘と林檎を搾り合わせた爽やかな一杯らしい。
「美味しそうだな……。」
思わず声が漏れる。
向かいに座る姉の皿もまた、色鮮やかだった。
薄く切り分けられた淡水サーモンの香草マリネ。
淡い桃色の身にはオリーブオイルと柑橘の果汁が艶やかに絡み、ディルやフェンネルなどの香草が上品な香りを添えている。
その隣には、新鮮な葉野菜をふんだんに使った王都風香草サラダ。
香ばしく焼き上げた厚切りベーコンと、とろりとした半熟卵が添えられ、削り下ろした熟成チーズが雪のように降りかかっていた。
湯気を立てる白磁のティーカップからは、花のような優しい香りが漂う。
「今日は学園農園で育てたハーブを使ったお茶なんだって。」
姉が嬉しそうにカップを持ち上げる。
「相変わらず、学園の食堂……いや、このカフェは贅沢だな。」
「ふふっ。学生だけじゃなくて先生も楽しみにしてるくらい人気なのよ。」
俺はスープを一口飲む。
優しい塩味の奥から白身魚の旨味がゆっくりと広がり、後から香草の爽やかな余韻が鼻を抜けていく。
決して派手ではない。
けれど、素材そのものを大切にした味だった。
「……美味い。」
自然と笑みがこぼれる。
王都ヴァルエスト。
運河と水に育まれたこの街らしい、どこか穏やかな味だった
穏やかな時間。
風が運河を渡る。
笑い声が響く。
学生たちも楽しそうだ。
そんな何気ない昼食の最中。
姉がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば。」
「ん?」
「この学園の地下にも地下水路が走ってるのよ。」
「え?」
思わず手が止まる。
「昔から王都全体へ水を送るための施設だから、学園の地下も通ってるの。」
「今は保守用としてしか使われてないけどね。」
地下水路。
学園。
その二つが頭の中で結び付く。
「へぇ……。」
何気ない話。
本当に、それだけのはずだった。
その時。
セレスの声が、今までで一番低く響いた。
『……レグルス。』
俺は息を止める。
『来るわ。』
その一言と同時に。
カタリ──。
白磁のティーカップが、小さく揺れた。
琥珀色のハーブティーに波紋が広がり、陽光を映していた水面が静かに震える。
「……地震かしら?」
姉が首を傾げながらカップへ手を添える。
周囲の学生たちも「揺れた?」「気のせいかな」と笑い合う程度で、誰一人として深刻には受け止めていなかった。
王立魔術学園の昼休み。
穏やかな笑い声と食器が触れ合う音が、テラスを優しく満たしている。
俺も最初はそう思った。
だが。
『違うわ。』
セレスの静かな声が響く。
その声音は、今朝宿で聞いた時よりも遥かに張り詰めていた。
『これは……地震ではないわ。』
「セレス?」
『魔力よ。』
その一言に、背筋を冷たいものが走る。
「魔力……?」
『学園全体を覆うほどの、膨大な魔力反応。』
『……来るわ。』
その瞬間だった。
ふわり、と。
吹き抜けていた風が止まる。
木々の葉が揺れることをやめ、噴水から立ち上る水飛沫までもが一瞬だけ静止したように見えた。
広場で遊んでいた小鳥たちが、一斉に空へ飛び立つ。
学生たちの笑い声が途切れる。
誰もが無意識に空を見上げていた。
胸騒ぎ。
理由は分からない。
それでも、本能だけが警鐘を鳴らしていた。
そして。
ドクン──。
巨大な鼓動が、大地そのものを震わせた。
空気が軋む。
世界が、脈打つ。
「っ……!」
胸の奥を誰かに握り潰されたような圧迫感。
思わず息が詰まる。
次の瞬間。
「きゃっ……!」
近くの女子生徒が力なく倒れた。
続いて。
一人。
また一人。
まるで糸が切れた操り人形のように、その場へ崩れ落ちていく。
「え……?」
「お、おい!」
「先生!」
悲鳴が上がる。
さっきまで穏やかだった昼休みは、一瞬で混乱へ変わった。
意識を失った生徒は眠っているように静かだった。
苦しむ様子もない。
だからこそ、不気味だった。
何が起きているのか、誰にも分からない。
俺は周囲を見回す。
倒れているのは、ほとんどが学生だ。
教師たちは立っている。
姉も。
そして俺も。
「先生! 生徒を避難させてください!」
姉の声が鋭く響く。
さっきまで穏やかな姉ではない。
一瞬で戦闘態勢の顔へ変わっていた。
「第三棟へ運べ!」
「魔力結界を展開!」
「医療班を呼べ!」
学園中へ指示が飛び交う。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
足元から低い地鳴りが響く。
広場中央の石畳へ、一本の亀裂が走った。
「下がれ!」
教師の叫び。
だが、間に合わない。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、その奥から黒紫色の瘴気がゆっくりと噴き出した。
嫌な臭い。
腐敗。
死。
地下水路で嗅いだ臭いだ。
「まさか……!」
黒い腕が、石畳を掴む。
続いてもう一本。
さらに一本。
瘴気を纏った異形が、ゆっくりと這い上がってきた。
「グール……!」




