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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第一章 契約――そして王都へ
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第3話 最初の敵

 ――ギャギャッ!


 耳障りな鳴き声が、薄暗い地下遺跡に反響した。

 一歩を踏み出した直後、俺は正眼に構えた刀の向こうから近づいてくる影を見据えた。


 三体。


 そのうち、先頭にいた一体が仲間より前へ出てくる。

 背丈は俺の胸にも届かない。

 小柄な体を前屈みに丸め、獣のように両腕を垂らしている。

 全身を覆う肌は濁った緑色。

 表面には大小の疣が浮かび、泥と垢がこびりついていた。

 頭の両側から伸びた耳は細長く、先端が鋭く尖っている。

 低い額。

 潰れた鼻。

 落ち窪んだ眼窩の奥では、二つの目が暗い赤色に光っていた。

 裂けるように大きな口から、黄色く濁った牙が覗いている。

 ゴブリンは俺の顔を見ると、口の端を吊り上げた。

 にやけた笑み。

 怯えている獲物を見つけたことが、嬉しくてたまらない。

 そう言わんばかりの顔だった。


 身に纏っているのは、獣皮を縄で縛っただけの粗末な腰巻き。

 右手には、太い木の枝へ錆びた鉄片を打ちつけた棍棒を握っている。

 鉄片の表面には、乾いた黒い染みが幾つも残っていた。


 「これが……ゴブリン」


 冒険者を目指す者なら、知らないはずのない魔物だ。

 魔物の中では最低級。

 力も知能も低く、駆け出し冒険者が最初に討伐する相手。

 知識としては何度も聞いてきた。

 図鑑でも見た。

 模擬試験の問題にも出た。

 だが、目の前にいるものは、紙に描かれた絵とはまるで違う。

 湿った獣皮と腐肉の臭い。

 口元から糸を引いて落ちる濁った唾液。

 棍棒を握る節くれ立った指。

 赤い目の奥に宿る、隠しようのない殺意。

 

 これは訓練ではない。

 あの棍棒が頭に当たれば、俺は死ぬ。

 俺の刀が届けば、こいつが死ぬ。

 初めての命のやり取り。

 そう理解した途端、喉が張りついた。

 刀を握る指先が冷たくなる。

 足が小さく震えた。


 『呼吸を止めないで』

 腰元に浮かぶセレスから、落ち着いた声が届いた。


 「分かってる」


 『いいえ。止まっています』


 指摘されて、ようやく気づく。

 息を吐く。

 鼻から吸う。

 それだけで、胸を締めつけていた恐怖が僅かに緩んだ。

 消えたわけではない。


 怖い。

 今すぐ背を向けて逃げたい。

 だが、背後に退路はなかった。

 残る二体のゴブリンは、少し離れたところでこちらを見ている。

 一斉には襲ってこない。

 先頭の一体に、俺がどれほど抵抗できるか試させているのだ。


 「最低級でも、それくらいの知恵はあるのか」


 『侮らないことです。弱いことと、危険ではないことは同じではありません』


 「ああ」

 俺は刀の柄を握り直した。

 幼い頃から振り続けてきた、無銘の打刀。

 何万回と振った。

 それでも、人や魔物へ向けて振るうのは初めてだった。

 

 ゴブリンが舌なめずりをする。


 「ギィ……ギャッ!」

 短い声を上げ、石床を蹴った。


 速い。

 想像していたよりも、ずっと。

 小柄な体を低く沈め、左右へ不規則に跳ねながら迫ってくる。

 素足が石床を叩くたび、伸びた爪が甲高い音を立てた。

 距離が一気に縮まる。

 俺が踏み込もうとした瞬間、ゴブリンが左足で床の小石を蹴り上げた。


 「っ!」

 砂と小石が顔へ飛んでくる。

 咄嗟に目を細めた。

 その一瞬を狙い、ゴブリンが棍棒を振りかぶる。

 右上からの振り下ろし。

 頭を砕くつもりだ。

 見えている。

 頭では分かる。

 だが、足が動かない。

 恐怖で身体が固まっている。


 ――動け。

 棍棒が迫る。

 ――動け!

 頭の奥へ、無機質な声が響いた。


 《警告》

 《敵性個体の攻撃を確認》

 《肉体最適化を実行します》


 視界が僅かに澄んだ。

 ゴブリンの動きが遅くなったわけではない。

 俺が突然、強くなったわけでもない。

 ただ、それまで別々に捉えていたものが、一つにつながった。

 踏み込んだ右足。

 前へ傾く重心。

 棍棒を引く肩。

 力の入った肘。

 振り下ろされる軌道。

 十年間、何度も頭の中で繰り返してきた動きの読み方。

 知っていたはずなのに、実戦では使えなかった知識。

 それを身体が理解した。


 「右から――!」

 俺は左足を半歩だけ引き、上体を捻った。

 棍棒が鼻先を通り過ぎる。

 風圧が頬を打った。

 鉄片の腐った臭いまで分かる距離。


 避けた。

 いや、避けられた。

 棍棒が石床へ叩きつけられる。

 火花が散った。

 好機。

 刀を横へ振る。

 だが、刃がゴブリンの脇腹へ届く直前、腕が止まりかけた。


 斬れば死ぬ。

 その迷いが、刃筋を僅かに鈍らせた。


 「ギャッ!」

 刀は緑色の肌を浅く裂いただけだった。

 黒みを帯びた血が飛ぶ。

 ゴブリンは痛みに顔を歪めると、棍棒を手放し、左手の爪で俺の顔を狙ってきた。


 「くっ!」

 仰け反る。

 汚れた爪が頬をかすめた。

 熱い痛み。

 薄く皮膚が裂け、血が流れる。

 ゴブリンの口元が、再び歪んだ。

 俺が殺しきれなかったことを理解している。

 今度はにやけた笑みではない。

 傷を負わせた俺を、どう苦しめて殺すか考えている顔だった。


 ゴブリンが腰を落とす。

 俺の懐へ飛び込み、喉へ噛みつくつもりだ。

 怖い。

 だが、先ほどとは違う。

 一度かわした。

 一度、刃を届かせた。

 俺の積み重ねは、目の前の魔物にも通じる。


 『レグルス』

 セレスの声が届く。


 『私は、あなたの代わりに戦うことはできません』


 「ああ」


 『あなたへ新しい剣術を与えたわけでもありません』


 「分かってる」


 『ならば、自分が積み重ねてきたものを信じなさい』


 ゴブリンが跳んだ。

 赤い目。

 開かれた口。

 剥き出しになった牙。

 真正面から迫る殺意を、今度は目を逸らさずに見る。

 右足を引く。

 腰を落とす。

 切っ先を僅かに下げる。

 肩から力を抜いた。

 十年間、数え切れないほど繰り返してきた構え。

 ゴブリンの足が地面から離れる。

 空中では軌道を変えられない。

 あと三歩。

 二歩。

 一歩。


 今だ。

 左足で石床を踏み締める。

 足裏から生まれた力を、膝、腰、背中、肩へ通す。

 腕だけで振らない。

 刀を身体の一部として前へ走らせる。


 一閃。

 銀色の刃が横薙ぎに走った。


 ゴブリンの首元へ吸い込まれる。

 骨に触れた瞬間、僅かな抵抗が手へ伝わった。

 怖じ気づけば刃が止まる。

 だから、振り抜いた。


 「――斬る!」

 刃が首を通過した。


 「ギッ……?」

 ゴブリンの赤い目が、大きく見開かれる。

 口元に残っていた笑みが消えた。

 一拍遅れて首から血が噴き出す。

 黒ずんだ赤色。

 生温かい血が、俺の頬と腕へ飛び散った。

 ゴブリンは喉元を両手で押さえながら着地する。


 一歩。

 二歩。

 よろめくように進み、そのまま石床へ崩れ落ちた。


 痙攣していた手足から、ゆっくりと力が抜けていく。

 静寂が戻った。

 俺は刀を振り抜いた姿勢のまま、動けなかった。

 鼻の奥へ血の臭いが入ってくる。

 鉄に似た、生々しい臭い。

 倒れたゴブリンは、もう動かない。

 俺が斬った。

 俺が殺した。


 「……勝ったのか」


 声が震えた。

 喜びより先に、安堵が押し寄せる。

 生きている。

 腕も動く。

 刀も握っている。

 頬の傷は痛むが、致命傷ではない。

 俺は震える息を吐いた。


 『ええ。あなたの勝ちです』

 セレスの声は静かだった。


 『ですが、最初の斬撃には迷いがありました』


 「分かってる」


 『命を奪うことへ何も感じるな、とは言いません。ただ、斬ると決めたあとに迷えば、次に倒れるのはあなたです』


 厳しい言葉だった。

 だが、間違ってはいない。

 俺は倒れたゴブリンから目を逸らさず、その姿を胸へ刻んだ。

 そのとき、目の前に淡い文字が浮かぶ。


 《黄道十二宮システム》

 《初回実戦評価を完了しました》

 《刀剣適性――A》

 《努力蓄積値を確認》

 《蓄積された経験を戦闘動作へ接続します》


 胸の奥が熱くなる。

 筋力が急激に増したわけではない。

 魔力量が膨れ上がったわけでもない。


 ただ、最後の一振りには無駄がなかった。

 足の位置。

 腰の回転。

 重心移動。

 刃筋。

 これまで一度も完璧には重ならなかった動きが、初めて一つにつながった。


 「努力蓄積……」


 雨の日も。

 雪の日も。

 手の皮が裂けた日も。

 兄の背中へ届かないと知った日も。

 才能がないと笑われた日も。

 俺は刀を振った。

 誰にも評価されなかった十年間。

 そのすべてが、今の一振りへつながっている。


 《継続行為を確認》

 《努力蓄積率――非常に高い》

 《適合条件の一部を達成しました》

 《称号【ネメアの獅子】を獲得しました》

 文字が光の粒となって消えていく。


 「無駄じゃなかったのか」

 自然と、言葉が零れた。

 強くなった実感は、まだない。

 けれど、俺が振り続けてきた時間は消えていなかった。


 『最初から、無駄ではありません』

 セレスの言葉が、胸の奥へ染み込んでいく。


 誰にも認められなくても振り続けた。

 結果が出なくても、刀を捨てなかった。

 だから今、ここに立っている。


 「……そうか」

 僅かに笑みが浮かんだ。


 その直後。

 残っていた二体のゴブリンが、同時に甲高い声を上げた。


 「ギャアアアッ!」


 「ギィッ! ギャギャッ!」


 仲間を失った怒りではない。

 奥にいる何かを呼ぶ声だった。

 通路の闇から、赤い目が一つずつ浮かび上がる。


 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 新たに現れた四体が、残っていた二体へ合流する。

 合計六体。


 棍棒。

 錆びた短剣。

 石の穂先を括りつけた粗末な槍。

 武器はそれぞれ違う。

 だが、どの顔にも同じにやけた笑みが戻っていた。

 数で囲めば殺せる。

 そう確信している顔だ。

 

 普通なら、逃げるしかない。

 俺は実戦経験のないレベル三。

 たった今、一体を倒すだけでも頬を裂かれた。

 六体を相手に勝てる保証など、どこにもない。

 恐怖は消えていなかった。

 心臓は速く脈打ち、刀を握る手には汗が滲んでいる。

 それでも、最初の一体と向き合ったときのように、足は固まらなかった。

 俺には、積み重ねてきたものがある。

 刀身についた血を振り払い、正眼に構える。

 切っ先の向こうで、六体のゴブリンが身を低くした。


 『逃げないのですね』


 「ああ」


 『勝てると思いますか?』


 「分からない」

 正直に答える。


 「でも、ここで背を向けたら、もう家族に胸を張って会えない」


 足の位置を確かめる。

 呼吸を整える。

 六体すべてを見るのではない。

 最初に動く一体を見る。


 「それに――」


 十年間振り続けてきたものが、本当にどこまで通じるのか。

 まだ確かめ終えていない。


 「来い」

 静かな声が、地下遺跡へ響く。

 六体のゴブリンが一斉に地面を蹴った。

 棍棒を振り上げる者。

 槍を突き出す者。

 左右へ回り込もうとする者。

 押し寄せる緑色の群れへ向かい、俺も前へ踏み出す。

 いつか、星すら斬るための――最初の一歩を。

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