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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第二章 王都、暗躍する影
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第28話 王都ヴァルエスト散策

 地下水路から戻った時、王都ヴァルエストの空はまだ高かった。

 濁った水音と石壁の圧迫感が、耳と肌に残っている。

 地上の風は湿っていたが、不快ではなかった。運河を渡ってきた風だ。地下水路の淀んだ空気とは違い、どこか花と焼き菓子の匂いを含んでいる。

 それだけで、俺は少しだけ息をつけた。


「……戻ってきたな」

 誰に言うでもなく呟く。


『ああ。まずは報告ね』

 腰に下げたセレスが、いつも通り淡々と言った。


「分かってる」


 依頼は終わった。

 だが、冒険者の仕事は魔物を倒して終わりじゃない。

 報告し、報酬を受け取る。そこまで済ませて、ようやく一つの依頼が終わる。


 俺達は王都ギルドへ向かった。

 ギルドの建物は、何度見ても大きい。

 三階建ての石造り。ベルグラード支部とは比べものにならない規模だ。入口の上には、剣と杖、そして天秤を組み合わせた紋章が掲げられている。

 その天秤を見上げるたび、胸の奥に妙な重さが残る。

 測られているような気がするのだ。

 実力か。

 資格か。

 それとも、もっと別の何かか。


『どうしたの?』


「いや、何でもない」

 俺は扉を押し開けた。


「地下水路調査の依頼終わりました。」


 受付嬢がすぐに表情を引き締めた。


「お帰りなさいませ。」


「負傷はありませんか?」


「魔物と戦闘になり、多少の傷はありますが支障はありません。依頼については地下水路の入口にいた職 員に話してあります。」

 その言葉を聞いた瞬間、受付嬢の肩がほんの少しだけ下がった。


「承知しました。依頼達成として処理します。少々お待ちください」


 俺は受付横で静かに立っていた。


 ホールのざわめきが耳に入る。


「一人で地下水路の調査を、あの黒髪の奴か?」


「ベルグラードから来た新人だろ」


 聞こえている。

 聞こえているが、聞こえないふりをした。


 正直、目立つのは得意じゃない。

 俺はまだ自分の力を完全に扱えているわけじゃない。地下水路で戦えたのは事実だが、余裕があったわけでも、勝ち筋を最初から見通していたわけでもない。


 積み上げたものが、ぎりぎり形になった。

 それだけだ。


『妙な顔をしているわね』


「どんな顔だよ」


『褒められ慣れていない顔よ』


「……うるさい」


『図星』


「うるさい」


 セレスは楽しそうだった。


 やがて受付嬢が戻ってきた。

 革袋がいくつか並べられる。


「こちらが報酬になります。」


 銀貨100枚の重さ、命を賭けた対価として、この重みが高いのか安いのか、まだ俺には判断できない。

 けれど、地下水路を歩き、刀を振り、魔物と向き合った結果が、確かに手の中にあった。


 俺はギルドを出る前に、ふと二階へ続く階段を見た。

 そこに、王都ギルドのギルドマスターが立っていた。

 厳つい体格。

 落ち着いた眼差し。

 ただそこにいるだけで、周囲の喧騒が一段低くなるような存在感がある。

 ギルドマスターは俺を見ると、ほんのわずかに顎を引いた。

 挨拶とも、確認ともつかない仕草。

 俺も軽く頭を下げる。

 言葉はなかった。

 けれど、背を向けて扉へ歩く間も、その視線はしばらく残っていた。


                ◇


 レグルス・クレハルトがギルドを出ていった後、王都ギルドのギルドマスターは執務室へ戻った。

 窓の外には、王都ヴァルエストの街並みが広がっている。

 幾筋もの運河。

 白い石壁。

 橋の上を行き交う人々。

 その奥には、王城の尖塔が陽光を受けて淡く輝いていた。

 ギルドマスターは先程職員から届いた机上の報告書へ目を落とす。


 レグルス・クレハルト。


 地方都市ベルグラード支部より所属変更。

 現在の冒険者ランクは低い。

 年齢も若い。

 だが、地下水路での働きは、低ランク冒険者のそれではなかった。


「……獅子、か」

 短く呟く。彼は椅子に深く腰掛け、指で報告書の端を叩いた。


 「まだ判断するには早いな」

 ギルドマスターは報告書を閉じた。


 焦る必要はない。

 あの少年がどちらへ転ぶのか。

 それを見極めるには、もう少し時間がいる。


 窓の外で、鐘が鳴った。


 王都の午後が、静かに進んでいく。

 地下水路の依頼を終えた翌日。




 俺はしばらく空を見上げていた。


 高い。

 そう思った。

 ベルグラードの空が低いというわけではない。だが、王都ヴァルエストの空はどこか広く感じる。建物が多いのに、圧迫感が少ない。通りの幅、運河の抜け、白い石造りの建物が反射する陽光。そのすべてが、空を押し上げているようだった。

 

 昨日、地下水路から戻り、依頼の達成報告を済ませた。

 魔導鼠、ジェイドラット。

 そして、グール。

 考えていたよりも厄介な依頼だった。地下水路特有の湿った空気、石壁に反響する足音、獣臭と腐臭が混ざった暗がり。今も思い出そうとすれば、あの冷たい水音が耳の奥に戻ってくる。


 けれど、今日は違う。

 剣を抜く日ではない。

 依頼を探す日でもない。


「……今日は、歩くか」

 俺はそう呟いた。

 腰にはいつも通りセレスを下げている。


 見た目は一冊の古い本だ。けれど、俺にとってはただの本ではない。黄道十二宮システムの契約物であり、うるさく、頼りになり、時々こちらの心を見透かしてくる相棒だ。


『昨日あれだけ動いたのに、今日は休まないの?』

 セレスの声がした。

 柔らかい女の声。

 初めて聞いたときは不思議で仕方なかったが、今ではこの声がない方が落ち着かない。


「休むだろ。依頼は受けない」


『その足で王都を歩き回るつもりなら、それは休みと言えるのかしら』


「少なくとも、グールとやり合うよりは休みだ」


『それはそうね』

 呆れたように、けれど少しだけ笑うように、セレスは言った。


 俺はギルド前の階段を下りる。

 朝の王都は、すでに動き始めていた。

 馬車の車輪が石畳を鳴らす。荷を積んだ魔導小車が、商人の後ろを低い音を立てながら進む。職人らしき男たちは道具箱を肩に担ぎ、店の軒先では女たちが看板を拭いていた。

 パン屋からは焼きたての香りが流れてくる。

 香ばしい麦の匂い。

 少し甘いバターの匂い。

 それだけで腹が鳴りそうになる。

 通りの向こうでは、子供たちが小さな木製の輪を転がして遊んでいた。その横を、制服姿の少年少女が何人か通り過ぎる。学園の生徒だろうか。肩から鞄を下げ、何やら魔術式の話をしながら歩いている。


 王都には、朝からいろんな音がある。

 売り声。

 鐘の音。

 水の音。

 靴音。

 会話。

 遠くで鳴る楽器。

 全部が重なっているのに、不思議とうるさくはない。

 大きな街は、音の扱い方まで違うらしい。


「まずは大衆浴場だな」


『朝から?』


「昨日の地下水路の匂いが、まだ残ってる気がする」


『昨日も宿で身体は洗ったでしょう』


「洗った。でも気分の問題だ」

 あの湿った臭気は、肌ではなく記憶に染みついている。

 なら、湯で流すしかない。

 王都の大衆浴場は、ギルドから少し歩いた区域にあると聞いていた。道に迷いそうになりながらも、通りの角に立つ案内柱を頼りに進む。


 王都の案内柱はよくできている。

 白い石柱に、方角ごとの主要施設が彫られている。文字の横には簡単な絵も刻まれていた。ギルドは剣と天秤。市場は籠。浴場は湯気の立つ桶。字が読めない者でも、ある程度は分かる仕組みだ。

 こういうところにも、王都の大きさを感じる。

 人が多い場所には、人を迷わせない工夫が必要なのだろう。


 しばらく歩くと、湯気が見えた。

 建物の向こうから、白い煙のようなものが空へ上がっている。

 近づくにつれて、石鹸と湯の匂いが濃くなった。

 大衆浴場は、想像していたよりもずっと立派だった。

 白灰色の石で造られた大きな建物だ。正面には太い柱が並び、入口の上には水瓶を抱えた女神の彫刻がある。屋根の端からは薄く湯気が漏れ、朝の光を受けて淡く輝いていた。


「……これ、浴場だよな?」


『少なくとも、宮殿ではなさそうね』


「ベルグラードの浴場と規模が違いすぎる」


『王都だからでしょう』


「便利な言葉だな、王都」


 入口をくぐると、広い受付があった。

 床は磨かれた石で、壁には青いタイルが敷き詰められている。水の流れを模した模様が描かれており、見ているだけで涼しげだった。


 受付で料金を払い、脱衣所へ向かう。

 中も広い。

 木製の棚がずらりと並び、貴族風の男から職人、冒険者、商人まで、さまざまな人間が出入りしている。王都の浴場は階級ごとに分かれているのかと思ったが、少なくともここはそうでもないらしい。

 もちろん、完全に同じというわけではない。

 奥には個室浴場へ続く扉もある。金を払えば、もっと静かな湯を使えるのだろう。

 俺は一般浴場で十分だった。

 衣服を脱ぎ、刀や荷物を棚に収める。セレスは防水用の布に包んで、壁際の専用棚に置いた。


『雑に置かないでくれる?』


「置いてないだろ。丁寧に置いた」


『もう少し敬意があってもいいと思うわ』


「湯に持ち込まないだけ敬意だと思え」


『それは最低限よ』


 そんなやり取りをしてから、浴場へ入る。

 瞬間、視界が白く霞んだ。

 湯気だ。

 広い浴場の中には、大小いくつもの湯船があった。中央には大きな円形の浴槽。壁際には薬草湯らしき緑がかった湯。奥には水風呂や魔導具で細かな泡を立てている浴槽まであった。

 天井は高く、上部の窓から朝の光が斜めに差し込んでいた。


 湯気の中で、人々の声が反響している。

 笑い声。

 ため息。

 桶が床に置かれる音。

 湯が溢れる音。

 俺は身体を洗ってから、中央の湯船へ足を入れた。


 熱い。

 だが、ちょうどいい熱さだった。

 ゆっくり肩まで沈む。


「……生き返る」

 思わず声が漏れた。


 昨日の地下水路の冷たさが、身体の奥から溶けていくようだった。

 湯はすごい。

 剣でも魔法でも取れない疲れが、湯には取れる。

 隣では、筋骨隆々の男が豪快に湯を浴びていた。腕には古い傷がいくつもある。冒険者か傭兵だろう。その向こうでは、細身の老人が静かに目を閉じている。さらに奥では、若い職人たちが仕事の愚痴を言い合っていた。


 浴場では、肩書きが少し薄まる。

 武器も鎧も服もない。

 残るのは、人間そのものだ。

 王都の浴場は豪華だが、その本質はベルグラードと変わらないのかもしれない。

 誰もが一日の汚れを落とし、少しだけ素に戻る場所。

 俺はしばらく湯に浸かった。

 身体が温まり、頭の中の重さが抜けていく。


 昨日の戦闘。

 地下水路の闇。

 グールの動き。

 ジェイドラットの群れ。

 それらが遠ざかっていく。

 代わりに、今日これから歩く街のことが浮かんだ。


 王都ヴァルエスト。

 俺はまだ、この街をほとんど知らない。

 学園には行った。

 姉さんにも会った。

 模擬戦もした。

 ギルドで依頼も受けた。

 けれど、街そのものを見たわけではない。

 道を歩き、人の声を聞き、匂いを感じ、何でもない景色を眺める。

 そういう時間は、まだほとんどなかった。


「今日は、ちゃんと見て回るか」

 湯気の中で呟く。

 誰に聞かせるでもない言葉だった。

 湯から上がる頃には、身体がずいぶん軽くなっていた。


 脱衣所で服を着直し、セレスを腰に戻す。


『少しはさっぱりした顔になったわね』


「本のくせに顔色が分かるのか」


『契約者の状態くらい分かるわ』


「便利だな」


『便利扱いしないで』

 怒っているようで、声はそこまで尖っていなかった。

 浴場を出ると、陽はさらに高くなっていた。

 朝の涼しさは薄れ、通りには明るい活気が満ちている。


 俺は特に目的地を決めず、歩き始めた。

 王都ヴァルエストは、水の都だ。

 それは地図や話で知っていた。

 だが、実際に歩くと、その意味がよく分かる。

 街のあちこちに運河が走っている。大きなものは馬車道ほどの幅があり、小さなものは路地の脇を細く流れている。水は澄んでいて、陽光を受けると銀色に光った。


 石橋が多い。

 低く丸い橋。

 装飾の施された橋。

 実用一点張りの橋。

 橋の欄干には蔦模様や水鳥の彫刻が刻まれているものもあった。古い橋ほど石が丸く削れ、人々が何年も何十年もそこを渡ってきたことを感じさせる。

 運河には小舟が行き交っていた。

 荷を積んだ舟。

 客を乗せた舟。

 花籠を運ぶ舟。

 中には魔導機構で進む小型船もある。船尾に小さな魔石機関が取り付けられており、水を押し出すように静かに進んでいた。

 船頭の男が、橋の上の知り合いに手を振る。

 橋の上の女が、籠から果物を一つ投げる。

 男はそれを器用に受け取り、笑って礼を言った。

 そういう何気ないやり取りが、街に馴染んでいる。


「水が生活の一部なんだな」


『そうね。防衛、物流、景観、生活用水。これだけ水路が整っている都市は、そう多くないわ』


「詳しいな」


『私は本よ?』


「その言い方、ずるいな」


 セレスは少し得意げだった。

 通りを進むと、広場に出た。

 中央には噴水がある。

 白い石で造られた大きな噴水だ。水瓶を持つ少女の像から水が流れ落ち、その下の水盤で光が跳ねている。周囲には花壇があり、赤や黄色の花が風に揺れていた。


 広場には露店が並んでいた。

 焼き菓子。

 果物。

 革小物。

 硝子細工。

 香草。

 紙に包まれた揚げ物。

 王都の露店は、並べ方まで妙に綺麗だった。色の見せ方を分かっている。果物は赤、黄、緑と段に分けられ、硝子細工は陽光を受ける位置に吊るされている。


 人々は足を止め、品を眺め、値段交渉をし、笑いながら去っていく。

 露店の一つから、甘い匂いが漂ってきた。

 薄く焼いた生地に果実の蜜をかけた菓子らしい。子供が母親の服を引っ張り、買ってほしそうに見上げている。母親は困った顔をしながらも、結局一つ買ってやっていた。

 子供は満面の笑みで受け取る。

 その顔を見て、少しだけ口元が緩んだ。


『欲しいの?』


「いや、そういうわけじゃない」


『本当に?』


「……少しだけだ」


『なら買えばいいじゃない』


「昼飯が入らなくなる」


『変なところで真面目ね』


 俺は露店の前を通り過ぎた。

 買わなかったことを、少しだけ後悔した。

 さらに歩く。

 王都の建物は、ただ大きいだけではない。

 通りによって顔が違う。

 商業区は一階が店、二階より上が住居になっている建物が多い。窓辺には花や布が飾られ、店の看板は鉄や木で凝った形に作られている。靴屋なら靴。菓子屋なら麦穂と砂糖壺。仕立屋なら針と糸。

 貴族街に近づくほど建物の間隔が広くなり、庭や門が増える。白い壁の向こうに整えられた樹木が見え、馬車の音も静かになる。

 一方で職人街の方角からは、金属を打つ音や木を削る音が聞こえた。火と油と鉄の匂いが風に乗り、王都が華やかなだけの街ではないことを教えてくる。

 美しさの裏には、働く手がある。

 それを見落とすと、この街を見たことにはならないのだろう。


 昼前になる頃、俺は運河沿いの大通りへ出た。

 視界が開ける。

 広い運河が、街の中央をゆっくり流れていた。

 両岸には白い石畳の遊歩道があり、街路樹が等間隔に植えられている。枝葉の間から陽光がこぼれ、水面に細かな光の斑点を落としていた。

 通りには人が多い。

 だが、どこか余裕がある。

 急いで歩く商人もいれば、手をつないで散歩する老夫婦もいる。制服姿の学園生が数人、運河沿いの柵にもたれながら本を読んでいた。冒険者らしき一団が地図を広げ、次の目的地を相談している。

 そのすぐ横を、花売りの少女が歩いていく。

 籠いっぱいに白い花を入れ、通行人に声をかけていた。


「……すごいな」

 気づけば、また同じような言葉が漏れていた。


『語彙が貧しくなっているわよ』


「仕方ないだろ。すごいものはすごい」


『まあ、気持ちは分かるわ』

 セレスの声は穏やかだった。


『王都というのは、力を集める場所よ。人、金、技術、知識、欲望、祈り。全部が集まり、混ざって、形になる。それが都市の厚みね』


「厚み、か」

 その言葉はしっくりきた。

 ベルグラードにも暮らしはあった。

 だが、王都には積み重なった時間の層がある。

 古い石橋。

 新しい魔導船。

 貴族の馬車。

 露店の菓子。

 学園生の笑い声。

 職人の槌音。

 全部が同じ街にある。

 きれいに並んでいるわけではない。

 むしろ雑多だ。


 けれど、その雑多さこそが王都なのだろう。

 俺は運河沿いを歩きながら、遠くに見える王城へ目を向けた。

 水辺に浮かぶような白亜の城。

 尖塔と丸屋根。

 優雅な外壁。

 水面に映る姿は、まるで現実と幻の境に建っているようだった。


 あそこに王がいる。

 この街を、この国を動かす者たちがいる。

 そう思うと、急に距離が分からなくなった。

 近いようで遠い。

 見えているのに、手は届かない。

 王都とは、そういう場所なのかもしれない。

 見えるものが多い分、自分の小ささもよく見える。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 俺はまだ何者でもない。

 なら、ここから何者かになればいい。

 そんな乱暴な考えが、胸の奥で小さく灯った。


『レグルス』


「ん?」


『顔が少し、楽しそうよ』


「そうか?」


『ええ』


 俺は少しだけ視線を逸らした。


「まあ……悪くはない」


『素直じゃないわね』


「うるさい」

 セレスが小さく笑った気がした。


 運河沿いをさらに歩くと、白いパラソルが並ぶ一角が見えてきた。

 花壇に囲まれた、洒落た店だった。

 焼き立てのパンと香草の匂いが風に乗ってくる。テーブルは外に並べられ、客たちは運河を眺めながら食事をしていた。白い皿、透明なグラス、陽光を受ける水面。

 昨日まで地下水路にいた身としては、同じ王都とは思えない光景だ。

 俺は思わず足を止めた。


「……ここで休むか」


『良いと思うわ。あなた、そろそろ甘いものを買わなかったことを後悔していたでしょう?』


「そこまで分かるのか」


『契約者の状態くらい分かると言ったでしょう』


「空腹と後悔まで分かるのは、状態なのか?」


『大事な状態よ』


 俺は苦笑しながら、運河沿いのオープンカフェへ向かった。


 注文した料理が運ばれてくるまでの時間は、思っていたよりも短かった。

 まず置かれたのは、背の高いグラスに注がれたアイスティーだった。

 琥珀色の液体の中で、薄く切られた柑橘がゆっくり揺れている。氷に似た透明な魔導冷却石が底に沈み、かすかに青白い光を放っていた。

 俺はそれを一口飲む。


「……生き返るな」


『大袈裟だな』


「大衆浴場の後に、王都の運河沿いで冷たい茶だぞ。これを大袈裟と言うなら、何を大袈裟と言えばいい」


『相変わらず、食と休息への評価が高い』


「命に直結するからな」


 セレスは腰の位置で、少しだけ呆れたように黙った。

 けれど、俺にとっては本音だった。

 地下水路の湿った臭気。

 グールの腐臭。

 ジェイドラットの群れが石床を駆け回る音。

 それらがまだ身体の奥に残っている気がしていた。

 だからこそ、今この瞬間、風に揺れる白いパラソルの下で、冷たい茶を飲んでいることが妙に贅沢に思えた。

 

 やがて、クロワッサンサンドと白身魚のソテーが運ばれてくる。

 皿に乗ったクロワッサンは、表面が黄金色に焼き上がり、層になった生地が光を受けて薄く輝いていた。切れ目の中には、炙った肉と葉野菜、薄く切られたチーズが挟まれている。

 白身魚のソテーは、皮目が香ばしく焼かれ、上から刻んだ香草と淡い黄色のソースがかけられていた。

 湯気と一緒に、バターと香草の匂いが立ち上る。


「これは……勝ちだな」


『食べる前から勝敗を決めるのか』


「香りで八割は決まる」


『料理人が聞いたら複雑な顔をしそうだ』


 俺はクロワッサンサンドを手に取る。

 軽く噛むと、表面がさくりと崩れた。中の生地はしっとりとしていて、肉の塩気とチーズのまろやかさが混じる。

 思わず、もう一口食べた。

 王都のパンは、地方都市ベルグラードのものよりも軽い気がした。いや、正確には、食感を楽しませる作りになっている。

 腹を満たすためだけではない。

 香り、歯触り、見た目。

 その全部を食事として出している。

 これが王都の余裕か。


 俺は白身魚にも手を伸ばした。

 身は柔らかく、ナイフを入れると簡単にほぐれた。口に入れると、魚の甘みと香草の香りが広がる。ソースには果実の酸味が少し混じっていて、重さを感じさせない。


「……王都、恐ろしいな」


『今度は何を恐れている』


「食費が上がる」


『実に現実的な恐怖だ』


「強敵だぞ」

 冗談めかして言ったが、本当に強敵だった。


 強い魔物より、日々の出費の方がじわじわ効くこともある。

 冒険者というのは、稼ぎがある時ほど財布の紐が緩みやすい。武器、防具、宿、食事。気づけば報酬が羽根を生やして飛んでいく。


 俺はグラスを傾けながら、運河へ視線を向けた。

 水面は午後の光を映して、細かく砕けた銀のようにきらめいていた。

 小舟が一艘、ゆっくりと通り過ぎていく。船尾には花籠が積まれており、白や赤の花が風に揺れている。船を漕ぐ男は慣れた手つきで櫂を動かし、橋の下へと滑るように消えていった。


 橋の上では、買い物帰りらしい女性たちが楽しげに話している。

 制服のような上着を着た少年たちが、革鞄を肩にかけて石畳を走っていく。

 通りの向こうでは、魔導車輪のついた荷台を押す商人が、店先の男と値段交渉をしていた。


 王都ヴァルエスト。

 水の都。

 石と花と魔導灯の都。

 人の数も、店の数も、音の数も、ベルグラードとは桁が違う。

 けれど、その騒がしさは不思議と耳障りではなかった。


 運河沿いのカフェを出たころには、王都ヴァルエストの空は少しずつ黄金色に染まりはじめていた。

 白い石畳に落ちる光が、夕暮れを吸って淡く燃えている。

 水面には、赤く染まった空と、橋の影と、行き交う小舟の灯りが揺れていた。


 昼間の王都は眩しいほど華やかだった。

 だが、夕暮れの王都は違う。

 水の都は、夜を迎える少し前にだけ、別の顔を見せる。


 建物の窓辺に明かりが灯りはじめ、運河沿いの街灯に魔導灯の柔らかな光が宿る。

 昼間は白と青の都だったヴァルエストが、橙と紫の影を纏っていく。


『綺麗ね』

 腰のセレスが、小さく呟いた。


「ああ。ベルグラードとは全然違うな」


『ベルグラードも悪くはないわよ。けれど、ここは……少し、贅沢すぎるくらいね』


 その言葉に、俺は少し笑った。

 たしかにそうだ。

 この街は、ただ人が暮らすためだけに造られていない。

 見られること。

 記憶されること。

 訪れた者の胸に、消えない傷のような憧れを残すこと。

 王都ヴァルエストには、そんな意図があった。


 水路に沿って歩いていくと、街並みの雰囲気が少しずつ変わっていった。

 大通りの整った美しさから、少し奥へ入るにつれ、人の熱を含んだ雑多な色が増えていく。


 露店の布屋。

 香辛料を扱う店。

 硝子細工を並べた小さな屋台。

 焼き菓子を売る老婆。

 水路の脇で弦楽器を奏でる若い男。

 魔導灯の下で、人々の声が幾重にも重なっていた。


「王都って、夜になるとまた賑やかになるんだな」


『むしろ、ここからが本番なのかもしれないわね』

 セレスの声は落ち着いていたが、どこか楽しそうでもあった。


 俺はゆっくりと歩いた。

 急ぐ必要はない。

 学園で姉さんにも会った。

 模擬戦もした。

 地下水路では、ジェイドラットとグールを相手にして、さすがに神経を使った。

 だから今は、何も斬らず、何も突かず、ただ歩く。

 それだけの時間が、妙に贅沢に思えた。


 やがて、道の先から甘い香のようなものが漂ってきた。

 花の香り。

 酒の匂い。

 香水。

 焼いた果実。

 それから、夜にしか溶け出さないような、どこか艶やかな空気。


 俺は足を止めた。


「……なんか、雰囲気が変わったな」


 正面には、灯りの多い通りが広がっていた。

 赤や紫の布看板が風に揺れ、建物の窓辺からは柔らかな光が漏れている。

 着飾った女性たちが通りの端で客に声をかけ、洒落た服装の男たちが笑いながら歩いていた。


 歓楽街。

 言葉にしなくても、すぐに分かった。


『レグルス』

 セレスの声が、いつもより少し低くなった。


「なんだ?」


『ここ、通る必要あるのかしら?』


「宿に戻るには、たぶんこの辺を抜けるのが早いんだと思う」


『たぶん?』


「……地図ではそう見えた」


『ふうん』

 その短い返事に、やけに圧があった。


 俺は思わず腰のセレスを見下ろした。


「なんだよ」


『別に』


「別にって声じゃないだろ」


『別に。ただ、楽しそうに周りを見ていると思っただけよ』


「見てるだけだろ。王都の街並みを」


『そう。街並みね』

 セレスの声が、氷菓子より冷たかった。


 そのとき、通りの向こうから、薄紅色のドレスを着た女性がこちらに視線を向けた。

 年上だろうか。

 柔らかな笑みを浮かべ、手にした扇で口元を隠している。


「そこの黒髪のお兄さん、王都は初めて?」

 甘い声だった。

 俺は一瞬、返事に困った。


「あ、まあ……初めてではないですけど、ゆっくり見るのは初めてです」


「あら、素直で可愛いのね。少し寄っていかない?」


 その瞬間、腰のセレスからただならぬ気配が滲んだ。


『レグルス』


「はい」


『行かないわよね?』


「行かないです」

 即答した。

 反射だった。

 女性はそれを見て、くすりと笑った。


「あら。連れの子に怒られているのね」


『子じゃないわ』

 セレスが即座に返した。


 女性は少し目を丸くして、それから楽しそうに笑った。


「喋る本なんて珍しいわね。しかも、随分と可愛らしい嫉妬をするのね」


『嫉妬なんてしていないわ』


「そう?」


『していないわ』

 セレスの声は、見事なまでに強かった。


 俺は少しだけ肩をすくめ、女性に軽く頭を下げた。


「すみません。今日は宿に戻ります」


「ええ。夜の王都は迷いやすいから、気をつけてね」


「ありがとうございます」

 俺は足早にその場を離れた。

 背後で、女性の笑い声が水路の風に混じって消えていく。


 しばらく歩いてから、俺は小さく息を吐いた。


「……助かった」


『何が?』


「いや、変に立ち止まったら面倒だったかもしれないし」


『そうね。面倒だったでしょうね。主に私が』


「やっぱり怒ってるだろ」


『怒ってないわ』


「その言い方で怒ってないは無理がある」


 セレスは少し黙った。

 魔導灯の光が、腰の本の金具に淡く反射する。


『……あなた、ああいう場所に興味があるの?』


「ないと言えば嘘になるけど」


『あるのね』


「いや、男なら多少は気になるだろ。けど、行く気はない」


『どうして?』

 その問いは、思ったより静かだった。

 俺は少し考えた。


「今の俺には、そういう場所で遊ぶ余裕がないからだよ」


『余裕?』


「金とか時間じゃなくてさ。俺はまだ弱い。学園で姉さんと模擬戦して、それを嫌というほど思い知らされた。地下水路の依頼だって、うまくやれたとは思うけど、余裕があったわけじゃない」


 俺は夜の水路を見た。

 揺れる灯りが、黒い水面に細く伸びている。


「だから、遊び方を覚える前に、強くなることを覚えたい」


 そう言うと、セレスは少しだけ声を柔らかくした。


『……あなたらしいわね』


「そうか?」


『ええ。不器用で、意地っ張りで、でも嫌いじゃないわ』


「最後だけ急に優しいな」


『たまには褒めてあげないと、あなたはすぐ無茶をするもの』


 俺は苦笑した。


 歓楽街を抜けるころには、空の端に残っていた夕日は完全に沈んでいた。

 王都の夜は暗くない。

 無数の魔導灯が通りを照らし、水路を渡る橋には青白い光が並んでいる。

 遠くには王城が見えた。

 水面に浮かぶように建つ白亜の城。

 尖塔と丸屋根が夜空に溶け、窓の灯りが星のように瞬いている。

 城の周囲を巡る水路は、まるで夜の鏡だった。


 その手前の街の高台に、黒々とした大きな影が見えた。


 王立魔術学園、ノヴァ・アカデミア。


 昼間に見たときとは、まるで印象が違っていた。

 大地に沿うように横へ伸びる建物。

 低く広く、石と木材が複雑に組み合わされた造形。

 壁面から張り出した屋根は深く、水平線を強調するように重なっている。

 水路と庭園を取り込み、建物そのものが大地から生えた巨大な魔術式のようだった。

 魔導灯の光が窓から漏れ、幾何学模様の硝子を通して淡い色を地面に落としている。


「あそこが、姉さんのいる場所か」

 俺は足を止め、しばらく学園を見上げた。


 あそこで姉さんと剣を交えた。

 届かない差を見せつけられた。

 けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。


 悔しい。

 届きたい。

 越えたい。


 そう思える相手がいるのは、きっと幸運なのだろう。


『レグルス』


「ん?」


『あなた、明日からまた無茶をする顔をしているわ』


「どんな顔だよ」


『自分では気づいていないでしょうけど、少し楽しそうよ』


 俺は頬を掻いた。


「まあ……楽しいのかもしれないな」


 弱い自分を知ること。

 遠い背中を見つけること。

 その差を埋めるために、何をすべきか考えること。


 普通なら、苦しいだけなのかもしれない。

 けれど俺にとっては、それが前に進む理由になる。


 宿へ向かう道に戻ると、通りは少し静かになっていた。

 宿の看板には暖かな灯りが入っていて、入口からは食事の匂いと人の声が漏れている。

 木の扉を押し開けると、昼間よりも落ち着いた空気が出迎えた。


 受付の男が顔を上げる。


「お帰りなさい」


「ああ、ただいま」

 そう返してから、俺は少しだけ笑ってしまった。


 ただいま、か。


 王都に来てまだ長くはない。

 けれど、今日一日で随分歩いた気がする。

 大衆浴場で湯に浸かり、街を見て、運河沿いで茶を飲み、夜の王都を歩いた。

 依頼や戦闘とは違う形で、この街を少しだけ知った。

 部屋に戻ると、俺は剣帯を外し、セレスを机の上に置いた。

 窓を開けると、夜風が入り込んでくる。

 遠くから水の音と、まだ眠らない王都のざわめきが聞こえた。


『疲れた?』

 セレスが尋ねてきた。


「身体はな。でも、悪くない疲れだ」


『そう』


 俺は椅子に座り、窓の外を見た。

 遠くに、ノヴァ・アカデミアの灯りが見える。

 夜の中に浮かぶその姿は、静かな獣のようだった。


 王都ヴァルエスト。


 水の都。

 王城の都。

 冒険者の集まる都。

 そして、姉さんがいる都。


 この街には、俺の知らないものがまだいくつも眠っている。


 美しいものも。

 面倒なものも。

 危険なものも。


 そしてきっと、俺を強くする何かも。


『明日はどうするの?』

 セレスが聞いた。


「まずは休む。それから考える」


『珍しくまともな答えね』


「俺だって、たまにはまともだ」


『たまにはね』


 俺は苦笑し、ベッドに腰を下ろした。


 そのとき、遠くの学園の方角で、淡い光が一瞬だけ瞬いた。


 夜空に溶けるほど小さな光。

 けれど、魔力の気配を覚えはじめた今の俺には、それがただの灯りではないことだけは分かった。


 俺は窓の外を見つめる。


「……今の、見えたか?」


『ええ』

 セレスの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。


『学園の方ね』


「ああ」


 王都の夜風が、部屋の中を静かに撫でていく。

 今日は、ただの散策で終わるはずだった。

 だが、この街は俺に、そう簡単に休ませてくれるつもりはないらしい。

 俺はゆっくりと息を吐いた。

 窓の向こう、黄昏の名残を失った魔術学園が、夜の底で静かに輝いていた。


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