第28話 王都ヴァルエスト散策
地下水路から戻った時、王都ヴァルエストの空はまだ高かった。
濁った水音と石壁の圧迫感が、耳と肌に残っている。
地上の風は湿っていたが、不快ではなかった。運河を渡ってきた風だ。地下水路の淀んだ空気とは違い、どこか花と焼き菓子の匂いを含んでいる。
それだけで、俺は少しだけ息をつけた。
「……戻ってきたな」
誰に言うでもなく呟く。
『ああ。まずは報告ね』
腰に下げたセレスが、いつも通り淡々と言った。
「分かってる」
依頼は終わった。
だが、冒険者の仕事は魔物を倒して終わりじゃない。
報告し、報酬を受け取る。そこまで済ませて、ようやく一つの依頼が終わる。
俺達は王都ギルドへ向かった。
ギルドの建物は、何度見ても大きい。
三階建ての石造り。ベルグラード支部とは比べものにならない規模だ。入口の上には、剣と杖、そして天秤を組み合わせた紋章が掲げられている。
その天秤を見上げるたび、胸の奥に妙な重さが残る。
測られているような気がするのだ。
実力か。
資格か。
それとも、もっと別の何かか。
『どうしたの?』
「いや、何でもない」
俺は扉を押し開けた。
「地下水路調査の依頼終わりました。」
受付嬢がすぐに表情を引き締めた。
「お帰りなさいませ。」
「負傷はありませんか?」
「魔物と戦闘になり、多少の傷はありますが支障はありません。依頼については地下水路の入口にいた職 員に話してあります。」
その言葉を聞いた瞬間、受付嬢の肩がほんの少しだけ下がった。
「承知しました。依頼達成として処理します。少々お待ちください」
俺は受付横で静かに立っていた。
ホールのざわめきが耳に入る。
「一人で地下水路の調査を、あの黒髪の奴か?」
「ベルグラードから来た新人だろ」
聞こえている。
聞こえているが、聞こえないふりをした。
正直、目立つのは得意じゃない。
俺はまだ自分の力を完全に扱えているわけじゃない。地下水路で戦えたのは事実だが、余裕があったわけでも、勝ち筋を最初から見通していたわけでもない。
積み上げたものが、ぎりぎり形になった。
それだけだ。
『妙な顔をしているわね』
「どんな顔だよ」
『褒められ慣れていない顔よ』
「……うるさい」
『図星』
「うるさい」
セレスは楽しそうだった。
やがて受付嬢が戻ってきた。
革袋がいくつか並べられる。
「こちらが報酬になります。」
銀貨100枚の重さ、命を賭けた対価として、この重みが高いのか安いのか、まだ俺には判断できない。
けれど、地下水路を歩き、刀を振り、魔物と向き合った結果が、確かに手の中にあった。
俺はギルドを出る前に、ふと二階へ続く階段を見た。
そこに、王都ギルドのギルドマスターが立っていた。
厳つい体格。
落ち着いた眼差し。
ただそこにいるだけで、周囲の喧騒が一段低くなるような存在感がある。
ギルドマスターは俺を見ると、ほんのわずかに顎を引いた。
挨拶とも、確認ともつかない仕草。
俺も軽く頭を下げる。
言葉はなかった。
けれど、背を向けて扉へ歩く間も、その視線はしばらく残っていた。
◇
レグルス・クレハルトがギルドを出ていった後、王都ギルドのギルドマスターは執務室へ戻った。
窓の外には、王都ヴァルエストの街並みが広がっている。
幾筋もの運河。
白い石壁。
橋の上を行き交う人々。
その奥には、王城の尖塔が陽光を受けて淡く輝いていた。
ギルドマスターは先程職員から届いた机上の報告書へ目を落とす。
レグルス・クレハルト。
地方都市ベルグラード支部より所属変更。
現在の冒険者ランクは低い。
年齢も若い。
だが、地下水路での働きは、低ランク冒険者のそれではなかった。
「……獅子、か」
短く呟く。彼は椅子に深く腰掛け、指で報告書の端を叩いた。
「まだ判断するには早いな」
ギルドマスターは報告書を閉じた。
焦る必要はない。
あの少年がどちらへ転ぶのか。
それを見極めるには、もう少し時間がいる。
窓の外で、鐘が鳴った。
王都の午後が、静かに進んでいく。
地下水路の依頼を終えた翌日。
俺はしばらく空を見上げていた。
高い。
そう思った。
ベルグラードの空が低いというわけではない。だが、王都ヴァルエストの空はどこか広く感じる。建物が多いのに、圧迫感が少ない。通りの幅、運河の抜け、白い石造りの建物が反射する陽光。そのすべてが、空を押し上げているようだった。
昨日、地下水路から戻り、依頼の達成報告を済ませた。
魔導鼠、ジェイドラット。
そして、グール。
考えていたよりも厄介な依頼だった。地下水路特有の湿った空気、石壁に反響する足音、獣臭と腐臭が混ざった暗がり。今も思い出そうとすれば、あの冷たい水音が耳の奥に戻ってくる。
けれど、今日は違う。
剣を抜く日ではない。
依頼を探す日でもない。
「……今日は、歩くか」
俺はそう呟いた。
腰にはいつも通りセレスを下げている。
見た目は一冊の古い本だ。けれど、俺にとってはただの本ではない。黄道十二宮システムの契約物であり、うるさく、頼りになり、時々こちらの心を見透かしてくる相棒だ。
『昨日あれだけ動いたのに、今日は休まないの?』
セレスの声がした。
柔らかい女の声。
初めて聞いたときは不思議で仕方なかったが、今ではこの声がない方が落ち着かない。
「休むだろ。依頼は受けない」
『その足で王都を歩き回るつもりなら、それは休みと言えるのかしら』
「少なくとも、グールとやり合うよりは休みだ」
『それはそうね』
呆れたように、けれど少しだけ笑うように、セレスは言った。
俺はギルド前の階段を下りる。
朝の王都は、すでに動き始めていた。
馬車の車輪が石畳を鳴らす。荷を積んだ魔導小車が、商人の後ろを低い音を立てながら進む。職人らしき男たちは道具箱を肩に担ぎ、店の軒先では女たちが看板を拭いていた。
パン屋からは焼きたての香りが流れてくる。
香ばしい麦の匂い。
少し甘いバターの匂い。
それだけで腹が鳴りそうになる。
通りの向こうでは、子供たちが小さな木製の輪を転がして遊んでいた。その横を、制服姿の少年少女が何人か通り過ぎる。学園の生徒だろうか。肩から鞄を下げ、何やら魔術式の話をしながら歩いている。
王都には、朝からいろんな音がある。
売り声。
鐘の音。
水の音。
靴音。
会話。
遠くで鳴る楽器。
全部が重なっているのに、不思議とうるさくはない。
大きな街は、音の扱い方まで違うらしい。
「まずは大衆浴場だな」
『朝から?』
「昨日の地下水路の匂いが、まだ残ってる気がする」
『昨日も宿で身体は洗ったでしょう』
「洗った。でも気分の問題だ」
あの湿った臭気は、肌ではなく記憶に染みついている。
なら、湯で流すしかない。
王都の大衆浴場は、ギルドから少し歩いた区域にあると聞いていた。道に迷いそうになりながらも、通りの角に立つ案内柱を頼りに進む。
王都の案内柱はよくできている。
白い石柱に、方角ごとの主要施設が彫られている。文字の横には簡単な絵も刻まれていた。ギルドは剣と天秤。市場は籠。浴場は湯気の立つ桶。字が読めない者でも、ある程度は分かる仕組みだ。
こういうところにも、王都の大きさを感じる。
人が多い場所には、人を迷わせない工夫が必要なのだろう。
しばらく歩くと、湯気が見えた。
建物の向こうから、白い煙のようなものが空へ上がっている。
近づくにつれて、石鹸と湯の匂いが濃くなった。
大衆浴場は、想像していたよりもずっと立派だった。
白灰色の石で造られた大きな建物だ。正面には太い柱が並び、入口の上には水瓶を抱えた女神の彫刻がある。屋根の端からは薄く湯気が漏れ、朝の光を受けて淡く輝いていた。
「……これ、浴場だよな?」
『少なくとも、宮殿ではなさそうね』
「ベルグラードの浴場と規模が違いすぎる」
『王都だからでしょう』
「便利な言葉だな、王都」
入口をくぐると、広い受付があった。
床は磨かれた石で、壁には青いタイルが敷き詰められている。水の流れを模した模様が描かれており、見ているだけで涼しげだった。
受付で料金を払い、脱衣所へ向かう。
中も広い。
木製の棚がずらりと並び、貴族風の男から職人、冒険者、商人まで、さまざまな人間が出入りしている。王都の浴場は階級ごとに分かれているのかと思ったが、少なくともここはそうでもないらしい。
もちろん、完全に同じというわけではない。
奥には個室浴場へ続く扉もある。金を払えば、もっと静かな湯を使えるのだろう。
俺は一般浴場で十分だった。
衣服を脱ぎ、刀や荷物を棚に収める。セレスは防水用の布に包んで、壁際の専用棚に置いた。
『雑に置かないでくれる?』
「置いてないだろ。丁寧に置いた」
『もう少し敬意があってもいいと思うわ』
「湯に持ち込まないだけ敬意だと思え」
『それは最低限よ』
そんなやり取りをしてから、浴場へ入る。
瞬間、視界が白く霞んだ。
湯気だ。
広い浴場の中には、大小いくつもの湯船があった。中央には大きな円形の浴槽。壁際には薬草湯らしき緑がかった湯。奥には水風呂や魔導具で細かな泡を立てている浴槽まであった。
天井は高く、上部の窓から朝の光が斜めに差し込んでいた。
湯気の中で、人々の声が反響している。
笑い声。
ため息。
桶が床に置かれる音。
湯が溢れる音。
俺は身体を洗ってから、中央の湯船へ足を入れた。
熱い。
だが、ちょうどいい熱さだった。
ゆっくり肩まで沈む。
「……生き返る」
思わず声が漏れた。
昨日の地下水路の冷たさが、身体の奥から溶けていくようだった。
湯はすごい。
剣でも魔法でも取れない疲れが、湯には取れる。
隣では、筋骨隆々の男が豪快に湯を浴びていた。腕には古い傷がいくつもある。冒険者か傭兵だろう。その向こうでは、細身の老人が静かに目を閉じている。さらに奥では、若い職人たちが仕事の愚痴を言い合っていた。
浴場では、肩書きが少し薄まる。
武器も鎧も服もない。
残るのは、人間そのものだ。
王都の浴場は豪華だが、その本質はベルグラードと変わらないのかもしれない。
誰もが一日の汚れを落とし、少しだけ素に戻る場所。
俺はしばらく湯に浸かった。
身体が温まり、頭の中の重さが抜けていく。
昨日の戦闘。
地下水路の闇。
グールの動き。
ジェイドラットの群れ。
それらが遠ざかっていく。
代わりに、今日これから歩く街のことが浮かんだ。
王都ヴァルエスト。
俺はまだ、この街をほとんど知らない。
学園には行った。
姉さんにも会った。
模擬戦もした。
ギルドで依頼も受けた。
けれど、街そのものを見たわけではない。
道を歩き、人の声を聞き、匂いを感じ、何でもない景色を眺める。
そういう時間は、まだほとんどなかった。
「今日は、ちゃんと見て回るか」
湯気の中で呟く。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
湯から上がる頃には、身体がずいぶん軽くなっていた。
脱衣所で服を着直し、セレスを腰に戻す。
『少しはさっぱりした顔になったわね』
「本のくせに顔色が分かるのか」
『契約者の状態くらい分かるわ』
「便利だな」
『便利扱いしないで』
怒っているようで、声はそこまで尖っていなかった。
浴場を出ると、陽はさらに高くなっていた。
朝の涼しさは薄れ、通りには明るい活気が満ちている。
俺は特に目的地を決めず、歩き始めた。
王都ヴァルエストは、水の都だ。
それは地図や話で知っていた。
だが、実際に歩くと、その意味がよく分かる。
街のあちこちに運河が走っている。大きなものは馬車道ほどの幅があり、小さなものは路地の脇を細く流れている。水は澄んでいて、陽光を受けると銀色に光った。
石橋が多い。
低く丸い橋。
装飾の施された橋。
実用一点張りの橋。
橋の欄干には蔦模様や水鳥の彫刻が刻まれているものもあった。古い橋ほど石が丸く削れ、人々が何年も何十年もそこを渡ってきたことを感じさせる。
運河には小舟が行き交っていた。
荷を積んだ舟。
客を乗せた舟。
花籠を運ぶ舟。
中には魔導機構で進む小型船もある。船尾に小さな魔石機関が取り付けられており、水を押し出すように静かに進んでいた。
船頭の男が、橋の上の知り合いに手を振る。
橋の上の女が、籠から果物を一つ投げる。
男はそれを器用に受け取り、笑って礼を言った。
そういう何気ないやり取りが、街に馴染んでいる。
「水が生活の一部なんだな」
『そうね。防衛、物流、景観、生活用水。これだけ水路が整っている都市は、そう多くないわ』
「詳しいな」
『私は本よ?』
「その言い方、ずるいな」
セレスは少し得意げだった。
通りを進むと、広場に出た。
中央には噴水がある。
白い石で造られた大きな噴水だ。水瓶を持つ少女の像から水が流れ落ち、その下の水盤で光が跳ねている。周囲には花壇があり、赤や黄色の花が風に揺れていた。
広場には露店が並んでいた。
焼き菓子。
果物。
革小物。
硝子細工。
香草。
紙に包まれた揚げ物。
王都の露店は、並べ方まで妙に綺麗だった。色の見せ方を分かっている。果物は赤、黄、緑と段に分けられ、硝子細工は陽光を受ける位置に吊るされている。
人々は足を止め、品を眺め、値段交渉をし、笑いながら去っていく。
露店の一つから、甘い匂いが漂ってきた。
薄く焼いた生地に果実の蜜をかけた菓子らしい。子供が母親の服を引っ張り、買ってほしそうに見上げている。母親は困った顔をしながらも、結局一つ買ってやっていた。
子供は満面の笑みで受け取る。
その顔を見て、少しだけ口元が緩んだ。
『欲しいの?』
「いや、そういうわけじゃない」
『本当に?』
「……少しだけだ」
『なら買えばいいじゃない』
「昼飯が入らなくなる」
『変なところで真面目ね』
俺は露店の前を通り過ぎた。
買わなかったことを、少しだけ後悔した。
さらに歩く。
王都の建物は、ただ大きいだけではない。
通りによって顔が違う。
商業区は一階が店、二階より上が住居になっている建物が多い。窓辺には花や布が飾られ、店の看板は鉄や木で凝った形に作られている。靴屋なら靴。菓子屋なら麦穂と砂糖壺。仕立屋なら針と糸。
貴族街に近づくほど建物の間隔が広くなり、庭や門が増える。白い壁の向こうに整えられた樹木が見え、馬車の音も静かになる。
一方で職人街の方角からは、金属を打つ音や木を削る音が聞こえた。火と油と鉄の匂いが風に乗り、王都が華やかなだけの街ではないことを教えてくる。
美しさの裏には、働く手がある。
それを見落とすと、この街を見たことにはならないのだろう。
昼前になる頃、俺は運河沿いの大通りへ出た。
視界が開ける。
広い運河が、街の中央をゆっくり流れていた。
両岸には白い石畳の遊歩道があり、街路樹が等間隔に植えられている。枝葉の間から陽光がこぼれ、水面に細かな光の斑点を落としていた。
通りには人が多い。
だが、どこか余裕がある。
急いで歩く商人もいれば、手をつないで散歩する老夫婦もいる。制服姿の学園生が数人、運河沿いの柵にもたれながら本を読んでいた。冒険者らしき一団が地図を広げ、次の目的地を相談している。
そのすぐ横を、花売りの少女が歩いていく。
籠いっぱいに白い花を入れ、通行人に声をかけていた。
「……すごいな」
気づけば、また同じような言葉が漏れていた。
『語彙が貧しくなっているわよ』
「仕方ないだろ。すごいものはすごい」
『まあ、気持ちは分かるわ』
セレスの声は穏やかだった。
『王都というのは、力を集める場所よ。人、金、技術、知識、欲望、祈り。全部が集まり、混ざって、形になる。それが都市の厚みね』
「厚み、か」
その言葉はしっくりきた。
ベルグラードにも暮らしはあった。
だが、王都には積み重なった時間の層がある。
古い石橋。
新しい魔導船。
貴族の馬車。
露店の菓子。
学園生の笑い声。
職人の槌音。
全部が同じ街にある。
きれいに並んでいるわけではない。
むしろ雑多だ。
けれど、その雑多さこそが王都なのだろう。
俺は運河沿いを歩きながら、遠くに見える王城へ目を向けた。
水辺に浮かぶような白亜の城。
尖塔と丸屋根。
優雅な外壁。
水面に映る姿は、まるで現実と幻の境に建っているようだった。
あそこに王がいる。
この街を、この国を動かす者たちがいる。
そう思うと、急に距離が分からなくなった。
近いようで遠い。
見えているのに、手は届かない。
王都とは、そういう場所なのかもしれない。
見えるものが多い分、自分の小ささもよく見える。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
俺はまだ何者でもない。
なら、ここから何者かになればいい。
そんな乱暴な考えが、胸の奥で小さく灯った。
『レグルス』
「ん?」
『顔が少し、楽しそうよ』
「そうか?」
『ええ』
俺は少しだけ視線を逸らした。
「まあ……悪くはない」
『素直じゃないわね』
「うるさい」
セレスが小さく笑った気がした。
運河沿いをさらに歩くと、白いパラソルが並ぶ一角が見えてきた。
花壇に囲まれた、洒落た店だった。
焼き立てのパンと香草の匂いが風に乗ってくる。テーブルは外に並べられ、客たちは運河を眺めながら食事をしていた。白い皿、透明なグラス、陽光を受ける水面。
昨日まで地下水路にいた身としては、同じ王都とは思えない光景だ。
俺は思わず足を止めた。
「……ここで休むか」
『良いと思うわ。あなた、そろそろ甘いものを買わなかったことを後悔していたでしょう?』
「そこまで分かるのか」
『契約者の状態くらい分かると言ったでしょう』
「空腹と後悔まで分かるのは、状態なのか?」
『大事な状態よ』
俺は苦笑しながら、運河沿いのオープンカフェへ向かった。
注文した料理が運ばれてくるまでの時間は、思っていたよりも短かった。
まず置かれたのは、背の高いグラスに注がれたアイスティーだった。
琥珀色の液体の中で、薄く切られた柑橘がゆっくり揺れている。氷に似た透明な魔導冷却石が底に沈み、かすかに青白い光を放っていた。
俺はそれを一口飲む。
「……生き返るな」
『大袈裟だな』
「大衆浴場の後に、王都の運河沿いで冷たい茶だぞ。これを大袈裟と言うなら、何を大袈裟と言えばいい」
『相変わらず、食と休息への評価が高い』
「命に直結するからな」
セレスは腰の位置で、少しだけ呆れたように黙った。
けれど、俺にとっては本音だった。
地下水路の湿った臭気。
グールの腐臭。
ジェイドラットの群れが石床を駆け回る音。
それらがまだ身体の奥に残っている気がしていた。
だからこそ、今この瞬間、風に揺れる白いパラソルの下で、冷たい茶を飲んでいることが妙に贅沢に思えた。
やがて、クロワッサンサンドと白身魚のソテーが運ばれてくる。
皿に乗ったクロワッサンは、表面が黄金色に焼き上がり、層になった生地が光を受けて薄く輝いていた。切れ目の中には、炙った肉と葉野菜、薄く切られたチーズが挟まれている。
白身魚のソテーは、皮目が香ばしく焼かれ、上から刻んだ香草と淡い黄色のソースがかけられていた。
湯気と一緒に、バターと香草の匂いが立ち上る。
「これは……勝ちだな」
『食べる前から勝敗を決めるのか』
「香りで八割は決まる」
『料理人が聞いたら複雑な顔をしそうだ』
俺はクロワッサンサンドを手に取る。
軽く噛むと、表面がさくりと崩れた。中の生地はしっとりとしていて、肉の塩気とチーズのまろやかさが混じる。
思わず、もう一口食べた。
王都のパンは、地方都市ベルグラードのものよりも軽い気がした。いや、正確には、食感を楽しませる作りになっている。
腹を満たすためだけではない。
香り、歯触り、見た目。
その全部を食事として出している。
これが王都の余裕か。
俺は白身魚にも手を伸ばした。
身は柔らかく、ナイフを入れると簡単にほぐれた。口に入れると、魚の甘みと香草の香りが広がる。ソースには果実の酸味が少し混じっていて、重さを感じさせない。
「……王都、恐ろしいな」
『今度は何を恐れている』
「食費が上がる」
『実に現実的な恐怖だ』
「強敵だぞ」
冗談めかして言ったが、本当に強敵だった。
強い魔物より、日々の出費の方がじわじわ効くこともある。
冒険者というのは、稼ぎがある時ほど財布の紐が緩みやすい。武器、防具、宿、食事。気づけば報酬が羽根を生やして飛んでいく。
俺はグラスを傾けながら、運河へ視線を向けた。
水面は午後の光を映して、細かく砕けた銀のようにきらめいていた。
小舟が一艘、ゆっくりと通り過ぎていく。船尾には花籠が積まれており、白や赤の花が風に揺れている。船を漕ぐ男は慣れた手つきで櫂を動かし、橋の下へと滑るように消えていった。
橋の上では、買い物帰りらしい女性たちが楽しげに話している。
制服のような上着を着た少年たちが、革鞄を肩にかけて石畳を走っていく。
通りの向こうでは、魔導車輪のついた荷台を押す商人が、店先の男と値段交渉をしていた。
王都ヴァルエスト。
水の都。
石と花と魔導灯の都。
人の数も、店の数も、音の数も、ベルグラードとは桁が違う。
けれど、その騒がしさは不思議と耳障りではなかった。
運河沿いのカフェを出たころには、王都ヴァルエストの空は少しずつ黄金色に染まりはじめていた。
白い石畳に落ちる光が、夕暮れを吸って淡く燃えている。
水面には、赤く染まった空と、橋の影と、行き交う小舟の灯りが揺れていた。
昼間の王都は眩しいほど華やかだった。
だが、夕暮れの王都は違う。
水の都は、夜を迎える少し前にだけ、別の顔を見せる。
建物の窓辺に明かりが灯りはじめ、運河沿いの街灯に魔導灯の柔らかな光が宿る。
昼間は白と青の都だったヴァルエストが、橙と紫の影を纏っていく。
『綺麗ね』
腰のセレスが、小さく呟いた。
「ああ。ベルグラードとは全然違うな」
『ベルグラードも悪くはないわよ。けれど、ここは……少し、贅沢すぎるくらいね』
その言葉に、俺は少し笑った。
たしかにそうだ。
この街は、ただ人が暮らすためだけに造られていない。
見られること。
記憶されること。
訪れた者の胸に、消えない傷のような憧れを残すこと。
王都ヴァルエストには、そんな意図があった。
水路に沿って歩いていくと、街並みの雰囲気が少しずつ変わっていった。
大通りの整った美しさから、少し奥へ入るにつれ、人の熱を含んだ雑多な色が増えていく。
露店の布屋。
香辛料を扱う店。
硝子細工を並べた小さな屋台。
焼き菓子を売る老婆。
水路の脇で弦楽器を奏でる若い男。
魔導灯の下で、人々の声が幾重にも重なっていた。
「王都って、夜になるとまた賑やかになるんだな」
『むしろ、ここからが本番なのかもしれないわね』
セレスの声は落ち着いていたが、どこか楽しそうでもあった。
俺はゆっくりと歩いた。
急ぐ必要はない。
学園で姉さんにも会った。
模擬戦もした。
地下水路では、ジェイドラットとグールを相手にして、さすがに神経を使った。
だから今は、何も斬らず、何も突かず、ただ歩く。
それだけの時間が、妙に贅沢に思えた。
やがて、道の先から甘い香のようなものが漂ってきた。
花の香り。
酒の匂い。
香水。
焼いた果実。
それから、夜にしか溶け出さないような、どこか艶やかな空気。
俺は足を止めた。
「……なんか、雰囲気が変わったな」
正面には、灯りの多い通りが広がっていた。
赤や紫の布看板が風に揺れ、建物の窓辺からは柔らかな光が漏れている。
着飾った女性たちが通りの端で客に声をかけ、洒落た服装の男たちが笑いながら歩いていた。
歓楽街。
言葉にしなくても、すぐに分かった。
『レグルス』
セレスの声が、いつもより少し低くなった。
「なんだ?」
『ここ、通る必要あるのかしら?』
「宿に戻るには、たぶんこの辺を抜けるのが早いんだと思う」
『たぶん?』
「……地図ではそう見えた」
『ふうん』
その短い返事に、やけに圧があった。
俺は思わず腰のセレスを見下ろした。
「なんだよ」
『別に』
「別にって声じゃないだろ」
『別に。ただ、楽しそうに周りを見ていると思っただけよ』
「見てるだけだろ。王都の街並みを」
『そう。街並みね』
セレスの声が、氷菓子より冷たかった。
そのとき、通りの向こうから、薄紅色のドレスを着た女性がこちらに視線を向けた。
年上だろうか。
柔らかな笑みを浮かべ、手にした扇で口元を隠している。
「そこの黒髪のお兄さん、王都は初めて?」
甘い声だった。
俺は一瞬、返事に困った。
「あ、まあ……初めてではないですけど、ゆっくり見るのは初めてです」
「あら、素直で可愛いのね。少し寄っていかない?」
その瞬間、腰のセレスからただならぬ気配が滲んだ。
『レグルス』
「はい」
『行かないわよね?』
「行かないです」
即答した。
反射だった。
女性はそれを見て、くすりと笑った。
「あら。連れの子に怒られているのね」
『子じゃないわ』
セレスが即座に返した。
女性は少し目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「喋る本なんて珍しいわね。しかも、随分と可愛らしい嫉妬をするのね」
『嫉妬なんてしていないわ』
「そう?」
『していないわ』
セレスの声は、見事なまでに強かった。
俺は少しだけ肩をすくめ、女性に軽く頭を下げた。
「すみません。今日は宿に戻ります」
「ええ。夜の王都は迷いやすいから、気をつけてね」
「ありがとうございます」
俺は足早にその場を離れた。
背後で、女性の笑い声が水路の風に混じって消えていく。
しばらく歩いてから、俺は小さく息を吐いた。
「……助かった」
『何が?』
「いや、変に立ち止まったら面倒だったかもしれないし」
『そうね。面倒だったでしょうね。主に私が』
「やっぱり怒ってるだろ」
『怒ってないわ』
「その言い方で怒ってないは無理がある」
セレスは少し黙った。
魔導灯の光が、腰の本の金具に淡く反射する。
『……あなた、ああいう場所に興味があるの?』
「ないと言えば嘘になるけど」
『あるのね』
「いや、男なら多少は気になるだろ。けど、行く気はない」
『どうして?』
その問いは、思ったより静かだった。
俺は少し考えた。
「今の俺には、そういう場所で遊ぶ余裕がないからだよ」
『余裕?』
「金とか時間じゃなくてさ。俺はまだ弱い。学園で姉さんと模擬戦して、それを嫌というほど思い知らされた。地下水路の依頼だって、うまくやれたとは思うけど、余裕があったわけじゃない」
俺は夜の水路を見た。
揺れる灯りが、黒い水面に細く伸びている。
「だから、遊び方を覚える前に、強くなることを覚えたい」
そう言うと、セレスは少しだけ声を柔らかくした。
『……あなたらしいわね』
「そうか?」
『ええ。不器用で、意地っ張りで、でも嫌いじゃないわ』
「最後だけ急に優しいな」
『たまには褒めてあげないと、あなたはすぐ無茶をするもの』
俺は苦笑した。
歓楽街を抜けるころには、空の端に残っていた夕日は完全に沈んでいた。
王都の夜は暗くない。
無数の魔導灯が通りを照らし、水路を渡る橋には青白い光が並んでいる。
遠くには王城が見えた。
水面に浮かぶように建つ白亜の城。
尖塔と丸屋根が夜空に溶け、窓の灯りが星のように瞬いている。
城の周囲を巡る水路は、まるで夜の鏡だった。
その手前の街の高台に、黒々とした大きな影が見えた。
王立魔術学園、ノヴァ・アカデミア。
昼間に見たときとは、まるで印象が違っていた。
大地に沿うように横へ伸びる建物。
低く広く、石と木材が複雑に組み合わされた造形。
壁面から張り出した屋根は深く、水平線を強調するように重なっている。
水路と庭園を取り込み、建物そのものが大地から生えた巨大な魔術式のようだった。
魔導灯の光が窓から漏れ、幾何学模様の硝子を通して淡い色を地面に落としている。
「あそこが、姉さんのいる場所か」
俺は足を止め、しばらく学園を見上げた。
あそこで姉さんと剣を交えた。
届かない差を見せつけられた。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
悔しい。
届きたい。
越えたい。
そう思える相手がいるのは、きっと幸運なのだろう。
『レグルス』
「ん?」
『あなた、明日からまた無茶をする顔をしているわ』
「どんな顔だよ」
『自分では気づいていないでしょうけど、少し楽しそうよ』
俺は頬を掻いた。
「まあ……楽しいのかもしれないな」
弱い自分を知ること。
遠い背中を見つけること。
その差を埋めるために、何をすべきか考えること。
普通なら、苦しいだけなのかもしれない。
けれど俺にとっては、それが前に進む理由になる。
宿へ向かう道に戻ると、通りは少し静かになっていた。
宿の看板には暖かな灯りが入っていて、入口からは食事の匂いと人の声が漏れている。
木の扉を押し開けると、昼間よりも落ち着いた空気が出迎えた。
受付の男が顔を上げる。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
そう返してから、俺は少しだけ笑ってしまった。
ただいま、か。
王都に来てまだ長くはない。
けれど、今日一日で随分歩いた気がする。
大衆浴場で湯に浸かり、街を見て、運河沿いで茶を飲み、夜の王都を歩いた。
依頼や戦闘とは違う形で、この街を少しだけ知った。
部屋に戻ると、俺は剣帯を外し、セレスを机の上に置いた。
窓を開けると、夜風が入り込んでくる。
遠くから水の音と、まだ眠らない王都のざわめきが聞こえた。
『疲れた?』
セレスが尋ねてきた。
「身体はな。でも、悪くない疲れだ」
『そう』
俺は椅子に座り、窓の外を見た。
遠くに、ノヴァ・アカデミアの灯りが見える。
夜の中に浮かぶその姿は、静かな獣のようだった。
王都ヴァルエスト。
水の都。
王城の都。
冒険者の集まる都。
そして、姉さんがいる都。
この街には、俺の知らないものがまだいくつも眠っている。
美しいものも。
面倒なものも。
危険なものも。
そしてきっと、俺を強くする何かも。
『明日はどうするの?』
セレスが聞いた。
「まずは休む。それから考える」
『珍しくまともな答えね』
「俺だって、たまにはまともだ」
『たまにはね』
俺は苦笑し、ベッドに腰を下ろした。
そのとき、遠くの学園の方角で、淡い光が一瞬だけ瞬いた。
夜空に溶けるほど小さな光。
けれど、魔力の気配を覚えはじめた今の俺には、それがただの灯りではないことだけは分かった。
俺は窓の外を見つめる。
「……今の、見えたか?」
『ええ』
セレスの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
『学園の方ね』
「ああ」
王都の夜風が、部屋の中を静かに撫でていく。
今日は、ただの散策で終わるはずだった。
だが、この街は俺に、そう簡単に休ませてくれるつもりはないらしい。
俺はゆっくりと息を吐いた。
窓の向こう、黄昏の名残を失った魔術学園が、夜の底で静かに輝いていた。




