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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第二章 王都、暗躍する影
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第27話 王都地下水路 後編

 地下水路へ続く鉄扉は、王都の外れにあった。

 白い石畳が敷かれた大通りから少し離れただけで、街の表情は変わる。商人の呼び声も、馬車の車輪が跳ねる音も遠のき、湿った空気が足元から這い上がってくる。


 鉄扉の前には、王都ギルドの職員が二人立っていた。

 どちらも革鎧の上から灰色の外套を羽織り、腰には短剣を差している。冒険者ではない。だが、ただの案内役でもなかった。立ち方に隙がなく、視線は常に周囲を探っている。


「こちらです」

 職員の一人が、古びた鍵束から大きな鉄鍵を選び取った。

重そうな鉄鍵が差し込まれると、鈍い音が地下から返ってきた。まるで、扉の向こう側にいる何かが、眠りの中で身じろぎしたような音だった。


 ギィ、と鉄扉が開く。

 同時に、冷たい臭気が吹き上がった。

 濁った水。苔。錆びた鉄。腐った木材。そして、どこか生臭い獣の匂い。


「……地上とは別世界だな」

 地下から上がってくる臭気に対して俺は思わず呟いた。


 腰のベルトに下げたセレスが、静かに答える。


『王都が綺麗でいられるのは、汚れを流す場所があるからよ』


「夢のない言い方だな」


『真実は、よく夢の裏側に隠れているものよ』


 俺は苦笑しながらも、手は自然と打刀の柄に触れていた。

 職員が地下へ続く石段を示す。


「今回確認された魔物は、魔導鼠ジェイドラットです。王都地下に棲みつく魔物で、通常の鼠とは異なります」


「魔導鼠……」


「地下の魔導管から漏れた魔力を長年摂取し、変質した個体群です。動きが非常に速く、壁や天井も走ります。群れで行動するため、一体を見つけたら周囲にもいると考えてください」


 俺は頷いた。

 地方都市ベルグラードでは聞いたことのない魔物だ。

 やはり王都の依頼は、ただの討伐でも質が違う。


「それと、奥には古い区画があります」

 職員の声が少し低くなる。


「赤い札が貼られている場所から先は、封鎖区画です。崩落の危険があるため、絶対に入らないでください」


「封鎖区画……」


「王都拡張以前の古い水道設備です。地図も完全ではありません」


 完全ではない。

 その言葉に、俺はわずかに引っかかりを覚えた。

 王都ギルドほどの組織が把握しきれていない場所。

 それが、この地下にある。


「分かりました。無理はしません」

 

 職員は頷き、魔導灯付きの小さなランタンを差し出した。


「ご武運を」


 俺はランタンを受け取り、石段を下りた。


 一段。

 また一段。

 地上の光が背中から離れていく。

 足音が石に反響し、湿った空気が肌にまとわりついた。

 地下水路は、想像していたよりも広かった。

 人が二人並んで歩けるほどの石造りの通路。その脇を、濁った水が絶えず流れている。壁には魔導灯が等間隔で埋め込まれ、青白い光を放っていた。


 だが、その光はどこか弱い。

 暗闇を追い払うというより、闇の輪郭だけを浮かび上がらせているようだった。

 天井から水滴が落ちる。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 その音が、やけに大きく聞こえる。


「……古いな」

 俺は壁に手を近づけた。


 石材はところどころ補修されている。だが、奥の層には別の石が使われていた。黒みを帯び、表面に細かい文様が刻まれている。


『触らない方がいいわ』


 警告するようにセレスが言った。


「危ないのか?」


『今すぐ何かが起きるわけではないわね。ただ……古い。王都よりも、ずっと』


「王都より?」


『少なくとも、今の王国式じゃないわね』


 俺は壁の文様を見つめた。

 文字のようにも見える。

 だが読めない。

 曲線と直線が複雑に絡み、どこか星座の軌道のようにも見えた。


「セレスは読めるのか?」


『少しだけ。でも今は、読むより進む方が先ね』

 その声は、いつもの軽さを残していなかった。


 俺はその言葉に頷き、通路の奥へ進んだ。


 水音。

 足音。

 ランタンの小さな光。

 歩くほどに、地上の王都が遠ざかっていく。

 しばらく進んだところで、俺は足を止めた。

 前方に、青白い光が二つ見えた。

 魔導灯かと思った。

 だが、位置がおかしい。

 壁の途中。

 人の背丈より高い場所。

 そして、その光はゆっくりと瞬いた。


「……目か」


 瞬間。

 光が走った。

 壁を蹴り、天井へ移り、影がこちらへ飛びかかってくる。


 俺は腰に差してある刀の柄に手を当てて腰を軽く沈めて戦闘態勢をとる。


 黒い毛並み。

 犬ほどの大きさ。

 額から背にかけて、青白い筋が魔導灯のように発光している。長い尾の先には硬質化した棘。牙は細く、針のように尖っていた。

 魔導鼠ジェイドラット。

 

 一体目が顔面へ飛んでくる。

 俺は鞘から刀を抜き横に構えた。

 斬らない。

 軌道を変える。

 牙が刀身へ触れた瞬間、手首を返す。


「弾く」


 甲高い音とともに、ジェイドラットの身体が横へ流れた。

 壁に叩きつけられる。

 だが、ジェイドラットは倒れない。

 鋭い爪を石に食い込ませ、すぐに体勢を立て直す。


「硬いな」


『魔力で骨格が補強されているわ。普通の鼠だと思わない方がいいわね』


「思ってない」


 通路の奥で、青白い光が増えた。


 二つ。

 四つ。

 六つ。

 魔導灯ではない。


 目だ。

 ジェイドラットの群れが、壁と天井に張りついていた。

 次の瞬間、三体が同時に動いた。


 一体は正面から。


 一体は左の壁から。


 一体は天井から。


 上下左右を潰す動き。

 ただの獣ではない。

 狩り慣れている。


 俺は息を吸った。

 正面の一体に構えば、天井から噛まれる。

 天井を狙えば、左から喉を裂かれる。

 ならば、まず数を崩す。


 掌に魔力を集める。

 

「風の粒子よ、刃となり敵を裂け」


 魔力が震えた。

 空気が掌の先で収束する。


風刃ウインドカッター


 透明な刃が走った。

 音は遅れて来た。

 天井を走っていたジェイドラットの前脚が裂け、体勢が崩れる。


 落ちる。


 そこへ俺は踏み込み、落下する個体の喉へ、切っ先を入れる。


 風刃は浅い、決定打にはならない。

 だが、それでいい。

 刀が届く間合いに落とせれば十分だった。


 突く。手応え。引き抜く。


 同時に正面の一体が迫る。


 俺はその場から右側に半歩ずれ回避したが。牙が肩を掠める。

 痛みより先に、身体が動く。

 鞘を左手で押し出し、横から叩く。

 弾く。

 体勢を崩したジェイドラットの首筋へ刀を走らせる。

 血ではなく、青白い魔力が霧のように散った。


「っ……!」


 左の壁から来た三体目。

 間に合わない、そう判断した瞬間、俺は足元に魔力を流した。


 魔力による身体強化。

 力を増やすのではなく、動きを整える。

 膝を沈め、腰を逃がし、肩の軸をずらす。

 牙が脇腹の布を裂いたが浅い、そのまま反転し、柄頭でジェイドラットの顎を打つ。

 頭が跳ね上がり、そこを刀で切り裂く。

 三体目が水路へ落ち、濁った水が跳ねる。


「……これで三体」


『まだ来るわよ』


「分かってる」


 俺は呼吸を整えた。

 奥の暗がりに、さらに光が浮かんでいる。

 だが、すぐには飛びかかってこない。

 仲間が倒されたことで警戒しているのか。


 いや、違う。

 群れが左右に割れた。

 その奥から、ひときわ大きな個体が姿を現した。

 通常のジェイドラットよりも一回り大きい。

 背中の青白い筋は、まるで魔導回路のように複雑に枝分かれしている。右目の周囲には古傷があり、尾の棘は短剣のように鋭い。


『群れの長だね』


「王都の鼠は、ずいぶん偉そうだな」


『実際、偉いんでしょう。鼠社会では』


「嫌な社会だ」


 軽口を交わす間にも、俺は相手の動きを見ていた。


 大型の個体は、すぐに襲ってこない。

 こちらの刀の長さ。

 風刃ウインドカッターの射程。

 付近の足場。

 全部を測っているようだった。

 知能がある。


 ならば、誘ってみる。

 俺は刀を少し下げ、隙を作る。

 

 大型個体の青白い目が細くなる。

 次の瞬間、尾の棘が飛んだ。


「なっ――」


 射出。

 俺は咄嗟に顔面に飛んできた棘に対して刀を当てる。

 棘が刀身に当たり、弾ける。

 だが、完全には殺せない。

 頬を浅く裂いた、熱い血が一筋流れる。


『尾の棘を飛ばせるの。面倒ね』


「先に言ってくれ」


『私も今知ったわ』


 大型個体が壁を蹴った。

 速い。

 さっきまでの個体とは違う。

 直線ではない。

 壁、天井、壁。

 視線を振らせる軌道。


 目で追えば遅れる。

 音を聞く。

 爪が石を削る音。

 風の流れ。

 匂い。

 右。上。左。

 来る。


 俺は刀を鞘に納めた。


『抜刀?』


「届く瞬間に、合わせる」


 大型個体が天井から落ちた。

 牙は首筋。

 尾は胸。

 二段。

 俺は右足を引き、呼吸を止める。


 獅子宮で何度も叩き込まれた、身体の軸。

 錆びた刀で覚えた、切れない刃でも相手を崩す感覚。

 敵が間合いに入った。


「――抜く」


 鞘走る音。

 刃が跳ねた。

 狙いは牙ではない。

 尾。

 胸を狙う棘を根元から弾き上げる。

 軌道を失った大型個体の身体がわずかに開いた。


 そこへ左手。


風刃ウインドカッター


 今の俺の魔力では倒せる威力はない、だが、至近距離なら深手を負わせるのに十分だった。

 透明な刃が大型個体の肩口を裂く。

 青白い魔力が飛ぶ。

 大型個体が悲鳴を上げる。

 俺は踏み込み、大型個体の身体を切る。


 一閃。


 刃が首筋を抜けた。

 大型個体の身体が床へ落ちる。

 水音が戻った。

 残ったジェイドラットたちは、一斉に奥へ逃げていった。

 俺は刀を下げ、大きく息を吐いた。


「……勝ったか」


『群れは退いたわね。依頼としては十分な成果ね』


「十分、か」


 俺は頬や刀の血を拭い、刀を鞘へ戻した。


 その時だった。

 水路の奥から、音がした。


 ぺたり。


 ぺたり。


 濡れた裸足が、石の上を歩く音、ジェイドラットでの足音ではない。

 もっと重く、もっと遅い。

 人の足音に似ていた。


「……誰かいるのか?」

 返事はない。


 魔導灯が、一つ明滅した。

 奥の暗がりに、人影が立っていた。

 背は人間と同じほど。

 服を着ている。

 いや、着ていたものが残っている。

 破れた作業着。腰に古い工具袋。片腕は不自然に垂れ下がり、首は横に傾いている。

 顔は影に隠れていた。

 確認するため俺は一歩、近づきかけた。

 

 その瞬間。

 人影の首が、ぎちりと音を立ててこちらを向いた。

 目がなかった。

 空洞の奥に、黒い靄が溜まっていた。

 腐った唇が開く。


「ぁ……あ……」

 声にならない息。

 それは助けを求めているようにも、恨みを吐いているようにも聞こえた。


 俺の手が止まる。


「人……なのか」


『違うわ』

 セレスの声は静かだった。

 静かすぎるほどに。


『もう、命はここにない』


「でも」


『レグルス』

 セレスが名を呼ぶ。


『迷うな。あれはグール。放っておけば、次にここへ入った者を襲うわよ』


 グール。

 聞いたことはある。

 死体が魔力や瘴気に侵され、魔物化した存在。

 だが、目の前にいるものは、かつて確かに人だった。

 誰かの父だったかもしれない。

 誰かの兄だったかもしれない。

 この地下で働き、地上の美しい王都を支えていた一人だったかもしれない。

 そういうことが頭を過ぎり思い、俺は奥歯を噛んだ。


 グールが一歩踏み出す。


 ぺたり。


 濡れた足音が響く。

 その背後の壁に、赤い札が見えた。

 封鎖区画。

 そして、その札の下には、黒い焦げ跡が伸びていた。

 まるで何かが、奥からこちらへ這い出してきたように。


 俺は刀を抜いた。

 刃が青白い魔導灯を映す。


「……分かった」

 声は小さかった。

 だが、震えてはいなかった。


「終わらせる」


 グールが口を開いた。

 暗い靄が、その喉奥で蠢いた。

 腐臭が、遅れて鼻を刺す。

 それは獣の臭いではなかった。濡れた布。腐った肉。古い血。長く閉じ込められていた地下の空気が、人の形をして立ち上がったような臭いだった。


 俺は刀を握り直す。

 刃先が、ほんのわずかに下がった。


 グールの胸元には、古びた金属札がぶら下がっていた。錆びていて文字はほとんど読めない。だが、そこに刻まれた紋章だけは分かった。

 王都の水路管理局。

 つまり、目の前にいるこれは、かつてこの地下で働いていた人間だった。


「……どうして、こんな場所に」


『封鎖区画で何かが起きたんだろうね』

 セレスの声は静かだった。


『でも、今考えることじゃない』


 グールが一歩踏み出した。


 ぺたり。


 濡れた足裏が石を叩く。

 次の瞬間、その身体が不自然に跳ねた。

 遅いと思った動きが、一瞬で変わる。

 グールの右腕が伸びた。

 人の関節ではありえない角度。肘が逆へ曲がり、黒ずんだ爪がレグルスの顔を狙う。


「っ!」


 俺は刀を立てた。

 爪と刃がぶつかる。

 硬い。

 死肉の爪ではない。魔力に侵され、骨ごと変質している。

 腕に伝わる衝撃を受け流し、半歩下がった。


 だが、グールは止まらない。

 左腕が来る。

 今度は腹。

 俺は鞘で横から叩いた。


「弾く!」

 

 腕の軌道がずれる。

 爪が服を裂き、脇腹を掠めた。

 痛みは浅い。

 だが、掠めただけで皮膚が熱を持つ。


『爪に瘴気がある。傷口に入れないで』


「簡単に言うなよ……!」


 レグルスは足元へ魔力を流し身体強化をする。

 力を増やすのではない。

 呼吸。

 重心。

 膝。

 足裏。

 動ける形へ、身体を整える。


 グールが喉を鳴らした。


「あ……ぁあ……」


 それは声だった。

 人だった頃の名残なのかもしれない。

 俺の胸が、わずかに詰まる。

 

 その一瞬を、グールは逃さなかった。

 低く沈み、獣のように飛びかかる。

 速い。

 横へ避けようとして、水路の縁が足に触れた。

 足場がない。

 避けきれない。

 ならば、前へ。

 俺は刀を引いた。


 爪が迫る。息を止める。

 相手の腕ではなく、肩を見る。

 動きの起点。

 そこへ刃を合わせる。

 振り下ろされた爪を、刀身の腹で受ける。

 真正面からは受けない。

 角度をつける。

 滑らせる。

 グールの腕が横へ流れた。

 そのまま踏み込む。

 柄頭を胸へ叩き込んだ。


 鈍い音。


 だが、グールは倒れない。

 胸が陥没しても、痛みを感じていない。

 首だけが、ぎちりとこちらを向く。

 空洞の目が俺を見た。

 いや、見てはいない。

 それでも、見られている気がした。


「くそ……!」


『心を残したらいけない。身体を止めるのよ』


「分かってる!」


 分かっている。

 もう人ではない。

 命はない。

 放っておけば誰かを襲う。

 頭では理解している。

 だが、刃を振るう手が、ほんの少し重い。

 グールの背後で、赤い封鎖札が揺れていた。

 黒い焦げ跡が、その下から伸びている。

 この者は、あの奥から来た。

 ならば、ただの魔物化ではない。


 誰かが。

 何かをした。

 その怒りが、迷いの底に火を灯した。


「……悪い」

 小さく言った。


「俺には、助け方が分からない」


 刀を構える。

 切っ先は喉。

 

 だが、グールは再び口を開いた。

 黒い靄が膨らむ。


『来る!』


 即座に左手を前へ出した。

 近距離。

 

「風刃!《ウインドカッター》」


 透明な刃が走った。

 黒い靄を裂く。

 靄は完全には消えない。だが、通路いっぱいに広がるはずだった瘴気が、左右へ割れた。

 俺はその隙間を駆ける。

 足元の濁った水が跳ねた。

 グールの爪が来る。


 右。

 

 左。


 上。


 刀と鞘を使い、受けず、逸らし、弾いた。

 爪の一撃ごとに腕が痺れる。

 瘴気が肌を焼く。

 それでも、下がらなかった、下がれば、また迷う。

 だから前へ出る。


 半歩。

 さらに半歩。


 グールの間合いの内側へ。

 そこは爪が最も振りにくい距離。

 肩を沈め、刀を短く持った。


「突く」

 切っ先がグールの右肩へ入る。

 骨を砕く感触。

 右腕が落ちる。

 だが、左腕がまだ動く、鞘で左手首を叩いた。

 弾く。

 腕が流れる。

 その瞬間、グールの口が目の前で開いた。

 黒い靄が喉奥に集まる。

 避けるには遅い。


 俺は咄嗟に刀を鞘に納め、腰を深く沈める切る。

 刀身に風属性の魔力を乗せる。

 初級風魔法の応用とも呼べない、ただの真似事。


 だが、風属性の魔力は刀の刃に収束した。


風裂白刃グラディウス・ウェンティ――!」


 刀の軌跡に、薄い風の刃が重なる。

 斬撃が黒い靄ごとグールの首筋を裂いた。

 靄が弾ける。

 グールの身体が硬直した。

 まだ倒れない。

 ならば、最後は迷わない。

 

 俺は一歩踏み込み、刀を引き、真っ直ぐに突き出す。

 狙うのは胸の中心。

 

 そこに、黒い魔力の核がある。

 見えたわけではない。

 だが、分かった。

 この身体を無理やり動かしているもの。

 命ではない何か。

 それを断つ。


「終われ、獅牙突レオ・ペルトゥンデレ

 刃が胸を貫いた。

 硬い膜を破る感触。

 硝子が割れるような、細い音がした。

 グールの身体から力が抜ける。

 空洞の目に溜まっていた黒い靄が、ゆっくりと薄れていった。


 そして。


「あ……り……」

 声が、聞こえた気がした。

 それが本当に言葉だったのか。

 ただ空気が漏れただけなのか。

 よく分からなかった。


 グールは崩れ落ちた。

 濁った水が、静かに揺れる。

 

 俺はしばらく動けなかった。

 肩で息をする。

 頬の傷が痛む。

 脇腹も熱い。

 だが、それ以上に胸の奥が重かった。


『……よくやったわ』

 セレスが言った。

 その声は、いつもより少し低かった。


「これで、よかったのか」


『少なくとも、放っておくよりは』


「答えになってない」


『答えがあることばかりじゃないわ』


 俺は倒れたグールを見下ろした。

 もとは人だった。

 きっと名前もあった。

 家もあった、帰る場所もあったかもしれない。

 けれど今、ここに残っているのは、錆びた金属札と、破れた作業着と、魔物になった身体だけだった。

 レグルスは膝をつき、金属札へ手を伸ばした。

 セレスは止めなかった。

 札を外す。

 錆びて読めないと思っていた文字の一部が、魔導灯の青白い光に照らされる。


 そこには、かすかに名が刻まれていた。


 ――オルグ。


「オルグ、か」

 俺はその名を口にした。

 誰かが忘れた名前を、地下の闇から一度だけ拾い上げるように。


「ギルドに持って帰る。身元が分かるかもしれない」


『そうしてあげるといいわね』


 札を布に包み、懐へしまった。

 その時。

 奥から、冷たい風が吹いた。

 地下水路に風が吹くはずがない。

 水の流れとは逆向き。

 封鎖区画の奥から、細く、冷たく、まるで誰かが息を吐いたような風が流れてきた。


 赤い札が揺れる。


 かさり。


 かさり。


 俺は顔を上げた。

 封鎖札の向こう側。

 魔導灯の光が届かない闇。

 その壁に、黒い焦げ跡が続いている。

 そして今なら分かる。

 焦げ跡ではない。

 文字だ。焼き付けられたような黒い線が、壁一面に絡み合っている。

 

 現在の王国文字ではない。

 ギルドの文書で見た古代文字とも違う。

 だが、俺の胸の奥で、何かが反応した。


 熱。


 獅子宮。

 契約した黄道の力が、微かに爪を立てる。


『レグルス』

 セレスの声に、緊張が宿った。


「分かってる」


 俺は刀を握り直した。

 依頼は、地下水路の調査とジェイドラットの討伐。

 グールとの遭遇は想定外。

 封鎖区画には入るなと言われている。

 ここで戻るべきだ。

 冒険者としては、それが正しい。


 だが。

 奥にある何かは、もうこちらを見ている。

 そう感じた。


 俺は赤い札の前に立つ。

 札には王都ギルドと水路管理局の封印印が押されていた。

 その印の隙間に、黒い線が一本だけ走っている。

 まるで、内側から爪で引っかいたように。


「……セレス」


『何?』


「あの文字、読めるか」


 少しの沈黙。


『全部は無理。でも、一部だけなら』


「何て?」


 セレスは低く答えた。


『均衡』


 レグルスの指が止まる。


『そして、獣』


「均衡と、獣……」


 王都ギルドの紋章。

 天秤。

 世界の均衡。

 そして獅子宮。

 無関係だとは思えなかった。

 封鎖区画の奥で、何かが小さく笑った。


 女の声のように聞こえた。

 いや、水音がそう聞こえただけかもしれない。

 だが確かに背筋が冷えるのを感じた。

 刀の柄を握る手に力が入る。


「ここで戻ったら、たぶん後悔する」


『入れば、もっと後悔するかもしれないよ』


「だろうな」


『それでも?』

 

 俺は赤い札を見つめた。

 オルグという名の金属札が、懐の中で重い。

 この先で何が起きたのか。

 誰が、あの人をグールにしたのか。

 魔導鼠を追い立てたものは何か。

 そして、なぜ獅子宮が反応しているのか。

 答えは、この奥にある。


「少しだけ確認する」


『少しだけ、で済んだ試しはあまりないけどね』


「それでもだ」

 

 俺は一歩を踏み出した。

 赤い札の向こう側へ。

 

 その瞬間。


 胸の奥で、獅子が低く唸った。

 音ではない。

 だが、確かに感じた。

 爪が内側から胸を掻くような、熱を持った警告。

 だが俺は足を止めなかった。


 封鎖区画の空気は、そこまでの地下水路とは明らかに違っていた。

 湿っているのに乾いている。

 冷たいのに、どこか焼けた臭いがする。

 水路を流れる濁水の音も、ここでは遠い。石壁に吸い込まれ、奥へ奥へと引き延ばされていく。

 魔導灯はない。

 職員から渡されたランタンだけが、かろうじて足元を照らしていた。


「……ここ、本当に水道設備なのか」


 通路の造りが変わっていた。

 王都地下水路の石積みとは違う。壁も床も黒みがかった石で作られ、継ぎ目がほとんど見えない。誰かが巨大な岩を削り抜き、その中に道を通したようだった。


 壁には古い文字が刻まれている。

 いや、文字だけではない。


 円。

 

 線。


 獣の爪痕。


 天秤に似た紋様。


 そして、その周囲を囲む星の配置。


 俺は息を呑んだ。


「十二宮……?」


『断片ね』

 セレスが答えた。


『完全な記録じゃない。むしろ、誰かが削った後だ』


「削った?」


『都合の悪い部分を消したのか、あるいは読ませないために壊したのか』


 俺は壁に近づいた。

 刻まれた線の一部は、刃物で抉られたように荒れている。だが、その傷跡は新しくない。何年も、何十年も、あるいはもっと長い時間を経ている。


 王都より古い場所。

 そこに刻まれた天秤と獣。

 この地下に、何が眠っているのか。

 俺の胸の奥で、また熱が灯った。

 獅子宮の反応は強くなっている。


 奥へ進め。

 そう言われている気がした。

 だが同時に、近づくな、と警告されているようでもあった。


「セレス。この先に十二宮の契約物がある可能性は?」


『ある。けれど、それより厄介なものがある可能性もある』


「例えば?」


『契約物の残骸。契約者の痕跡。あるいは……契約者を利用しようとした者の研究跡』


 研究。

 その言葉が、さっきのグールと結びつく。

 オルグ。

 地下で働いていた男。

 彼は偶然グールになったのか。

 それとも、誰かがそうしたのか。

 答えは、まだ分からない。

 だが、封鎖区画の奥に満ちる嫌な気配は、偶然という言葉を許してくれなかった。


 通路の先に、小さな広間があった。

 円形の空間。

 中央には、枯れた噴水のような石造りの台座がある。

 水は流れていない。

 代わりに、黒い液体の跡が乾いてこびりついていた。

 壁には、十二の小さな窪みが円を描くように並んでいる。

 そのうち一つだけ、獅子を思わせる爪痕が刻まれていた。


 そして、正面。

 台座の向こう側の壁に、天秤の紋様があった。

 片方の皿は白。

 もう片方の皿は黒。

 中央の支柱には、深い傷が走っている。


 獅子の爪痕。

 俺は無意識に一歩近づいた。


『待って』

 セレスの声が鋭く響いた。


 足を止める。

 直後、足元の石床に薄い線が浮かび上がった。

 魔法陣。

 いや、陣というより、封印の跡。

 ほとんど消えている。だが、まだ生きている線がある。


『踏んでいたら、何が起きたか分からなかったわ』


「危なかったな」


『危ないで済めばいいけどね』


 慎重に周囲を見たところ、広間の隅に布切れが落ちている。

 濡れていない。

 新しい。

 誰かが最近ここに来た。

 俺は近づき、布を拾った。

 上質な黒布。

 冒険者の外套ではない。

 職員の制服でもない。

 指先で触れると、かすかに甘い香りが残っていた。


 花の香り。

 地下水路にはあまりにも不自然な匂い。


「……女か?」


『断定はできない。でも、ここに来た者は地下作業員ではないわね』


 その時。

 広間の奥で、かつん、と音がした。

 硬いものが石を叩く音。


 俺は鞘に手を当て腰を浅く落として構えた。

 ランタンの光が揺れる。

 闇の奥。

 何もいない。

 だが、確かに音がした。


 かつん。


 かつん。


 ゆっくりと、靴音が遠ざかっていく。


「誰だ!」

 俺の声が広間に反響した。


 返事はない。

 ただ、闇の向こうで何かが光った。

 一瞬だけ。

 薄い青。

 眼鏡のレンズのような光。

 そして、その奥に赤が見えた。


 瞳。

 赤い瞳。


 踏み出そうとした瞬間、その気配は消えた。

 まるで最初から誰もいなかったように。

 残ったのは、空気の震えだけ。


『追わない方がいいわ』

 セレスが言った。


「今のを見逃せって?」


『追えば誘われる。ここは相手の方が詳しい』


 俺は歯を食いしばった。

 確かにそうだ。

 ここは封鎖区画。

 地図もない。

 罠もある。

 今の自分が闇雲に追えば、勝負以前に戻れなくなる。

 それでも、胸の奥がざわついた。


 誰かがいた。

 そして、こちらを見ていた。

 俺を。

 あるいは、獅子宮の契約者を。

 広間の中央で、台座が小さく震えた。

 石の表面に刻まれた文字が、淡く光る。


 セレスが低く呟いた。


『まずい。反応している』


「何に?」


『あなたに』


 台座の黒い跡が、じわりと広がった。

 まるで乾いた血が、時間を巻き戻されるように湿り始める。

 壁の天秤が光った。

 白い皿。

 黒い皿。

 その中央の爪痕が、獅子の黄金に染まる。


 俺の胸が熱くなった。

 痛いほどに。


「ぐっ……」


『レグルス!』


 膝が落ちそうになる。

 だが、刀を杖のように床へ立て、踏みとどまった。

 頭の奥に、声が響く。

 言葉ではない。

 咆哮。

 獅子の咆哮。

 それに重なるように、別の気配があった。


 冷たく、均衡を測るもの。

 天秤。

 重さを測り、善悪を測り、世界の傾きを測るもの。

 その二つが、俺の内側で一瞬だけ触れた。


 視界が白く弾ける。

 見えた。

 巨大な天秤。

 片方には光。

 片方には闇。

 その足元に、無数の獣の影。

 そして、天秤の中央に立つ誰か。

 顔は見えない。

 ただ、長い髪と、静かな瞳だけがあった。

 その人物が、こちらを見た気がした。

 次の瞬間、意識が現実へ引き戻される。


 俺は荒く息を吐いた。

 広間の光は消えていた。

 台座も沈黙している。

 壁の文字も、ただの傷に戻っていた。


「今のは……」


『接触だね』


「誰と?」


『分からないわ。けれど、少なくともこの地下に残っているものは、獅子宮を知っている』


 汗ばんだ手で刀を握り直した。

 獅子宮を知っている。

 それは、この事件が偶然ではないということだ。

 魔導鼠。

 グール。

 封鎖区画。

 古い文字。

 天秤。

 赤い瞳の女。

 すべてが、一本の細い糸で繋がり始めていた。

 だが、その糸の先はまだ闇の中にある。


「戻るぞ」


『賢明ね』


「追いたい気持ちはある。でも、今のままじゃ駄目だ」


『いい判断』


「ギルドに報告する。オルグの札も渡す。それから、封鎖区画のことも」


『全部話す?』


 セレスの問いに、俺は少し黙った。

 全部。

 獅子宮の反応まで話すべきか。

 十二宮のことを、どこまで明かすべきか。

 だが、今の時点でギルドを信じていいのかは分からない。


「……全部は話さない」


『その理由は?』


「俺がまだ、何も分かってないからだ」

 広間を見回した。


「分からないものを、分かったように話すのは危ない。必要なことは報告する。でも、獅子宮のことは保留する」


『うん。それでいいわ』

 セレスの声が少し柔らかくなる。


『あなたは少しずつ、考え方も冒険者らしくなってきたわね』


「褒めてるのか?」


『もちろん』


「素直だと逆に怖いな」


『失礼ね』


 軽口を交わしながらも、俺の緊張は解けなかった。

 赤い瞳。

 薄い青のレンズ。

 甘い花の香り。

 その全てが、頭から離れない。

 広間を出ようとした時、俺はふと足を止めた。

 床に何かが落ちていた。

 小さな硝子片。

 眼鏡の欠片のように見える。

 拾い上げると、薄い青色をしていた。

 だが、ランタンの光に透かした瞬間、その青が一瞬だけ赤く揺らいだ。


「……これ」


『持って帰ろう』

 セレスが短く言った。


『これは、証拠になるかもしれない』

 俺は頷き、硝子片を布に包んだ。


 オルグの金属札。

 青い硝子片。

 二つの重みが、懐の中に沈む。

 封鎖区画を出る。

 赤い札を越えた瞬間、空気が少しだけ軽くなった。

 だが、地上に戻るまで安心はできない。

 俺は刀を抜いたまま、来た道を戻った。

 倒したグールの横を通る時、足を止める。

 もう動かない。

 黒い靄も消えている。

 小さく頭を下げた。


「必ず、伝える」


 返事はない。

 ただ、水音だけが流れていく。

 地下水路の出口へ向かう途中、ジェイドラットの群れは現れなかった。

 群れの長を失ったことで逃げたのか。

 あるいは、封鎖区画の気配を恐れて近づかないのか。

 どちらにしても、今回の依頼は終わった。


 表向きは。


 石段の上から、地上の光が見えた。

 白い。

 眩しい。

 俺は目を細める。

 鉄扉の前で待っていた職員が、彼の姿を見て目を見開いた。


「怪我を……!」


「大丈夫です。ジェイドラットは討伐しました。ただ、報告したいことがあります」

 職員の顔が引き締まる。


「中で何が?」

 俺は懐に触れた。


 金属札。

 硝子片。

 そして胸の奥に残る、獅子の熱。


「封鎖区画の手前で、グールを確認しました」


「グール……?」

 職員の表情が変わった。

 驚き。

 困惑。

 そして、わずかな恐怖。


「それと、身元を示す札がありました。水路管理局のものです」

 俺は布に包んだ金属札を渡した。


 職員はそれを受け取り、錆びた文字を見る。

 顔色が変わった。


「オルグ……。まさか」


「知っているんですか?」


「封鎖区画の点検で行方不明になった作業員です。捜索はされましたが、見つからなかったと聞いています」


 俺は胸の奥が冷えるのを感じた。

 偶然ではない。

 やはり、封鎖区画では以前から何かが起きていた。


「この件は、すぐ上へ報告します。あなたもギルドへ戻ってください。治療と、正式な事情聴取を行います」


「分かりました」

 俺は頷いた。


 王都の空は、何事もなかったように青かった。

 水路は美しく輝き、通りには人々の笑い声がある。

 だが、俺にはもう、地上の景色だけを見ることはできなかった。

 この足元に、闇がある。

 古い文字。

 封じられた区画。

 誰かに利用された死者。

 そして、赤い瞳の女。

 王都は美しい。

 だからこそ、その影は深い。


『レグルス』

 セレスが呼んだ。


「何だ?」


『これで終わりだと思う?』


 俺は王都ギルドの方角を見た。

 入口の上には、剣と杖、そして天秤の紋章が掲げられている。

 善と悪。

 光と闇。

 世界の均衡。

 その天秤が今、わずかに傾いた気がした。


「終わりじゃないだろうな」


『だろうね』


「でも、分かったことがある」


『何かな』

 俺は腰の打刀に手を添えた。


 頬の傷が痛む。

 脇腹も熱い。

 それでも足は止まらない。


「王都に来たのは、正解だった」


 セレスが小さく笑った。


『君らしい答えね』


 俺は王都ギルドへ向かって歩き出した。


 その背後。

 地下へ続く鉄扉の隙間から、一筋の冷たい風が漏れた。

 誰も気づかないほど微かな風。

 その奥で。

 薄い青のレンズ越しに、赤い瞳が静かに細められた。


「獅子宮……」

 女の声が、地下の闇に溶ける。

 鉄扉が閉まる。

 鈍い音が、王都の足元に沈んでいった。


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