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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第二章 王都、暗躍する影
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第26話 王都地下水路 前編

 王都ヴァルエストの朝は、水音から始まる。

 白い石畳の脇を細く流れる水路が、夜明けの光を受けて銀色に揺れていた。橋の欄干には朝露が残り、遠くの広場では噴水が静かに水を吐いている。まだ街全体が目覚めきっていない時間だというのに、王都の水だけは眠らない。


 王城へ続く大通りの一角。

 三階建ての石造りの建物が、朝靄の中に堂々と立っていた。

 王都冒険者ギルド。

 ベルグラード支部とは比べものにならない大きさだ。

 入口の上には、剣と杖、そして天秤を模した紋章が掲げられている。

 剣は力を。

 杖は知恵を。

 天秤は、公正を。

 冒険者ギルドが掲げる理念そのものだと、以前受付で説明を受けた。


 だが、その紋章の本当の意味を知る者は多くない。


     ◇


 同じ朝。

 王都ギルド最上階、支部長室。

 厚い扉に隔てられたその部屋は、一階の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 部屋の主であるグラハム・ヴィルトールは、机の前に立っていた。

 

 灰色の髪を後ろへ撫でつけた、初老の男である。年齢は六十に近い。だが背筋は伸び、肩幅は広く、礼服の内側に隠された身体には、今もなお前線に立てるだけの芯が残っていた。


 元Aランク冒険者。

 今は王都支部長。

 剣を振るう者から、人を送り出す者へ。

 それが、グラハムという男の現在だった。


 机の上には、小さな銀の天秤が置かれている。

 それは王都ギルドの入口に掲げられている紋章と同じ形をしていた。


 片方の皿には黒い石。

 もう片方の皿には何もない。

 にもかかわらず、天秤は空の皿の方へ、かすかに傾いていた。


「……またか」

 グラハムは低く呟いた。

 その瞬間、天秤の中央に嵌め込まれた透明な宝珠が淡く光る。


『王都支部長』

 声が響いた。

 男とも女ともつかない、静かな声だった。


 怒りも、焦りも、喜びもない。

 ただ、測っている。

 世界の重さを。人の動きを。目に見えぬ何かの傾きを。


 グラハムは片膝をついた。


「お待ちしておりました」


『王都の水脈が乱れている』


「下層水路の件でしょうか」


『表に出ているのは一部に過ぎない』


 グラハムの眉がわずかに動く。

 王都地下水路。

 ヴァルエストを水の都たらしめている巨大な地下構造である。

 上層水路は今も管理局の手によって整備され、街の清水や排水、魔導設備の冷却に使われている。


 その下には、旧王都時代の中層水路が残る。

 さらにその下。

 下層水路と呼ばれる領域には、建国以前の遺構が組み込まれていると言われていた。

 地図は不完全。

 記録は散逸。

 誰が作ったのか。

 何のために作られたのか。

 その全てを知る者は、今の王都にはいない。


「行方不明者は五名。清掃作業員が三名。下級冒険者が二名。いずれも下層水路付近で消息を絶っています」


『魔物は』


「上層では水路ラット、スライム、小型の水棲魔物が確認されています。ただ、最近は魔物が上へ逃げてきているとの報告が」


『逃げている、か』

 声が、ほんの少し沈んだ。


『ならば、奥に追うものがいる』


 グラハムは返答しなかった。

 返せる言葉がなかった。


「討伐隊を出しますか」


『早い』


「しかし、犠牲者が出ています」


『水面に石を投げれば、波紋は広がる。今はまだ、波紋を見る時だ』


「……承知しました」


『調査依頼として出せ』


「低ランクにも開示しますか」


『入口付近に限れ。奥へは行かせるな』


「心得ています」


 天秤が、わずかに揺れた。


『もうひとつ』


「はい」


『レグルス・クレハルトという少年がいる』


 グラハムの目が細くなった。


「所属変更の書類で名前を見ました。ベルグラード支部から来たFランク冒険者です」


『過度に触れるな』


「監視は」


『するな。見守れ』


「理由を伺っても?」


『今は必要ない』


 拒絶ではない。

 ただ、それ以上を語る時ではないという声だった。


『忠告だけしておけ』


「何を」


『王都では、己の力を安易に見せるな、と』


 グラハムは静かに頭を下げた。


「承知しました」


『水底で眠るものは、目覚める時を選ばない』

 その言葉を最後に、天秤の光が消えた。

 支部長室に、再び沈黙が戻る。

 グラハムはゆっくりと立ち上がり、机上の銀の天秤を見下ろした。

 黒い石を乗せた皿は軽く。

 何も乗っていない皿は重い。

 あり得ない傾き。


「……王都はいつも、厄介事を水底に沈めたがる」

 

 グラハムは窓の外へ目を向けた。

 朝靄の向こうで、ヴァルエストの水路が美しく輝いている。

 その美しさの下に、何が眠っているのか。

 知る者は少ない。


     ◇


 レグルス・クレハルトは、王都ギルドの扉を押し開けた。


 瞬間、空気が変わった。

 鉄の匂い。革鎧の軋む音。酒場から漂う焼いた肉の香り。

 依頼達成を喜ぶ笑い声。報酬の取り分で揉める怒鳴り声。

 素材を抱えて走る職員。

 依頼掲示板の前で腕を組む冒険者。

 二階へ続く階段を、報告書の束を抱えた男が駆け上がっていく。


 ベルグラード支部も賑わっていた。

 だが、ここは違う。

 規模だけではない。

 流れている情報の量が違う。

 動いている金の量が違う。

 背負っている命の数が違う。

 王都ギルドは、建物というより、一つの街だった。


「何回来ても慣れないな」

 俺は小さく呟く。


『口を開けて立っていないだけ、前よりは成長したわね』


 腰のベルトに収まった本、セレスがすかさず言った。


「それは成長なのか?」


『田舎者感が一段階薄まったという意味では成長よ』


「褒めてるのか、それ」


『さあ?』


 いつもの調子に、俺は肩の力を少し抜いた。

 

 王都ギルドには、すでに一度来ている。

 ベルグラード支部からの所属変更手続きは終わっていた。

 だが、王都支部所属として本格的に依頼を受けるのは今日が初めてだ。

 受付へ向かうと、前回も対応してくれた受付嬢が顔を上げた。


「レグルス・クレハルト様ですね。おはようございます」


「おはようございます」


「所属変更の手続きは完了しております。本日から王都支部所属として依頼を受注できます」


「ありがとうございます」

 

 受付嬢は魔導端末に冒険者カードをかざす。

 淡い光が走り、情報が浮かび上がった。


「現在の冒険者ランクはF。受注可能な依頼は、採取、雑務、軽度の調査、魔物の少ない区域での補助が中心になります」


「分かりました」


「王都支部は依頼数が多い分、区域制限や違約規定が細かく定められています。特に危険区域に関する依頼では、指定範囲を越えた場合、報酬の減額や資格停止になることがありますのでご注意ください」


「資格停止……」


「王都では無茶をする冒険者も多いので」

 受付嬢は苦笑した。


 その笑みには、慣れと疲れが混ざっていた。

 夢を抱いて王都へ来る者は多い。

 名を上げたい者。金を稼ぎたい者。強くなりたい者。誰かを見返したい者。

 だが、王都は夢を叶える場所であると同時に、夢を容赦なく踏み砕く場所でもあるのだろう。


「本日、Fランクで受注可能な依頼はこちらです」

 受付嬢が数枚の依頼票を並べた。


 荷運び。

 倉庫整理。

 薬草の仕分け。

 下町水路の清掃補助。

 魔導灯の点検補助。


 そして、最後の一枚。


「王都地下水路、下層入口付近調査……」

 依頼名を読み上げた。


 報酬は銀貨三十枚。

 Fランク依頼としては高い。

 高いということは、何か理由がある。


「これは?」


「地下水路の調査依頼です。指定された入口付近の破損確認、魔物の痕跡調査、異常があった場合の報告が主な内容になります」


「戦闘は?」


「推奨されません。交戦が必要な場合は最低限に留め、危険と判断した時点で撤退してください」

 受付嬢の声は、先ほどより少しだけ硬い。


「最近、何かあったんですか?」


「下層水路付近で、作業員と冒険者の行方不明が出ています」


 行方不明。

 その言葉が、胸の内側に小さく沈んだ。


『レグルス』

 セレスが小声で呼ぶ。


『この依頼、少し妙ね』


「だよな」


『Fランクでも受けられる調査依頼にしては、注意書きが多すぎるわ』


「でも、入口付近だけなら見ておきたい」


『経験のため?』


「ああ。王都の地下がどうなっているのかも知っておきたい」


 知らない場所。

 知らない魔物。

 知らない危険。

 今の俺に足りないものは、圧倒的に経験だった。

 強くなるには、刀を振るだけでは足りない。

 危険を見極める目。

 引く判断や現場の空気を読む感覚。

 そういうものも、冒険者として必要になる。


「この依頼をお願いします」

 地下水路の依頼票を受付嬢へ差し出した。


 受付嬢は一度、確認するようにレグルスを見た。


「本当に受注されますか?」


「はい」


「指定区域を越えないこと。異常を発見した場合は調査を継続せず帰還すること。水路内では魔導灯を必ず携帯すること。水面の異常、壁面の古い印、未記載の通路を発見した場合は触れずに報告すること」


「分かりました」


 受付嬢が手続きを進めようとした時だった。

 奥の階段から、ひとりの男性職員が降りてきた。

 受付嬢に近づき、何かを耳打ちする。

 受付嬢はわずかに目を見開いたあと、レグルスへ向き直った。


「レグルス様」


「はい?」


「支部長が、少しお話をしたいそうです」


 少し驚きを隠すことができず瞬きをしてしまった。


「支部長が、俺に?」


「はい。長い話ではないとのことです」


 王都支部長。

 この巨大なギルドを束ねる人物。

 Fランク冒険者である俺に、わざわざ話がある。

 普通なら、あり得ない。


『行きなさい』

 セレスが静かに言った。


『断る方が不自然よ』


「分かった」


 受付嬢に案内され、二階へ上がった。

 喧騒が遠のいていく。

 階段を上がるごとに、空気が少しずつ変わっていった。

 一階が冒険者の場所なら、二階から上はギルドを動かす者たちの場所だった。

 

 報告書を運ぶ職員。

 壁に貼られた王都周辺の地図。

 依頼分類の掲示。

 魔導通信室。

 扉の向こうから聞こえる低い会議の声。


 戦う者たちの熱気とは違う。

 ここには、情報を整理し、判断し、誰かを危険な場所へ送り出す者たちの重さがあった。

 最上階の扉の前で、受付嬢が足を止める。


「こちらです」

 扉を軽く叩く。


「入れ」

 低い声が返ってきた。


 その声に従うように俺は支部長室へ入った。


     ◇


 部屋の中は、想像していたほど華美ではなかった。

 高価そうな机。

 古い本棚。

 壁一面の地図。

 いくつもの赤や青の札が刺された王都周辺図。

 棚には分厚い報告書が並び、机の上には処理待ちの書類が山のように積まれている。

 その奥に、灰色の髪の男が座っていた。


 鋭い目。

 だが、威圧するための視線ではない。

 多くの冒険者を見てきた者の目だった。


「レグルス・クレハルトだな」


「はい」


「王都支部長のグラハム・ヴィルトールだ」


 頭を下げた。


「レグルス・クレハルトです」


「楽にしてくれ。呼び出したのはこちらだ」

 グラハムは椅子に背を預ける。


「所属変更の際に名前は確認していた。だが、直接話すのは今日が初めてだな」


「はい」


「ベルグラード支部からの報告も読んでいる。問題を起こしたという意味ではない。地方支部から王都へ移る冒険者の情報は、最低限こちらにも届く」


「そうなんですね」


「王都は人が多い。冒険者も多い。把握しておかなければ、死人が増える」

 淡々とした言葉だった。

 だが、軽い言葉ではない。


「君はまだFランクだ」


「はい」


「だが、実戦経験はある」


「……運が良かっただけです」


 グラハムは少しだけ口元を緩めた。


「運が良かったと言える者は、まだ大丈夫だ。運ではなく実力だと言い始めた若者から死んでいく」


 返す言葉に迷った。

 否定も肯定も、どちらも少し違う気がした。


「地下水路の依頼を受けるそうだな」


「はい。入口付近の調査だけと聞いています」


「ならいい。ひとつだけ言っておく」

 グラハムの声が低くなった。


「王都の地下では、見慣れないものを見つけても触れるな」


 背筋が、自然と伸びた。


「古い印、壊れた壁、地図にない通路、水面の異常。そういうものを見つけたら、記録だけして戻れ」


「何かあるんですか?」


「何かあるかもしれないから、調査依頼を出している」


 答えになっているようで、全てを答えていない。

 俺にも、それは分かった。


「それと、もうひとつ」

 グラハムの視線が、一瞬だけレグルスの腰へ向いた。

 セレスが収まっている場所だ。


 だが、何も聞かない。


「王都では、目立ちすぎるな」


「俺が、ですか?」


「ああ」


「俺はFランクですよ」


「ランクは目安だ。人の全てではない」

 グラハムの声は穏やかだった。


 だからこそ、重い。


「王都には、強い者を見る目を持つ者がいる。金になるものを嗅ぎ分ける者がいる。珍しいものを欲しがる者がいる。自分の価値を知らない者ほど、食い物にされやすい」


 俺は無意識に、セレスの背表紙へ指を触れそうになった。

 だが、やめた。


「忠告、ありがとうございます」


「説教臭くなったな」


「いえ」


「若い冒険者が死ぬのを見るのは、もう飽きた。それだけだ」


 その言葉だけは、支部長ではなく、かつて冒険者だった男の本音に聞こえた。

 グラハムは机の引き出しから、水色の線が刻まれた木札を取り出した。


「下層入口の一時通行札だ。入口にいるギルド職員に見せろ」


「ありがとうございます」


「指定区域を越えるな。危険だと思ったら戻れ。依頼の達成より、生きて帰る方を優先しろ」


「はい」


「行ってこい」


 俺はもう一度頭を下げ、支部長室を出た。


     ◇


 階段を下りながら、セレスが小さく言った。


『あの男、何か知っているわね』


「だろうな」


『でも、悪意はなかった』


「俺もそう思う」


『だから厄介なのよ。善意で隠される情報ほど、後から足を取られることがある』


「分かってる」


 俺は手の中の通行札を見下ろした。

 水色の線が、木札の表面を細く走っている。

 まるで小さな水路のようだった。


「無茶はしない。危なそうなら戻る」


『その言葉、ちゃんと覚えておきなさい』


「信用ないな」


『前科があるもの』


「……否定できない」


 ギルドの一階へ戻ると、喧騒が一気に押し寄せてきた。

 冒険者たちは笑い、怒鳴り、飲み、依頼票を奪い合うように眺めている。

 そこにはいつも通りの王都ギルドがあった。

 誰も、地下の異変など知らない。

 知らないまま、今日も街は動いている。


 受付で正式に依頼を受注し、魔導灯と簡易地図を受け取った。

 地図には赤い線で進行可能区域が示されている。

 その先は、何も描かれていなかった。


「地図の外、か」


『物語なら胸が躍るところだけど、現実ならだいたい碌でもない場所よ』


「分かってる」


 俺は受け取った地図を折り畳み、ギルドの外へ出た。

 王都ヴァルエストの空は青い。

 地上の水路は朝日に輝き、街路樹の葉が風に揺れている。


 美しい街だった。

 水の都。

 人々が憧れる王国の中心。

 だが、その足元には、誰も見たがらない暗がりがある。

 俺は腰の刀を確かめ、地下水路の入口へ向かって歩き出した。

 地上の水音が、どこか遠くで笑っているように聞こえた。


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