表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者:
第二章 王都、暗躍する影
PR
25/38

第25話 水都ヴァルエスト 後編

 ノヴァ・アカデミアの門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 王都ヴァルエストそのものが水と光の都だとすれば、この学園はその中心に置かれた巨大な魔導炉のようだった。

 見上げるほど高い城壁があるわけではない。

 圧迫するような塔が乱立しているわけでもない。

 それでも、ここには明確な境界があった。

 外の街とは違う。

 知識と魔力と才能が、丁寧に磨かれ、選別され、積み上げられていく場所。

 石畳の通路の両側には浅い水路が流れ、その水面には空と建物が映っている。白い石壁と深い木の梁。低く伸びる屋根。大きく取られた窓。建物は地形を押し潰すのではなく、まるで大地と相談しながら置かれたように広がっていた。


 正面の校舎は、横へ長く伸びている。

 その奥に中庭があり、さらに奥には実技場らしき円形の建造物が見えた。水路は校舎の足元を縫うように巡り、ところどころで小さな滝になって池へ落ちている。

 魔力の流れを感じる。

 水に混ざり、石に染み、建物の骨組みを通っている。

 ここ全体が、ひとつの巨大な術式なのだ。


『見事ね』

 セレスが低く呟いた。


『建物というより、魔力を制御するための器。美観と機能がきちんと噛み合っている』


「王都の学園っていうから、もっと偉そうな建物だと思ってた」


『十分に偉そうではあるわね。ただ、力を見せびらかす形ではない。余裕がある者の建築よ』


「嫌な言い方なのに、納得できるな」

 ミリアが少し前を歩きながら、こちらを振り返った。


「レグルスさん、受付はこちらです」


「ああ、助かる」


 学園の正面棟に入ると、中は外観以上に広かった。

 天井は高く、光を取り込むための窓が多い。壁には歴代の学園長らしき肖像画や、魔術式の模型が飾られている。廊下の床には磨かれた石が敷かれ、歩くたびに靴音が薄く反響した。

 行き交う生徒たちは、俺をちらりと見る。

 制服を着ていない。

 腰に刀を差している。

 喋る本をぶら下げている。

 まあ、見られないほうがおかしい。


「……目立ってるな」


『安心しなさい。半分はあなたではなく私を見ている』


「余計に嫌だ」


「でも、すごいですよ。自律会話する魔導書なんて、学園でもほとんど見ませんから」

 ミリアが小声で言う。


『ほとんど、か。ゼロではないのね』


「古代魔導文明の遺物として記録だけはあります。でも、実物は王立研究庫か、貴族家の秘蔵品くらいで……」


「セレス、頼むから学園に収蔵されるような真似はするなよ」


『私を展示物扱いするとは失礼ね。せめて特別展示にしてもらいたいわ』


「そこじゃない」

 そんなやり取りをしながら受付に向かう。


 学園受付は、ギルドとはまるで違う空気だった。冒険者ギルドが人の熱で煮立つ鍋なら、ここは磨かれた硝子瓶の中に整然と並べられた薬液だ。

 静かで、規則正しい。

 受付にいた職員へ姉の名を告げると、相手はすぐに確認を始めた。


「アリシア・クレハルト様とのご面会ですね。事前申請はございますか?」


「いえ。王都に着いたばかりで」


「ご家族の方でしたら、身分確認後に伝令を出せます。ギルド証か身分証をお願いします」


 俺はギルド証を差し出した。

 職員は魔導具で確認し、わずかに眉を動かした。


「ベルグラード支部から、本日付で王都支部へ所属変更済み……確認いたしました。少々お待ちください」

 職員が奥へ下がる。

 その間、ミリアは授業があるらしく、俺に深く頭を下げた。


「それでは、私は講義に行きます。本当にありがとうございました」


「ああ。資料、もう落とすなよ」


「はい!」

 ミリアは笑って廊下を駆けていき、途中で職員に注意されて慌てて歩幅を小さくした。


 少し笑ってしまう。

 その背中を見送っていると、セレスが小さく言った。


『彼女は悪くないわね』


「分かるのか?」


『少なくとも、今のところはね。好奇心は強いが、悪意は薄い』


「今のところ、か」


『ここは王都よ。断定は毒になるわ』


 俺は受付横の椅子に座った。

 窓の外では、学園生たちが中庭を横切っている。魔術書を抱えた者。杖を持つ者。剣を腰に下げた者。貴族らしい取り巻きを連れた者もいれば、一人で黙々と歩く者もいた。


 才能の集まる場所。

 姉は、この中で評価されている。

 そう考えると、胸の奥が妙にざらついた。

 嬉しいし誇らしい。

 それは嘘ではない。

 だが、それだけではない。

 俺はずっと、家の中で比べられてきた。

 兄は騎士剣。

 姉は魔法と剣。

 父は刀と騎士剣の両方を扱える。

 祖父は刀だけで達人の域にいる。

 その中で、俺は何者でもなかった。

 刀にしがみつき、空回りし、弱いまま足掻いていた。


 今は違う。

 獅子宮と契約、そして第一階層を越えた。

 ステータス板には、確かに成長の証が刻まれている。

 それでも、姉に会うとなると、昔の自分が顔を出す。

 笑いながら近づいてきて、耳元で囁くのだ。

 お前は本当に変わったのか、と。


『レグルス』


「なんだ」


『手が強く握られている』

 

 言われて、俺は自分の手を見た。

 拳を握りしめていた。

 指を開く。


「……緊張してるだけだ」


『そうだね』


「否定しないんだな」


『緊張は悪ではないわ。逃げずに立っている証拠でもあるのよ』

 セレスの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 その時、廊下の向こうがざわめいた。

 数人の生徒が足を止める。

 誰かが小さく名前を呼んだ。

 アリシア様、と。


 俺は顔を上げた。

 白と紺を基調にした学園制服。

 長い髪が光を受けて揺れている。

 凛とした立ち姿。

 真っ直ぐな歩き方。

 俺が覚えているより少し大人びていて、それでも、間違えようがない。

 姉だった。


 アリシア・クレハルト。


「レグルス」

 姉は俺を見ると、一瞬だけ目を見開いた。

 次の瞬間、周囲の視線も気にせず、早足でこちらへ来る。


「本当にレグルスなのね」


「……久しぶり、姉さん」

 言葉を選ぼうとした。

 もっと自然に。

 もっと平気そうに。

 けれど、出てきたのはそれだけだった。


 姉は俺の前で立ち止まり、じっと顔を見る。

 怒られるのかと思った。

 連絡が遅いとか、無茶をしたとか、王都に来るなら先に知らせろとか。

 だが、姉は何も言わず、俺の両肩に手を置いた。


「背、伸びた?」


「たぶん少しは」


「顔つきも変わったわ」


「そうかな」


「変わった。少しだけ、父様に似てきた」

 

 その言葉に、俺は返事が遅れた。

 父に似てきた。

 昔なら、褒め言葉として受け取れなかったかもしれない。

 でも今は、不思議と嫌ではなかった。

 姉はふっと笑う。


「元気そうでよかった」


「姉さんも」


「私は元気よ。見ての通り、学園にこき使われているけど」


 姉が軽く肩をすくめる。

 その仕草は昔と同じで、俺は少しだけ緊張が解けた。

 周囲の生徒たちは、こちらを興味津々に見ている。

 アリシア・クレハルトの弟。

 その肩書きが俺に貼りつく気配を感じた。


「場所を変えましょう。ここだと見世物になるわ」


「助かる」


 姉は受付に一言告げ、俺を中庭へ案内した。

 学園の中庭は広かった。

 中央に浅い池があり、水面には小さな魔導灯が浮いている。昼間だから光ってはいないが、夜になれば星のように灯るのだろう。池の周囲には木製の回廊が巡り、椅子や机がいくつも置かれている。

 姉は人目の少ない場所を選んで座った。

 俺も向かいに座る。

 セレスは腰で黙っていた。

 珍しい。

 いや、気を遣っているのかもしれない。


「それで」

 姉がこちらを見る。


「どうして王都に?」


「いくつか理由がある。ギルドの所属変更。学園の情報収集。それと、姉さんに会うため」


「最後を最初に言いなさい」


「……悪かった」


 姉は小さく笑った。


「でも、来てくれて嬉しい」

 真っ直ぐに言われ、俺は少し目を逸らした。


「父さんたちは?」


「相変わらずよ。父様は訓練、祖父様も訓練、兄様も訓練。クレハルト家は訓練という言葉で家が建っているようなものね」


「否定できないな」


「あなたのことも気にしていたわ」


「兄さんも?」


「ええ。口では色々言うけれど」


「それは意外だ」


「あなたたちは昔から噛み合わないだけ。似ているところもあるのに」


「やめてくれ。兄さんに似てるって言われると複雑だ」


 姉が楽しそうに笑った。

 その笑顔を見て、俺は少し胸が軽くなる。

 姉は変わっていない。

 遠くへ行ったように思えていたけれど、目の前にいる姉は、俺の知っている姉でもあった。


「それで、レグルス」

 姉の表情が少し真剣になる。


「あなた、何があったの?」


 俺は息を止めた。


「どういう意味?」


「魔力の流れが変わっている。前に会った時とは別人みたい。身体の使い方も、座り方も、視線の置き方も違う」


「……分かるのか」


「分かるわ。私はあなたの姉よ」

 姉は静かに言った。


「それに、私は魔術師でもある。今のあなたは、ただ訓練しただけの変化じゃない」


 隠し通せない。

 そう悟った。

 とはいえ、すべてを話すわけにもいかない。

 黄道十二宮システムと獅子宮、セレスそして未踏領域。

 どれも簡単に口にしていいものではない、特に未踏領域については....


『私のことは、ある程度話してもいいわよ』

 セレスが小声で言う。


 姉の視線がすぐに腰の本へ向いた。


「その本……喋るのね」


『初めまして、アリシア嬢。私はセレス。あなたの弟の知性を補う、極めて重要な存在よ』


「おい」


 姉は目を瞬かせ、それから口元に手を当てて笑った。


「面白い本ね」


『理解のある姉君で何より』


「レグルス。この本、どこで拾ったの?」


「拾ったというか……色々あった」


「色々?」


「本当に色々だ」


 姉は俺をじっと見る。

 ごまかし切れる相手ではない、だが、姉は追及しなかった。


「危ないものではないのね?」


「たぶん」


『そこは断言しなさい』


「危ないものではない。少なくとも、俺の敵じゃない」


 セレスが満足げに沈黙する。

 姉は少しだけ考えたあと、静かに頷いた。


「分かった。今はそれでいいわ」


「聞かないのか?」


「聞きたいわよ。でも、あなたが言えない顔をしている」


「……悪い」


「謝らなくていい。レグルスが自分で抱えると決めたものなら、無理には奪わない」


 姉の言葉は優しかった。

 優しいからこそ、刺さった。

 昔からそうだ。

 姉は何でもできるだけではない。

 人の弱さに気づいて、それを踏まないようにする。

 それが、時々苦しかった。


「ただし」

 姉は指を一本立てる。


「本当に危なくなったら言いなさい。弟が黙って消えたら、私は家中を敵に回してでも探すわ」


「大げさだな」


「大げさじゃない。あなた、自分の価値を軽く見すぎる癖があるもの」

 

 俺は返す言葉に詰まった。

 姉はそんな俺を見て、少しだけ目を細める。


「少しは強くなった?」


「少しは」


「じゃあ、見せてもらおうかしら」


「姉さん相手に?」


「ええ。軽く手合わせ」


「軽くで済む気がしない」


「大丈夫よ。殺しはしないわ」


「王都に来て早々、姉に殺されかけるのは嫌なんだけど」


 姉は涼しい顔で笑った。

 冗談に聞こえる。

 半分くらいは。

 会話が途切れた時、遠くで鐘が鳴った。

 午前講義の終わりを知らせる鐘らしい。中庭に生徒たちが増え始める。

 姉は周囲を見て、少し声を落とした。


「レグルス。王都では気をつけなさい」


「何に?」


「全部に」


「範囲が広すぎる」


「本当に全部なの。王都は綺麗だけれど、綺麗な場所ほど人の欲が沈んでいる。貴族、商会、騎士団、学園、研究室。どこにも思惑がある」


 俺は今朝、セレスが言っていた言葉を思い出した。

 欲望も集まる。

 まさにその通りなのだろう。


「最近、学園で何か起きてるのか?」


 姉の表情がわずかに動いた。


「どうして?」


「ギルドで聞いた。旧水門の魔物依頼が増えている。学園の式典が近くて騎士団が忙しいとも」


「耳が早いわね」


「王都に来て初日だけどな」


「初日でそれを拾うなら上出来よ」

 姉は少し考えてから言った。


「大きな問題として公表されているわけではない。でも、最近は妙なことが多い。下層水路の魔物増加。学園生の失踪未遂。研究資料の紛失。貴族家同士の小競り合い。そして……」


「そして?」


「学園に新しく来た教師がいる」


 俺は、門で会った女性を思い出した。

 銀縁の眼鏡。

 薄い青の瞳。

 リゼル先生。


「リゼル先生か?」


 姉の目が細くなる。


「もう会ったの?」


「ああ。門のところで。ミリアって生徒を案内してもらった時に」


「そう」


「何かあるのか?」


「まだ分からないわ」

 姉は慎重に言葉を選んでいた。


「リゼル・オルフェリア先生。最近、王都外の研究院から赴任してきた魔術理論の教師よ。年齢は若いけれど、論文の評価は高い。授業も分かりやすいと評判」


「問題なさそうに聞こえる」


「表向きはね」


「姉さんは疑ってるのか?」


「疑っているというより、引っかかっている」


「何が?」


「彼女の魔力が、時々見えなくなる」


 俺は眉をひそめた。


「魔力が見えなくなる?」


「普通、魔術師の魔力には癖がある。流れ方、色、圧、揺らぎ。完全に隠すのは難しい。でもリゼル先生は、ふとした瞬間に魔力の輪郭が消えるの」


『隠蔽系の魔導具か、あるいは契約物だね』


 セレスが言う。

 姉はセレスを見た。


「契約物?」


『可能性の話よ』


「セレス」

 俺は短く制した。

 

 セレスはそれ以上言わなかった。

 姉は俺とセレスを交互に見たが、やはり追及しない。

 その代わり、静かに言った。


「あなたも気になったのね」


「……少しだけ」


「なら、近づきすぎないで」


「それは無理かもしれない」


「どうして?」


「たぶん、向こうが俺を見た」


 姉の表情が変わった。

 それは、優しい姉の顔ではなかった。

 学園で評価される魔術師。

 剣を持てば騎士にも並ぶ、クレハルト家の娘の顔だった。


「詳しく話して」


 俺は門での出来事を話した。

 リゼル先生が、俺の名にわずかに反応したこと。

 セレスが眼鏡に違和感を覚えたこと。

 薄い青の瞳の奥で、何かが揺れたように見えたこと。

 姉は黙って聞いていた。

 最後まで聞くと、低く息を吐く。


「やっぱり、ただの教師ではないかもしれないわね」


「姉さんは何か調べているのか?」


「少しだけ。けれど、学園内で教師を疑うのは簡単じゃない。証拠もないのに動けば、こちらが問題になる」


「王都は面倒だな」


「ええ。本当に面倒よ」

 姉は苦笑した。


 その時、背後から声がした。


「アリシアさん」


 振り向くと、そこにはリゼル先生が立っていた。

 いつの間に近づいたのか。

 足音がほとんどしなかった。

 姉がすぐに表情を整える。


「リゼル先生」


「ご歓談中に失礼します。午後の実技補助について、確認したいことがありまして」


「分かりました。すぐに伺います」


 リゼル先生の視線が、俺へ向いた。


「レグルスさんも、まだいらしたのですね」


「姉と話していました」


「仲がよろしいのですね。羨ましいことです」

 柔らかい声。

 穏やかな笑み。

 だが、俺の背筋はまた冷えた。

 この人の言葉は、表面だけが温かい。

 その下に何があるのか、見えない。


「王都は初めてですか?」


「はい」


「では、慣れるまでは大変でしょう。特にこの街は、水路が入り組んでいますから」


「迷わないように気をつけます」


「ええ。迷うと、思わぬ場所へ出てしまうことがあります」


 その言葉に、妙な重さがあった。

 単なる忠告。

 そう受け取ることもできる。

 けれど、俺にはそう聞こえなかった。


『レグルス』

 セレスが警告するように名を呼ぶ。

 リゼル先生は、ゆっくりとセレスへ視線を移した。


「本当に不思議な本ですね」


『あなたの眼鏡ほどではないさ』


 空気が止まった。

 ほんの一瞬。

 水音も、風も、遠くの生徒の声も、全部が薄くなったように感じた。

 リゼル先生の笑みは崩れない。

 だが、眼鏡の奥の瞳が、薄い青からほんのわずかに濃く沈んだ。


「……眼鏡、ですか?」


『ああ。良い品だ。とてもよく隠している』


「セレス」

 俺は低く言った。


 リゼル先生は微笑んだまま、眼鏡の縁に指を添えた。


「古い知人から譲られたものです。目が弱いので、助かっているんですよ」


「そうですか」

 姉が静かに答える。

 その声には、わずかな硬さが混じっていた。


「それでは、アリシアさん。後ほど」


「はい」


 リゼル先生は背を向けた。

 去っていく姿は、やはり静かで、乱れがない。

 だが俺は見た。

 彼女が振り返る直前。

 眼鏡の奥で、一瞬だけ赤い光が揺れた。

 血のように濃い赤。

 蠍の尾の先に灯る毒の色。

 俺は無意識に刀の柄へ手を伸ばしかけた。

 姉の手が、それを止める。


「ここでは駄目」

 小さな声だった。


「分かってる」


「今の、見た?」


「ああ」


 姉は唇を引き結んだ。


「私の見間違いじゃなかったのね」


 リゼル先生の姿が廊下の奥へ消える。

 その瞬間、セレスが重く言った。


『確定ではない。だが、限りなく近いわね』


「何が?」


『十二宮契約物だ』


 姉が息を呑む。

 俺はセレスを見下ろした。


『あの眼鏡は、ただの魔導具ではない。隠蔽、認識操作、魔力偽装。そして、おそらく視線を媒介にした干渉能力を持つ』


「どの宮だ?」


 セレスは短く沈黙した。

 そして告げた。


『蠍宮』


 水音が耳に残った。

 蠍宮。

 獅子宮以外の十二宮。

 セレスが以前言っていた。

 十二宮の契約者すべてが善良とは限らない。

 むしろ、半数ほどは世界など関係なく、自分の欲望のままに生きている可能性があると。

 そのひとつが、今この学園にいる。

 教師という顔をして。

 姉の近くに。

 王都の中心に。


「レグルス」

 姉が俺を見る。


「今の話、説明してもらえる?」

 もう、ごまかすことはできなかった。

 俺は深く息を吐いた。


「全部は話せない。でも、話せるところまで話す」

 

 姉は静かに頷いた。

 俺は黄道十二宮システムのことを、可能な範囲で話した。

 セレスと契約したこと。

 獅子宮という場所に入ったこと。

 第一階層で訓練を受けたこと。

 研鑽を積めばそれに応じてレベルが上がること魔力による身体強化と風魔法を習得したこと。

 そして、十二宮には他にも契約物が存在すること。


 だか、未踏領域の称号については、詳しくは話さなかった。

 あれはまだ、自分でも飲み込めていない。

 姉は途中で口を挟まなかった。

 ただ、真剣に聞いていた。

 すべてを聞き終えると、姉は額に手を当てた。


「……あなた、本当にとんでもないものに関わったのね」


「俺もそう思う」


『正確には、関わるべくして関わったのよ』


「セレス、今は黙っててくれ」


『分かったわ』


 姉はしばらく考え込んだ。

 そして、顔を上げる。


「この件は、すぐに誰かへ話すべきではないわ」


「俺もそう思う」


「学園にも王城にも、どこに誰の手が入っているか分からない。リゼル先生が本当に蠍宮の契約者なら、彼女が一人で動いているとは限らない」


「いや」

 俺は首を振った。


「たぶん、王都で暗躍している奴ら全員が真相を知っているわけじゃない」


「どうしてそう思うの?」


「リゼル先生の反応だ。俺の名前に反応したけど、周囲は何も知らない顔だった。ギルドでも旧水門の件は噂程度。たぶん、実際に動いている連中は言われるがままに動いているだけだ」


『同感だね。契約物の探索、あるいは十二宮に関する目的を把握しているのは、彼女自身だけの可能性が高い』


 姉は頷いた。


「なら、なおさら危険ね。駒にされている者は、自分が何をしているか分からない。止める側からすると厄介よ」


「旧水門、学園の式典、失踪未遂、研究資料の紛失。全部が繋がっていると思うか?」


「分からない。でも、別々に見せているだけかもしれない」

 姉の目が鋭くなる。


「レグルス。しばらく王都にいるのよね?」


「ああ」


「なら、表向きは普通に過ごしなさい。ギルドの依頼を受けるなら、下層水路や旧水門に関わるものは慎重に。学園には私を通して入ること。単独でリゼル先生に近づかない」


「姉さんは?」


「私は学園内から調べる。でも無茶はしない」


「本当か?」


「あなたに言われたくないわ」

 

 互いに顔を見合わせ、少しだけ笑った。

 笑えたことに、俺は救われた。

 状況は悪い。

 けれど、一人ではない。

 姉がいる。

 セレスがいる。

 それだけで、王都の景色が少し変わって見えた。


「午後、時間はある?」

 姉が尋ねた。


「ギルドで依頼を見るくらいだ」


「なら、実技場に来なさい」


「手合わせか?」


「ええ。あなたの今を見ておきたい」


「……分かった」


「大丈夫。殺しはしないから」


「だから、それを言うな」


 姉は楽しそうに笑った。

 だが、その目の奥には心配があった。

 俺も分かっている。

 姉は俺の力を見たいだけではない。

 今の俺が、どれだけ危険に踏み込める状態なのか。

 それを確かめるつもりなのだ。


 中庭の水面が揺れる。

 風が吹いた。

 水面に映った校舎が歪み、白い壁と青い空が混ざり合う。

 その奥に、一瞬だけ、赤い光が沈んでいるように見えた。


     ◇


 同じ頃。

 ノヴァ・アカデミア北棟の一室で、リゼル・オルフェリアは窓辺に立っていた。

 部屋は教師用の個室としては広い。

 書棚には魔術理論の本が並び、机の上には授業資料が整然と置かれている。窓の外には学園の中庭が見えた。

 そこに、アリシアとレグルスの姿がある。

 リゼルは眼鏡の縁に指を添えた。

 薄い青に見える瞳の奥で、赤い光が静かに揺れる。


「獅子宮……」

 

 小さな呟き。

 誰に聞かせるためでもない声。

 彼女の眼鏡の蔓に、蠍の尾にも似た細い紋様が浮かび上がった。

 十二宮契約物。

 蠍宮。

 その力は、牙ではない。

 爪でもない。

 毒だ。

 見えない場所から染み込み、気づいた時には思考の底に沈んでいる。

 リゼルは微笑んだ。


「まさか、向こうから来てくれるなんて」

 

 机の上には、王都の地図が広げられている。

 旧水門。

 下層水路。

 ノヴァ・アカデミア。

 王城へ続く地下水脈。

 いくつもの場所に、小さな印が記されていた。

 その隣には、数名の名簿。

 商会の男。下級貴族の子息。水路管理官。学園の研究補助員。

 彼らは何も知らない。

 リゼルが何を探しているのかも。

 十二宮の契約物が何なのかも。

 ただ、それぞれの欲に針を刺され、少しずつ動かされているだけだ。


 金が欲しい者。

 地位が欲しい者。

 認められたい者。

 復讐したい者。

 欲望とは扱いやすい糸である。


 強く引けば切れる。

 だが、優しく絡めれば、人は自分の意思で歩いていると思い込む。


「獅子は、まっすぐすぎる」

 リゼルは窓の向こうのレグルスを見る。


「だからこそ、毒が回ると美しい」

 その声には、教師としての柔らかさはなかった。


 あるのは、静かな愉悦。

 世界を救うためではない。

 王国を守るためでもない。

 ただ、自分が見たいものを見るため。

 自分が欲しいものを得るため。

 そのために、リゼルはここにいる。


 十二宮の契約者の中には、そういう者がいる。

 世界の理など知ったことではない。

 己の欲望だけを星に掲げる者が。

 リゼルは眼鏡を外した。

 その瞬間、薄い青だった瞳が、鮮やかな赤へ変わる。

 赤い瞳孔の奥で、蠍の紋章が一瞬だけ浮かんだ。


「さて」


 彼女は机の上の名簿から、一枚の紙を手に取る。

 そこには、次の実技補助に参加する生徒の名が並んでいた。

 その中に、アリシア・クレハルトの名もある。

 リゼルは細い指で、その名前をなぞった。


「まずは、お姉様からかしら」

 

 窓の外で、鐘が鳴る。

 澄んだ音が、学園全体に広がっていく。

 リゼルは再び眼鏡をかけた。

 赤い瞳は、淡い青に戻る。

 完璧な教師の笑みが、唇に浮かんだ。


     ◇


 午後。

 実技場に向かう途中、俺は妙な胸騒ぎを覚えていた。

 理由は分からない。

 ただ、王都に来てからずっと、水の底に沈んだ鐘が鳴っているような感覚がある。

 見えない。

 けれど、響いている。


『レグルス』


「なんだ」


『ここから先、あなたはおそらく巻き込まれるわ』


「やっぱりそうなるか」


『あなたが望むかどうかに関係なくね』


「分かってる」

 

 俺は腰の刀に触れた。

 獅子宮で覚えた感覚を思い出す。

 突く。弾く。叩く。そして切る。

 魔力を巡らせ、身体を強化する。

 風を読む。

 まだ弱い。まだ足りない。

 姉にも、リゼルにも、王都にも、今の俺では届かないものが多すぎる。

 それでも。

 俺はもう、何も知らない弱者ではない。

 前へ進むための一歩なら、踏み出せる。

 実技場の扉が見えてきた。


 その前で、姉が待っていた。

 手には訓練用の騎士剣。

 凛とした立ち姿で、俺を見る。


「準備はいい?」


「軽くなんだよな?」


「もちろん」


 姉は微笑んだ。


「私にとっては」


「最悪だ」

 俺は姉に用意するように頼んでいた訓練用の刀を受け取り、鞘から抜いた。


 刃は潰されている。

 だが、重さは本物に近い。

 姉が剣を構える。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 優しい姉はいない。

 そこにいるのは、ノヴァ・アカデミアで名を知られる剣士であり魔術師。

 アリシア・クレハルト。


 俺は息を吐き、刀を構える。

 魔力を脚へ。腕へ。背へ。

 風が足元を撫でる。

 姉の目が細くなった。


「本当に変わったのね」


「まだ少しだけだ」


「なら、見せて」

 次の瞬間、姉が踏み込んだ。


 速い。

 視界から消えたわけではない。

 だが、動き出しが滑らかすぎる。

 剣が右から来る。

 俺は刀を合わせた。


 弾く。


 金属音が実技場に響いた。


 重い。

 

 訓練用の剣なのに、腕の骨まで響く。

 だが、受けられた。

 以前の俺なら、初撃で姿勢を崩していた。

 姉の目がわずかに見開かれる。


「へえ」


「余裕そうだな」


「嬉しいのよ」

 姉が笑う。


 そして、次の剣が来た。

 斬り下ろし。

 横薙ぎ。突き。返し。


 俺は必死に弾く。

 受けるのではなく、逸らす。

 力で止めれば負ける。

 獅子宮で錆びた刀を握り続けた時の感覚を思い出す。

 切れないなら、弾け。

 届かないなら、突け。

 崩せないなら、叩け。

 魔力を身体に巡らせる。

 風を足元に薄く流す。

 

 姉の剣が喉元へ伸びた。

 俺は半歩ずらし、刀の峰で弾く。

 そのまま踏み込み、突きを返した。

 姉は剣の腹で受けた。

 軽く受けたように見えた。

 だが、姉の足が一歩だけ後ろへ下がる。


 実技場の空気が、ぴんと張った。

 見学していた数人の生徒が息を呑む。

 姉が、笑った。


「いい突き」


「どうも」


「でも、まだ素直すぎる」

 姉の左手が動いた。

 魔術式が一瞬で組まれる。

 淡い青の光が、実技場の天井近くに散った。


「水の粒子よ、重なり合う水は暗転し、大気を震わせる奔流となれ」


 空気が湿った。

 肌に触れる風が、重くなる。

 次の瞬間、姉の頭上に無数の水滴が生まれた。

 いや、水滴ではない。

 ひとつひとつが圧縮され、魔力で固められた水の弾丸。


叢時雨プルイト・ウェヘメンテル

 

 姉の声が、静かに落ちる。

 降った。雨ではない。

 水の弾丸が、実技場の一角を埋め尽くすように降り注いだ。


「っ!」

 俺は反射的に後ろへ跳ぶ。

 魔力を脚へ流し、風を足元に巻く。

 だが、逃げ場がない。

 水弾はただ真っ直ぐ落ちるのではなく、姉の剣筋に合わせるように角度を変え、俺の退路を潰してくる。


 床に叩きつけられた水が破裂し、白い飛沫が視界を塞いだ。

 一発一発が重い。

 当たれば骨まではいかずとも、体勢は確実に崩される。

 

 俺は刀を立てた。

 弾く。

 ひとつ。ふたつ。みっつ。

 水弾を刀の峰で逸らし、風魔法で軌道をずらす。

 だが、数が多すぎる。

 弾いた水が霧になり、霧の向こうから姉の剣が伸びてきた。


「見えてる?」


「見えにくい!」


「なら、感じなさい」

 

 無茶を言う。

 だが、姉は本気で言っている。

 俺は目に頼るのをやめた。

 水の音。風の乱れ。魔力の濃淡。

 獅子宮で叩き込まれた感覚を、無理やり引きずり出す。


 右。上。左斜め。

 水弾を弾き、半歩踏み込む。

 姉の剣が喉元へ伸びた。

 俺は刀でそれを逸らし、そのまま突きを返す。

 だが、足元で水が跳ねた。

 床に広がった水が、小さな渦を作って俺の踏み込みをずらす。


「しまっ……」


 体勢が崩れた瞬間、姉の剣先が俺の首元で止まった。

 同時に、降り注いでいた水弾が霧となって消える。

 実技場には、水の匂いと、細かな飛沫だけが残った。


「ここまで」

 姉は剣を下ろした。


 俺は肩で息をしながら、濡れた前髪をかき上げる。


「……こんな魔法を軽い手合わせで使うなよ」


「殺傷力はかなり落としたわ」


「そういう問題じゃない」


「でも、よく反応した。叢時雨を初見で三割以上捌けるなら、かなり上出来よ」


「残り七割で死ぬんだけど」


「死なないように調整したもの」

 

 姉は涼しい顔でそう言った。

 やっぱりこの人は、俺の姉だった。


「魔力による身体強化はまだ粗い。でも、流れは悪くない。風の扱いも初級にしては実戦的。刀の使い方は……前よりずっと良くなった」


「前がひどすぎただけじゃないか?」


「それもあるわね」


「否定してくれ」


 姉は笑った。

 その笑いに、実技場の空気が少し和らぐ。

 だが、俺は気づいていた。

 観客席の上。

 一瞬だけ、薄い青の瞳がこちらを見ていた。

 リゼル先生。

 彼女はすぐに背を向け、姿を消した。

 俺は刀を下ろす。

 姉も同じ方向を見ていた。


「見られていたわね」


「ああ」


「レグルス」


「分かってる」

 俺は汗を拭い、息を整えた。


 リゼルは俺を見た。

 俺の力を見た。

 獅子宮の契約者としての片鱗を。

 これは、ただの再会では終わらない。


 王都ヴァルエスト。

 水の都。

 白亜の王城。

 ノヴァ・アカデミア。

 その美しい水面の下で、蠍の毒が静かに広がり始めている。

 そして俺は、その毒の匂いを知ってしまった。

 ならば、もう目を逸らせない。

 たとえ今はまだ弱くても。

 刀を握る手に、力を込める。

 俺は進む。

 星すら斬るまで。

 そのための次の一歩は、この王都の水底に沈んでいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ