第24話 水都ヴァルエスト 前編
朝の光が、薄い紗のカーテンを通して部屋の中へ流れ込んでいた。
ベルグラードの宿とは違う。
壁は白く、窓枠には細い銀の装飾が施され、床には淡い木目の板が敷かれている。部屋に置かれた机も椅子も質がよく、派手ではないが、どこか静かな品があった。
王都ヴァルエスト。
昨日、長い馬車旅の果てに辿り着いた王国の中心。
その朝を、俺は見知らぬ天井を眺めながら迎えていた。
「……寝た気がしない」
『それだけ昨日は情報が多かったということね。』
腰のベルトに収まった本――セレスが、いつもの調子で声を響かせる。
俺は寝台から身を起こし、軽く肩を回した。
身体に重さはない。むしろ、妙に軽い。獅子宮第一階層を抜けてから、身体の動かし方が少しずつ変わっている。筋力が増えた、という単純な話ではない。
動きの無駄が削られている。
歩く。座る。息を吸う。手を握る。
そういう当たり前の動作が、以前よりずっと静かに、そして正確になっていた。
「セレス」
『なにかな』
「確認しておく」
『ステータス板ね』
俺は小さく息を吐き、意識を内側へ向けてみる、すると、視界の端に薄い光が灯った。
透明な板が、音もなく俺の前に現れる。
何度見ても慣れない。
だが、今の俺にとっては、この板こそが自分の現在地を示す地図だった。
――ステータス板。
そこには、昨日までに確認した内容が並んでいる。
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レグルス・クレハルト
黄道十二宮契約者 獅子宮適合者
レベル14
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固有能力
【未踏領域】 いずれ人の世を外れる存在と為る
称号
【ネメアの獅子】《獅子の誇り》
・身体最適化効率上昇・恐怖耐性上昇・威圧耐性上昇
契約 獅子宮第一階層踏破
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基本行為
切る Lv5 突く Lv5 叩く Lv3 弾く Lv4
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努力蓄積18,935
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派生技
斬る 袈裟吼絶
突く 獅牙突
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習得魔法
風魔法初級
生活魔法初級
魔力操作初級(身体強化)
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「……突くと弾くが上がっているのは、やっぱり昨日の戦闘の影響か」
『たとえあなたを殺そうとしてきても、こっちは簡単に人を刀で斬り殺すことができないから。自然と突く、弾く、叩くに寄った。技能は、行為の積み重ねに反応する』
「未踏領域、か」
俺はその称号の文字を見つめる。
未踏領域。
誰も到達できない場所へ至る可能性。
成長に限界がなくなるという、聞こえだけなら夢のような称号。
だが、セレスは言った。
これは祝福であり、同時に呪いに近いものでもあると。
研鑽を続ければ続けるほど、人の世から外れていく。
老化は遅れ、力は積み上がり、いつか周囲と同じ時間を歩けなくなる。
今はまだ、第一階層を越えたばかりだ。実感は薄い。
それでも、その文字は妙に冷たく見えた。
「俺は、まだ人間だよな」
『もちろんね』
セレスは即答した。
『少しひねくれていて、努力の方向を間違えがちで、強がりで、そのくせ根は不器用な人間』
「最後のほう、悪口じゃないか?」
『正確な分析よ』
「本当にこの本、いつか暖炉にくべてやろうか」
『その場合、十二宮契約物を燃やそうとした愚者として、あなたは歴史に名を残すだろうね』
俺はため息を吐きながら、ステータス板を消した。
そして窓へ向かう。
カーテンを開けると、朝の王都が広がっていた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
ヴァルエストは、水の都だった。
街中を幾筋もの水路が走り、朝日を受けて銀の帯のように輝いている。石造りの橋がいくつも架かり、その下を小舟がゆっくりと滑っていた。水路沿いには白壁と青い屋根の建物が並び、街路樹の葉が風に揺れている。
遠くには、王城が見えた。
湖に抱かれるように建つ白亜の城。
尖塔が空へ伸び、丸みを帯びた屋根と繊細な装飾が、水面にもうひとつの城を映している。堅牢な砦というより、巨大な宝石細工のようだった。朝霧がまだわずかに残っていて、城全体が淡い光に包まれている。
美しい。
そう思った直後、俺は少しだけ背筋が寒くなった。
あれほど美しい場所の中心に、王国の権力が集まっている。
美しさと重さは、別物ではないのだろう。
『あれがヴァルエスト王城か。水を抱く都の心臓だね』
「ベルグラードとは、まるで違う」
『あちらは地方都市としての堅実さがあったわね。こちらは王都よ。人も金も情報も、そして欲望も集まる』
「最後のが一番面倒そうだな」
『実際、一番面倒だろうね』
王城から少し離れた高台には、巨大な学園施設が見えた。
ノヴァ・アカデミア王立魔術学園。
その建物は、俺が想像していた古城のような学園とは違っていた。
低く水平に伸びる屋根。自然の地形に沿うような石と木の配置。水路から引き込まれた細い流れが中庭を巡り、建物と庭がひとつの景色として溶け合っている。
派手な塔を乱立させるのではなく、地面と水と光の中に建物を置いたような造り。
不思議な存在感だった。
「……あれが学園か」
『ノヴァ・アカデミア。魔術師、研究者、官僚、騎士魔導官。その卵たちが集まる場所よ』
「姉さんも、あそこにいる」
俺は窓の外を見つめたまま、そう呟いた。
姉、魔法の天才。
騎士剣も王国騎士団に並ぶほど扱える、家の誇り。
俺とは違う。
俺が刀一本で足掻いていた間に、姉はずっと先を歩いていた。
会いたくないわけではない。
むしろ、会いたい。
けれど、その気持ちの中に小さな棘が混じっているのも事実だった。
『怖いの?』
「少しな」
『珍しく素直ね』
「茶化すな」
『茶化してはいないさ。怖いと認められるなら、昨日より前に進んでいる』
俺は窓を閉め、身支度を始めた。
今日はまず、王都冒険者ギルドへ行く。
ベルグラード支部から王都支部への所属変更。
それが終われば、ノヴァ・アカデミアへ向かう予定だ。
王都に来た理由はいくつかある。
姉に会うこと。
学園で情報を集めること。
そして、黄道十二宮システムに関わる手がかりを探すこと。
獅子宮を越えた今、俺はもう以前のように「知らなかった」で済ませられる場所にはいない。
知らなければ、飲み込まれる。
そんな予感があった。
腰にセレスを固定し、刀を確かめる。
旅の間、何度も手入れした打刀。
柄を握ると、少しだけ心が落ち着いた。
「行くか」
『ああ。王都初日の始まりね。できれば大きな事件に巻き込まれないことを祈りましょう。』
「それ、言うと巻き込まれるやつだろ」
『得てして物語とは、そういうものよ』
「嫌なことを言うな」
俺は部屋を出た。
階段を下りると、宿の一階はすでに朝食を取る客で賑わっていた。商人、旅人、冒険者らしき者、学園の制服を着た若者たち。
王都は朝から騒がしい。
ベルグラードの朝が鍋の中でゆっくり煮えるスープだとすれば、ヴァルエストの朝は熱した鉄板に水を落としたようだった。あちこちで音が跳ねる。
宿を出ると、水の匂いがした。
清潔な石畳。
水路を渡る風。
焼きたてのパンの匂い。
魚を積んだ小舟、馬車の車輪、鐘の音。
人々の声。
王都という巨大な生き物が、ゆっくり目を覚ましていく。
その中を、俺はギルドへ向かって歩いた。
王都冒険者ギルドは、王城に続く大通り一角にあった。
ベルグラード支部とは比べものにならない大きさだ。
三階建ての石造り。入口の上には剣と杖、そして天秤を模した紋章が掲げられている。扉の前には冒険者たちが行き交い、掲示板には依頼書がびっしりと貼られていた。
鎧を着た者。杖を持つ者。弓を背負う者。
空気が濃い。
単純な人数だけではない。一人一人の練度が、ベルグラードとは違う。
俺は入口の前で一度立ち止まった。
『どうしたの?』
「いや……場違い感がすごい」
『君は正式な冒険者だろう』
「Fランクだけどな」
『始まりは誰でも低い。問題は、そこから何を積むかね』
「……そうだな」
俺は扉を押し開けた。
中に入った瞬間、視線がいくつかこちらに向いた。
だが、それも一瞬だけだった。
王都の冒険者たちは、他人にいちいち興味を持たないらしい。新人が一人入ってきたところで、珍しくもないのだろう。
受付は複数あった。
依頼受付。報酬受取。素材買取。所属変更。
所属変更、その表示を見つけ、俺は列に並ぶ。
前にいた男が手続きを終えると、受付の女性がこちらを見た。
「次の方、どうぞ」
淡い栗色の髪を後ろでまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だった。ベルグラードの受付嬢たちとはまた違う、王都らしい洗練された所作をしている。
「所属変更をお願いします。ベルグラード支部から来ました」
「承知しました。ギルド証をお預かりします」
俺はギルド証を差し出した。
受付嬢はそれを専用の魔導具にかざす。
薄い光が走り、彼女の前に情報が浮かび上がった。
「レグルス・クレハルト様。Fランク。ベルグラード支部所属。確認いたしました」
「問題ありますか?」
「いえ、手続き上は問題ありません。ただ、王都支部では依頼の難度分類が細かくなっております。Fランクで受注可能な依頼もありますが、都市外縁部の魔物討伐は原則として複数人推奨です」
「分かりました」
「また、王都周辺は貴族家、学園、騎士団、商会の関係者が多く出入りします。トラブルを避けるため、身元確認や依頼条件の確認はベルグラードより厳格です」
受付嬢は淡々と説明する。
冷たくはない。だが、甘くもない。
王都のギルドは冒険者の自由を守る場所であると同時に、王都の秩序に組み込まれた機関でもあるのだろう。
「所属変更には少し時間がかかります。こちらの書類に署名をお願いします」
俺は渡された書類に目を通した。
王都支部での規約。
依頼受注制限。都市内での抜刀禁止区域。貴族区画への立ち入り制限。学園関連依頼の扱い。
最後の項目で、俺は少しだけ目を止めた。
「学園関連依頼って多いんですか?」
「時期によります。ノヴァ・アカデミアからは素材採取、護衛補助、実地訓練の安全確保などの依頼が出ます。ただし、学園内に入る依頼は身元確認が厳しくなります」
「なるほど」
「学園にご用件が?」
受付嬢が自然な調子で尋ねてくる。
俺は少し迷ってから答えた。
「姉が、学園にいます」
「そうでしたか」
彼女は深く詮索しなかった。
それだけで、少し助かった。
書類に署名し、手続きを待つ。
その間、俺は壁に貼られた依頼書を眺めた。
水路清掃中に出る小型魔物の駆除。
倉庫街の夜間警備。
薬草園の護衛。
迷子の使い魔捜索。
学園実習用素材の採取。
王都らしい依頼が並んでいる。
魔物討伐一辺倒ではない。
この街では、冒険者もまた巨大な仕組みの歯車なのだと感じた。
『興味深いわね』
「何が?」
『水路の魔物駆除依頼が多い。水の都ならではだ。だが、件数が少し偏っている』
「偏っている?」
『下層水路、旧水門、廃棄区画。似た場所の依頼が多い』
「王都でも魔物は出るんだな」
『人が多く、魔力が集まり、水が巡る。影も溜まりやすい。綺麗な都ほど、汚れを隠す場所が必要になる』
「嫌な言い方だ」
『事実よ』
その時、近くの席から低い声が聞こえた。
「また旧水門かよ」
「最近多いな。鼠型の魔物だけじゃねえって話だぜ」
「騎士団は?」
「貴族区の警備で忙しいらしい。学園の式典が近いとかでよ」
「式典ねえ……」
俺は聞き耳を立てすぎないようにしながら、その会話を記憶に留めた。
旧水門。学園の式典。貴族区の警備。
今すぐ関わる必要はない。
だが、王都に来たばかりの俺でも分かる。
この街には、表の華やかさとは別の流れがある。
「レグルス様」
受付嬢に呼ばれ、俺は窓口へ戻った。
「所属変更が完了いたしました。本日より王都ヴァルエスト支部所属となります」
返されたギルド証には、小さな紋章が追加されていた。
王都支部の印。
俺はそれを受け取る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。王都での活動にご武運を」
ギルドを出ると、太陽は少し高くなっていた。
水路の光が強くなり、街全体が白く輝いて見える。
「次は学園か」
『そうなるね』
「姉さんに会う前に、変な依頼を受ける流れにならなくてよかった」
『今のところはね』
「やめろ」
俺はノヴァ・アカデミアへ向かって歩き出した。
王都の中心部に近づくにつれ、街並みはさらに整っていく。
石畳の継ぎ目ひとつまで美しく、街灯には魔石がはめ込まれている。水路の両脇には花が植えられ、橋の欄干には王家の紋章が彫られていた。
だが、道行く人々の視線は穏やかとは言い切れない。
貴族らしき馬車。制服姿の学生。商会の使い。騎士。役人。冒険者。
それぞれの立場が、見えない線を引いている。
ベルグラードでは、強いか弱いか、働くか怠けるかが重要だった。
王都では、それに加えて「どこに属しているか」が重要なのだろう。
面倒な街だ。
そう思った時、前方から小さな悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
見ると、水路沿いの道で、学園の制服を着た少女が荷物を落としていた。
革鞄から本や紙束が散らばり、数枚が風に煽られて水路へ向かって飛んでいく。
「あっ、待って!」
少女が慌てて手を伸ばす。
だが、間に合わない。
俺は反射的に踏み出した。
魔力を足へ流す。身体強化。
まだ初級。だが、以前の俺とは違う。
足裏で地面を捉え、身体を前へ滑らせる。
風魔法を指先に薄く纏わせた。
紙が水路へ落ちる寸前、俺は風を弾くように動かす。
ふわり、と紙束が浮いた。
そのまま手元へ引き寄せる。
「危なかったな」
俺は紙を揃えて少女に差し出した。
少女は目を丸くしていた。
「あ、ありがとうございます!」
「怪我は?」
「大丈夫です。あの、本当に助かりました。これ、濡らしたら先生に怒られるところで……」
「先生?」
「はい。ノヴァ・アカデミアの授業資料です」
少女は制服の胸元を軽く押さえる。
濃紺を基調にした制服。襟と袖に銀の刺繍が入っている。おそらく学園生だ。
「学園の生徒か」
「はい。一年です。もしかして、あなたも学園に?」
「いや、俺は冒険者だ。姉に会いに行くところだ」
「お姉さんが学園にいらっしゃるんですか?」
「ああ」
少女は少し考え、俺の腰にあるセレスを見た。
「本……?」
『ただの美しく知的な本よ』
「しゃ、喋った!?」
少女が飛び上がる。
俺は頭を抱えた。
「セレス。初対面で喋るな」
『失礼ね。挨拶は文明の基本よ』
「本が喋るのは基本じゃない」
少女は驚きながらも、すぐに目を輝かせた。
「すごい……魔導書ですか? それとも人工精霊? 自律思考型の記録媒体? いえ、でも魔力反応が普通じゃ……」
『ほう、なかなか観察眼があるわね』
「セレス、黙ってろ。話がややこしくなる」
少女は慌てて頭を下げた。
「す、すみません。私、魔導具の研究に興味があって」
「いや、気にしなくていい」
学園生らしい反応だ。
ベルグラードなら「呪いの本か?」で終わるところだが、王都の学園生はまず研究対象として見るらしい。
「私はミリア・フェンネルです。ノヴァ・アカデミア一年生です」
「レグルス・クレハルト。冒険者だ」
「クレハルト……?」
ミリアが小さく首を傾げた。
その反応に、俺は少しだけ身構える。
クレハルトの名は、王都でも多少は知られているのだろうか。
「もしかして、アリシア先輩の……」
姉の名が出た。
俺の胸が、わずかに跳ねる。
「アリシアを知っているのか?」
「もちろんです! 魔術科でも剣術科でも有名です。魔法の制御もすごいですし、騎士剣の実技でも上位で……それに、とても綺麗で、優しくて」
「……そうか」
分かっていたことだ。
姉はどこにいても姉なのだろう。
俺とは違って、自然と人の視線を集める。
ミリアはそこで、はっとした顔をした。
「あの、もしかして弟さんですか?」
「一応な」
「やっぱり! 髪の色が少し似ていると思いました!」
似ている。
そう言われるのは、嫌ではなかった。
けれど、少しだけ落ち着かなくなる。
「学園まで案内しましょうか? 私も戻るところなので」
「助かる」
「はい!」
ミリアは散らばった荷物を鞄に詰め直し、歩き出した。
俺はその隣を歩く。
学園へ近づくにつれ、建物の存在感が増していった。
外壁は白い石と淡い木材を組み合わせ、角張っているのに冷たくない。大きな窓が水平に伸び、そこに空と水の光が映り込んでいる。庭には幾何学的に整えられた池と植栽があり、建物の中へ水路が入り込んでいる場所もあった。
まるで、学園全体が巨大な魔導回路のようだった。
「ノヴァ・アカデミアは、水脈の上に建っているんです」
ミリアが説明してくれる。
「水脈?」
「はい。王都の地下には魔力を帯びた水の流れがあって、それを学園の防御結界や研究施設に利用しているんです。もちろん、王城にも同じ系統の水脈が流れています」
『都市全体を水と魔力で繋いでいるのか。美しい設計ね』
「はい! 初代学園長が自然と魔術の調和を重視した方で……って、やっぱりその本、普通に会話するんですね」
「慣れると腹が立つぞ」
『ひどい評価』
正門が見えてきた。
そこには警備の騎士と、学園職員らしき人物が立っている。
門の向こうでは、制服姿の生徒たちが行き交っていた。
若い声。
魔力の気配。鐘の音。
どこか緊張感があるのに、同時に華やかだ。
ここが姉のいる場所。
そして、これから俺が踏み込む場所。
その時だった。
門の内側から、一人の女性が歩いてきた。
若い。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
すらりとした体つきで、長い銀灰色の髪を整えている。
学園の教師と思われ、服は控えめだが仕立てがよいパンツスタイルのスーツを着ている。
顔立ちは整っている。
華やかというより、静かに目を引く美しさだった。
そして、眼鏡。
細い銀縁の眼鏡をかけている。
その奥の瞳は、薄い青に見えた。
「ミリアさん」
女性が声をかけた。
柔らかい声だった。
けれど、俺はなぜか足を止めそうになった。
声が耳に届いた瞬間、背中の奥を細い針で撫でられたような感覚があった。
「リゼル先生!」
ミリアが姿勢を正す。
「授業資料は?」
「はい、持っています。途中で落としてしまったんですが、こちらの方に助けていただいて」
リゼルと呼ばれた教師は、俺を見た。
薄い青の瞳が、眼鏡越しにこちらへ向く。
その視線は穏やかだった。
少なくとも、表面上は。
「それは、ありがとうございました」
「いえ。大したことはしていません」
「冒険者の方ですか?」
「はい。レグルス・クレハルトです」
名乗った瞬間。
ほんの一瞬だけ、リゼル先生の表情が止まった。
本当にわずかだ。
普通なら気づかなかったかもしれない。
だが、獅子宮で鍛えられた感覚が、その微細な揺らぎを拾った。
「クレハルト……」
彼女はすぐに微笑んだ。
「アリシアさんの弟さんですね」
「姉を知っているんですか?」
「ええ。彼女は優秀ですから。学園で知らない者のほうが少ないでしょう」
「そうですか」
「本日は面会に?」
「はい」
「でしたら、受付で手続きを。アリシアさんは午前の講義が終われば時間が取れるはずです」
丁寧な対応。自然な会話。
どこにもおかしなところはない。
なのに、俺の中で何かが小さく鳴っていた。
鞘の中の刀が、わずかに震えたような錯覚。
『レグルス』
セレスの声が、低く響く。
俺は表情を変えないようにした。
『その眼鏡だ』
「……」
『見た目はただの魔導具ではない。反応が深い。気をつけろ』
リゼル先生は、俺の腰にあるセレスへ視線を落とした。
「珍しい本ですね」
『よく言われるのよ、美しい先生』
「喋るのですね」
「余計なこともよく喋ります」
「ふふ。興味深いです」
リゼル先生は微笑んだ。
その笑みは柔らかい。
だが、眼鏡の奥の淡い青が、ほんの一瞬だけ濃く揺れた気がした。
「では、私は講義がありますので。ミリアさん、遅れないように」
「はい!」
彼女は門の奥へ歩いていった。
ローブの裾が静かに揺れる。
俺はその背中を目で追った。
「レグルスさん?」
ミリアが不思議そうに見上げてくる。
「いや、何でもない」
『……何でもなくはないわね』
セレスが小さく呟く。
俺は門の前に立ち、深く息を吸った。
王都。水の都。白亜の王城。美しい学園。
そして、淡い青の瞳をした若い教師。
その眼鏡の奥に隠された何かを、俺はまだ知らない。
だが、確信に近い予感だけはあった。
この王都には、すでに誰かの糸が張られている。
そして俺は今、その糸の端に触れてしまったのだ。
ノヴァ・アカデミアの鐘が鳴る。
澄んだ音が、水路を伝い、王都の空へ広がっていく。
その音を聞きながら、俺は学園の門をくぐった。
姉に会うために。
そして、まだ名前も知らない陰謀の中心へ近づくために。
俺の王都での一日は、静かに始まった。
だがその静けさは、嵐の前の水面に似ていた。
綺麗すぎる水ほど、底が見えない。




