第148話 届いた一太刀
縁側に、二本の木刀が置かれていた。
宗玄さんは庭へ下り、空を見上げている。薄い雲が東へ流れ、その下を鳥が二羽、山のほうへ飛んでいった。
「明日、発つのじゃったな」
「はい」
俺は隣へ並んだ。
ここへ来たときには、どれくらい世話になるのかも決めていなかった。
山で暮らし、戻ってからは宗玄さんと木刀を交えた。途中から、夕食の支度も朝に開ける雨戸も、言われる前に手が動くようになっていた。
昨日、帰りの船に合わせて出発すると伝えた。
宗玄さんは茶を飲みながら頷き、それなら最後にもう一度やるか、と言ってくれた。
「身体の具合はどうじゃ」
「よく眠れました」
「それはよい」
宗玄さんが木刀を一本取った。
俺も残った一本へ手を伸ばす。
握りに馴染んだ木の感触があった。
「お願いします」
「うむ。行こうかの」
◇
山へ入る道は、もう覚えていた。
曲がった木の根を越え、細い流れをまたぐ。
初めは足元ばかり見ていた坂も、今は先にある枝の高さや、木々の間を抜ける道まで目に入る。
宗玄さんは沢の手前で立ち止まった。
左に斜面。右には浅い水が流れ、その向こうに岩場がある。
少し上流へ進めば倒木があり、下流には木々の間が広く空いた場所があった。
何度も木刀を交えた場所だった。
俺の知らない使い方を、宗玄さんはまだいくつも知っている。
セレスが肩から離れ、岸辺の岩へ移った。
『二人とも、気をつけてね』
「ああ」
「分かっとるよ」
宗玄さんが木刀を身体の後ろへ引いた。
少し前へ傾いた、小さな身体。
穏やかな顔から笑みが薄れ、視線が俺へ定まった。
俺は木刀を正面へ置いた。
魔力が巡っている。
その傍らを、気が巡る。
どちらも強く押し出さず、息を吐いた。
沢の音が聞こえた。
宗玄さんが動いた。
◇
最初の一撃は、下から来た。
身体の後ろにあった木刀が、土の上すれすれを通って跳ね上がる。
俺は切っ先を外へ向け、斜めに受けた。
重い音が鳴った。
受けた腕を引きながら足を運び、宗玄さんの横へ回る。
そこへ、もう次の一撃が来ていた。
短い横薙ぎ。
上体を傾けて外し、その肩へ木刀を返す。
宗玄さんは前へ出た。
間が潰れる。
俺は柄を引き寄せ、腕を畳んだ。木刀同士が近いところでぶつかり、互いの肩が触れそうになる。
宗玄さんの足が、俺の外側へ入った。
以前なら、そこから行き先を塞がれていた。
俺は退かず、その足の運びに沿って身体を回した。
踏んだ土の重さが脚へ返る。腰から肩へ動きをつなぎ、木刀を短く押し出す。
宗玄さんが受けた。
今度は、俺が押した。
小柄な身体が半歩下がる。
すぐに木刀の接点が外れ、こちらの指へ切っ先が走った。
手を引き、左へ。
宗玄さんも動く。
木刀を交えたまま、俺たちは沢沿いを上っていった。
前へ出るときには力が増し、刃先が離れれば静まる。
魔力と気の巡りを数える必要はなかった。
見ていたのは、宗玄さんだった。
肩の向き。木刀の先。次に足を置ける場所。
その向こうにある、濡れた岩と倒木。
宗玄さんが沢へ入った。
水が跳ねる。
俺は岸を走り、倒木の手前で跳んだ。
空中へ足場を置き、横へ蹴る。
宗玄さんの上を越え、対岸へ。
着地を待っていた木刀へ、上から自分の木刀を合わせた。
足裏が土に触れる。その感触を受け取った瞬間、身体を前へ送った。
宗玄さんの胸元へ突く。
袖が揺れた。
切っ先のすぐ脇を、身体が抜けていく。
俺は追わず、木刀を返した。
背後へ回ろうとしていた一撃と、ぶつかった。
乾いた音が、山へ響いた。
◇
宗玄さんの口元が、わずかに上がった。
「……そう来るか」
その目の色が変わった。
木漏れ日を受けたせいかと思った。
だが、顔が影へ入っても、瞳の奥にある明るさは消えなかった。
首筋に、冷たい感触が走る。
俺は膝を緩めた。
宗玄さんの姿が、近づいた。
さっきまでの間合いが一息でなくなる。
木刀を合わせた瞬間、腕へ重さが叩き込まれた。
足が土を削った。
流す。
受けた力に逆らわず、斜めへ身体を送り出す。
それでも宗玄さんは離れない。
一歩ごとに、追いついてくる。
上、横、低い突き。
木刀が短く戻り、すぐ別の角度から伸びてきた。
俺は両義相環の出力を上げた。
足元が鮮明になる。
身体へ届く衝撃も、その重さを逃がせる方向も、はっきりと感じられた。
だが、受けているだけでは終わらない。
突きを外したところで、前へ入った。
宗玄さんの木刀が戻るより先に、肩を狙う。
受けられた。
そのまま押し込み、途中で切っ先を落とす。
下から脇へ返した木刀を、宗玄さんが柄に近いところで弾いた。
手が痺れた。
握りは緩まない。
俺は幹の脇へ踏み込み、宗玄さんと木を挟んだ。
一瞬、姿が隠れる。
すぐに上へ意識を向けた。
枝は揺れていない。
下だ。
幹の向こうから足音が消えた。
俺は斜面側へ跳び、足場を踏んで振り返った。
木刀が、靴底のあった場所を抜けていった。
宗玄さんが顔を上げる。
俺は空中から斬り下ろした。
受けた宗玄さんの足元で、落ち葉が散った。
◇
木刀が離れた。
俺は斜面へ着地し、すぐ横へ走った。
宗玄さんが追ってくる。
息が熱い。
もう、何度打ち合ったのか分からなかった。
胸が大きく動き、額から汗が流れる。それでも、身体の中を巡る二つの力は、動くたびに応えてくれた。
下流へ向かう。
岩場から離れ、木々の間が広い場所へ。
宗玄さんが斜め前へ出た。
俺の進む先へ回り込み、木刀を低く構える。
その足を見た。
追いつける。
だから、先へ入ってくる。
俺は歩幅を変えずに進んだ。
木刀を振り上げる。
宗玄さんの肩が動く。
そこで、足元へ低い足場を作った。
地面を踏むはずだった足が、わずかに高い位置を捉える。
身体を前へ送る角度が変わった。
俺は宗玄さんの正面へ入った。
木刀が交わる。
押し返されるより先に、刃を滑らせた。
宗玄さんの木刀を外へ送り、その胸へ切っ先を走らせる。
避けられた。
宗玄さんが右へ回る。
そこへ、左足を置いた。
祖父に教わった足運びで、相手の向き直る先へ身体を運ぶ。
腕だけを追わず、肩の正面を取る。
宗玄さんの目が、俺を捉えた。
木刀が跳ね上がる。
俺は受けた。
衝撃が掌から背へ、腰へ、脚へ届く。
両義相環を強め、地面を踏みしめた。
身体が止まる。
宗玄さんの木刀も、一瞬だけ止まった。
そこから、俺は力を抜いた。
接点が滑る。
押し合っていた木刀が、俺の肩の外へ抜けた。
空いた内側へ、踏み込む。
宗玄さんの足が退いた。
俺は追った。
今度は、行く先を見ていた。
後ろには太い根がある。
右へ回れば幹が近い。左には、さっき俺が下りてきた斜面。
宗玄さんが左へ向きを変えた。
木刀を引き、こちらへ返そうとする。
俺は、その足が地面を離れる前に踏み込んだ。
魔力と気が、ともに巡る。
肩から先だけで振らず、身体ごと運ぶ。
木刀の先を短く返し、開いた脇へ。
硬い感触があった。
布の下にある身体へ、確かに届いていた。
俺は木刀を止めた。
宗玄さんの木刀も、俺の肩のすぐそばで止まっていた。
◇
互いの息だけが聞こえた。
俺は動けずにいた。
自分の木刀が触れている場所を見る。
宗玄さんが、ゆっくりと木刀を下げた。
「一本じゃ」
顔を上げた。
瞳の明るさが、少しずつ薄れていく。
そこには、いつもの宗玄さんの目があった。
「……取れましたか」
「取ったじゃろう。自分の手で」
俺は木刀を引いた。
息を吐くと、急に脚の重さが分かった。
膝へ手を置きたくなったが、その前に姿勢を正した。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
宗玄さんも、木刀を脇へ下げた。
「こちらこそ、よう付き合ってくれた」
顔を上げると、宗玄さんは笑っていた。
俺も笑おうとして、先に大きく息を吸ってしまった。
沢のほうからセレスが来た。
『届いたわね』
「うん」
返事をしてから、もう一度木刀を見た。
ただ速くなっただけでは、あの脇へは届かなかった。
受けられなければ、その前に終わっていた。足を運べなければ、向き直る宗玄さんを追えなかった。
家で、帝国で、王都で。
教わり、試し、繰り返してきたことが、今の一太刀につながっていた。
宗玄さんが、俺の顔をのぞき込んだ。
「どうじゃ。もう一本やるか」
少し迷った。
今なら、また何かできるかもしれない。
けれど、腕にも脚にも、今の一本を出しきった感触があった。
「今日は、ここまでにします」
「そうか」
「また来たときに、お願いします」
宗玄さんの笑みが深くなった。
「そのときは、わしも取り返さんとな」
◇
しばらく、沢のそばで休んだ。
水を飲み、汗を拭く。
木陰へ座ると、熱を持った身体を風が通り抜けていった。
宗玄さんは木刀を膝へ置き、握りについた土を指で払っていた。
「じいちゃんとも、こんなふうにやっていたんですか」
「そうじゃな。あやつとは、もう少し口も動いたが」
「口?」
「今のは当たった、いや浅い、と。どちらも譲らんのでな」
思わず笑った。
「想像できます」
「日が暮れてから、もう一本と言い出したこともある」
「宗玄さんが?」
宗玄さんは沢へ目を向けた。
「さて、どちらじゃったかな」
答える気のない横顔だった。
俺は水筒を置き、木々の間から空を見上げた。
来たときより、ずいぶん陽が高くなっている。
明日は、この山を離れる。
あの小屋で眠った夜も、雨の音を聞きながら過ごした昼も、ここで木刀を交えた時間も、王都へ帰れば思い出になる。
それでも、身体に残るものがあった。
今は力を静めても、その感触が分かる。
「ラウルに会ったら、伝えてくれ」
宗玄さんが言った。
「何をですか」
「今度は孫だけ寄越さず、自分も来いとな」
「伝えます」
「まだ、返しておらん一本がある」
俺は宗玄さんを見た。
白い髪。皺の寄った目元。
その奥に、さっきまで木刀を交えていた人がいる。
きっと、じいちゃんも同じ顔をするのだろう。
「それも、ちゃんと」
宗玄さんが満足そうに頷いた。
◇
帰る前に、木刀を交えた場所へ戻った。
落ち葉が散り、土にいくつもの足跡が残っていた。
俺が最後に踏み込んだ場所には、靴底の形が深くついている。
宗玄さんが、その少し先で待っていた。
俺は木刀を下げ、山へ頭を下げた。
風が葉を揺らした。
顔を上げると、セレスが肩へ戻ってきた。
『帰りましょうか』
「うん」
家へ戻ったら、荷物をまとめる。
魔導二輪の覆いを外し、明日走る道をもう一度確かめよう。
その前に、昼飯だった。
歩き出した宗玄さんが振り返る。
「今日は、飯を多めに炊かんとな」
「俺が炊きます」
「少し柔らかめで頼むぞ」
俺は頷き、隣へ並んだ。
下り道の向こうに、見慣れた屋根が見えた。




