第147話 巡り続ける力
木刀の先から、朝露が落ちた。
宗玄さんは倒木の向こうに立っていた。少し前へ傾いた身体。その後ろへ隠れた木刀は、先端だけが作務衣の脇からのぞいている。
間には、腰ほどの高さの朽ちた幹が横たわっていた。
右は下り斜面。左には細い木が密に生え、その奥で沢の音がしている。
俺は息を吐き、身体の内側へ意識を向けた。
長く親しんできた魔力の巡りに、もう一つの流れが沿っている。
気。山で暮らすうちに感じ取れるようになった力は、今では足裏から指先まで、自分の身体と一緒に動いていた。
二つを、同じ強さで巡らせる。
足元の土を押した。
倒木を越えながら木刀を振り下ろす。宗玄さんが半歩ずれ、その肩が切っ先の外へ出た。俺は着地と同時に横へ払い、追う。
木刀が触れた。
硬い音が一つ鳴り、宗玄さんの身体が下り斜面へ流れた。
そのまま距離を取るかと思ったところで、小柄な姿が沈む。
次の一歩が、速かった。
俺は斜め後ろへ足を運び、突き上がってくる木刀を受け流した。肩の脇を木の先端が抜ける。空いた胸へ返そうとしたときには、宗玄さんはもう倒木の陰にいた。
追って幹を回る。
向こう側に姿がない。
頭上で、葉が擦れた。
見上げるより先に身体を横へ送り、落ちてくる一撃を避けた。着地した宗玄さんへ踏み込むと、木刀が短く跳ねる。
俺の木刀を押し上げ、そのまま喉元へ。
触れる寸前で、止まった。
「一本じゃな」
「……はい」
俺は構えを解いた。
倒木の横に立ったまま、宗玄さんが頭上の枝を見上げる。
「まだ折れんようじゃ」
太い枝が、ゆっくりと揺れていた。
俺も見上げた。
下へ逃げた相手を追い、幹の向こうへ目を向けた。その間に、上を取られている。
腕や脚には、余力があった。
両方の力を強く巡らせれば、確かに身体は速く動く。踏み込みにも、振り抜く木刀にも、普段以上の力が乗った。
それでも、宗玄さんの立つ場所を読み違えれば届かない。
「もう一本、お願いします」
「うむ」
宗玄さんが木刀を肩へ担ぎ、今度は沢のほうへ歩き出した。
◇
両義相環と名づけてから、数日が過ぎていた。
朝、食事を済ませて山へ入り、宗玄さんと木刀を交える。
昼には休み、天気や互いの疲れ具合で、午後も続けることがある。雨の強い日は家で過ごし、晴れればまた違う斜面へ足を延ばした。
同じ場所でも、昨日と今日では足元が違った。
乾いた土が雨を含み、沢の水かさが増え、落ちた枝が道を塞ぐ。宗玄さんは、そのどこでも変わらず動いた。
俺は手合わせのたびに、二つの力の使い方を変えていた。
両方を強く巡らせ続ければ、長い攻防の後で息が上がる。
使った分だけの手応えはある。だが、相手が間合いの外へ出た後まで同じ強さを保つ必要はなかった。
ならば、踏み込む瞬間だけ高める。
それで何度か、宗玄さんを追った。
一歩の速さは増した。けれど、その一歩を見越して間合いを外されると、次には違う応じ方が必要になる。
受けるつもりだった木刀が、手元へ来る前に引かれる。
追うつもりの背中が、こちらへ向き直る。
始める前に決めた使い方だけでは、足りなかった。
◇
沢の浅いところで、宗玄さんの足が水を踏んだ。
飛沫が上がる。
俺はその向こうの肩を見ながら、濡れた石へ足を置いた。
右から来た木刀へ、こちらの木刀を斜めに添える。
重い。
《地轟》。
小柄な身体から届く力が、両腕を通して足元へ落ちてきた。
俺は後ろ足で石を捉え、腰を回した。木刀の接点を滑らせながら、宗玄さんの横へ入る。
身体の内側で気が巡り、足裏にかかる重さがはっきりと伝わった。
そこへ魔力を応じさせる。
押し返す力を、前へ。
宗玄さんの脇へ切っ先を走らせた。
作務衣の袖が翻った。
届く直前に相手の身体が遠ざかる。追い足を出すと、今度は俺の手首へ木刀が迫った。
肘を引き、刃筋を外す。
その一瞬、宗玄さんの足が止まった。
踏み込める。
俺が前へ出るのと、宗玄さんが沢底の石を蹴るのは、ほとんど同時だった。
水が顔の前へ跳ね上がる。
目を細めても、気配は分かる。
左。
木刀を立てた。
ぶつかった音が、沢へ響いた。
俺は受けた勢いを逃がしながら向きを変えたが、その先へ宗玄さんの足が差し込まれた。
進む場所を取られている。
上へ跳んだ。
銀環へ魔力を通し、空中の足場を踏む。低く反転して背後へ回ろうとしたところへ、宗玄さんの木刀が伸びた。
俺はもう一段、高い位置を蹴った。
その分だけ、着地が遠くなる。
岸へ下りた瞬間、宗玄さんは沢を渡りきっていた。
水を引く木刀が、俺の胸へ軽く触れた。
「……一本」
自分から言うと、宗玄さんが頷いた。
俺は長く息を吐いた。
頬から落ちた水が、襟の内側へ入る。
「少し休むかの」
「はい」
宗玄さんが先に岸へ上がった。
俺も続き、陽の当たる岩へ腰を下ろす。
セレスが肩のそばへ来た。
『今のは、ずいぶん続いたわね』
「うん。でも、最後は行く場所を選ばされた」
沢を見下ろす。
左へ追い込まれ、上へ逃げた。
もう一段上がれば避けられる。その足場まで、宗玄さんには見えていたのだろう。
水筒を傾けると、冷たい水が喉を通った。
『二つの力は?』
「さっきより、長く一緒に使えた」
空いた手を開き、閉じる。
受けたときも、返したときも、空へ上がったときも。
どちらかの力を使い終えて、次へ切り替える感覚は薄くなっていた。
「ずっと同じ強さで回していなくても、続いてるんだ」
セレスが俺の手元を見た。
『弱めても、巡りは残るのね』
「うん」
沢の水が岩へ当たり、左右へ分かれていた。
片側は勢いよく流れ、もう片側は小さな窪みを回っている。その先では、どちらも同じ下流へ向かっていた。
俺は水筒の蓋を閉めた。
向こうでは、宗玄さんが濡れた袖を絞っていた。
俺の視線に気づくと、その袖を少し持ち上げる。
「今日は、よく濡れる日じゃ」
「まだ午前ですよ」
「午後には乾くじゃろう」
宗玄さんはそう言って、日の当たる場所へ座り直した。
◇
昼を挟んでからは、沢を離れた。
木々の間に岩が露出した斜面だった。
根が張り出し、落ち葉の下には細かな石が隠れている。見上げれば、枝の隙間から空が見えた。
俺は木刀を下げたまま、呼吸を整えた。
気を巡らせる。
魔力も、そのまま。
大きく膨らませず、二つが動いていることを感じる。
踏み出す前から、身体はもう応じられる状態にあった。
「お願いします」
宗玄さんの顎が、わずかに引かれた。
次の瞬間、間が消えた。
低い位置から木刀が伸びてくる。
俺は左へ身体を開き、切っ先を外した。すぐに宗玄さんの肩が回る。
二撃目。
後ろへ退く足に魔力を乗せ、間合いを浅くする。
胸の前を木刀が通り過ぎたところで、気を巡らせた足が土を捉えた。
今度は、こちらから入る。
木刀を振り下ろすと、宗玄さんが受けた。
乾いた音が鳴る。
押し合う前に手首を返し、切っ先を下へ抜いた。
相手の木刀を外側へ誘い、胸元へ突く。
宗玄さんの身体が横へ流れた。
追った。
踏み込む力を高め、間が詰まったところで、その強さを緩める。
次にどちらへ動いても、足を出せる。
宗玄さんが木の幹へ回り込んだ。
俺は幹の右側へ木刀を見せ、左へ進んだ。
回りきる前に、頭上から一撃が落ちてくる。
さっきと似た位置だった。
今度は、枝まで視界に入っていた。
半歩下がって避け、降りてくる身体へ木刀を走らせる。
宗玄さんは幹へ足を添え、空中で進む向きを変えた。
木刀が空を切る。
俺は振り抜いた勢いのまま足を運び、その着地へ回った。
力を込め直す間は、ほとんどなかった。
胸から腕へ、腰から脚へ。動きに応じて、二つの巡りの強さが変わる。
宗玄さんの足が地面へ触れる。
その肩へ、切っ先が届きかけた。
空気が動いた。
小柄な姿が、視界の端へ抜ける。
今までより、一歩が深い。
背筋へ冷たいものが走った。
俺は振り向きざまに木刀を立てた。
衝撃が全身へ届く。足元の落ち葉が散り、土が削れた。
強い。
それでも、踏んだ地面の感触は消えていなかった。
気を全身へ巡らせたまま、魔力の出力を上げる。
受け止めた力を斜めへ流し、宗玄さんの木刀を外へ送った。
木と木が擦れる音がした。
俺はその内側へ入った。
肩へ届く距離。
木刀を短く返す。
宗玄さんが退いた。
初めて、はっきりと間が開いた。
◇
追いかけながら、息を吐いた。
胸は熱い。
腕にも脚にも力が巡っている。けれど、朝のように強さを保とうと意識し続ける必要はなかった。
宗玄さんが速ければ、それに応じる。
間が開けば、呼吸と一緒に静まる。
巡りは続いていた。
斜面を横切り、露出した岩へ足をかける。
宗玄さんは下にいる。
俺は岩から跳んだ。
《メルクリウス》の足場を斜め前へ作り、そこを蹴って角度を変えた。
宗玄さんの右側へ木刀を振り下ろす。
受けられた。
その反発を使い、身体を横へ送る。
次の足場は低く。地面へ戻るまでの距離を短く取った。
宗玄さんが、着地する俺を追う。
俺は地面へ足を下ろしきる前に、もう一度だけ空間を踏んだ。
前へ出かけていた身体を、斜め後ろへ。
木刀の先が、鼻先を通った。
そこへ返す。
宗玄さんの袖が、切っ先に触れた。
布の感触が、かすかに手へ返ってきた。
だが、その奥に肩はなかった。
袖を残すように身体をひねり、宗玄さんが俺の内側へ入ってくる。
木刀を引く。
近い。
もう一歩、横へ抜けようとしたところで、背中に岩の冷たさを感じた。
追ってきたのは、宗玄さんだった。
けれど、この場所へ戻るように動かされていたのは、俺のほうだ。
木刀の先が、腹へ触れた。
動きが止まる。
宗玄さんが木刀を引いた。
俺は岩から背を離し、深く息を吸った。
「……ありがとうございました」
「うむ」
宗玄さんも一つ息をついた。
白い髪が額へかかり、その下に汗が光っている。
袖の端を見る。
木刀の擦れたところに、細い土の跡がついていた。
「惜しかったですね」
俺が言うと、宗玄さんは袖をつまんだ。
「これは帰ったら洗わんとな」
その顔を見て、思わず笑った。
勝てなかった。
最後に立つ場所も、まだ宗玄さんのほうがよく見えていた。
それでも、木刀を交えていた間の感触は、身体にはっきりと残っていた。
避け、受け、追い、空へ上がり、地面へ戻る。
その間、二つの力は離れずに巡っていた。
魔力は魔力のまま。
気は気のまま。
どちらも、自分の身体に息づいている。
俺は握っていた木刀を下げた。
「もう一本、できますか」
宗玄さんが空を見上げた。
「できるが、帰りが遅くなるぞ」
木々の向こうで、陽が傾き始めていた。
俺は少し考え、それから首を振った。
「じゃあ、今日はここまでで」
「そうするかの」
宗玄さんが木刀を担ぐ。
俺もその隣へ並んだ。
◇
帰り道、沢で木刀についた土を落とした。
冷たい水へ指を入れると、掌に残っていた熱がゆっくりと引いていく。
セレスが近くの岩へ腰を下ろした。
『今日は、名前に少し近づいたんじゃない?』
「うん。最後は、ずっと使えてた」
『次は勝てそう?』
俺は木刀の表面を布で拭きながら、さっきの岩を思い出した。
袖へ届いたと思った瞬間に、その先の場所を取られていた。
「まだ、分からない」
そう答えてから、少し笑う。
「でも、試したいことはある」
『それは、明日ね』
「うん」
布を畳み、立ち上がった。
宗玄さんは少し先で、道端に生えた草を眺めていた。
俺たちが近づくと、足元を指す。
「これも食えるぞ」
「それ、食べられるんですか」
「柔らかいところだけな。汁に入れるとよい」
教わった葉の形を確かめ、必要な分だけ摘んだ。
指先で茎を折ると、青い匂いがした。
家へ着く頃には、山の上だけに陽が残っていた。
木刀を置き、手を洗う。
宗玄さんがかまどの前へ座り、俺は摘んできた葉を水にさらした。
身体の奥には、今日の疲れがあった。
踏み込んだ脚の重さも、木刀を受けた腕の張りも、よく分かる。
明日の朝には、どれくらい残っているだろう。
その様子を見てから、また山へ行けばいい。
「味噌は、これくらいですか」
匙を持ち上げると、宗玄さんが鍋をのぞいた。
「もう少し少なくてよい。煮詰まっとるからの」
俺は少し戻し、汁へ溶いた。
湯気と一緒に、馴染み始めた香りが上がった。




