第146話 二つの力、一つの身
沢を越えても、振り返らなかった。
昨日までなら、対岸へ渡る途中で足場を作り、追ってくる宗玄さんへ打ち返していた。
今日は、そのまま岩を蹴った。斜面を二歩上がり、木の根へ足を置いて向きを変える。
宗玄さんは、まだ沢の向こうにいた。
こちらを見ている。
俺は木刀を構え、上からその姿を捉えた。
待っていた突きは出さなかった。
宗玄さんも、同じ場所へは踏み込んでこない。
水音が続く。
俺は斜面を横へ走った。
木々を挟みながら、相手の横へ出る。宗玄さんが沢へ足を入れたところで、幹の陰から踏み込んだ。
木刀を振る。
届くと思った距離から、宗玄さんの身体が急に近づいた。
刃の先で捉えるつもりだった相手が、柄に近いところへ入っている。
木刀を引きながら横へ抜けようとしたが、その先へ宗玄さんの足が置かれた。
首筋に、木の感触が触れた。
「一本」
俺は息を吐き、木刀を下げた。
また、取られた。
けれど、沢の上で同じように待たれていたわけではない。こちらが動きを変えれば、宗玄さんも変える。
その変わり方が、まだ俺より速かった。
宗玄さんは何も言わず、浅瀬へ戻った。
俺も斜面を下り、次に立つ場所を探した。
◇
三度目の立ち合いを終えたところで、休憩になった。
俺は岩へ座り、水を飲んだ。
宗玄さんは木刀を膝へ置き、沢の流れを眺めている。
《地轟》を使っているときも、身体が大きくなるわけではない。
ただ、踏み込む一歩が違う。打ち合えば、その小さな身体から来たとは思えない力が木刀越しに伝わってくる。
速く動き、強く振る。
そのための力を、宗玄さんは自分の刀へ結びつけていた。
「宗玄さん」
「何じゃ」
「《地轟》は、誰かに教わったんですか?」
「気の扱いは教わった。今の使い方は、勝負を重ねるうちにできたものじゃ」
宗玄さんが、膝に置いた木刀へ目を落とす。
「もう一歩詰めたい。ここで押し切りたい。そう思うたことを、あれこれ試した」
「最初から、今の形だったわけじゃないんですね」
「ずいぶん変わったぞ。ラウルには、何度も付き合ってもろうた」
俺は自分の木刀を見た。
打ち合った跡が、表面に細く残っている。
俺にも、もう一歩が欲しい場面はある。
受けた直後に踏み返したいときも、空中で向きを変えてから、さらに刀を伸ばしたいときもある。
これまでは、そのたびに魔力の強め方を変えてきた。
今は、気もある。
「俺も、自分なりの絶招を考えてみたいです」
宗玄さんがこちらを向いた。
「斬り方を、か?」
「それを支えるほうです。俺には、ずっと巡らせてきた魔力があるので」
水筒を脇へ置き、右手を開く。
「気と一緒に使ったら、今までとは違う動きができる気がするんです」
「なら、試してみるとよい」
返事は短かった。
宗玄さんは木刀を持って立ち上がり、沢の少し上流へ歩いていった。
俺はしばらくその背中を見てから、自分の手元へ視線を戻した。
◇
魔力の円環を、少し強める。
慣れた力が身体を巡った。
脚へ通せば踏み出す力になり、腕へ通せば木刀を振る速さが増す。何度も使い、確かめてきた感覚だった。
そこへ、気を巡らせる。
山で知った温かい感触が、腹から背へ、手足へと広がった。
二つとも感じられる。どちらかを意識したからといって、もう片方が消えることはなかった。
俺は岩から立ち上がった。
木刀を構え、一歩踏み込む。
振り下ろした木刀が、鋭く風を切った。
続けて、左へ身を移す。
切っ先を返し、もう一度振る。
強い。
魔力だけで動いたときより、踏み込む足にも、振る腕にも余裕があった。
それでも、木刀を下げてから、もう一度考えた。
『どうだった?』
近くの岩へ座ったセレスが尋ねる。
「力は増した。でも、思っていたものとは少し違うかな」
『どんなふうにしたいの?』
俺はすぐには答えられなかった。
速さも、強さも欲しい。
ただ、さっき宗玄さんに取られた一本は、力が足りなかっただけではない。
こちらが振ろうとしたところへ入られた。
そこで攻めを変えたくても、相手のほうが先に次の場所を取っていた。
「動きを変えた後も、そのまま攻められるようにしたい」
言葉にすると、欲しいものが少しはっきりした。
「強く踏んで、強く振る。それだけじゃなくて、受けた後も、かわした後も」
セレスが頷いた。
『次の動きへ、つなげたいのね』
「うん」
木刀を持ち直す。
今度は大きく踏み込まず、その場で腰を移した。
受け流すつもりで木刀を傾け、切っ先を返す。足が進み、それに合わせて刃の向きが変わる。
魔力と気を、同じ瞬間に強めてみた。
次は、気を先に使う。
その次は、魔力を先に。
どれも身体は動いた。
けれど、力を加える順番を決めてしまうと、打ち方まで同じものになっていく。
俺は木刀を止めた。
宗玄さんが相手なら、こちらの都合のいい順番では来てくれない。
◇
沢の水が、足元の岩を回っていた。
二つに分かれた流れが、少し下でまた並ぶ。
その上を落ち葉が一枚、くるりと向きを変えて流れていった。
山で暮らしていたときも、こういうものをよく眺めていた。
風が吹けば枝が揺れ、雨が降れば土へ染み、沢の水が増える。どれか一つが、ずっと同じ強さで動き続けているわけではなかった。
俺は目を閉じた。
魔力が巡っている。
気も巡っている。
感じ方は違う。
魔力には、長く使ってきた馴染みがある。気は身体の奥深くから動きとともに立ち上がり、足元へ重さを移すだけでも、その働きが分かる。
それぞれを、もう少しよく感じてみる。
右足へ体重を乗せた。
気が身体を支え、そこから進む力になる。その動きへ魔力を添えると、思っていたより小さな働きかけで、身体が前へ出た。
木刀を振る。
振り切る手前で進む向きを変え、横へ抜ける。
今度は魔力の巡りを保ちながら、気の働かせ方を変えた。
踏んだ足から腰が回り、木刀が新しい向きへ収まった。
俺は、その姿勢で止まった。
『今のは?』
「……もう一度、やってみる」
同じ動きを繰り返す。
二つを一緒に強めるときより、使う力は少ない。
それでも、踏み出してから切っ先を返すまで、動きの途中に余裕があった。
魔力を引けば、気がその分だけ働く。
気の働きを変えると、魔力を通した身体がその動きを運んでくれる。
片方が動くたびに、もう片方の使い方も変わる。
頭の中に、二つの形が浮かんだ。
互いの曲線に沿い、一つの円を描いている。それぞれの境目は残り、そのまま巡り続けていた。
「混ぜる必要は、ないのか」
小さく呟いた。
『魔力と気を?』
「うん。それぞれのままでいい。一方を動かしたら、もう一方も、それに合わせて変われば」
俺は木刀を下げた。
まだ、数歩の動きで試しただけだ。相手がいれば、使いたい力も、動く向きも変わる。
それでも、さっきまでとは違って、試したいことが具体的になっていた。
沢の向こうで宗玄さんが立ち上がる。
「やるか」
「はい。お願いします」
◇
今度は、沢を背にして構えた。
斜面を登る宗玄さんを待つ。
木刀は後ろへ隠れ、どちらから来るのか分からない。
足が土を踏んだ。
一気に近づいてくる。
俺は木刀を合わせ、身体を斜めに運んだ。
重い一撃を正面で止めず、横へ流す。その動きを気で支えながら、魔力を巡らせた脚で距離を詰めた。
宗玄さんの木刀が返る。
以前なら、ここで一度離れていた。
今日は足を引かず、踏む向きを変えた。
気の働きが変わる。
それに沿って魔力を使う。
刃の下へ身を入れ、木刀を短く返した。
宗玄さんの脇へ、切っ先が向かう。
作務衣が翻った。
宗玄さんが、斜面の上へ退いた。
こちらへ入り続けていた足が、一度、後ろへ向いた。
追える。
俺はそのまま踏み込んだ。
露出した根を越え、木刀を肩口へ走らせる。
宗玄さんの姿が、幹の陰へ半分隠れた。
右へ回れば届く。
そう判断して足を出したとき、木刀が幹の反対側から伸びてきた。
先端を払った。
だが、払った先にはもう力がない。
木刀を引いた宗玄さんが、幹の右側から出ていた。
俺が回ろうとした場所へ、そのまま入ってくる。
胸の前で、切っ先が止まった。
「一本」
俺は息を吐いた。
木刀を下げ、宗玄さんを見た。
目が合うと、宗玄さんはわずかに口元を緩めた。
それだけだった。
俺も礼をし、沢へ戻った。
また、負けた。
ただ、今の一連の動きは、身体に残っていた。
受け、入り、切っ先を返す。
宗玄さんが退いたところまで、二つの力が一つの動きを支えていた。
俺は木刀を持つ手を見た。
できたことを、大きく考えすぎるつもりはない。
それでも、あの一歩は、もう一度使ってみたかった。
◇
午後も、何度か立ち合った。
同じ形にはならなかった。
上から打たれるときもあれば、木の陰から突きが来ることもある。俺から攻めれば、宗玄さんは受ける前に場所を変えた。
そのたびに、魔力と気の働かせ方を変えた。
踏み込む一歩。
木刀を受けた後の返し。
《メルクリウス》を蹴り、空中で向きを変える瞬間。
使える場面が、少しずつ見つかっていった。
宗玄さんから一本を取るには至らなかったが、休憩で座ったとき、俺は自然に笑っていた。
『楽しそうね』
「うん。やってみたいことが増えた」
セレスが隣へ座った。
『名前は、つけるの?』
「もう少し形になってからでもいいと思うけど」
言いながら、沢の水へ目を向けた。
二つの力。
互いの働きに応じ、同じ身体を巡る。
「……両義相環」
口に出してみた。
セレスが、その言葉を繰り返す。
『両義相環』
「魔力と気を、それぞれのまま巡らせる。今、目指したい形には合ってると思う」
『ええ。どちらも、あなたの力だものね』
俺は頷いた。
今はまだ、短いやり取りの中で使えただけだ。
戦いが長く続いても、その場に応じて二つを働かせられるようになりたい。
宗玄さんの《地轟》を思い出す。
あの人が自分の刀に合う形を磨いてきたように、俺も、これを自分の動きの中で確かめていく。
「帰るぞ」
上から声がした。
宗玄さんが空になった包みを持ち、山道へ向かっている。
「はい」
立ち上がり、木刀を持つ。
帰り道では、気も魔力も強めなかった。
足元の石を越え、低い枝をくぐる。木々の向こうに、宗玄さんの家の屋根が見えた。
「今日は、魚を焼くかの」
「昨日の味噌も、少し塗ってみませんか」
「焦がさぬようにな」
「気をつけます」
台所へ入る前に、木刀の土を拭った。
いつもの場所へ立てかけてから袖をまくり、俺は夕食の支度に加わった。




