第145話 山裾の暮らし
縁側に干していた靴を手に取ると、ようやく中まで乾いていた。
指を入れて確かめ、足を通す。
土を落とした革には、細かな擦り傷が増えていた。昨日、沢の岩を越えようとしたときについたものだろう。
『今日は濡らさずに済むといいわね』
柱のそばにいたセレスが言った。
「沢へ入らなければ、大丈夫だと思う」
『昨日も、入りたくて入ったわけではないでしょう?』
「……それは、そうだけど」
立ち上がり、踵を合わせる。
庭では宗玄さんが籠を二つ並べていた。片方には野菜が入り、もう片方は空だった。
「今日は下へ行くぞ」
「買い物ですか?」
「味噌が少なくなってきた。ついでに、これを届けてくる」
野菜の入った籠を持ち上げようとしたので、俺が先に手を伸ばした。
「持ちます」
「では、頼もうか」
籠を腕へかける。
葉の間から、土の匂いがした。
宗玄さんは戸を閉め、空の籠を提げて歩き出した。
腰には、いつもの合口拵えの刀がある。作務衣の裾は短く整えられ、昨日あれだけ山を駆け回った人とは思えないほど、のんびりした足取りだった。
◇
宗玄さんの家で過ごすようになって、十日ほどが経っていた。
晴れた日には山へ入り、場所を変えながら木刀を合わせた。
沢沿いの日もあれば、木々の密集した斜面で始める日もある。こちらが身を隠したつもりで待っていると、いつの間にか後ろへ回られていたこともあった。
まだ、一本も取れていない。
ただ、宗玄さんを追うときに見るものは増えた。
足元の岩だけでなく、その先の道。木の陰だけでなく、そこから出た後に刀が届く場所。自分が動いたことで、相手がどちらへ行けるようになるか。
昨日は沢を越えた先まで追いつけた。
その後、待っていた木刀を避けて水へ落ちたので、勝ったわけではない。
稽古をしない時間には、畑を手伝い、食事を作り、洗濯をした。
一度、昼食の後に縁側へ座ったまま眠ってしまったことがある。目を覚ますと腹へ布がかけられ、隣では宗玄さんも寝ていた。
今日は朝から、木刀を持っていない。
山道を下りる途中、肩にいたセレスが前を指した。
『あの畑、昨日より黄色く見えるわ』
道の下に、小さな畑があった。
広い葉の間に黄色い花がいくつも開いている。宗玄さんも足を止め、そちらを見た。
「今朝、開いたのじゃろうな」
「家の畑には植えてないですよね」
「今年はな。採れる頃には、少し分けてもらえる」
「その代わりに、こっちの野菜を?」
腕にかけた籠を見る。
「そういうこともある。今日は、頼まれていた分じゃが」
宗玄さんはまた歩き出した。
俺はもう少し花を眺めてから、その後を追った。
◇
麓の集落には、道に沿って家と店が並んでいた。
瑞京ほど人は多くない。
それでも、荷車が通れば軒先にいた人が声をかけ、道を掃いていた女が手を止める。どこかの家から、薪を割る音が聞こえてきた。
「宗玄さん、今日は早いね」
店先で木箱を動かしていた男が、こちらへ手を上げた。
「切れる前に来た」
「味噌かい?」
「うむ。それと、頼まれていたものじゃ」
俺は籠を店先へ置いた。
男が葉を持ち上げ、入っている野菜を確かめる。
「いいのができたね。助かるよ」
「上の畑の分もある。そちらは少し小さい」
「煮るから構わないさ」
男は野菜を木箱へ移し、それから俺を見た。
「あんたが、今泊まっている子か」
「はい。レグルスといいます」
「山でよく音がすると思ったら、また相手ができたんだね」
最後の言葉は、宗玄さんへ向けられていた。
宗玄さんは笑うだけだった。
俺が籠を受け取ると、男は店の奥から、小さな器に味噌を二種類持ってきた。
「いつものはこっち。こっちは、この前開けたばかりだ」
宗玄さんが少しずつ味を見た。
俺にも勧められ、木の匙の先に乗ったものを口へ運ぶ。
先に食べたほうは塩気がはっきりしていた。
もう一つは、後から甘みが残る。首都の店でもいくつか見せてもらったが、同じ味噌でもずいぶん違うものだった。
「どちらにする?」
宗玄さんに聞かれ、顔を上げた。
「俺が選んでいいんですか?」
「食べるのは、おぬしも同じじゃ」
もう一度、二つの器を見る。
「こっちを。朝の汁にしたら、おいしそうです」
甘みのあるほうを指すと、男が頷いた。
「それなら、根菜を入れても合うよ」
味噌を包んでもらい、代金を払う。
宗玄さんはほかに油と茶を買い、俺は縫い糸を一巻き選んだ。昨日、服の膝を確かめたら、縫い目が少し緩んでいた。
店を出る頃には、空だった籠の底が埋まっていた。
◇
帰る前に、宗玄さんが小さな茶店へ入った。
軒先には長椅子が二つ置かれている。
竈のそばで串を返していた女が、宗玄さんを見るなり笑った。
「今日は持って帰る?」
「ここで食べよう。二人分、頼む」
俺たちは長椅子へ腰を下ろした。
道の向こうでは、子供が桶を抱えて歩いている。水がこぼれそうになるたびに立ち止まり、その後ろを年下らしい子がついていった。
やがて、茶と焼いた団子が運ばれてきた。
表面には薄く焦げ目がつき、塗られた醤油が光っている。
串を持ち上げると、香ばしい匂いがした。
「熱いうちに食べるとよい」
一つかじった。
外側はわずかに固く、中は柔らかい。噛むと米の甘みが出て、醤油の塩気と混ざった。
「……おいしいですね」
「ここのは、焼き方がよい」
宗玄さんも串を口へ運んだ。
刀を握っているときとは違い、目尻が下がっている。
俺はその横顔を見てから、自分の団子へ目を戻した。
「じいちゃんとも、こうして食べに来たんですか?」
「来たぞ。その頃は、今の店主の父親が焼いておった」
「ここにも来てたんだ」
「食う場所は、よく覚えておったな。あやつは」
茶を飲み、宗玄さんが道の先を見た。
「初めは、この辺りの飯を珍しがってな。食べたものの名前を、一つずつ聞いておった」
「じいちゃんが?」
「帰る前には、米や調味料を買い込んでいた。向こうでも食べるつもりだったのじゃろう」
実家の食卓を思い出した。
白い米。
湯気の立つ汁椀。
おむすびを手に取ったことも、一度や二度ではない。
家では、当たり前に出てきたものだった。
「うちでも、食べてます」
「そうか」
「米も、味噌を使った汁も。こっちへ来て、見覚えのあるものが多いなと思ってたんです」
宗玄さんは、しばらく黙っていた。
それから、手に持った茶碗へ視線を落とした。
「それは、よかった」
声が、少し柔らかかった。
俺はもう一つ、団子を食べた。
帰ったら、じいちゃんにもこの店のことを聞いてみようと思った。
◇
家へ戻ると、買ってきたものを台所へ収めた。
宗玄さんは畑の水を見に行き、俺は縁側で服の膝を縫った。
糸を通して引く。少し強く引きすぎて、布が寄った。
『そこ、縮んでしまっているわ』
「分かってる。今、戻すから」
糸を緩め、もう一度針を通す。
山の小屋でも多少は繕ったが、まだきれいにはできない。
セレスが隣で、縫い目をのぞき込んでいた。
『動ければいい、で済ませないのね』
「またすぐ解けたら困るだろ」
『ええ。昨日みたいに走るなら、なおさらね』
最後を留め、裏側を確かめた。
見た目は少し不揃いだったが、引っ張っても開かない。
「これでよし」
服を膝へ当て、曲げ伸ばしする。
つっぱる感じもなかった。
針と糸を片づけていると、宗玄さんが畑から戻ってきた。手には、抜いたばかりの根菜がある。
「夕飯に使うか」
「はい。今日の味噌も、試してみたいです」
「なら、任せよう」
受け取って台所へ運ぶ。
まだ日が高かったので、まず土だけ落とし、籠へ置いた。
夕食までには時間がある。
俺は縁側へ戻り、柱へ背を預けた。
庭の端で小さな鳥が地面をつついている。近づけば逃げそうだったので、そのまま眺めていた。
『今日は、刀を持たなかったわね』
「うん」
セレスがこちらを見る。
昨日の勝負で試したいことは、いくつか浮かんでいた。
宗玄さんが沢の手前で止まったとき、こちらも踏み返さずに渡りきっていたらどうなったか。木の陰から出るとき、刀より先に姿を見せていたら、別の動きを引き出せただろうか。
明日、やってみたい。
「明日は、山へ行こうと思ってる」
『そうね。お天気もよさそうだもの』
「セレスは、明日も来る?」
『もちろん。でも、また沢へ落ちるなら、先に教えてちょうだい』
「それは俺も、先に知りたいな」
セレスが笑った。
庭の鳥が、羽を震わせた。
土を蹴り、低い枝へ飛び移る。その姿を目で追ったところで、隣の部屋から宗玄さんの寝息が聞こえた。
俺は声を落とした。
「寝てる?」
『さっきからね』
半分開いた障子の向こうに、横になった足が見えた。
片方の膝だけ曲げ、腕を枕にしているらしい。
俺も柱へ頭を預け直した。
日の当たる足先が温かかった。
◇
夕方、台所で根菜を切った。
厚さが揃うように並べ、鍋へ入れる。
煮えるまでの間に、塩をした魚を焼いた。火へ近づけすぎないよう場所を変えると、脂が落ちて小さく煙が上がった。
宗玄さんは飯の様子を見ていた。
「そろそろよいな」
火を弱め、蓋を戻す。
俺も鍋の根菜へ箸を入れた。柔らかくなっている。
買ってきた味噌を少しずつ溶くと、昼に味を見たときとは違う香りが広がった。
椀へ少量取り、口をつける。
甘みがある。
けれど、何か少し薄い気がした。
もう少し加え、確かめる。
「どうじゃ」
「これくらいが、いいと思います」
「では、食べようか」
卓へ飯と汁、焼いた魚を並べた。
宗玄さんが漬物の小皿を運び、セレスが卓の端へ座る。
手を合わせ、汁椀を持った。
湯気の向こうで、宗玄さんも一口飲んだ。
「うむ」
「どうですか?」
「うまい。野菜も、ちょうどよい」
俺は頷き、自分でも口へ運んだ。
さっき味を見たときより、落ち着いた味に感じた。
魚の身をほぐし、飯と一緒に食べる。
宗玄さんが、畑に来る鳥の話を始めた。実をつつくくせに、人が近づくと知らぬ顔をするのだという。
「今日、庭にもいましたよ」
「あれじゃ。よく来る」
『追い払わないの?』
「追えば逃げる。しばらくすれば、また来る」
宗玄さんが箸を動かしながら言うので、俺は笑ってしまった。
食事を終え、椀を洗い終わる頃には、外が暗くなっていた。
縁側へ出ると、山の輪郭が空に残っている。
明日は、あの中でまた宗玄さんと向かい合う。
俺は乾いた靴を軒下へ揃え、今日繕った服をそのそばへ置いた。
部屋へ戻ると、セレスが卓の上から顔を上げる。
『もう休む?』
「うん。今日は歩いたし、よく食べた」
『いい一日だったわね』
「そうだな」
窓を閉める前に、夜の空気を少し吸った。
遠くで虫が鳴いていた。
俺は明かりを落とし、布団へ入った。




