第144話 山を駆ける二人
宗玄さんが木刀を二本持って出てきたのは、朝食の片づけを終えた頃だった。
「今日は、少し上へ行こうか」
庭へ出ようとしていた俺は、山へ目を向けた。
朝の光が斜面へ差し、木々の間に残った薄い靄を照らしている。
「山でやるんですか?」
「庭では、動ける場所が限られるからな」
一本を差し出され、受け取った。
宗玄さんは小さな包みを腰へ下げると、そのまま裏手の道へ歩き出した。
俺も獅心を収納の指輪へ収め、後に続く。
肩へ来たセレスが、宗玄さんの背中を見た。
『今日は、お弁当もあるのね』
「昼までに帰るとは限らんからの」
「そんなに遠くへ?」
「歩けば、そうでもない」
何か含みのある返事だった。
尋ね直す前に、宗玄さんは低い枝をくぐり、山道へ入っていった。
◇
小屋へ向かう道から途中で外れ、沢沿いを登った。
水は浅く、大小の岩の間を縫って流れている。片側は木の根が露出した斜面で、反対側には、苔のついた大きな岩が重なっていた。
さらに上へ目を向けると、木々の隙間から尾根が見えた。
宗玄さんは平らな岩へ包みを置いた。
「この沢から、あの尾根までにしておこう。下は、先ほど通った倒木のところまでじゃ」
示された場所を順に確かめる。
庭とは比べものにならない広さだった。真っ直ぐ走れる場所は少なく、どちらへ動いても木か岩が間へ入る。
「ここ全部ですか」
「うむ。どこを使ってもよい」
宗玄さんが木刀を持ち直した。
「一本入れば終わり。魔力も、足の道具も使って構わん」
足首の銀環へ意識を向ける。
「《メルクリウス》も?」
「海の上を走ったのじゃろう。見てみたいと思うておった」
宗玄さんは楽しそうに笑った。
俺も少し笑い、木刀を握り直す。
「昔も、ここで修練していたんですか?」
「ラウルとな」
思わず顔を上げた。
「じいちゃんと?」
「あやつがこの国におった頃は、よう来た。日が暮れても決まらず、腹を鳴らしながら帰ったこともある」
沢の音を聞きながら、周囲を見渡した。
じいちゃんが、この斜面を駆けていた。
目の前の宗玄さんと刀を交え、木々の間を追い、追われていた。
座敷で茶を飲む姿が先に浮かび、それから刀を握ったときの目を思い出した。
「どっちが勝ったんですか?」
「今日、おぬしが勝てば教えてやろう」
『それ、負けた日のお話も聞けるのかしら』
セレスの言葉に、宗玄さんが声を上げて笑った。
「覚えておればな」
木刀の先が、静かに下がる。
俺は包みの置かれた岩から離れ、沢を挟んだ位置へ立った。
水音の向こうで、宗玄さんの身体が半身になる。
わずかに前へ傾き、木刀を後ろへ隠した。
「では、始めようか」
◇
魔力の円環を強めた。
脚へ力が満ち、岩を踏む足裏の感触が鮮明になる。
気も、身体の内側で息づいていた。呼吸とともにその感触を受けながら、俺は宗玄さんとの距離を測った。
沢の幅は、跳べば越えられる。
正面の岩は乾いている。その右側は浅瀬で、さらに外へ行けば斜面へ上がれる。
先に動いたのは、宗玄さんだった。
作務衣の裾が揺れる。
次の瞬間には、水の向こうにいた身体が目の前へ来ていた。
木刀を斜めに立てた。
重い音が響く。
受けた腕ごと押され、靴底が岩の上を滑った。俺は踏みとどまらず、後ろの土へ足を送り、木刀を外へ流した。
胸元を抜けた切っ先が、そのまま下から返ってくる。
横へ跳んだ。
脇をかすめた風に、服が引かれる。
着地と同時に斜面を蹴り、近くの幹を宗玄さんとの間へ置いた。
――これが、地轟。
さっきまでの距離が、ほとんど役に立たなかった。
しかも、木刀が重い。小柄な身体から振られた一撃なのに、正面で受け続けるのは厳しい。
幹の右側へ気配が寄った。
俺は左から回り込み、宗玄さんの横へ出ようとした。
だが、姿が見えたときには、すでに木刀の先がこちらを向いていた。
突きが来る。
首を外し、木刀で軌道を逸らした。
触れたところを支点に切っ先を返す。肩へ向かって振った一撃を、宗玄さんは身を沈めてかわした。
白い髪が木刀の下を抜ける。
俺は追撃せず、斜面の上へ退いた。
足元の根を越え、土を踏み、さらに一段高い場所へ移る。
宗玄さんは追ってきた。
斜面を登っているはずなのに、速度が落ちない。
踏む場所を探す間もなく、木の根から根へ身体が進んでくる。
俺は高い位置から木刀を振り下ろした。
宗玄さんの木刀が、それを横へ払う。
衝撃を受けながら腰を回し、斜面を横切る方向へ抜けた。足元で枯葉が散ったが、身体は崩れなかった。
次の一撃を構える余裕もある。
それなのに、向き直った先に宗玄さんはいなかった。
下だ。
俺が横へ移った間に、宗玄さんは斜面を斜めに下っていた。
低い位置から伸びた木刀が、腹へ迫る。
地面を蹴る。
膝を引き上げた足元を、木刀が通り過ぎた。
空中へ右足を置く。
銀環が光り、足裏に薄い面の感触が生まれた。
そこを強く踏み、宗玄さんの頭上を越えた。
◇
枝が近づく。
身体をひねって避け、幹の横へ二つ目の足場を作った。
踏み返した勢いで、上から木刀を落とす。
宗玄さんが振り向いた。
受けに上がった木刀とぶつかり、硬い音が山へ響いた。
今度は、俺のほうが押し込む。
落下の勢いに合わせて腕を伸ばしたが、宗玄さんは打ち合った位置へ留まらなかった。半歩ずれ、木刀を傾ける。
こちらの切っ先が横へ滑り、身体が空いた場所へ流れた。
左足で空間を踏む。
向きを変え、背中へ回される前に距離を取った。
宗玄さんの目が、消えていく足場へ向いていた。
「ほう」
短い声だけが聞こえた。
俺はそのまま木々の間を抜け、沢へ下りた。
木刀を振れる広さが欲しかった。枝の下では、上から攻める方向まで限られる。
岩へ下りる直前に、もう一度だけ振り返る。
宗玄さんは斜面を走っていた。
こちらが空中を渡る間にも、地面を踏んで距離を詰めてくる。
俺は着地した岩を蹴り、沢の反対側へ跳んだ。
追ってくるなら、水を越えたところを狙う。
足場を一つ、低く作る。
向こう岸へ渡りきる前にそこで踏み返し、追う宗玄さんへ突きを返した。
だが、宗玄さんは沢へ入っていなかった。
水際で足を止め、俺の木刀が届かないところにいる。
切っ先が空を突いた。
すぐに引き戻した。
次の足場を右へ置き、岸へ抜けようとする。
そこで、宗玄さんが動いた。
水が跳ねる。
平たい岩へ置かれた足が、小さな身体を一気に送り出した。
俺は空中で木刀を返した。
間に合う。右から来る一撃へ合わせ、受け流す角度を取る。
木刀同士が触れた。
押されると思った、その瞬間。
宗玄さんは俺の木刀を押し込まず、触れたまま先端を回した。
こちらの守りがわずかに外へ向く。その隙間へ、小さな身体が入ってきた。
次の足場を踏むより早く、胸へ木刀の先が触れた。
「一本じゃ」
声のすぐ後で、宗玄さんが岩へ下りた。
俺も光の足場で勢いを抑え、浅瀬へ着地した。
水が靴へかかる。
胸元へ目を落とし、それから対岸を見た。
渡ろうとした俺を追わず、戻ってくるところへ踏み込まれた。
最初から、あそこで待っていたのか。
木刀を下げ、長く息を吐く。
「……ありがとうございました」
宗玄さんは頷き、沢の水へ片手を浸した。
濡らした手で、木刀の先についた土を落としている。
動きについての言葉はなかった。
俺は、自分が渡った空間をもう一度見た。
足場は消えている。けれど、どこを踏み、どちらへ向かったのかは覚えていた。
空中でも向きを変えられる。
だからこそ、戻って攻められると思った。
その判断を、待たれていた。
◇
岩へ腰を下ろし、水を飲んだ。
宗玄さんは少し離れた場所で、草履の緒を直している。
セレスが俺の肩から下り、隣の岩へ座った。
『上から見ていても、追いついてくるのね』
「うん。木があっても、岩があっても、ほとんど遠回りしない」
俺は水筒の蓋を閉めた。
《メルクリウス》なら、足を置く場所を自分で選べる。
けれど、宗玄さんは山にある足場だけで追ってきた。こちらを追いかけるときも、離れて待つときも、迷いがない。
腕に残った打ち合いの感触を確かめる。
疲れはあるが、痛みはなかった。指を握れば、素直に力が入る。
次は、こちらから場所を選んでみたい。
宗玄さんが立ち上がった。
「まだ、やるか」
「はい」
俺も岩から下りた。
同じ場所へは戻らず、沢沿いを少し上へ歩く。
大きな岩が二つ並び、その間を水が通っていた。右側には木が一本、斜面へ傾くように生えている。
岩の向こうで、宗玄さんが木刀を後ろへ引いた。
俺は正面へ構えた。
今度は、俺から踏み込んだ。
岩の左側へ身体を見せ、木刀の先を宗玄さんへ向ける。
相手の足が動いたところで、岩の上へ跳んだ。上から打つと見せ、その手前で足場を蹴り、右へ抜ける。
木の陰へ回り込む直前、宗玄さんの木刀が追ってきた。
それを受け、幹に沿って身体をずらす。
木を挟んで一瞬だけ姿が隠れた。
俺はそこで止まった。
すぐには追わず、足音を聞く。
沢の音。
葉の擦れる音。
幹の向こうで、土がわずかに鳴った。
木刀を短く構え、反対側へ踏み込む。
宗玄さんがいた。
肩を狙った一撃へ、木刀が合わされる。
その向こうで、宗玄さんの口元が少し上がった。
俺は打ち合ったまま押さず、切っ先を返した。
宗玄さんが後ろへ退く。追って一歩、岩の脇へ入る。
そこで急に、相手との距離が縮んだ。
退いていたはずの宗玄さんが、こちらへ踏み返していた。
俺の木刀が振り下りるより先に、柄元を押さえられる。
空いた手で応じようとしたところで、肩へ木刀が触れた。
「二本目じゃな」
俺は息を吐いた。
宗玄さんが手を離す。
さっきより近くで、顔が見えた。
「もう一度、お願いします」
「よいぞ」
◇
包みを開く頃には、沢へ差す光の向きが変わっていた。
何度か場所を変えて戦った。
斜面を駆け上がり、岩の陰で待ち、木々の間を抜けた。一度は木刀が作務衣の袖をかすめたが、身体へ届く前に手首を取られた。
結局、一本も取れていない。
俺は平らな岩へ座り、濡れた靴を脱いだ。
靴下まで水が染みている。絞ると、細い水の筋が岩へ落ちた。
「最後のところ、深かったですね」
「雨の後は、もう少し増える」
宗玄さんが包みからおむすびを取り出した。
一つ受け取り、礼を言う。
海苔の香りがした。
口へ運ぶと、塩の利いた米の中から、酸っぱい梅の味が広がった。
思っていた以上に腹が減っていた。
『レグルス、頬に土がついているわ』
「どこ?」
『右。もう少し上』
手で擦ると、乾いた土が落ちた。
宗玄さんがこちらを見て笑っている。
「じいちゃんも、こんなふうになってましたか」
「あやつは一度、沢へ尻から落ちた」
おむすびを持つ手が止まった。
「じいちゃんが?」
「儂の袖を掴んでな。二人とも濡れたわ」
『一人では落ちなかったのね』
「そういう男じゃ」
宗玄さんは、どこか嬉しそうに言った。
濡れた服で沢へ座り込む若いじいちゃんと、その隣で文句を言う宗玄さんを思い浮かべた。
今の二人の顔しか知らないせいで、少しおかしな光景になった。
「そのときは、どっちが勝ったんですか?」
「さてな」
「覚えてないんですか」
「おぬしが勝ったら、思い出すかもしれん」
俺が笑うと、セレスも肩を揺らした
。
残りのおむすびを食べ、水を飲む。
沢を渡ってきた風が、汗の引いた首筋へ触れた。
宗玄さんは食べ終えると、岩へ片肘をつき、楽な姿勢になった。
俺も靴を日の当たる場所へ置き直し、両脚を伸ばす。
木々の隙間から、小さく空が見えた。
さっきまで走り回っていた斜面は、もう静かだった。
水の流れる音を聞きながら、俺は次のおむすびへ手を伸ばした。




