第143話 同じ間合い、違う一歩
目を覚ますと、障子の向こうが白んでいた。
しばらく、布団の中で外の音を聞いた。鳥の声に混じり、何かを掃く音がする。山の小屋では聞かなかった、人の暮らす朝の音だった。
右手を開き、握る。
指は素直に動いた。肘を曲げても、肩を回しても、あの重さは残っていない。
『おはよう。腕はどう?』
枕元にいたセレスが顔を上げた。
「大丈夫そう。痛むところもない」
『そう。よかったわ』
身体を起こし、布団を畳む。
昨日は宗玄さんの家で昼食を取った後、山の地図を広げ、魔物のいた場所を詳しく伝えた。沢と折れた木を目印に説明すると、宗玄さんは頷き、麓で山仕事をしている人たちへ知らせてくれた。
そのまま泊めてもらうことになり、夕方には畑から野菜を運ぶのを手伝った。
気のことも尋ねたが、話している途中で夕食の支度になった。続きは明日でよいと言われ、俺も頷いた。
聞きたいことは、今もいくつもある。
服を整えて部屋を出ると、宗玄さんが庭を掃いていた。作務衣の袖をたくし上げ、落ち葉を一か所へ集めている。
「おはようございます」
「うむ。眠れたか」
「はい」
「なら、そこの塵取りを頼む」
軒下にあった塵取りを持ち、落ち葉の前へしゃがむ。
箒の先が、土をほとんど巻き込まずに葉を寄せた。最後の一枚が入るのを待ち、俺は塵取りを持ち上げた。
◇
朝食を終え、少し休んでから庭へ出た。
宗玄さんは俺の右腕へ触れ、肘を曲げ伸ばしさせた。肩を上げ、手首を返す。何度か確かめた後で、ようやく手を離した。
「今日は、動きながら少し巡らせてみるか」
「歩きながらですか?」
「まずは、それでよい」
庭の端へ立ち、息を吐いた。
いつもの魔力は、そのままにしておく。
その内側に感じられる、温かい流れへ意識を向けた。山で初めて気づいた頃より、探すのに時間がかからなくなっている。それでも、強く動かそうとすると、すぐに肩や腹へ力が入った。
小さく巡らせる。
足の裏に土の感触を受け、右足を前へ出した。
一歩目はよかった。二歩目で左へ体重を移したところで、流れが細くなる。戻そうとして意識を向けると、今度は歩くほうがぎこちなくなった。
「止まってもよいぞ」
足を揃え、息を吐く。
「動くと、分からなくなります」
「身体も動いておるからな」
宗玄さんは隣へ来た。
「立ったまま掴んだ感覚を、歩いている身体へ押しつけては合わぬ。今、どこへ重さが乗っておる」
「……左足です」
「では、そこからでよい」
もう一度、右足を出す。
巡りを同じ形に保とうとせず、足を置いたときの身体の変化を感じた。膝が緩み、腰が進む。その動きに伴って、気の感触もわずかに変わる。
庭を数歩進み、向きを変える。
そこでまた、右肩が詰まった。
「今、肩が上がりました」
「うむ」
宗玄さんは、それ以上言わなかった。
俺は腕を下げ、呼吸が落ち着くのを待った。
縁側に座ったセレスが、こちらを見ている。その横で、朝に干した布が風に揺れた。
今度は、歩く距離を短くした。
前へ二歩。止まり、身体の向きを変える。無理に先まで巡らせようとしなければ、さっきほど肩は固まらなかった。
何度か繰り返すうちに、足元ばかりへ向いていた意識が、少しずつ周りへ戻ってきた。
「そのくらいにしておこう」
宗玄さんの声に、足を止めた。
強く使ったわけでもないのに、額へ薄く汗がにじんでいた。手の甲で拭うと、宗玄さんが軒下へ向かう。
戻ってきた手には、木刀が二本あった。
「少し、合わせてみるか」
俺は顔を上げた。
「お願いします」
◇
渡された木刀は、柄の表面が滑らかになっていた。
両手で握り、ゆっくり持ち上げる。獅心とは重さのかかる場所が違う。軽く向きを変えて確かめると、右腕に痛みはなかった。
「今度は気を動かそうとせず、身体で受けてみよ。魔力での強化もなしじゃ」
「はい」
意識していた気の巡りを、自然な感覚へ戻した。
魔力も普段の少量のままにしておく。
宗玄さんが数歩離れた場所へ立つ。
小柄な身体が、わずかに前へ傾いた。
半身になり、木刀を後ろへ引く。切っ先の位置が身体に隠れ、こちらからは握った手の一部しか見えなくなる。
山へ入る前にも見た構えだった。
あのときは、そこからどう動くのかを見ようとしていた。
柄。肩。足元。気になる場所へ目を向けるたび、別のところが意識から抜けた。
俺は木刀を正面へ置き、息を吐いた。
宗玄さんの足が動いた。
間合いが詰まる。
後ろにあった木刀が、腰の横を抜けてこちらへ伸びてきた。
速い。
俺は左足を斜め後ろへ運んだ。
腰がその上へ移り、両手がついてくる。胸へ向かってきた木刀へ、自分の木刀を斜めに添えた。
乾いた音が鳴る。
押し止める前に、身体の向きを変えた。
相手の切っ先が胸の横を通り、両足はまだ土を捉えている。
受けられた。
そう思ったときには、宗玄さんがもう一歩入っていた。
触れ合っていた木刀が滑る。
俺は切っ先を戻しながら右へ回ろうとした。だが、宗玄さんの身体が視界の端へ移り、追いかけた肩に腰が遅れた。
足を置き直す、その前に。
脇腹へ、木の先がそっと触れた。
「そこまで」
俺は動きを止めた。
目を落とす。
右足が、思っていたより外へ出ていた。左足との間が開き、腰を戻すには一度、重さを移し直さなければならない。
宗玄さんが木刀を引いた。
「ありがとうございました」
息を吐き、構えを解く。
最初の一撃は受けられた。
けれど、次は刀を追った。相手が横へ来たとき、見失いたくなくて肩から向いてしまった。
俺は足元を見たまま、さっきの位置へ戻った。
「二歩目で、足を開きすぎましたか」
「なぜ開いた」
「身体を回そうとして……いや、刀を追いかけました」
宗玄さんは頷いた。
「最初は、足の上に身体がおった。次は手と目が先へ行ったな」
木刀をゆっくり動かしてみる。
斜めに受け、腰を移す。そこから横へ向こうとすると、さっきと同じ場所で右肩が前へ出た。
俺は一度、腕を下ろした。
悔しさはある。
今度こそ、もう少し応じられると思っていた。
それでも、最初に触れ合ったときの感触は残っている。木刀を受けた重さが腕だけへ溜まらず、身体を動かす余地があった。
「最初のは、前より楽に動けました」
「見ておった」
宗玄さんが木刀を肩へ立てかける。
「以前は、受けねばと思うたところで、足まで固めておったからな」
山で水を運んだときのことを思い出した。
桶を揺らさないように腕を固めるほど、足元の小さな段差に身体がついていかなかった。力を抜き、歩幅を変えたほうが、水はこぼれなかった。
木刀を握る指を、少し緩める。
『最初の一歩、肩が上がらなかったわね』
縁側からセレスが言った。
「うん。手だけで何とかしようとはしなかった」
『その後は、少し急いだみたいだけれど』
「そこも分かった」
答えると、宗玄さんが小さく笑った。
「では、今の二歩だけ、ゆっくり合わせるか」
「お願いします」
もう一度、向かい合った。
今度は宗玄さんも速度を落とす。
木刀が触れる。
俺はその位置を目で追いすぎず、足を置き、腰を運んだ。
◇
稽古は長く続かなかった。
同じ動きを数回確かめたところで、宗玄さんが木刀を下げた。
俺も頷き、右手を開く。痺れも痛みもなく、握っていた部分に木の感触だけが残っていた。
縁側へ戻り、渡された布で汗を拭く。
宗玄さんは木刀を片づけてから、隣へ腰を下ろした。
「山で、ずいぶん歩いたようじゃな」
「水を汲みに行くにも、食べるものを探すにも、歩きましたから」
「それでよい」
庭へ目を向ける。
さっき足を置いた場所に、浅い跡が残っていた。
「宗玄さんは、気を使うと、あの動きがもっと速くなるんですよね」
「そうじゃ」
「昨日、速度と筋力のために使うと聞きましたけど……全身へ同じように巡らせるんですか?」
宗玄さんは、少し考えてから口を開いた。
「巡らせることは土台じゃな。そこから、どう使うかが違う」
作務衣の膝へ置いた手が、軽く握られた。
「儂は、踏み込む力と、刀を振る力を強めておる。間を詰め、斬る。その二つを、身体が遅れずに行えるようにな」
「足だけを速くしても、駄目なんですね」
「先ほど、おぬしも身体で確かめたじゃろう」
俺は、自分の肩へ触れた。
足が出ても、腰が遅れる。刀が届く位置へ来ても、振れる姿勢でなければ意味がない。
「儂は、その使い方を《地轟》と呼んでおる」
「……地轟」
口の中で繰り返した。
普段は畑の草を抜き、箒で庭を掃いている人だ。
けれど、向かい合った瞬間、その小さな身体が間合いを埋める。あの動きにさらに力と速さが加わるところを、今の俺はまだ思い描ききれなかった。
「じいちゃんも、同じように使っているんですか?」
「ラウルは、また違う」
宗玄さんの目が、少し細くなった。
「あやつはよう見ておる。こちらが動いた後でも、身体を柔らかく使い、間に合わせてくる。若い頃から、嫌なところへ刀を置くのがうまかった」
庭で向かい合った祖父の姿が浮かんだ。
踏み込めそうだと思った場所には、すでに切っ先がある。こちらが強く出るほど、いつの間にか足元が苦しくなる。
「気の使い方にも、それが出るんですね」
「長く使うておれば、自分の得手に合う形ができてくる。身体も、積んできたものも違うからな」
宗玄さんは俺へ顔を向けた。
「まずは、おぬしが無理なく扱えるところを知ることじゃ」
「はい」
右手を膝へ戻した。
山で魔物へ打ち込んだときには、出せるだけ出してしまった。
今日、歩きながら巡らせた気は、それよりずっと小さい。それでも、身体を動かすだけで滞るところがある。
確かめることは、まだ多かった。
◇
昼前、宗玄さんが畑へ出る間、俺は縁側で休ませてもらった。
庭の向こうで、鍬が土へ入る。
風が吹くと、干してある布の端が持ち上がった。
目を閉じる。
魔力の円環は、いつものように続いていた。
長く繰り返してきた流れは、話している間も、木刀を握っている間も、途切れていない。
その一方で、身体の中には気がある。
どちらも、今の俺の中にあるものだった。
気を意識すると、つい魔力を扱うときの感覚を使おうとする。けれど、同じ速さで動かそうとすれば肩が詰まる。今日の朝も、それで足を止めた。
俺は目を開け、自分の手を見た。
『何か、試したくなった?』
隣へ来たセレスが尋ねる。
「考えてた。魔力は、もうずっと巡らせてきたから」
『ええ』
「気を使えるようになっても、この感覚は残るだろうなって」
セレスが俺の手元へ目を落とした。
『それも、あなたが積み重ねてきたものだものね』
「うん」
宗玄さんには、宗玄さんの使い方がある。
じいちゃんにも、長く刀を振る中で身につけたものがある。
なら、俺はどう使うのだろう。
答えを出そうとする前に、庭の向こうから声がした。
「レグルス。この籠を運んでもらえるか」
「はい」
縁側から立ち上がり、履物へ足を通す。
宗玄さんの傍らには、土のついた野菜が入った籠が置かれていた。
両手で持ち上げると、思ったより重い。
腕で引き上げすぎないよう、身体へ寄せた。
家へ戻る途中、庭に残った足跡が目に入った。
さっき広く踏みすぎた跡の隣へ、今度は無理なく足を置く。
籠を揺らさずに通り過ぎると、台所から湯の沸く音が聞こえてきた。




