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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第十一章 東方紀行、天地の息吹
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第142話 山から持ち帰るもの

 魔物と戦った翌日は、小屋の近くで過ごした。

 右腕の痺れは朝には薄れていたが、鍋を持ち上げると、肩の奥に重さが残っているのが分かった。水は桶へ半分ずつ汲み、薪は積んであったものを使った。

 気を右腕へ通すのも、その日はやめておいた。


 昼を過ぎると、軒下まで日が差した。

 戸を開けたまま座り、風に揺れる枝を眺める。セレスは隣で脚を投げ出し、時折、飛んでくる鳥へ顔を向けていた。

 何もしない時間にも、少し慣れてきた。

 魔物の背中へ掌を当てた感触を思い返すことはあった。

 足から腰へ力がつながり、気が腕を抜けた、あの瞬間。もう一度確かめたい気持ちはある。だが、右手を開けば、まだ指先にわずかな違和感があった。

 手を膝へ戻し、俺は目を閉じた。


     ◇


 二日目には、椀を持っても気にならなくなった。

 朝の片づけを済ませてから、短い時間だけ気の巡りを確かめた。腹の奥にある感触を追い、背中から腰へ戻す。掌へ集める手前で止めると、流れは少し乱れたが、強く押し出されることはなかった。

 そこで終え、昼前には沢へ出た。

 糸を垂らして待っている間、水面へ葉が落ちた。

 流れに乗った葉は岩の手前で回り、しばらく同じところを漂ってから、下流へ抜けていった。


『今日は、取られないといいわね』


「まだ何も来てないよ」


『だから、今のうちに』


 肩のセレスへ返事をしかけたところで、竿の先が動いた。


 口を閉じ、糸を見る。

 もう一度引かれるのを待って、手首を上げた。

 水面が跳ねた。

 引き上げた魚は、思っていたより小さかった。それでも、銀色の腹をひねりながら、しっかり針にかかっている。


「……釣れた」


『ええ。今度は、こちらのご飯になったわね』


 笑いながら魚を外す。

 右手に痛みはなかった。

 その日の夕方、焼けた魚を皿へ移しながら、俺はセレスへ声をかけた。


「明日、山を下りようと思う」


 セレスが顔を上げた。


『宗玄のところへ?』


「うん。気のことを、聞いてもらいたい。あの魔物のことも」


 どう動いたかは覚えている。

 どこで流れを抑えられなくなったのかも、少しずつ思い返せるようになってきた。

 それでも、自分だけでは分からないところが残っていた。


『そうね。腕の具合も、見てもらいましょう』


「うん」


 魚へ箸を入れる。

 皮は少し焦げていたが、身は柔らかく焼けていた。


     ◇


 翌朝は、食事を終えてから小屋を片づけた。

 借りた鍋を洗い、布で水気を拭う。釣り針と糸はもとの箱へ収め、竿を壁際へ戻した。寝台の上を整え、床に入り込んだ葉や土を掃き出す。

 持ってきた荷物をまとめると、部屋が広くなった気がした。


 戸口から、もう一度中を見る。

 最初に来たときには、どこへ何を置こうかと考えた。

 今は、手を伸ばす先を身体が覚えている。鍋を置いていた場所にも、腰を下ろしていた板にも、目が自然と向いた。


『忘れ物はない?』


「大丈夫だと思う」


 火床に熱が残っていないことを確かめ、窓を閉めた。

 外へ出ると、軒下には乾いた薪が残っていた。

 濡れないように寄せ直し、桶を伏せる。少し前に直した戸は、引っかかることなく閉まった。

 俺は留め具をかけてから、小屋へ頭を下げた。


「お世話になりました」


 顔を上げると、セレスが静かにこちらを見ていた。


『また来られるわよ』


「うん」


 名残惜しくて動けない、というほどではない。

 ただ、離れる前に、もう少し見ておきたかった。

 朝の光が屋根の端へ当たっていた。

 草を抜いた道の脇には、小さな葉がまた伸び始めている。

 俺は荷物を背負い、山道へ足を向けた。


     ◇


 下り道では、登ってきたときと違うものが目に入った。

 木の根を越えた先にある、土の固い場所。

 落ち葉の下で動きそうな石。

 沢の音が近づくにつれて、風が冷たくなること。

 足元へ目を落としたまま歩かなくても、次に足を置く場所は分かった。

 坂に合わせて歩幅を小さくする。

 身体が前へ行きすぎる前に足が支え、次の一歩へ移る。腰を固めて踏ん張ることも、以前より少なくなっていた。


 途中、木々が途切れたところで立ち止まった。

 山裾の畑と、点々と続く家の屋根が見える。

 その先では道が細く伸び、遠くの空へ霞んでいた。


「あそこまで下りるんだな」


『上ってくるときにも、見えたはずだけれど』


「ちゃんと見てなかった」


 あのときは、小屋へ着いてから何をするかを考えていた。

 魔力を使わずに歩くことさえ、何かを得るための修練にしようとしていた気がする。

 俺は荷物の紐を直し、しばらく景色を眺めた。

 じいちゃんは、刀を置いた後も、急いで次のことを始めたりはしなかった。

 庭を見て、茶を飲み、俺の話を聞いていた。修練の合間の、何でもない時間だと思っていた。

 今なら、自分も少し座っていたいと思う。

 風が通り、セレスの髪が頬へ触れた。

 俺は顔を上げ、また歩き出した。


     ◇


 宗玄さんは、庭にいた。

 色の褪せた作務衣の袖をまくり、畑の端でしゃがんでいる。傍らには草を入れた籠があり、抜いた根についた土を、指先で落としていた。

 預けた魔導二輪は、軒下で覆いをかけられていた。


「宗玄さん」

 声をかけると、白い頭が上がった。


「おお。下りてきたか」


「はい。小屋、ありがとうございました」


 宗玄さんは俺を見た。

 足元から顔へ目を移し、そのまま少しだけ黙っていた。

 それから、目尻を緩めた。


「そこへ荷を置いておれ。これを抜いたら、茶にしよう」


「はい」


 縁側の脇へ荷物を下ろした。

 宗玄さんの指が、草の根元を探っている。

 引けば抜けそうに見えたが、土を少しほぐし、細い根まで切らずに持ち上げていた。

 俺は庭へ目を向けた。

 山へ入る前に手合わせをした場所は、変わらず平らだった。あのとき足を踏み直した辺りにも、今は何の跡もない。

 縁側の下で、虫が一匹動いた。

 セレスが肩からそれを見送り、庭木のほうへ顔を向ける。


「待たせたな」

 宗玄さんが立ち上がった。


「いえ」


 手を洗いに行くその背中を見送り、俺は靴についた土を払った。


     ◇


 茶には、柔らかな香りがあった。

 湯呑みを両手で持ち、ひと口飲む。

 山でも湯は沸かしていたが、こうして淹れてもらった茶を飲むのは久しぶりだった。


「山では、どう暮らした」

 宗玄さんが尋ねた。


「水を汲んで、薪を拾って。魚を釣ったり、食べられる草を採ったりしていました」


「魚は釣れたか」


「最初は、あまり。少しずつ釣れるようにはなりましたけど」


『大きいのには、何度も餌を取られていたわ』

 卓の端に座ったセレスが言った。

 宗玄さんが声を立てて笑う。


「あそこの魚も、なかなか用心深いからのう」


「宗玄さんも、釣るんですか?」


「昔はな。小屋の道具を使ったか」


「はい。片づけて戻してあります。それと、戸が引っかかっていたので、少し直しました」


「それは助かった」

 宗玄さんが茶を飲む。

 俺も湯呑みへ口をつけた。


 魚を焼いて焦がしたこと。

 雨の日は小屋で過ごしていたこと。

 晴れた午後に、気づいたら眠っていたこと。

 話していると、思っていたよりもいろいろなことをしていた。


「……最初は、全部修練にしようとしていたんです」

 湯呑みを置きながら言った。


「歩くのも、水を運ぶのも。でも、二日目の朝に景色を見ていたら、しばらく普通に暮らしてみようと思って」


「そうか」


「何もしないで座っているのも、初めは落ち着かなかったです」


「今はどうじゃ」


 少し考えた。


「気持ちよく座っていられるときも、あります」


 宗玄さんが頷いた。


「来たときは、座っておっても、次に動くことを考えておる顔じゃった」


「そんなに分かりましたか」


「よう分かった」


 笑いを含んだ声だった。

 俺も苦笑して、湯呑みへ目を落とす。

 庭仕事を終えるのを待っている間、何かを損したとは思わなかった。

 今も、聞きたいことはある。それでも、宗玄さんが茶を飲み終えるまで待つことはできた。


「少し、待てるようになったようじゃな」


 顔を上げると、宗玄さんは穏やかに笑っていた。


     ◇


 気に気づいたときのことを、順に話した。

 雨の音を聞いていたこと。

 山の水や木々を見て、自分の身体の中にも、それに似た巡りがあるように感じたこと。

 木へ掌を当て、初めてその力を通したこと。

 宗玄さんは途中で口を挟まず、聞いていた。


「それから、熊に似た魔物に遭いました」


 その言葉で、宗玄さんの目が少し細くなった。

 肩と背の突起、長い爪。

 木を折り、地面を掘り返していた様子と、小屋からの方角を伝える。


「亡骸は、その場所にあるんじゃな」


「はい。俺一人では運べなかったので」


「分かった。近くで山仕事をする者にも伝えておこう。後で場所を、もう少し詳しく教えてくれ」


「お願いします」


 戦いの話を続けた。

 身体強化をせずに動けたこと。最後には《メルクリウス》を使い、背後へ回ったことも、そのまま話した。

 宗玄さんは銀環のある足元へ一度目を向け、それから俺の右手を見た。


「その掌で打ったか」


「はい。自分が使う技の動きを使って、背中へ。でも、思っていた以上に気が流れてしまって」


「腕に何か残ったか」


「痺れと、肩の重さが。今は、ほとんどありません」


「貸してみい」

 右手を差し出す。

 宗玄さんは手首を支え、肘を曲げ伸ばししてから、前腕と肩へ順に指を当てた。


「ここは?」


「痛くないです」


「では、指を開いてみい」


 言われたとおりに動かす。

 宗玄さんはしばらく確かめてから、手を離した。


「今日は強く打たずにおこう」


「はい」


 右手を膝へ戻した。


「通せた感触はあるんです。ただ、どれだけ通したのか、自分でも分かりません。同じようにやれと言われても、まだ」


「それが分かっておればよい」


 宗玄さんは、空になった湯呑みを卓へ置いた。


「まずは、少なく使うことじゃな。出せた量を、そのまま扱える量と思わぬことじゃ」


 俺は頷いた。

 魔物が倒れた瞬間よりも、掌を離した後の腕の感覚が浮かんだ。

 あれを繰り返して確かめる前に、ここへ戻ってきてよかった。


     ◇


 庭へ出ると、宗玄さんは俺の前に立った。


「打たんでよい。今、どのように巡らせておるか、見せてみい」


 足を開き、息を整える。

 いつもの魔力の円環を保ち、その内側に感じる気へ意識を向けた。

 腹から背へ。腰を通り、脚へ。

 流れを追っていると、宗玄さんの指が右肩へ軽く触れた。


「そこを、上げんでよい」


 肩を下ろす。

 腕へ送ろうとしていた気が、一度曖昧になった。

 俺は急いで戻そうとせず、息を吐いた。

 足裏の重さを感じ直すと、腹の奥に、さっきの感触が戻ってくる。


「そうじゃ。そのくらいでよい」


 宗玄さんが手を離した。


「魔力を巡らせてきた分、流れを捉えるのは慣れておるな。ただ、気まで同じ加減で動かそうとしておる」


「速すぎますか」


「今のお前にはの。身体がついてくるところを、覚えていけばよい」


 俺はもう一度、ゆっくり息をした。

 宗玄さんは少し離れ、自分の右手を開いた。


「気を何に使うかは、人によって違う。身体も、得物も、積み重ねたものも違うからのう」


「宗玄さんは、どう使うんですか?」


「儂は、速く動き、強く振る。そのために使う」


 庭へ置かれた小柄な身体を見た。

 手合わせで詰められた間合い。

 受けた刀の重さ。

 そして、抜いたところさえ見えなかった《酒吞》。

 それらが、目の前の穏やかな姿へ重なる。


「速度と、筋力ですか」


「うむ。そこを磨いてきた」


 宗玄さんは右手を下ろした。


「お前が、儂と同じ使い方を選ぶ必要はない。まず、自分の気を知ることじゃ」


「……はい」


 身体の中では、魔力が巡っていた。

 その流れは長く続けてきたもので、今は意識を離しても途切れない。

 気は、まだそうはいかない。

 けれど、どちらも自分の中にある。

 この二つを抱えて、俺はどう動くのだろう。

 考えかけたところで、宗玄さんが縁側を振り返った。


「さて。昼にするか」


 俺もそちらを見る。

 軒の影が、さっきより短くなっていた。


「何か、手伝います」


「なら、菜を洗ってくれ。桶は裏じゃ」


「分かりました」


 気を強く動かそうとしていた意識を緩め、腕を下ろす。

 庭を横切ると、縁側にいたセレスが肩へ戻ってきた。


『話したいことは、話せた?』


「うん。まだ聞きたいことはあるけど」


『午後もあるものね』


「ああ」


 裏へ回ると、籠に土のついた菜が入っていた。

 袖をまくり、桶へ水を汲む。

 根元へ指を入れると、土がほぐれ、水の底へ沈んだ。

 葉を傷めないように持ち替え、俺は次の一株へ手を伸ばした。

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