第142話 山から持ち帰るもの
魔物と戦った翌日は、小屋の近くで過ごした。
右腕の痺れは朝には薄れていたが、鍋を持ち上げると、肩の奥に重さが残っているのが分かった。水は桶へ半分ずつ汲み、薪は積んであったものを使った。
気を右腕へ通すのも、その日はやめておいた。
昼を過ぎると、軒下まで日が差した。
戸を開けたまま座り、風に揺れる枝を眺める。セレスは隣で脚を投げ出し、時折、飛んでくる鳥へ顔を向けていた。
何もしない時間にも、少し慣れてきた。
魔物の背中へ掌を当てた感触を思い返すことはあった。
足から腰へ力がつながり、気が腕を抜けた、あの瞬間。もう一度確かめたい気持ちはある。だが、右手を開けば、まだ指先にわずかな違和感があった。
手を膝へ戻し、俺は目を閉じた。
◇
二日目には、椀を持っても気にならなくなった。
朝の片づけを済ませてから、短い時間だけ気の巡りを確かめた。腹の奥にある感触を追い、背中から腰へ戻す。掌へ集める手前で止めると、流れは少し乱れたが、強く押し出されることはなかった。
そこで終え、昼前には沢へ出た。
糸を垂らして待っている間、水面へ葉が落ちた。
流れに乗った葉は岩の手前で回り、しばらく同じところを漂ってから、下流へ抜けていった。
『今日は、取られないといいわね』
「まだ何も来てないよ」
『だから、今のうちに』
肩のセレスへ返事をしかけたところで、竿の先が動いた。
口を閉じ、糸を見る。
もう一度引かれるのを待って、手首を上げた。
水面が跳ねた。
引き上げた魚は、思っていたより小さかった。それでも、銀色の腹をひねりながら、しっかり針にかかっている。
「……釣れた」
『ええ。今度は、こちらのご飯になったわね』
笑いながら魚を外す。
右手に痛みはなかった。
その日の夕方、焼けた魚を皿へ移しながら、俺はセレスへ声をかけた。
「明日、山を下りようと思う」
セレスが顔を上げた。
『宗玄のところへ?』
「うん。気のことを、聞いてもらいたい。あの魔物のことも」
どう動いたかは覚えている。
どこで流れを抑えられなくなったのかも、少しずつ思い返せるようになってきた。
それでも、自分だけでは分からないところが残っていた。
『そうね。腕の具合も、見てもらいましょう』
「うん」
魚へ箸を入れる。
皮は少し焦げていたが、身は柔らかく焼けていた。
◇
翌朝は、食事を終えてから小屋を片づけた。
借りた鍋を洗い、布で水気を拭う。釣り針と糸はもとの箱へ収め、竿を壁際へ戻した。寝台の上を整え、床に入り込んだ葉や土を掃き出す。
持ってきた荷物をまとめると、部屋が広くなった気がした。
戸口から、もう一度中を見る。
最初に来たときには、どこへ何を置こうかと考えた。
今は、手を伸ばす先を身体が覚えている。鍋を置いていた場所にも、腰を下ろしていた板にも、目が自然と向いた。
『忘れ物はない?』
「大丈夫だと思う」
火床に熱が残っていないことを確かめ、窓を閉めた。
外へ出ると、軒下には乾いた薪が残っていた。
濡れないように寄せ直し、桶を伏せる。少し前に直した戸は、引っかかることなく閉まった。
俺は留め具をかけてから、小屋へ頭を下げた。
「お世話になりました」
顔を上げると、セレスが静かにこちらを見ていた。
『また来られるわよ』
「うん」
名残惜しくて動けない、というほどではない。
ただ、離れる前に、もう少し見ておきたかった。
朝の光が屋根の端へ当たっていた。
草を抜いた道の脇には、小さな葉がまた伸び始めている。
俺は荷物を背負い、山道へ足を向けた。
◇
下り道では、登ってきたときと違うものが目に入った。
木の根を越えた先にある、土の固い場所。
落ち葉の下で動きそうな石。
沢の音が近づくにつれて、風が冷たくなること。
足元へ目を落としたまま歩かなくても、次に足を置く場所は分かった。
坂に合わせて歩幅を小さくする。
身体が前へ行きすぎる前に足が支え、次の一歩へ移る。腰を固めて踏ん張ることも、以前より少なくなっていた。
途中、木々が途切れたところで立ち止まった。
山裾の畑と、点々と続く家の屋根が見える。
その先では道が細く伸び、遠くの空へ霞んでいた。
「あそこまで下りるんだな」
『上ってくるときにも、見えたはずだけれど』
「ちゃんと見てなかった」
あのときは、小屋へ着いてから何をするかを考えていた。
魔力を使わずに歩くことさえ、何かを得るための修練にしようとしていた気がする。
俺は荷物の紐を直し、しばらく景色を眺めた。
じいちゃんは、刀を置いた後も、急いで次のことを始めたりはしなかった。
庭を見て、茶を飲み、俺の話を聞いていた。修練の合間の、何でもない時間だと思っていた。
今なら、自分も少し座っていたいと思う。
風が通り、セレスの髪が頬へ触れた。
俺は顔を上げ、また歩き出した。
◇
宗玄さんは、庭にいた。
色の褪せた作務衣の袖をまくり、畑の端でしゃがんでいる。傍らには草を入れた籠があり、抜いた根についた土を、指先で落としていた。
預けた魔導二輪は、軒下で覆いをかけられていた。
「宗玄さん」
声をかけると、白い頭が上がった。
「おお。下りてきたか」
「はい。小屋、ありがとうございました」
宗玄さんは俺を見た。
足元から顔へ目を移し、そのまま少しだけ黙っていた。
それから、目尻を緩めた。
「そこへ荷を置いておれ。これを抜いたら、茶にしよう」
「はい」
縁側の脇へ荷物を下ろした。
宗玄さんの指が、草の根元を探っている。
引けば抜けそうに見えたが、土を少しほぐし、細い根まで切らずに持ち上げていた。
俺は庭へ目を向けた。
山へ入る前に手合わせをした場所は、変わらず平らだった。あのとき足を踏み直した辺りにも、今は何の跡もない。
縁側の下で、虫が一匹動いた。
セレスが肩からそれを見送り、庭木のほうへ顔を向ける。
「待たせたな」
宗玄さんが立ち上がった。
「いえ」
手を洗いに行くその背中を見送り、俺は靴についた土を払った。
◇
茶には、柔らかな香りがあった。
湯呑みを両手で持ち、ひと口飲む。
山でも湯は沸かしていたが、こうして淹れてもらった茶を飲むのは久しぶりだった。
「山では、どう暮らした」
宗玄さんが尋ねた。
「水を汲んで、薪を拾って。魚を釣ったり、食べられる草を採ったりしていました」
「魚は釣れたか」
「最初は、あまり。少しずつ釣れるようにはなりましたけど」
『大きいのには、何度も餌を取られていたわ』
卓の端に座ったセレスが言った。
宗玄さんが声を立てて笑う。
「あそこの魚も、なかなか用心深いからのう」
「宗玄さんも、釣るんですか?」
「昔はな。小屋の道具を使ったか」
「はい。片づけて戻してあります。それと、戸が引っかかっていたので、少し直しました」
「それは助かった」
宗玄さんが茶を飲む。
俺も湯呑みへ口をつけた。
魚を焼いて焦がしたこと。
雨の日は小屋で過ごしていたこと。
晴れた午後に、気づいたら眠っていたこと。
話していると、思っていたよりもいろいろなことをしていた。
「……最初は、全部修練にしようとしていたんです」
湯呑みを置きながら言った。
「歩くのも、水を運ぶのも。でも、二日目の朝に景色を見ていたら、しばらく普通に暮らしてみようと思って」
「そうか」
「何もしないで座っているのも、初めは落ち着かなかったです」
「今はどうじゃ」
少し考えた。
「気持ちよく座っていられるときも、あります」
宗玄さんが頷いた。
「来たときは、座っておっても、次に動くことを考えておる顔じゃった」
「そんなに分かりましたか」
「よう分かった」
笑いを含んだ声だった。
俺も苦笑して、湯呑みへ目を落とす。
庭仕事を終えるのを待っている間、何かを損したとは思わなかった。
今も、聞きたいことはある。それでも、宗玄さんが茶を飲み終えるまで待つことはできた。
「少し、待てるようになったようじゃな」
顔を上げると、宗玄さんは穏やかに笑っていた。
◇
気に気づいたときのことを、順に話した。
雨の音を聞いていたこと。
山の水や木々を見て、自分の身体の中にも、それに似た巡りがあるように感じたこと。
木へ掌を当て、初めてその力を通したこと。
宗玄さんは途中で口を挟まず、聞いていた。
「それから、熊に似た魔物に遭いました」
その言葉で、宗玄さんの目が少し細くなった。
肩と背の突起、長い爪。
木を折り、地面を掘り返していた様子と、小屋からの方角を伝える。
「亡骸は、その場所にあるんじゃな」
「はい。俺一人では運べなかったので」
「分かった。近くで山仕事をする者にも伝えておこう。後で場所を、もう少し詳しく教えてくれ」
「お願いします」
戦いの話を続けた。
身体強化をせずに動けたこと。最後には《メルクリウス》を使い、背後へ回ったことも、そのまま話した。
宗玄さんは銀環のある足元へ一度目を向け、それから俺の右手を見た。
「その掌で打ったか」
「はい。自分が使う技の動きを使って、背中へ。でも、思っていた以上に気が流れてしまって」
「腕に何か残ったか」
「痺れと、肩の重さが。今は、ほとんどありません」
「貸してみい」
右手を差し出す。
宗玄さんは手首を支え、肘を曲げ伸ばししてから、前腕と肩へ順に指を当てた。
「ここは?」
「痛くないです」
「では、指を開いてみい」
言われたとおりに動かす。
宗玄さんはしばらく確かめてから、手を離した。
「今日は強く打たずにおこう」
「はい」
右手を膝へ戻した。
「通せた感触はあるんです。ただ、どれだけ通したのか、自分でも分かりません。同じようにやれと言われても、まだ」
「それが分かっておればよい」
宗玄さんは、空になった湯呑みを卓へ置いた。
「まずは、少なく使うことじゃな。出せた量を、そのまま扱える量と思わぬことじゃ」
俺は頷いた。
魔物が倒れた瞬間よりも、掌を離した後の腕の感覚が浮かんだ。
あれを繰り返して確かめる前に、ここへ戻ってきてよかった。
◇
庭へ出ると、宗玄さんは俺の前に立った。
「打たんでよい。今、どのように巡らせておるか、見せてみい」
足を開き、息を整える。
いつもの魔力の円環を保ち、その内側に感じる気へ意識を向けた。
腹から背へ。腰を通り、脚へ。
流れを追っていると、宗玄さんの指が右肩へ軽く触れた。
「そこを、上げんでよい」
肩を下ろす。
腕へ送ろうとしていた気が、一度曖昧になった。
俺は急いで戻そうとせず、息を吐いた。
足裏の重さを感じ直すと、腹の奥に、さっきの感触が戻ってくる。
「そうじゃ。そのくらいでよい」
宗玄さんが手を離した。
「魔力を巡らせてきた分、流れを捉えるのは慣れておるな。ただ、気まで同じ加減で動かそうとしておる」
「速すぎますか」
「今のお前にはの。身体がついてくるところを、覚えていけばよい」
俺はもう一度、ゆっくり息をした。
宗玄さんは少し離れ、自分の右手を開いた。
「気を何に使うかは、人によって違う。身体も、得物も、積み重ねたものも違うからのう」
「宗玄さんは、どう使うんですか?」
「儂は、速く動き、強く振る。そのために使う」
庭へ置かれた小柄な身体を見た。
手合わせで詰められた間合い。
受けた刀の重さ。
そして、抜いたところさえ見えなかった《酒吞》。
それらが、目の前の穏やかな姿へ重なる。
「速度と、筋力ですか」
「うむ。そこを磨いてきた」
宗玄さんは右手を下ろした。
「お前が、儂と同じ使い方を選ぶ必要はない。まず、自分の気を知ることじゃ」
「……はい」
身体の中では、魔力が巡っていた。
その流れは長く続けてきたもので、今は意識を離しても途切れない。
気は、まだそうはいかない。
けれど、どちらも自分の中にある。
この二つを抱えて、俺はどう動くのだろう。
考えかけたところで、宗玄さんが縁側を振り返った。
「さて。昼にするか」
俺もそちらを見る。
軒の影が、さっきより短くなっていた。
「何か、手伝います」
「なら、菜を洗ってくれ。桶は裏じゃ」
「分かりました」
気を強く動かそうとしていた意識を緩め、腕を下ろす。
庭を横切ると、縁側にいたセレスが肩へ戻ってきた。
『話したいことは、話せた?』
「うん。まだ聞きたいことはあるけど」
『午後もあるものね』
「ああ」
裏へ回ると、籠に土のついた菜が入っていた。
袖をまくり、桶へ水を汲む。
根元へ指を入れると、土がほぐれ、水の底へ沈んだ。
葉を傷めないように持ち替え、俺は次の一株へ手を伸ばした。




