第141話 掌の先へ
朝の沢は、まだ冷たかった。
水へ浸した指を引き上げ、桶の縁を握る。雨の後に増えていた水も落ち着き、底の小石が見えるようになっていた。流れの緩いところでは、小さな魚が尾を動かしている。
今日は、釣りには少し早いかもしれない。
そう思いながら桶を持ち上げると、肩にいたセレスが水面をのぞいた。
『昨日の大きな魚は、いないわね』
「同じ場所にいるとは限らないよ」
『ずいぶん長く待ったのに、餌だけ取られたものね』
「今日は釣れるかもしれないだろ」
セレスが笑った。
俺も少し笑い、沢から小屋へ続く道を上った。
木に掌を打ち込んだ日から、何日かが過ぎていた。
気に気づいたからといって、暮らしが大きく変わったわけではない。水を汲み、食事を作り、必要な分だけ薪を拾う。晴れれば寝具を干し、昼過ぎには釣りへ出かけることもあった。
気の流れを確かめるのは、朝や、仕事の合間に少しだけ。
うまく感じられる日もあれば、意識するほど曖昧になる日もある。そんなときには切り上げて、別のことをするようになった。
昨日は、小屋の戸の引っかかりを直した。
閉めるたびに持ち上げていたものが、今は片手で動く。それだけのことが、思いのほか嬉しかった。
◇
汲んできた水を置き、軒下へ腰を下ろした。
朝食までは、まだ少し時間がある。
両手を膝に置き、息を吐く。胸から腹へ、いつもの魔力が静かに巡っていた。その流れを強めず、身体の重さを足と尻へ預ける。
腹の奥に、別の感触があった。
初めに気づいたときよりも、見失うことは少なくなっている。背中へ、腰へ。息を吐いても消えず、姿勢を変えると、それに応じてわずかに動く。
ただ、掌へ集めようとすると、まだ肩が固くなった。
俺は手を開き、指先の力を抜いた。
今日は、これくらいでいい。
目を上げると、向かいの枝に鳥が止まっていた。くちばしで羽を整え、短く鳴いてから、木々の間へ飛んでいく。
その先へ視線を送ったところで、ふと動きが止まった。
何かがいる。
沢とは反対の斜面。
小屋からは木々に遮られて見えない、その向こうだった。
耳を澄ます。
風が葉を揺らしていた。少し下では、いつもの鳥が鳴いている。だが、気になった方角だけ、声が途切れていた。
胸の奥に、重いものが引っかかる。
一か所に留まらず、短く動いては止まっている。姿も形も分からない。それでも、風に揺れる枝や、小動物の動きとは違った。
『どうしたの?』
戸口にいたセレスが、こちらを見た。
「向こうに、何かいる」
立ち上がり、斜面の奥を見る。
そのとき、乾いた音が届いた。
枝が折れた音にしては、太い。
『……今の音?』
「その前から、少し」
俺は小屋へ入り、置いていた獅心を腰へ差した。
以前なら、あの音がするまで気づかなかったかもしれない。
毎日聞いてきた山の音。その中にある違いが、今は妙にはっきりしていた。身体の内に気を感じるようになってから、外へ向けた意識にも、これまでとは違う手応えがある。
確かめるには、まだ分からないことが多い。
「少し、見てくる」
『ええ。一緒に行くわ』
セレスが肩へ戻るのを待ち、俺は小屋を離れた。
◇
斜面を横切り、木の間を進む。
下草には、朝露が残っていた。足を置くたびに葉が傾き、靴の先を濡らす。何度か薪を拾いに来た場所だが、いつもより奥まで入ると、地面へ露出した根が増えた。
気配は近づいていた。
木の幹へ片手を添え、向こうをのぞく。
剥がれた樹皮が落ちていた。その先には、途中から折れた若木が横たわっている。白い木肌はまだ湿っていて、裂けた繊維が細く伸びていた。
低い唸り声がした。
少し開けた場所に、黒褐色の巨体がいた。
熊に似ている。
だが、前脚が異様に太く、肩から背にかけて硬そうな突起が毛の間から張り出していた。地面へついた爪は長く曲がり、土を掻くたびに深い溝を残す。
魔物だった。
鼻先を地面へ押しつけたかと思うと、不意に顔を上げ、傍らの木へ前脚を叩きつけた。
鈍い音が響く。幹が揺れ、葉と樹皮が落ちた。
魔物は落ちた枝にも牙を立て、振り回して投げ捨てた。
周囲の草は踏み潰され、掘り返された土の上に根が浮いていた。
つい数日前、この近くを歩いたときにはなかった傷だった。
『ずいぶん荒れているわね』
「ああ」
小屋から、そう遠くない。
沢へ行く道とも離れてはいなかった。
俺は周囲を見た。
足元には根が一本。その先は、落ち葉の下に小石が交じっている。左手には立ち木があり、右側は少し広い。
顔を戻したとき、魔物の鼻が動いた。
赤黒い目が、こちらを向く。
唇が持ち上がり、牙が見えた。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
◇
木の陰から右へ出る。
魔物の前脚が、すぐ後ろの地面を叩いた。土と葉が跳ね上がり、頬をかすめる。俺は足を止めず、腰を回して相手へ向き直った。
近い。
けれど、慌てて距離を取り直す必要はなかった。
魔物が頭を振り、牙を寄せてくる。
右足へ体重を移すと、肩も腰も一緒に抜けた。鼻先が胸の前を通り過ぎる。湿った息が服へかかった。
左の前脚が浮いた。
その肩が動くうちに、俺は斜めへ足を置いていた。
爪が空を切る。振り抜かれた腕へ触れ、身体の向きを変えながら外へ流した。
重い。
まともに受ければ、持っていかれる。
それでも、腕が進もうとする先から身を退けば、その重さに逆らわずに済んだ。
魔物が踏み直す。
俺も一歩、位置を変えた。
足が決まってから上体を運ぶ、あのわずかな遅れがなかった。
踏み出すと、身体がついてくる。止まりたいところで止まり、次へ移るときにも、腰を引き戻す必要がない。
普段の魔力の円環は、そのままだ。
身体を強化するために、流れを増やしてはいなかった。
それなのに、間に合う。
頭上から前脚が落ちてきた。
半歩退き、爪の先を見送る。地面へ食い込んだ腕の脇を抜けると、魔物が唸りながら身体を回した。
俺はその動きに合わせ、外側へ回る。
宗玄さんとの手合わせでは、足を置いた後に身体が残っていた。
今は、次の一歩を無理に引き出さなくても、動きが続いた。
腹の奥から腰へ、気が通っている。
意識を向けすぎなくても、その感触だけは消えなかった。
『レグルス、後ろに根があるわ』
「分かってる」
根を跨ぎ、踏み固まった土へ足を置いた。
魔物が追ってくる。
前脚を左右に振り、俺のいる場所を潰そうとする。そのたびに、俺は爪の届く範囲から身体をずらした。
袖を風が打った。
目の前を通り過ぎた鉤爪の先が、陽を受けて白く光る。
避けられるからといって、いつまでも続けるわけにはいかない。
魔物は後脚で立ち上がった。
俺よりはるかに高い位置で、肩が大きく開く。右腕が外へ引かれ、長い爪が並んだ。
背後には、さっき越えた根がある。
横へ逃げれば、あの長い腕が追ってくる。
俺は膝を緩めた。
◇
右の鉤爪が、横へ薙がれた。
地面を蹴る。
脚を引き上げると、靴底のすぐ下を太い腕が通り過ぎた。巻き起こった風が服の裾を跳ね上げる。
魔物の顔が上を向いた。
その頭上へ抜けながら、銀環へ魔力を通した。
今は、背後を取る。
斜め上に、足を置く場所を定める。
薄い光が生まれた。
身体をひねり、膝を引き寄せる。
靴底が足場を捉えた。腰を返しながら蹴ると、上へ向かっていた身体が反転し、魔物の背後へ走った。
視界の端を、突起の並ぶ背中が過ぎる。
足場は消えた。
俺は空中で脚を下ろし、地面を捉えた。
膝を曲げ、落ちる勢いを受け止める。
魔物はまだ右腕を振り抜いた姿勢にあった。こちらを追おうと、首から先に振り向き始めている。
踏み込んで右の掌底を、背中へ当てる。
肩の突起より下。厚い毛の奥に、硬い肉の感触があった。
腕は引かなかった。
獅子琉掌で繰り返してきた動きが、身体に残っている。
足から腰へ。腰から背中へ。そこで途切れさせず、掌の先へ通す。
足裏で、地面を踏みしめた。
身体が支えられる。
膝が伸びきる前に腰が動き、背中から右腕へ力がつながった。
その内側を、気が走った。
思っていたよりも、多い。
腹の奥から押し寄せた流れが、肩を抜け、肘を通る。
掌を当てたまま、ほんのわずかに身体を送った。
短い音がした。
掌の下で、何かが深く震えた。
表面の硬さを越え、その奥へ力が抜けていく。止めようとしたときには、もう右腕を通り過ぎていた。
魔物の動きが止まった。
巨体は、吹き飛ばなかった。
振り向きかけた姿勢のまま、背中が強張る。
開いた口から、血が噴き出した。
鼻からも、耳からも。
こちらへ向きかけた目の縁が赤く染まり、穴という穴から溢れた血が、黒褐色の毛を濡らしていく。
俺は掌を離し、後ろへ退いた。
魔物の膝が折れた。
前脚が地面へ落ち、爪が土を掻く。そのまま身体が横へ傾き、重い音を立てて倒れた。
落ち葉が舞った。
俺は右手を下げずに、距離を取った。
魔物の脚が一度だけ動く。喉の奥で濁った音がして、それきり、巨体は動かなくなった。
◇
しばらく、その場を離れなかった。
呼吸を整えながら、倒れた魔物を見る。
胸も、腹も動いていない。先ほどまで荒々しく感じていた気配は、もうなかった。
『……レグルス。右手は?』
セレスの声で、自分の腕へ目を落とした。
指が、少し曲がったままになっていた。
開こうとすると動く。だが、掌から肘にかけて、細かな痺れが残っていた。
「動くよ。ただ、痺れてる」
『無理に握らないで』
「うん」
右腕を下ろした。
遅れて、肩の奥に鈍い重さが出てくる。
木へ打ち込んだときとは違った。
あのときは、途中で力が散った。
今は掌まで通ったが、そこへ流す量を抑えられなかった。打つと決めた瞬間に、気がまとまって押し寄せてきた。
「……通ったのは、分かったんだけど」
『止められなかった?』
「ああ。こんなに流すつもりじゃなかった」
倒れた魔物の背中を見る。
掌を当てたところには、大きな傷も、目立つ陥没もなかった。
それでも、あれだけの血が出た。
掌を引く距離は、ほとんどなかった。
短い動きから、奥へ勁を発する。寸勁というものを、自分の身体で初めて掴みかけた気がした。
だが、同じ一撃を、同じ強さでもう一度放てるかといえば、頷けない。
俺は左手で右の前腕を支えた。
しばらく息を整えていると、指先の痺れは少しずつ薄くなった。
『小屋へ戻りましょう。今日は、腕を休めたほうがいいわ』
「そうする」
周囲へ目を向ける。
追ってくるものはいなかった。木々の向こうから、鳥の声が一つ聞こえた。
足元には、折れた若木が倒れていた。
その枝を避け、帰り道へ向かう。
途中で一度振り返り、魔物が倒れた場所を覚えた。後で宗玄さんに、この魔物のことも伝えなければならない。
◇
小屋へ戻ると、まず手を洗った。
右手を水へ浸す。
冷たさが、指の間へ染みた。泥を落とし、布で拭ってから、軒下へ座る。
出かける前に汲んだ桶は、まだそこにあった。
朝食の支度も、途中のままだった。
『お腹は空いている?』
「……今、空いてきた」
『じゃあ、食べましょう』
俺は頷き、立ち上がった。
今日は、手のかかるものはやめておく。
残していた飯を鍋へ入れ、水を足す。火を起こし、柔らかくなるまで待ってから、味噌を少し溶いた。
鍋を持つときには左手を使った。
右は添えるだけにして、椀へ移す。
湯気の向こうで、セレスが俺の手元を見ていた。
「こぼさないよ」
『今朝、魚にはずいぶん自信があったから』
「あれとは別だろ」
思わず笑うと、肩の力が抜けた。
椀を持ち、ひと口食べる。
煮えた米は柔らかく、味噌の塩気がちょうどよかった。
掌の感触は、まだ残っている。
身体が迷わず動いたことも、背中の奥へ力が抜けた瞬間も、忘れたくなかった。
確かめたいことは、いくつもある。
俺は椀を膝に置き、右手をそっと開いた。
朝より少し高くなった陽が、指先へ当たっている。
「今日は、釣りも休みだな」
『あの魚には、もう一日待ってもらいましょう』
「明日も餌だけ取られたりして」
『そのときは、また考えればいいわ』
俺は笑って、椀を持ち直した。
軒先を風が通り、干していた布の端が揺れた。
飯が冷めないうちに、もうひと口食べた。




