↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第十一章 東方紀行、天地の息吹
PR
152/163

第141話 掌の先へ

 朝の沢は、まだ冷たかった。

 水へ浸した指を引き上げ、桶の縁を握る。雨の後に増えていた水も落ち着き、底の小石が見えるようになっていた。流れの緩いところでは、小さな魚が尾を動かしている。

 今日は、釣りには少し早いかもしれない。

 そう思いながら桶を持ち上げると、肩にいたセレスが水面をのぞいた。


『昨日の大きな魚は、いないわね』


「同じ場所にいるとは限らないよ」


『ずいぶん長く待ったのに、餌だけ取られたものね』


「今日は釣れるかもしれないだろ」


 セレスが笑った。

 俺も少し笑い、沢から小屋へ続く道を上った。

 木に掌を打ち込んだ日から、何日かが過ぎていた。

 気に気づいたからといって、暮らしが大きく変わったわけではない。水を汲み、食事を作り、必要な分だけ薪を拾う。晴れれば寝具を干し、昼過ぎには釣りへ出かけることもあった。

 気の流れを確かめるのは、朝や、仕事の合間に少しだけ。

 うまく感じられる日もあれば、意識するほど曖昧になる日もある。そんなときには切り上げて、別のことをするようになった。

 昨日は、小屋の戸の引っかかりを直した。

 閉めるたびに持ち上げていたものが、今は片手で動く。それだけのことが、思いのほか嬉しかった。


     ◇


 汲んできた水を置き、軒下へ腰を下ろした。

 朝食までは、まだ少し時間がある。

 両手を膝に置き、息を吐く。胸から腹へ、いつもの魔力が静かに巡っていた。その流れを強めず、身体の重さを足と尻へ預ける。

 腹の奥に、別の感触があった。

 初めに気づいたときよりも、見失うことは少なくなっている。背中へ、腰へ。息を吐いても消えず、姿勢を変えると、それに応じてわずかに動く。

 ただ、掌へ集めようとすると、まだ肩が固くなった。

 俺は手を開き、指先の力を抜いた。

 今日は、これくらいでいい。

 目を上げると、向かいの枝に鳥が止まっていた。くちばしで羽を整え、短く鳴いてから、木々の間へ飛んでいく。

 その先へ視線を送ったところで、ふと動きが止まった。


 何かがいる。

 沢とは反対の斜面。

 小屋からは木々に遮られて見えない、その向こうだった。

 耳を澄ます。

 風が葉を揺らしていた。少し下では、いつもの鳥が鳴いている。だが、気になった方角だけ、声が途切れていた。

 胸の奥に、重いものが引っかかる。

 一か所に留まらず、短く動いては止まっている。姿も形も分からない。それでも、風に揺れる枝や、小動物の動きとは違った。


『どうしたの?』

 戸口にいたセレスが、こちらを見た。


「向こうに、何かいる」


 立ち上がり、斜面の奥を見る。

 そのとき、乾いた音が届いた。

 枝が折れた音にしては、太い。


『……今の音?』


「その前から、少し」


 俺は小屋へ入り、置いていた獅心を腰へ差した。

 以前なら、あの音がするまで気づかなかったかもしれない。

 毎日聞いてきた山の音。その中にある違いが、今は妙にはっきりしていた。身体の内に気を感じるようになってから、外へ向けた意識にも、これまでとは違う手応えがある。

 確かめるには、まだ分からないことが多い。


「少し、見てくる」


『ええ。一緒に行くわ』

 セレスが肩へ戻るのを待ち、俺は小屋を離れた。


     ◇


 斜面を横切り、木の間を進む。

 下草には、朝露が残っていた。足を置くたびに葉が傾き、靴の先を濡らす。何度か薪を拾いに来た場所だが、いつもより奥まで入ると、地面へ露出した根が増えた。

 気配は近づいていた。

 木の幹へ片手を添え、向こうをのぞく。

 剥がれた樹皮が落ちていた。その先には、途中から折れた若木が横たわっている。白い木肌はまだ湿っていて、裂けた繊維が細く伸びていた。


 低い唸り声がした。

 少し開けた場所に、黒褐色の巨体がいた。

 熊に似ている。

 だが、前脚が異様に太く、肩から背にかけて硬そうな突起が毛の間から張り出していた。地面へついた爪は長く曲がり、土を掻くたびに深い溝を残す。


 魔物だった。

 鼻先を地面へ押しつけたかと思うと、不意に顔を上げ、傍らの木へ前脚を叩きつけた。

 鈍い音が響く。幹が揺れ、葉と樹皮が落ちた。

 魔物は落ちた枝にも牙を立て、振り回して投げ捨てた。

 周囲の草は踏み潰され、掘り返された土の上に根が浮いていた。

 つい数日前、この近くを歩いたときにはなかった傷だった。


『ずいぶん荒れているわね』


「ああ」


 小屋から、そう遠くない。

 沢へ行く道とも離れてはいなかった。

 俺は周囲を見た。

 足元には根が一本。その先は、落ち葉の下に小石が交じっている。左手には立ち木があり、右側は少し広い。

 顔を戻したとき、魔物の鼻が動いた。

 赤黒い目が、こちらを向く。

 唇が持ち上がり、牙が見えた。

 次の瞬間、巨体が地面を蹴った。


     ◇


 木の陰から右へ出る。

 魔物の前脚が、すぐ後ろの地面を叩いた。土と葉が跳ね上がり、頬をかすめる。俺は足を止めず、腰を回して相手へ向き直った。


 近い。

 けれど、慌てて距離を取り直す必要はなかった。

 魔物が頭を振り、牙を寄せてくる。

 右足へ体重を移すと、肩も腰も一緒に抜けた。鼻先が胸の前を通り過ぎる。湿った息が服へかかった。


 左の前脚が浮いた。

 その肩が動くうちに、俺は斜めへ足を置いていた。

 爪が空を切る。振り抜かれた腕へ触れ、身体の向きを変えながら外へ流した。


 重い。

 まともに受ければ、持っていかれる。

 それでも、腕が進もうとする先から身を退けば、その重さに逆らわずに済んだ。


 魔物が踏み直す。

 俺も一歩、位置を変えた。

 足が決まってから上体を運ぶ、あのわずかな遅れがなかった。

 踏み出すと、身体がついてくる。止まりたいところで止まり、次へ移るときにも、腰を引き戻す必要がない。

 普段の魔力の円環は、そのままだ。

 身体を強化するために、流れを増やしてはいなかった。

 それなのに、間に合う。

 頭上から前脚が落ちてきた。

 半歩退き、爪の先を見送る。地面へ食い込んだ腕の脇を抜けると、魔物が唸りながら身体を回した。

 俺はその動きに合わせ、外側へ回る。

 宗玄さんとの手合わせでは、足を置いた後に身体が残っていた。

 今は、次の一歩を無理に引き出さなくても、動きが続いた。

 腹の奥から腰へ、気が通っている。

 意識を向けすぎなくても、その感触だけは消えなかった。


『レグルス、後ろに根があるわ』


「分かってる」


 根を跨ぎ、踏み固まった土へ足を置いた。

 魔物が追ってくる。

 前脚を左右に振り、俺のいる場所を潰そうとする。そのたびに、俺は爪の届く範囲から身体をずらした。

 袖を風が打った。

 目の前を通り過ぎた鉤爪の先が、陽を受けて白く光る。

 避けられるからといって、いつまでも続けるわけにはいかない。

 魔物は後脚で立ち上がった。

 俺よりはるかに高い位置で、肩が大きく開く。右腕が外へ引かれ、長い爪が並んだ。

 背後には、さっき越えた根がある。

 横へ逃げれば、あの長い腕が追ってくる。

 俺は膝を緩めた。


     ◇


 右の鉤爪が、横へ薙がれた。

 地面を蹴る。

 脚を引き上げると、靴底のすぐ下を太い腕が通り過ぎた。巻き起こった風が服の裾を跳ね上げる。

 魔物の顔が上を向いた。

 その頭上へ抜けながら、銀環へ魔力を通した。

 

 今は、背後を取る。

 斜め上に、足を置く場所を定める。

 薄い光が生まれた。

 身体をひねり、膝を引き寄せる。

 靴底が足場を捉えた。腰を返しながら蹴ると、上へ向かっていた身体が反転し、魔物の背後へ走った。


 視界の端を、突起の並ぶ背中が過ぎる。

 足場は消えた。

 俺は空中で脚を下ろし、地面を捉えた。

 膝を曲げ、落ちる勢いを受け止める。

 魔物はまだ右腕を振り抜いた姿勢にあった。こちらを追おうと、首から先に振り向き始めている。


 踏み込んで右の掌底を、背中へ当てる。

 肩の突起より下。厚い毛の奥に、硬い肉の感触があった。

 腕は引かなかった。

 獅子琉掌で繰り返してきた動きが、身体に残っている。

 足から腰へ。腰から背中へ。そこで途切れさせず、掌の先へ通す。

 足裏で、地面を踏みしめた。

 身体が支えられる。

 膝が伸びきる前に腰が動き、背中から右腕へ力がつながった。


 その内側を、気が走った。

 思っていたよりも、多い。

 腹の奥から押し寄せた流れが、肩を抜け、肘を通る。

 掌を当てたまま、ほんのわずかに身体を送った。


 短い音がした。

 掌の下で、何かが深く震えた。

 表面の硬さを越え、その奥へ力が抜けていく。止めようとしたときには、もう右腕を通り過ぎていた。


 魔物の動きが止まった。

 巨体は、吹き飛ばなかった。

 振り向きかけた姿勢のまま、背中が強張る。

 開いた口から、血が噴き出した。

 鼻からも、耳からも。

 こちらへ向きかけた目の縁が赤く染まり、穴という穴から溢れた血が、黒褐色の毛を濡らしていく。


 俺は掌を離し、後ろへ退いた。

 魔物の膝が折れた。

 前脚が地面へ落ち、爪が土を掻く。そのまま身体が横へ傾き、重い音を立てて倒れた。

 落ち葉が舞った。

 俺は右手を下げずに、距離を取った。

 魔物の脚が一度だけ動く。喉の奥で濁った音がして、それきり、巨体は動かなくなった。


     ◇


 しばらく、その場を離れなかった。

 呼吸を整えながら、倒れた魔物を見る。

 胸も、腹も動いていない。先ほどまで荒々しく感じていた気配は、もうなかった。


『……レグルス。右手は?』

 セレスの声で、自分の腕へ目を落とした。


 指が、少し曲がったままになっていた。

 開こうとすると動く。だが、掌から肘にかけて、細かな痺れが残っていた。


「動くよ。ただ、痺れてる」


『無理に握らないで』


「うん」


 右腕を下ろした。

 遅れて、肩の奥に鈍い重さが出てくる。

 木へ打ち込んだときとは違った。

 あのときは、途中で力が散った。

 今は掌まで通ったが、そこへ流す量を抑えられなかった。打つと決めた瞬間に、気がまとまって押し寄せてきた。


「……通ったのは、分かったんだけど」


『止められなかった?』


「ああ。こんなに流すつもりじゃなかった」


 倒れた魔物の背中を見る。

 掌を当てたところには、大きな傷も、目立つ陥没もなかった。

 それでも、あれだけの血が出た。

 掌を引く距離は、ほとんどなかった。

 短い動きから、奥へ勁を発する。寸勁というものを、自分の身体で初めて掴みかけた気がした。

 だが、同じ一撃を、同じ強さでもう一度放てるかといえば、頷けない。

 俺は左手で右の前腕を支えた。

 しばらく息を整えていると、指先の痺れは少しずつ薄くなった。


『小屋へ戻りましょう。今日は、腕を休めたほうがいいわ』


「そうする」


 周囲へ目を向ける。

 追ってくるものはいなかった。木々の向こうから、鳥の声が一つ聞こえた。

 足元には、折れた若木が倒れていた。

 その枝を避け、帰り道へ向かう。

 途中で一度振り返り、魔物が倒れた場所を覚えた。後で宗玄さんに、この魔物のことも伝えなければならない。


     ◇


 小屋へ戻ると、まず手を洗った。

 右手を水へ浸す。

 冷たさが、指の間へ染みた。泥を落とし、布で拭ってから、軒下へ座る。

 出かける前に汲んだ桶は、まだそこにあった。

 朝食の支度も、途中のままだった。


『お腹は空いている?』


「……今、空いてきた」


『じゃあ、食べましょう』


 俺は頷き、立ち上がった。

 今日は、手のかかるものはやめておく。

 残していた飯を鍋へ入れ、水を足す。火を起こし、柔らかくなるまで待ってから、味噌を少し溶いた。

 鍋を持つときには左手を使った。

 右は添えるだけにして、椀へ移す。

 湯気の向こうで、セレスが俺の手元を見ていた。


「こぼさないよ」


『今朝、魚にはずいぶん自信があったから』


「あれとは別だろ」

 思わず笑うと、肩の力が抜けた。


 椀を持ち、ひと口食べる。

 煮えた米は柔らかく、味噌の塩気がちょうどよかった。


 掌の感触は、まだ残っている。

 身体が迷わず動いたことも、背中の奥へ力が抜けた瞬間も、忘れたくなかった。

 確かめたいことは、いくつもある。

 俺は椀を膝に置き、右手をそっと開いた。

 朝より少し高くなった陽が、指先へ当たっている。


「今日は、釣りも休みだな」


『あの魚には、もう一日待ってもらいましょう』


「明日も餌だけ取られたりして」


『そのときは、また考えればいいわ』


 俺は笑って、椀を持ち直した。

 軒先を風が通り、干していた布の端が揺れた。

 飯が冷めないうちに、もうひと口食べた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。