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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第十一章 東方紀行、天地の息吹
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第140話 山の息吹、内なる巡り

 朝から、細い雨が降っていた。

 食事を済ませ、軒下へ敷いた布の上に座る。

 雨脚は弱く、ここまで吹き込んでくることはなかった。膝へ手を置き、目を閉じると、屋根から落ちる雫の音が近くなった。

 初めは、どれも同じ雨音に聞こえた。

 しばらくすると、葉を打つ音と、地面へ落ちる音が分かれてくる。軒の端からは、まとまった水が一定の間を置いて落ちていた。


 息を吸う。

 湿った土と、濡れた木の匂いがした。

 昨日、水を運んだ後に感じたものを、無理に探そうとは思わなかった。

 まずは、こうして座っていたかった。身体を少し揺らして楽な位置へ収め、ゆっくり息を吐く。


 魔力は、いつもどおりに巡っていた。

 胸から腹へ、身体の奥を通り、また戻ってくる。

 以前なら、途切れず回っていることを確かめれば、それで十分だった。今は、その流れの強さが場所によってわずかに違うことまで感じられた。

 肩を下げると、息が深く入った。

 腹が動き、背中の張りが緩む。

 その奥で、何かがかすかに応じた。

 意識を向けると、分からなくなる。

 俺は追いかけるのをやめ、雨音へ耳を戻した。


     ◇


 風が吹いた。

 山の上のほうから、ざわめきが近づいてくる。

 大きな枝が揺れ、細い葉が擦れ合った。少し遅れて、頬へ冷たい空気が届く。

 目を開けると、木々から雫が落ちていた。

 雨そのものより大きな粒が、葉を跳ねさせ、土へ染み込んでいく。

 小屋の前には、細い水の筋ができていた。

 地面の窪みにたまり、あふれたところから下へ流れる。途中で小石にぶつかると二つに分かれ、その先でまた一つになった。

 その流れは、小屋の脇の溝へ続いていた。

 溝から斜面へ。斜面の下には、毎日水を汲んでいる沢がある。


『少し、明るくなってきたわね』


 セレスが戸口へ出てきた。

 俺の隣へ座り、雲の切れかけた空を見上げる。


「もう上がるかな」


『向こうは、雨が薄くなっているみたい』


 木々の向こうに、白く明るい場所があった。

 眺めているうちに雨音が弱まり、屋根の雫だけが残る。


 俺は立ち上がり、軒下から出た。

 道の脇に、小さな草が生えていた。

 数日前には丸まっていた葉が開き、その間から新しい葉がのぞいている。屈んで見ると、細い茎に水滴がついていた。

 地面へ目を落とす。

 草の周りには、古い落ち葉が重なっている。形の残っているものもあれば、黒く柔らかくなり、土との境目が分からないものもあった。

 ここへ降った雨を、この草も吸っているのだろう。

 同じ水が沢へ流れ、俺はそれを汲んで飲んでいる。

 立ち上がると、枝先から雫が肩へ落ちた。


「冷たい」


『ちょうど、その下に立ったから』

 セレスが笑った。


 俺は濡れた肩を払い、木を見上げた。

 幹から枝が分かれ、その先には数えきれない葉がある。

 足元の根は、土の下へ続いていた。見えるところだけで、この木が立っているわけではなかった。


     ◇


 雨が上がった沢は、いつもより音が大きかった。

 水際まで下りず、道の途中から流れを見る。山肌を伝ってきた小さな水の筋が、いくつも沢へ注いでいた。

 この沢も、さらに下れば別の流れと合わさる。

 川になり、街を通り、やがて海へ出るのだろう。

 船から見た、どこまでも続く青を思い出した。

 あの上にも雲があり、雨を降らせていたはずだった。

 俺は頬へ触れる風を感じながら、息を吸った。

 木々の間を通ってきた空気が、胸へ入る。

 吐いた息は、目には見えないまま外へ戻っていった。


「……つながってるんだな」


『何が?』


「雨も、沢も、木も。別々に見てたけど」


 セレスは、俺が見ている流れへ目を向けた。


「ここで汲んだ水を飲んで、魚を食べて、山菜も採ってるだろ。俺の身体を動かしてるものも、ここから来てるんだなって」


 口にしながら、自分の手を見る。

 指を曲げると、腕の内側が動いた。呼吸をすれば胸だけでなく腹も動く。立っている間は、足が身体を支えている。

 どれか一つで、俺が動いているわけではない。

 この山も、そうなのかもしれなかった。

 一本ずつの木があり、一筋ずつの水が流れている。それらが集まった山が、また木や水のあり方を変えていく。

 山を一つのものとして見れば、俺はその中にいる。

 けれど、その俺の中にも、いくつもの巡りがあった。

 すべてを理解したとは、とても言えない。

 ただ、身体の内と外を分けていた感覚が、少し薄くなった。

 風が吹き、沢沿いの枝が揺れた。

 俺もその風の中で、静かに息を吐いた。


     ◇


 小屋へ戻る途中、開けた場所で足を止めた。

 雨に濡れた根を避け、固い地面へ立つ。

 先ほど軒下で感じたものが、またあった。

 腹の奥から背へ、薄く広がっている。

 熱に似ているが、皮膚が温まる感覚とは違う。息を吐き終えても消えず、足へ重さを移すと、それに伴って動いた。

 魔力の円環を確かめる。

 そちらは、普段のままだった。

 これまでなら、身体へ力が満ちる感覚は、魔力によるものだと思っていた。

 けれど、今は二つを別々に感じられる。

 自分で巡らせている魔力。

 そして、身体の奥で息づき、動きにつれて応じるもの。

 右手を持ち上げる。

 肘を張ると、その感触が途切れた。肩の力を抜いて下ろすと、腹の辺りにまた戻ってくる。

 水を運んだときにも、これがあった。


「……気、なのか」


 口にした途端、宗玄さんの声が浮かんだ。

 自分の内で起きていることを、感じ取らなければならない。

 ずっと、どこかに新しい力が生まれるのを待っていたのかもしれない。

 けれど、今感じているものには、突然入り込んできたような違和感がなかった。


『感じるの?』

 セレスが尋ねた。


「うん。魔力とは、違う」

 俺は腹へ手を当てた。


「前からあったんだと思う。気づかなかっただけで」


 まだ、力の輪郭は曖昧だった。

 気を抜けば分からなくなりそうで、それでいて、強く掴もうとしても見失う。

 山の水や風を眺めていたときと、どこか似ていた。

 止めて確かめようとすると、流れとして見えなくなる。


「少し、動かしてみたい」


 セレスは俺の顔を見てから、頷いた。


『ええ。ゆっくりね』


     ◇


 小屋から少し離れたところに、太い木があった。

 道へ張り出した根を跨ぎ、その前へ立つ。


 樹皮は雨で暗く濡れている。

 幹を目でたどると、高いところで枝が分かれ、雲の切れ間へ葉を広げていた。根元には苔がつき、その脇から小さな草が生えている。


 この木も、今朝の雨を受けていた。

 俺が来るよりずっと前から、ここに立っていたのだろう。

 足を揃え、頭を下げた。


「少し、借ります」


 顔を上げてから、右の掌を幹へ当てる。

 冷たく、ざらついていた。

 山へ来てから、自分の力を試すために構えるのは初めてだった。

 魔力は強めない。

 いつもの円環を保ったまま、もう一つの感触へ意識を向ける。

 腹から背へ。

 そこで止めず、身体を巡って戻るように。

 魔力を初めて回した頃の感覚を手掛かりにすると、曖昧だった力が少し動いた。

 だが、同じ速さで巡らせようとした途端、胸の辺りが詰まるような感じがした。


 息を吐き、やり直す。

 急がず、今ある流れをたどる。

 脚へ、腰へ、背へ。途切れかけても無理に押さず、呼吸を続けた。

 一巡したのかどうかは、まだはっきりしない。

 それでも、腹へ戻ってくる感触があった。


 そこから右手へ集めようとした。

 肩が上がる。

 肘が固まり、掌には腕で押す力ばかりがかかった。

 幹は動かない。

 右肩だけに、重さが返ってきた。


「……違うな」


 手を離し、腕を下ろした。

 もう一度強く押したところで、同じことになりそうだった。

 足元を見る。

 後ろに置いた右足の踵が、浮きかけていた。

 俺は半歩位置を変え、足裏を地面へ落ち着かせた。


     ◇


 湿った土の下には、固い地面があった。

 膝を少し緩め、身体の重さを預ける。

 沈み続けることはない。足裏が受け止められ、その上に脚があり、腰がある。

 帝国で、何度も地面を踏んだ。

 強く踏み込み、腰を送り、全身の力を一撃へ乗せる。そのたびに教わっていた。

 大地を踏みしめる。

 大地から、力を借り受ける。

 俺は右足へ、ゆっくり力をかけた。

 地面から返る感触が、脚を通った。

 膝を固めなければ、腰まで届く。上体だけを先へ出さずにいると、背中から腕へもつながった。

 強く蹴る前から、そこには支えがあった。

 腹の奥で、気が動く。

 足元から伝わる力と、内側を巡る力。

 息を吐きながら腰をわずかに動かすと、それらが右腕へ向かって重なった。

 今度は、肩で止まらなかった。

 右の掌を、もう一度幹へ添える。

 左手は腹の前に置いた。大きく振りかぶる必要はない。今つながっているものを、掌まで通してみる。


 土を踏む。

 腰が動き、背から腕へ力が走った。

 短い音がした。

 掌に、先ほどとは違う手応えが返った。

 幹の表面だけを押したときより深く、重い。頭上で葉が擦れ、雫がまとめて落ちてきた。

 風は、吹いていなかった。

 俺は掌を当てたまま、動きを止めた。

 指の付け根がじんと痺れている。腕の中を通った感触は、すでに薄れ始めていた。


『……枝が揺れたわね』


「ああ」


 返事をしてから、息を吸った。

 最後のところで、少し止めてしまっていたらしい。

 右手を離す。

 樹皮に大きな傷はない。けれど、掌には確かに、打ち込んだときの震えが残っていた。

 今の動きを、頭の中でもう一度たどる。

 足、腰、背、腕。そのどこを意識すれば同じようになるのか、まだ分からない。右手へ届いた力も、集めた分をすべて使えたとは思えなかった。


「できた、とは言いきれないな」


『でも、さっきとは違ったのでしょう?』


「うん。はっきり違った」


 手を開き、閉じる。

 その動作の奥にも、かすかな気配があった。

 俺はもう一度、幹へ掌を置いた。

 今度は力を込めず、湿った樹皮に触れているだけにした。指の痺れが引くにつれ、冷たさが戻ってきた。

 根元から幹へ視線を上げる。

 葉の間には明るい空が見えていた。


「ありがとう」


 手を離し、頭を下げた。

 すぐにもう一度試したい気持ちはあった。

 けれど、今は右腕の感触を急いで上書きしたくなかった。少し歩き、息を整えてから考えよう。

 小屋へ向き直り、一歩を置く。

 足裏を地面が支えた。

 その感触を受けながら、俺はセレスと一緒に、雨上がりの道を戻った。

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