第140話 山の息吹、内なる巡り
朝から、細い雨が降っていた。
食事を済ませ、軒下へ敷いた布の上に座る。
雨脚は弱く、ここまで吹き込んでくることはなかった。膝へ手を置き、目を閉じると、屋根から落ちる雫の音が近くなった。
初めは、どれも同じ雨音に聞こえた。
しばらくすると、葉を打つ音と、地面へ落ちる音が分かれてくる。軒の端からは、まとまった水が一定の間を置いて落ちていた。
息を吸う。
湿った土と、濡れた木の匂いがした。
昨日、水を運んだ後に感じたものを、無理に探そうとは思わなかった。
まずは、こうして座っていたかった。身体を少し揺らして楽な位置へ収め、ゆっくり息を吐く。
魔力は、いつもどおりに巡っていた。
胸から腹へ、身体の奥を通り、また戻ってくる。
以前なら、途切れず回っていることを確かめれば、それで十分だった。今は、その流れの強さが場所によってわずかに違うことまで感じられた。
肩を下げると、息が深く入った。
腹が動き、背中の張りが緩む。
その奥で、何かがかすかに応じた。
意識を向けると、分からなくなる。
俺は追いかけるのをやめ、雨音へ耳を戻した。
◇
風が吹いた。
山の上のほうから、ざわめきが近づいてくる。
大きな枝が揺れ、細い葉が擦れ合った。少し遅れて、頬へ冷たい空気が届く。
目を開けると、木々から雫が落ちていた。
雨そのものより大きな粒が、葉を跳ねさせ、土へ染み込んでいく。
小屋の前には、細い水の筋ができていた。
地面の窪みにたまり、あふれたところから下へ流れる。途中で小石にぶつかると二つに分かれ、その先でまた一つになった。
その流れは、小屋の脇の溝へ続いていた。
溝から斜面へ。斜面の下には、毎日水を汲んでいる沢がある。
『少し、明るくなってきたわね』
セレスが戸口へ出てきた。
俺の隣へ座り、雲の切れかけた空を見上げる。
「もう上がるかな」
『向こうは、雨が薄くなっているみたい』
木々の向こうに、白く明るい場所があった。
眺めているうちに雨音が弱まり、屋根の雫だけが残る。
俺は立ち上がり、軒下から出た。
道の脇に、小さな草が生えていた。
数日前には丸まっていた葉が開き、その間から新しい葉がのぞいている。屈んで見ると、細い茎に水滴がついていた。
地面へ目を落とす。
草の周りには、古い落ち葉が重なっている。形の残っているものもあれば、黒く柔らかくなり、土との境目が分からないものもあった。
ここへ降った雨を、この草も吸っているのだろう。
同じ水が沢へ流れ、俺はそれを汲んで飲んでいる。
立ち上がると、枝先から雫が肩へ落ちた。
「冷たい」
『ちょうど、その下に立ったから』
セレスが笑った。
俺は濡れた肩を払い、木を見上げた。
幹から枝が分かれ、その先には数えきれない葉がある。
足元の根は、土の下へ続いていた。見えるところだけで、この木が立っているわけではなかった。
◇
雨が上がった沢は、いつもより音が大きかった。
水際まで下りず、道の途中から流れを見る。山肌を伝ってきた小さな水の筋が、いくつも沢へ注いでいた。
この沢も、さらに下れば別の流れと合わさる。
川になり、街を通り、やがて海へ出るのだろう。
船から見た、どこまでも続く青を思い出した。
あの上にも雲があり、雨を降らせていたはずだった。
俺は頬へ触れる風を感じながら、息を吸った。
木々の間を通ってきた空気が、胸へ入る。
吐いた息は、目には見えないまま外へ戻っていった。
「……つながってるんだな」
『何が?』
「雨も、沢も、木も。別々に見てたけど」
セレスは、俺が見ている流れへ目を向けた。
「ここで汲んだ水を飲んで、魚を食べて、山菜も採ってるだろ。俺の身体を動かしてるものも、ここから来てるんだなって」
口にしながら、自分の手を見る。
指を曲げると、腕の内側が動いた。呼吸をすれば胸だけでなく腹も動く。立っている間は、足が身体を支えている。
どれか一つで、俺が動いているわけではない。
この山も、そうなのかもしれなかった。
一本ずつの木があり、一筋ずつの水が流れている。それらが集まった山が、また木や水のあり方を変えていく。
山を一つのものとして見れば、俺はその中にいる。
けれど、その俺の中にも、いくつもの巡りがあった。
すべてを理解したとは、とても言えない。
ただ、身体の内と外を分けていた感覚が、少し薄くなった。
風が吹き、沢沿いの枝が揺れた。
俺もその風の中で、静かに息を吐いた。
◇
小屋へ戻る途中、開けた場所で足を止めた。
雨に濡れた根を避け、固い地面へ立つ。
先ほど軒下で感じたものが、またあった。
腹の奥から背へ、薄く広がっている。
熱に似ているが、皮膚が温まる感覚とは違う。息を吐き終えても消えず、足へ重さを移すと、それに伴って動いた。
魔力の円環を確かめる。
そちらは、普段のままだった。
これまでなら、身体へ力が満ちる感覚は、魔力によるものだと思っていた。
けれど、今は二つを別々に感じられる。
自分で巡らせている魔力。
そして、身体の奥で息づき、動きにつれて応じるもの。
右手を持ち上げる。
肘を張ると、その感触が途切れた。肩の力を抜いて下ろすと、腹の辺りにまた戻ってくる。
水を運んだときにも、これがあった。
「……気、なのか」
口にした途端、宗玄さんの声が浮かんだ。
自分の内で起きていることを、感じ取らなければならない。
ずっと、どこかに新しい力が生まれるのを待っていたのかもしれない。
けれど、今感じているものには、突然入り込んできたような違和感がなかった。
『感じるの?』
セレスが尋ねた。
「うん。魔力とは、違う」
俺は腹へ手を当てた。
「前からあったんだと思う。気づかなかっただけで」
まだ、力の輪郭は曖昧だった。
気を抜けば分からなくなりそうで、それでいて、強く掴もうとしても見失う。
山の水や風を眺めていたときと、どこか似ていた。
止めて確かめようとすると、流れとして見えなくなる。
「少し、動かしてみたい」
セレスは俺の顔を見てから、頷いた。
『ええ。ゆっくりね』
◇
小屋から少し離れたところに、太い木があった。
道へ張り出した根を跨ぎ、その前へ立つ。
樹皮は雨で暗く濡れている。
幹を目でたどると、高いところで枝が分かれ、雲の切れ間へ葉を広げていた。根元には苔がつき、その脇から小さな草が生えている。
この木も、今朝の雨を受けていた。
俺が来るよりずっと前から、ここに立っていたのだろう。
足を揃え、頭を下げた。
「少し、借ります」
顔を上げてから、右の掌を幹へ当てる。
冷たく、ざらついていた。
山へ来てから、自分の力を試すために構えるのは初めてだった。
魔力は強めない。
いつもの円環を保ったまま、もう一つの感触へ意識を向ける。
腹から背へ。
そこで止めず、身体を巡って戻るように。
魔力を初めて回した頃の感覚を手掛かりにすると、曖昧だった力が少し動いた。
だが、同じ速さで巡らせようとした途端、胸の辺りが詰まるような感じがした。
息を吐き、やり直す。
急がず、今ある流れをたどる。
脚へ、腰へ、背へ。途切れかけても無理に押さず、呼吸を続けた。
一巡したのかどうかは、まだはっきりしない。
それでも、腹へ戻ってくる感触があった。
そこから右手へ集めようとした。
肩が上がる。
肘が固まり、掌には腕で押す力ばかりがかかった。
幹は動かない。
右肩だけに、重さが返ってきた。
「……違うな」
手を離し、腕を下ろした。
もう一度強く押したところで、同じことになりそうだった。
足元を見る。
後ろに置いた右足の踵が、浮きかけていた。
俺は半歩位置を変え、足裏を地面へ落ち着かせた。
◇
湿った土の下には、固い地面があった。
膝を少し緩め、身体の重さを預ける。
沈み続けることはない。足裏が受け止められ、その上に脚があり、腰がある。
帝国で、何度も地面を踏んだ。
強く踏み込み、腰を送り、全身の力を一撃へ乗せる。そのたびに教わっていた。
大地を踏みしめる。
大地から、力を借り受ける。
俺は右足へ、ゆっくり力をかけた。
地面から返る感触が、脚を通った。
膝を固めなければ、腰まで届く。上体だけを先へ出さずにいると、背中から腕へもつながった。
強く蹴る前から、そこには支えがあった。
腹の奥で、気が動く。
足元から伝わる力と、内側を巡る力。
息を吐きながら腰をわずかに動かすと、それらが右腕へ向かって重なった。
今度は、肩で止まらなかった。
右の掌を、もう一度幹へ添える。
左手は腹の前に置いた。大きく振りかぶる必要はない。今つながっているものを、掌まで通してみる。
土を踏む。
腰が動き、背から腕へ力が走った。
短い音がした。
掌に、先ほどとは違う手応えが返った。
幹の表面だけを押したときより深く、重い。頭上で葉が擦れ、雫がまとめて落ちてきた。
風は、吹いていなかった。
俺は掌を当てたまま、動きを止めた。
指の付け根がじんと痺れている。腕の中を通った感触は、すでに薄れ始めていた。
『……枝が揺れたわね』
「ああ」
返事をしてから、息を吸った。
最後のところで、少し止めてしまっていたらしい。
右手を離す。
樹皮に大きな傷はない。けれど、掌には確かに、打ち込んだときの震えが残っていた。
今の動きを、頭の中でもう一度たどる。
足、腰、背、腕。そのどこを意識すれば同じようになるのか、まだ分からない。右手へ届いた力も、集めた分をすべて使えたとは思えなかった。
「できた、とは言いきれないな」
『でも、さっきとは違ったのでしょう?』
「うん。はっきり違った」
手を開き、閉じる。
その動作の奥にも、かすかな気配があった。
俺はもう一度、幹へ掌を置いた。
今度は力を込めず、湿った樹皮に触れているだけにした。指の痺れが引くにつれ、冷たさが戻ってきた。
根元から幹へ視線を上げる。
葉の間には明るい空が見えていた。
「ありがとう」
手を離し、頭を下げた。
すぐにもう一度試したい気持ちはあった。
けれど、今は右腕の感触を急いで上書きしたくなかった。少し歩き、息を整えてから考えよう。
小屋へ向き直り、一歩を置く。
足裏を地面が支えた。
その感触を受けながら、俺はセレスと一緒に、雨上がりの道を戻った。




