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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第十一章 東方紀行、天地の息吹
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第139話 山で暮らす


 鳥の声で目が覚めた。

 窓の隙間が、薄く明るくなっている。毛布を脇へ寄せて起き上がると、腿に昨日の疲れが残っていた。

 足を下ろし、靴を履く。水を汲みに行くなら、あの根の左側を通ってみよう。そう考えながら戸を開けた。

 冷たい空気が、顔へ触れた。

 小屋の前から見下ろす木々の間に、白い霧がたまっていた。

 沢は見えない。けれど、水音のする辺りを、霧がゆっくり流れている。その向こうでは、山の斜面に朝日が当たり始めていた。

 高い枝から順に、葉の色が変わっていく。

 まだ暗い緑の上へ、明るい黄緑が重なる。風が吹くと枝が揺れ、葉の先から落ちた露が、一瞬だけ光った。

 俺は戸口に立ったまま、それを眺めていた。


『おはよう、レグルス』

 肩の近くで声がした。


「おはよう」


『……きれいね』


「うん」


 近くで鳥が鳴いた。

 少し離れた場所から、別の声が返る。探してみたが、葉に隠れて姿は分からなかった。

 霧の端が薄くなり、その奥から一本の幹が現れた。

 昨夕もそこにあったはずなのに、初めて見るもののようだった。

 昨日は、小屋へ着いてからも忙しくしていた。

 掃除をして、水を運んで、火を起こした。その間も、肩に力が入っていないか、足をどこへ置けばいいかと考えていた。

 今朝も、戸を開けるまでは同じだった。


「……何をしてても、修練にしようとしてたな」


 セレスがこちらを向いた。


「刀を振るなって言われたから、今度は歩き方とか、水の運び方とか。そればっかり考えてた」


『昨日は、眠る前まで坂の話をしていたものね』


「うん」


 小屋の壁へ日が届き、足元の土が明るくなった。

 俺は目を細め、もう一度山を見た。


「何日か、のんびり暮らしてみようかな」


『いいと思うわ』


「鍛えることも、少し休んで」


 口にすると、少し妙な感じがした。

 時間があるのに修練をしない。その分をどう過ごせばいいのか、すぐには浮かばない。

 セレスは、霧の薄れた沢のほうへ目を戻した。


『昨日、魚がいたでしょう』


「いたな」


『釣れるのかしら』

 俺も同じ方向を見た。


「……道具、あるかな」


     ◇


 小屋の棚を調べると、奥に小さな木箱があった。

 中には糸巻きと釣り針、いくつかの重りが収められている。壁際に立てかけられていた細い竿も、よく見ると先に糸を結んだ跡があった。


「宗玄さんも、釣ってたんだな」


『ここで暮らしていたんですもの。夕食のおかずにしていたのかもしれないわね』


 朝食を済ませてから、道具を借りて沢へ下りた。

 腰には獅心を差している。竿を枝へ引っかけないように持ち、昨日休んだ場所より少し上流へ歩いた。

 大きな石の後ろに、流れの緩いところがある。

 底に小さな影が動いていた。

 餌をつけ、糸を垂らす。

 水に入った糸が流れに引かれ、斜めになった。


 しばらく待つ。

 魚は寄ってこなかった。


「見えてるんだけどな」


『向こうからも、見えているんじゃない?』


 自分の影が水面へ落ちていた。

 少し後ろへ下がり、低い岩に腰を下ろす。セレスは隣の石へ座った。

 糸の先が動いた気がして、竿を上げた。

 針だけが水から飛び出してくる。


『今のは?』


「……石に当たっただけかも」


 餌をつけ直して、もう一度。

 今度は待ちすぎたのか、引き上げた針から餌がなくなっていた。

 セレスが針をのぞき込む。


『食事はしてくれたみたいね』


「俺の分も残してほしいんだけど」


 そう言うと、彼女が笑った。

 場所を少し変え、また糸を垂らした。

 水面の光を見ていると、魚の影が見えたり、消えたりする。落ちてきた葉がくるりと回り、岩の脇を抜けていった。


 竿を持つ手へ、小さな引きが伝わった。

 今度は続いている。

 持ち上げると、竿の先が曲がった。水の中で銀色の腹がひるがえり、細かな飛沫が上がる。


「来た」


『ええ、見えているわ』


 手前へ寄せ、岸へ上げる。

 草の上で跳ねた魚を押さえると、指の間で尾が動いた。片手に収まるくらいの大きさだったが、思っていたより力が強い。

 針を外してから、俺は魚を見下ろした。


「釣れたな」


『釣れたわね』


 顔を見合わせ、少し笑った。

 結局、その午前に釣れたのは一匹だけだった。

 まだ続けたい気もしたが、腹が減ってきた。道具を片づけ、魚を持って小屋へ戻った。


     ◇


 魚を下ごしらえし、塩を振って串へ刺した。

 炉の火が落ち着いたところで脇へ立て、焼けるのを待つ。

 最初は火へ近づけすぎた。

 皮の一部が黒くなり、慌てて串を離す。


『少し、焦げたわ』


「そこだけだと思う」


『さっきも、そう言っていなかった?』


「今度は反対側だから」


 セレスが呆れたように俺を見た。

 俺は串の向きを直し、火からの距離を少し広げた。

 表面の水気が消えると、皮が乾いて色づいていく。

 脂の落ちる小さな音がして、香ばしい匂いが立った。

 焼き上がった魚を皿へ移す。

 箸で身を分けると、中から湯気が出てきた。焦げた部分を少し避け、口へ運んだ。

 塩気の後に、柔らかな身の味がした。


「……うまい」


『よかった。ずいぶん待ったものね』


「自分で釣ると、もっと大きく感じるな」


 骨に沿って箸を動かす。

 あれだけ待って釣った一匹は、食べ始めると早かった。最後に残った身も拾い、皿へ箸を置いた。

 明日は、もう少し上手く焼きたい。

 竿を片づけた場所へ目を向けると、セレスもそちらを見た。


『また行くの?』


「今日は、もういいかな。午後は少し歩いてみよう」


     ◇


 小屋の周りには、食べられると知っている草も生えていた。

 道の脇で見覚えのある葉を見つけ、屈んで確かめる。似たものもあるので、迷うものには手を出さず、分かるものを少しだけ摘んだ。

 沢沿いの日陰と、日当たりのいい斜面では、生えているものが違う。

 一か所にまとまっている草もあれば、歩いているうちに一本ずつ見つかるものもあった。


『それで、どのくらいになるの?』


「茹でると減るから、もう少しかな」


 籠の中を見せる。

 セレスは葉を眺め、近くの茂みを指した。


『あそこにも、同じものがあるわ』


 近づいてみると、確かに生えていた。

 膝をつき、柔らかいところを選んで摘む。

 小屋へ戻って茹でると、思った以上に量が減った。

 水を切り、瑞京で買った醤油を少しかける。口へ入れると、青い匂いと、ほろ苦さが広がった。


「これは、少し苦いな」


『顔に出ているわよ』


「嫌な味じゃないよ。思ったより強かっただけ」


 次の一口は、少し小さくした。

 残りは夕食の汁へ入れることにする。干した野菜ばかりだった鍋に、摘んできた葉の緑が加わった。


 その日は、日が暮れる前に食事を終えた。

 片づけまで済んでも、まだ窓の外が明るい。

 俺は戸口へ座り、脚を伸ばした。

 何かをしなければと思いかけたが、ひとまずそのままでいることにした。

 木の高いところで、枝が揺れていた。

 風が下りてくるまで、少し間があった。


     ◇


 三日目の朝は、小屋の前の草を抜いた。

 水場へ下りる道へ、細い茎が倒れかかっている。桶を持って通るたびに裾へ絡むので、その辺りを先に片づけることにした。

 根元を掴んで引くと、途中で切れた。

 残ったところの土を少しほぐし、今度は根ごと抜く。湿った土がついてきた。

 宗玄さんも、庭でこうしていた。

 俺が訪ねたときには、鎌と籠を持っていた。

 今もあの畑の周りで、草を取っているのかもしれない。

 抜いた草をまとめていると、土の下から小さな虫が出てきた。

 こちらへ向かって走り、靴を避けて落ち葉の陰へ潜る。


『追い出してしまったわね』


「そっちなら、踏まれなくて済むだろ」


 道の端に残した草へ目を向ける。

 邪魔になるところだけ片づけばよかった。小屋の裏まで全部抜き始めたら、一日では終わりそうにない。


 ひと区切りついたところで手を洗い、湯を沸かした。

 戸口へ腰を下ろすと、日が膝へ当たる。

 セレスが隣で、両手を後ろについて空を見ていた。

 俺も器を脇へ置き、小屋の壁へ背中を預ける。

 目を閉じたのは、ほんの少しのつもりだった。

 次に開けると、膝にあった日向が足先へ移っていた。


「……寝てた?」


『ええ。よく眠っていたわ』


「起こしてくれてもよかったのに」


『何か、急ぐ用事があった?』


 考えてみる。

 水は汲んである。薪もある。夕食の支度をするには、まだ早い。


「ないな」


『それなら、いいでしょう』

 俺は頷き、冷めた茶を飲んだ。


     ◇


 その翌日は、朝から雨だった。


 葉を叩く音が、屋根の音と重なっている。

 戸を少し開けて外を見ると、昨日片づけた道を細い水が流れていた。小屋の周りの溝には落ち葉が引っかかっていたので、雨具を着て取り除いた。

 戻って手を拭き、炉へ薪を足す。

 今日は釣りをやめて、小屋で過ごすことにした。

 道具の箱を整理し、緩んでいた袋の紐を結び直す。

 昼は残っていた山菜と保存食で済ませた。

 午後には、セレスと取り留めのない話をした。

 瑞京で見た店のこと。港で買った服のこと。帰りにもう一度食べてみたいもの。


『あのお団子は、また買ってもいいわね』


「今度は違う味も試してみたいな」


『でも、結局同じものを選びそう』


「それは、店の前で考えるよ」


 雨は、強くなったり弱くなったりした。

 話が途切れると、屋根から落ちる雫の音がよく聞こえた。

 炉のそばで膝を抱え、ゆっくり息を吐く。

 身体の中には、いつもの魔力の巡りがあった。

 少量のまま、途切れずに流れている。

 使い慣れた感覚なのに、その日は、胸元から腹へ移っていくところまで、妙にはっきり分かった。

 俺は呼吸を止めかけ、やめた。

 そのまま息を吸い、また吐く。


『どうかした?』


「いや。今日は、魔力の流れが分かりやすい気がして」


『強めているわけではないのよね?』


「うん。いつもと同じ」


 魔素との親和性が低い俺には、感じ取りにくいものが多い。

 自分の内側にあるものも、魔力を動かすときの感覚で、まとめて捉えていたのかもしれない。

 もう少し確かめようとすると、かえって分からなくなった。

 俺は膝から手を離した。

 炉の薪が崩れ、赤い火の粉が小さく上がる。


「……また分かるときに、確かめてみる」

 火箸で薪の位置を直すと、炎が少し明るくなった。


     ◇


 晴れた日は、沢へ下りた。

 釣れないこともあったし、小さすぎて放した魚もいた。いつも同じ場所にいると思っていた魚が、一匹も見えない日もある。

 そんな日は、少し上流まで歩いて帰った。

 小屋の周りで摘める草の場所を覚え、薪の乾き具合を見て、夕食を決める。

 朝、戸を開けたときの風が冷たければ、もう一枚羽織った。眠くなれば休み、腹が減れば食べた。

 魔力は、普段の円環を続けていた。


 身体を強化することも、刀を振ることもせずに、数日が過ぎた。

 初めのうちは、日が暮れるたびに、今日は何を身につけたのだろうと考えかけた。

 けれど、魚を焦がさず焼けた日には、それをセレスと話しているうちに夜になった。雨の翌朝には、道に落ちた枝をどけ、干していた布を日向へ移した。


 獅心は、毎晩手入れをした。

 刃を鞘へ収めた後は、そのまま寝台の脇へ置くようになった。


 ある夕方、水を汲んで小屋へ戻った。

 桶を下ろし、蓋をかける。手を拭こうとして、初日に張っていた肩のことを思い出した。

 今日は、途中で持ち替えずに上がってきた。

 水も、それほどこぼれていない。

 手を開き、閉じる。

 息を吐いたとき、腹の奥から背へ、かすかな力の動きを感じた。

 魔力の円環は、変わっていなかった。

 今のは何だろう。

 そう思って姿勢を戻したが、同じ感覚はついてこなかった。温かさだけが、薄く残っている。


『レグルス、魚を見てくれる?』

 炉のほうから、セレスが呼んだ。


『そちら側、もう焼けていると思うの』


「ああ、今行く」


 火のそばへ戻り、串を回す。

 皮にはちょうどよく焼き色がつき、身の厚いところから脂がにじんでいた。


「今日は、うまく焼けそうだ」


『前より、待てるようになったものね』


「何度もひっくり返すと、崩れるからな」


 俺は皿を用意し、鍋の蓋を取った。

 湯気と一緒に、味噌の匂いが上がる。

 戸口の向こうでは、木々の間に夕日が残っていた。

 明日も晴れたら、沢へ行こう。セレスにそう話しながら、焼けた魚を皿へ移した。

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