第139話 山で暮らす
鳥の声で目が覚めた。
窓の隙間が、薄く明るくなっている。毛布を脇へ寄せて起き上がると、腿に昨日の疲れが残っていた。
足を下ろし、靴を履く。水を汲みに行くなら、あの根の左側を通ってみよう。そう考えながら戸を開けた。
冷たい空気が、顔へ触れた。
小屋の前から見下ろす木々の間に、白い霧がたまっていた。
沢は見えない。けれど、水音のする辺りを、霧がゆっくり流れている。その向こうでは、山の斜面に朝日が当たり始めていた。
高い枝から順に、葉の色が変わっていく。
まだ暗い緑の上へ、明るい黄緑が重なる。風が吹くと枝が揺れ、葉の先から落ちた露が、一瞬だけ光った。
俺は戸口に立ったまま、それを眺めていた。
『おはよう、レグルス』
肩の近くで声がした。
「おはよう」
『……きれいね』
「うん」
近くで鳥が鳴いた。
少し離れた場所から、別の声が返る。探してみたが、葉に隠れて姿は分からなかった。
霧の端が薄くなり、その奥から一本の幹が現れた。
昨夕もそこにあったはずなのに、初めて見るもののようだった。
昨日は、小屋へ着いてからも忙しくしていた。
掃除をして、水を運んで、火を起こした。その間も、肩に力が入っていないか、足をどこへ置けばいいかと考えていた。
今朝も、戸を開けるまでは同じだった。
「……何をしてても、修練にしようとしてたな」
セレスがこちらを向いた。
「刀を振るなって言われたから、今度は歩き方とか、水の運び方とか。そればっかり考えてた」
『昨日は、眠る前まで坂の話をしていたものね』
「うん」
小屋の壁へ日が届き、足元の土が明るくなった。
俺は目を細め、もう一度山を見た。
「何日か、のんびり暮らしてみようかな」
『いいと思うわ』
「鍛えることも、少し休んで」
口にすると、少し妙な感じがした。
時間があるのに修練をしない。その分をどう過ごせばいいのか、すぐには浮かばない。
セレスは、霧の薄れた沢のほうへ目を戻した。
『昨日、魚がいたでしょう』
「いたな」
『釣れるのかしら』
俺も同じ方向を見た。
「……道具、あるかな」
◇
小屋の棚を調べると、奥に小さな木箱があった。
中には糸巻きと釣り針、いくつかの重りが収められている。壁際に立てかけられていた細い竿も、よく見ると先に糸を結んだ跡があった。
「宗玄さんも、釣ってたんだな」
『ここで暮らしていたんですもの。夕食のおかずにしていたのかもしれないわね』
朝食を済ませてから、道具を借りて沢へ下りた。
腰には獅心を差している。竿を枝へ引っかけないように持ち、昨日休んだ場所より少し上流へ歩いた。
大きな石の後ろに、流れの緩いところがある。
底に小さな影が動いていた。
餌をつけ、糸を垂らす。
水に入った糸が流れに引かれ、斜めになった。
しばらく待つ。
魚は寄ってこなかった。
「見えてるんだけどな」
『向こうからも、見えているんじゃない?』
自分の影が水面へ落ちていた。
少し後ろへ下がり、低い岩に腰を下ろす。セレスは隣の石へ座った。
糸の先が動いた気がして、竿を上げた。
針だけが水から飛び出してくる。
『今のは?』
「……石に当たっただけかも」
餌をつけ直して、もう一度。
今度は待ちすぎたのか、引き上げた針から餌がなくなっていた。
セレスが針をのぞき込む。
『食事はしてくれたみたいね』
「俺の分も残してほしいんだけど」
そう言うと、彼女が笑った。
場所を少し変え、また糸を垂らした。
水面の光を見ていると、魚の影が見えたり、消えたりする。落ちてきた葉がくるりと回り、岩の脇を抜けていった。
竿を持つ手へ、小さな引きが伝わった。
今度は続いている。
持ち上げると、竿の先が曲がった。水の中で銀色の腹がひるがえり、細かな飛沫が上がる。
「来た」
『ええ、見えているわ』
手前へ寄せ、岸へ上げる。
草の上で跳ねた魚を押さえると、指の間で尾が動いた。片手に収まるくらいの大きさだったが、思っていたより力が強い。
針を外してから、俺は魚を見下ろした。
「釣れたな」
『釣れたわね』
顔を見合わせ、少し笑った。
結局、その午前に釣れたのは一匹だけだった。
まだ続けたい気もしたが、腹が減ってきた。道具を片づけ、魚を持って小屋へ戻った。
◇
魚を下ごしらえし、塩を振って串へ刺した。
炉の火が落ち着いたところで脇へ立て、焼けるのを待つ。
最初は火へ近づけすぎた。
皮の一部が黒くなり、慌てて串を離す。
『少し、焦げたわ』
「そこだけだと思う」
『さっきも、そう言っていなかった?』
「今度は反対側だから」
セレスが呆れたように俺を見た。
俺は串の向きを直し、火からの距離を少し広げた。
表面の水気が消えると、皮が乾いて色づいていく。
脂の落ちる小さな音がして、香ばしい匂いが立った。
焼き上がった魚を皿へ移す。
箸で身を分けると、中から湯気が出てきた。焦げた部分を少し避け、口へ運んだ。
塩気の後に、柔らかな身の味がした。
「……うまい」
『よかった。ずいぶん待ったものね』
「自分で釣ると、もっと大きく感じるな」
骨に沿って箸を動かす。
あれだけ待って釣った一匹は、食べ始めると早かった。最後に残った身も拾い、皿へ箸を置いた。
明日は、もう少し上手く焼きたい。
竿を片づけた場所へ目を向けると、セレスもそちらを見た。
『また行くの?』
「今日は、もういいかな。午後は少し歩いてみよう」
◇
小屋の周りには、食べられると知っている草も生えていた。
道の脇で見覚えのある葉を見つけ、屈んで確かめる。似たものもあるので、迷うものには手を出さず、分かるものを少しだけ摘んだ。
沢沿いの日陰と、日当たりのいい斜面では、生えているものが違う。
一か所にまとまっている草もあれば、歩いているうちに一本ずつ見つかるものもあった。
『それで、どのくらいになるの?』
「茹でると減るから、もう少しかな」
籠の中を見せる。
セレスは葉を眺め、近くの茂みを指した。
『あそこにも、同じものがあるわ』
近づいてみると、確かに生えていた。
膝をつき、柔らかいところを選んで摘む。
小屋へ戻って茹でると、思った以上に量が減った。
水を切り、瑞京で買った醤油を少しかける。口へ入れると、青い匂いと、ほろ苦さが広がった。
「これは、少し苦いな」
『顔に出ているわよ』
「嫌な味じゃないよ。思ったより強かっただけ」
次の一口は、少し小さくした。
残りは夕食の汁へ入れることにする。干した野菜ばかりだった鍋に、摘んできた葉の緑が加わった。
その日は、日が暮れる前に食事を終えた。
片づけまで済んでも、まだ窓の外が明るい。
俺は戸口へ座り、脚を伸ばした。
何かをしなければと思いかけたが、ひとまずそのままでいることにした。
木の高いところで、枝が揺れていた。
風が下りてくるまで、少し間があった。
◇
三日目の朝は、小屋の前の草を抜いた。
水場へ下りる道へ、細い茎が倒れかかっている。桶を持って通るたびに裾へ絡むので、その辺りを先に片づけることにした。
根元を掴んで引くと、途中で切れた。
残ったところの土を少しほぐし、今度は根ごと抜く。湿った土がついてきた。
宗玄さんも、庭でこうしていた。
俺が訪ねたときには、鎌と籠を持っていた。
今もあの畑の周りで、草を取っているのかもしれない。
抜いた草をまとめていると、土の下から小さな虫が出てきた。
こちらへ向かって走り、靴を避けて落ち葉の陰へ潜る。
『追い出してしまったわね』
「そっちなら、踏まれなくて済むだろ」
道の端に残した草へ目を向ける。
邪魔になるところだけ片づけばよかった。小屋の裏まで全部抜き始めたら、一日では終わりそうにない。
ひと区切りついたところで手を洗い、湯を沸かした。
戸口へ腰を下ろすと、日が膝へ当たる。
セレスが隣で、両手を後ろについて空を見ていた。
俺も器を脇へ置き、小屋の壁へ背中を預ける。
目を閉じたのは、ほんの少しのつもりだった。
次に開けると、膝にあった日向が足先へ移っていた。
「……寝てた?」
『ええ。よく眠っていたわ』
「起こしてくれてもよかったのに」
『何か、急ぐ用事があった?』
考えてみる。
水は汲んである。薪もある。夕食の支度をするには、まだ早い。
「ないな」
『それなら、いいでしょう』
俺は頷き、冷めた茶を飲んだ。
◇
その翌日は、朝から雨だった。
葉を叩く音が、屋根の音と重なっている。
戸を少し開けて外を見ると、昨日片づけた道を細い水が流れていた。小屋の周りの溝には落ち葉が引っかかっていたので、雨具を着て取り除いた。
戻って手を拭き、炉へ薪を足す。
今日は釣りをやめて、小屋で過ごすことにした。
道具の箱を整理し、緩んでいた袋の紐を結び直す。
昼は残っていた山菜と保存食で済ませた。
午後には、セレスと取り留めのない話をした。
瑞京で見た店のこと。港で買った服のこと。帰りにもう一度食べてみたいもの。
『あのお団子は、また買ってもいいわね』
「今度は違う味も試してみたいな」
『でも、結局同じものを選びそう』
「それは、店の前で考えるよ」
雨は、強くなったり弱くなったりした。
話が途切れると、屋根から落ちる雫の音がよく聞こえた。
炉のそばで膝を抱え、ゆっくり息を吐く。
身体の中には、いつもの魔力の巡りがあった。
少量のまま、途切れずに流れている。
使い慣れた感覚なのに、その日は、胸元から腹へ移っていくところまで、妙にはっきり分かった。
俺は呼吸を止めかけ、やめた。
そのまま息を吸い、また吐く。
『どうかした?』
「いや。今日は、魔力の流れが分かりやすい気がして」
『強めているわけではないのよね?』
「うん。いつもと同じ」
魔素との親和性が低い俺には、感じ取りにくいものが多い。
自分の内側にあるものも、魔力を動かすときの感覚で、まとめて捉えていたのかもしれない。
もう少し確かめようとすると、かえって分からなくなった。
俺は膝から手を離した。
炉の薪が崩れ、赤い火の粉が小さく上がる。
「……また分かるときに、確かめてみる」
火箸で薪の位置を直すと、炎が少し明るくなった。
◇
晴れた日は、沢へ下りた。
釣れないこともあったし、小さすぎて放した魚もいた。いつも同じ場所にいると思っていた魚が、一匹も見えない日もある。
そんな日は、少し上流まで歩いて帰った。
小屋の周りで摘める草の場所を覚え、薪の乾き具合を見て、夕食を決める。
朝、戸を開けたときの風が冷たければ、もう一枚羽織った。眠くなれば休み、腹が減れば食べた。
魔力は、普段の円環を続けていた。
身体を強化することも、刀を振ることもせずに、数日が過ぎた。
初めのうちは、日が暮れるたびに、今日は何を身につけたのだろうと考えかけた。
けれど、魚を焦がさず焼けた日には、それをセレスと話しているうちに夜になった。雨の翌朝には、道に落ちた枝をどけ、干していた布を日向へ移した。
獅心は、毎晩手入れをした。
刃を鞘へ収めた後は、そのまま寝台の脇へ置くようになった。
ある夕方、水を汲んで小屋へ戻った。
桶を下ろし、蓋をかける。手を拭こうとして、初日に張っていた肩のことを思い出した。
今日は、途中で持ち替えずに上がってきた。
水も、それほどこぼれていない。
手を開き、閉じる。
息を吐いたとき、腹の奥から背へ、かすかな力の動きを感じた。
魔力の円環は、変わっていなかった。
今のは何だろう。
そう思って姿勢を戻したが、同じ感覚はついてこなかった。温かさだけが、薄く残っている。
『レグルス、魚を見てくれる?』
炉のほうから、セレスが呼んだ。
『そちら側、もう焼けていると思うの』
「ああ、今行く」
火のそばへ戻り、串を回す。
皮にはちょうどよく焼き色がつき、身の厚いところから脂がにじんでいた。
「今日は、うまく焼けそうだ」
『前より、待てるようになったものね』
「何度もひっくり返すと、崩れるからな」
俺は皿を用意し、鍋の蓋を取った。
湯気と一緒に、味噌の匂いが上がる。
戸口の向こうでは、木々の間に夕日が残っていた。
明日も晴れたら、沢へ行こう。セレスにそう話しながら、焼けた魚を皿へ移した。




