第138話 山道の一歩
朝食を終える頃には、庭へ日が差していた。
昨夜使った器を洗い、借りる鍋や火起こしの道具を並べる。食料と着替え、雨具を確かめ、必要なものを袋へ移した。
収納の指輪から取り出すものを決めておけば、山で何度も使わずに済む。
袋の口を結んで背負うと、肩へ重さがかかった。左右の紐を引き、背中へ収まり直す。
『地図は、すぐに出せるところ?』
「うん。ここに」
胸元を軽く叩く。
セレスは頷き、いつものように肩へ座った。
軒下の魔導二輪には、覆いをかけてある。
裾を留めた紐をもう一度確かめてから、宗玄さんへ向き直った。
「機体、よろしくお願いします」
「うむ。戻るまで預かっておこう」
宗玄さんが、小さな包みを差し出した。
「昼に食べなさい」
「ありがとうございます」
葉で包んだおむすびだった。
潰れないように袋の上へ収める間、宗玄さんは家の脇へ続く道を見ていた。
「急いで登らんでも、小屋は逃げんよ」
顔を上げると、目尻に皺が寄っていた。
「……はい」
昨夜のうちに、早く着いたら何をしようかと考えていた。
それが顔に出ていたのかもしれない。
腰の獅心を確かめ、頭を下げる。
「行ってきます」
「行っておいで」
畑の脇を抜け、細い道へ入った。
しばらく進んで振り返ると、宗玄さんはまだ庭に立っていた。俺が手を上げると、向こうでも小さく手が動いた。
◇
木陰へ入ると、頬に触れる空気が冷たくなった。
道には薄く落ち葉が積もり、その下から土や石がのぞいている。朝露を含んだ草が、歩くたびに靴へ触れた。
魔力は、普段の量を巡らせたまま。
脚へ送り足すことはせず、自分の力で斜面を上がっていく。
最初は、それほど違わなかった。
荷を背負って歩くことにも慣れている。緩い上りなら、話をしながらでも進めた。
『あの木、根が石を抱えているわ』
セレスの示した先で、太い根が岩の両側へ伸びていた。
幹は少し傾きながらも、その上に枝を広げている。
「ずいぶん大きくなってから、石に当たったのかな」
『最初から、そこにあったのかもしれないわね』
近づくと、根と岩の隙間に小さな葉が生えていた。
俺はそれを踏まないように足を置き、脇を通った。
やがて、道の傾きが強くなった。
土が流れたところには根が露出し、階段のようになっている。高いところへ足をかけ、身体を持ち上げる。その動きを繰り返すうちに、腿の前が張ってきた。
息を吐き、次の段へ上がる。
肩の袋が揺れた。
少し脚へ魔力を回せば、このくらいは続けて登れる。
そう考えてから、足を止めた。
『どうしたの?』
「いつもの癖が出そうになった」
足元を見直す。
今、上がろうとしている根の脇には、もう少し低い土の出っ張りがあった。そこへ一度足を置けば、大きく膝を上げずに進める。
踏み直してみると、腿へかかる力が少し変わった。
次も同じように小さく上がろうとしたが、今度は足を置いた土が崩れた。
「おっと」
後ろ足へ体重を戻し、近くの幹へ手を添える。
落ちた土が、靴の横を転がっていった。
『そこ、柔らかかったのね』
「うん。低ければいいってものでもないな」
根の上を避け、固い土を探す。
足を置く場所を見て、重さを移す。それだけなのに、考え始めると、歩く速さがずいぶん落ちた。
しばらく登ったところで、首の後ろが窮屈になった。
肩を回すと、背負い紐が動く。
『少し、歩幅が大きいんじゃない? さっきから、上がるたびに肩も動いているわ』
言われて、自分の肩を見た。
足元を確かめようとするうちに、顎を引き、上半身まで固めていたらしい。
息を長く吐いてから、歩き出した。
一歩を短くする。けれど、短くすることばかり考えると、今度は足数が増えて落ち着かない。
俺は数歩進み、また歩幅を変えた。
◇
水音が聞こえ始めたのは、木々の間が明るくなってからだった。
道が斜面を横切り、少しずつ沢へ近づいていく。濡れた石の間を、透明な水が流れていた。
岸の平らな場所へ袋を下ろし、地図を広げる。
ここから上流へ進めばいい。宗玄さんが描いてくれた線の脇に、二つに割れた岩の印があった。
「道は合ってるな」
『ええ。ここで少し休みましょう』
乾いた岩へ腰を下ろすと、脚から力が抜けた。
動けなくなるほど疲れてはいない。ただ、登っている間には気にしていなかった足裏の熱さが、座るとはっきり分かった。
水筒から一口飲み、包みを開く。
おむすびを持ち上げると、葉の匂いがした。噛んだ米は朝より冷えていたが、塩気がちょうどよかった。
食べながら、先ほど滑りかけた場所を思い返す。
足を置く前に、もう少し確かめるべきだった。けれど、一歩ごとに止まっていては――。
『また、難しい顔になっているわ』
隣から声がして、目を上げた。
セレスは岩の端へ座り、沢を眺めていた。
「そんな顔してた?」
『ずっと足元と相談していたでしょう。少しくらい、周りを見てもいいんじゃない?』
俺も沢へ目を向けた。
流れの緩いところに、小さな影があった。
魚だった。水の筋に向かって止まり、ときどき尾を動かして位置を変えている。
その上を、青く光る虫が横切った。
対岸の葉が風に揺れ、日向と日陰の境目が水面を動く。少し高い枝から、短い鳥の声がした。
登っている間にも、鳴いていたのだろうか。
「……見てなかったな」
『せっかく来たのに、土と根ばかり覚えて帰ることになるわよ』
「それも、かなり見たけど」
俺が笑うと、セレスも表情を緩めた。
残りのおむすびを食べ、水を飲む。
休んでいるうちに、首元へ風が通るのが気持ちよくなった。背中の汗も少しずつ冷えていく。
袋を背負い直す前に、もう一度沢を見た。
魚は、さっきとほとんど同じ場所にいた。
◇
二つに割れた岩は、近づくと俺の背より高かった。
間から細い木が生え、左右の石へ枝を伸ばしている。その手前に、山側へ上がる道があった。
地図を畳み、道を曲がる。
沢の音を背に少し登ると、木々の奥に屋根が見えた。
「あった」
小屋は、斜面の途中にある平らな土地へ建てられていた。
低い石の土台に板壁が乗り、軒下には薪が積んである。戸口の前は草が刈られ、雨水を逃がす浅い溝も掘られていた。
戸を開けると、乾いた木と、古い灰の匂いがした。
入ってすぐに土間があり、奥は一段高い板敷きになっている。壁際に棚と寝台、土間の隅には小さな炉があった。煙を外へ逃がす管が、壁を抜けて伸びている。
『思ったより、きれいね』
「宗玄さん、最近も来てたのかな」
窓を開ける。
風が入り、床へ落ちていた細い葉が動いた。
袋を下ろし、腰から獅心を外した。
寝台の脇へ置いてから、箒を探す。戸の裏に立てかけてあったものを使い、床と土間を掃いた。
寝具を広げ、棚を拭く。
鍋や食料を置く場所を決めると、持ってきたものが小屋の中へ収まっていった。
最後に、壁際の桶を持ち上げた。
「水を汲んでくる」
『私も行くわ。帰り道を覚えておきたいもの』
沢へ下りる道は、先ほどの分かれ道より短かった。
小屋の脇から続き、木の間を縫うように曲がっている。下りきった先には、水際へ足を置ける石が並んでいた。
桶をすすぎ、水を汲む。
持ち上げると、取っ手が指へ食い込んだ。
運べる重さだった。
そう思って歩き始めたが、上りへかかると、桶の中で水が大きく揺れた。
腕を固めて止めようとする。
次の一歩で逆へ揺れ、縁から水がこぼれた。
靴の先が濡れる。
「……歩くだけなのに」
『さっきより、荷物がよく動くわね』
俺は平らな場所へ桶を置いた。
水面が何度か揺れ、やがて静まる。
いっぱいにしすぎたかもしれない。
少し水を減らし、もう一度持つ。今度は小さく足を運んだ。
揺れは減った。
けれど、坂の途中で高い根を越えた途端、また水が跳ねた。
手だけで押さえようとすると、肩まで引かれる。
桶を持つ位置を少し変え、根の脇を回って上がった。
小屋へ着いたときには、持っていた側の肩が張っていた。
桶を下ろして手を開くと、指に取っ手の跡が残っている。
『もう一度、行く?』
「少し休んでから。今ので、しばらくは足りる」
俺は肩を回し、戸口へ腰を下ろした。
沢までの道は、木に隠れて途中までしか見えなかった。
◇
荷物を片づけ終える頃には、窓から入る光が傾いていた。
小屋の前へ出ると、身体を動かせるくらいの空き地がある。低い枝もなく、足元の土もしっかりしていた。
ここなら振れる。
自然にそう考え、腰へ手を伸ばした。
獅心は、小屋の中へ置いたままだった。
手を下ろす。
昨日、喉元へ止まった宗玄さんの刀が浮かんだ。
あの抜き始めを、まだ一つも思い出せない。何もしないうちに、見たときの感覚まで薄れてしまいそうだった。
『振りたくなった?』
「うん」
セレスは戸口からこちらを見ていた。
「一度くらいなら、って思った」
『今日は、まだやることがあるでしょう。暗くなる前に』
軒下の薪へ目を向ける。
火を起こし、湯を沸かして、夕食を作る。明日の朝に使う分も、取り出しておいたほうがいい。
「……そうだな」
薪を数本選び、炉のそばへ運んだ。
昨夜のように一度に抱えすぎず、腕へ収まる分だけ持つ。二度目には、戸口で木の端をぶつけた。
『そこ、少し狭いものね』
「自分は通れるから、忘れるんだよ」
持ち直して中へ入る。
炉の灰を整え、細く割った木と焚きつけを置いた。
火起こしの道具から散った火花が、すぐに消える。
もう一度試す。今度は小さな赤い点が残った。息を吹きかけると煙が上がり、細い炎になった。
木を足すのが早かったのか、一度弱くなった。
隙間を作り直して待つと、やがて乾いた音がし始めた。
その火で湯を沸かし、鍋へ干した野菜を入れる。
瑞京で買った味噌の蓋を開けると、あの店先と同じ匂いがした。
「持ってきてよかったな」
『使い方も、聞いておいてよかったわね』
少しずつ溶かし、味を確かめる。
宗玄さんの家で食べたものとは違ったが、温かい汁が腹へ入ると、思わず息が漏れた。
保存食も一緒に食べる。
窓の向こうでは、木々の輪郭が暗くなり始めていた。
◇
食事を終え、使った器を片づけた。
獅心を手に取り、刀身を確かめる。今日は抜いて振っていない。それでも、鞘や柄についた土埃を拭い、いつものように手入れをした。
刃に映った火の色を見てから、静かに納める。
戸締まりを確かめ、寝台のそばへ置いた。
炉の火が落ち着いたのを見届け、靴を脱ぐ。足首の銀環は、朝から一度も光っていなかった。
横になると、腿の張りがよく分かった。
肩にも疲れが残っている。何度か寝る向きを変え、腕の楽な位置を探した。
『寒くない?』
「今は大丈夫」
『明け方は冷えるかもしれないから、毛布は近くに置いておいてね』
「うん」
手を伸ばせる場所へ、畳んだ毛布を寄せる。
窓を閉めても、沢の音は聞こえていた。そこへ、ときどき葉の擦れる音が重なる。
街の宿では聞こえなかった音ばかりだった。
その間に、自分の呼吸がある。胸が上下し、布がわずかに動く。
身体の中では、魔力が普段どおりに巡っていた。
それを確かめてから、息をゆっくり吐いた。
「明日は、あの根の左を通ってみようかな」
『水を運んだ道?』
「うん。少し遠回りだけど、足を高く上げなくて済みそうだった」
『それなら、明日見てみましょう』
セレスの返事を聞きながら、目を閉じた。
桶をどちらの手で持つか。
あの坂では、どこで持ち替えれば楽なのか。
沢の音を聞いているうちに、考えていた道の形が曖昧になった。
肩の力が抜け、俺はそのまま眠りに落ちた。




