第137話 抜き放たれる前に
庭へ下りると、踏み固められた土が靴底を受け止めた。
畑と薪小屋の間に、何も置かれていない場所がある。宗玄さんはそこまで歩き、足元の小枝を拾って脇へ投げた。
「この辺りなら、動けるじゃろう」
作務衣の腰には、先ほどの刀が差されていた。
濃い茶色の鞘から続く柄に、鍔はない。宗玄さんがそれを抜くと、細い光が刃に沿って走った。
俺も獅心を抜き、向かい合った。
セレスは縁側へ移り、こちらを見ている。
「魔力は、使ってもいいんですか?」
「構わん。普段どおりに来なさい」
身体を巡る魔力を強める。
脚へ、腰へ、腕へ。馴染んだ感覚が広がり、刀を持つ手が落ち着いた。
宗玄さんの切っ先は低い。
肩にも肘にも力んだ様子がなく、こちらを見ている顔には、まだ薄い笑みが残っていた。
けれど、踏み込めそうな場所が見つからない。
右へわずかに足を移す。
宗玄さんは追わなかった。ただ、切っ先の向きが少し変わった。それだけで、進もうとしていた先が狭くなる。
俺は息を吐いた。
「お願いします」
地面を蹴り、斜めから間合いへ入った。
肩口へ振り下ろした獅心に、宗玄さんの刀が触れる。軽い音とともに刃が外へ流れた。
すぐに手首を返そうとした。
その前に、宗玄さんが近づいていた。
小柄な身体が、俺の腕の内側へ入ってくる。切っ先を戻す余地がない。足を引くと、その足が地面へ着くより先に、冷たいものが胸元へ触れた。
「まず、一つじゃな」
刃の峰だった。
宗玄さんが刀を離す。俺は一歩退き、構え直した。
受け流されたところまでは分かった。
そこから入り込まれるまでが、思っていたより短い。
今度は踏み込みを浅くした。
刀を合わせたところで横へ抜け、向きを変えて斬る。じいちゃんに教わった足運びを思い出し、膝を固めずに重心を移した。
宗玄さんの身体が、こちらへ向く。
刃が来た。
受ける角度を作りながら足を運ぶ。だが、刀が触れた瞬間には、もう次の一歩が入っていた。こちらが横へ回る分だけ、宗玄さんは斜め前へ進んでくる。
間合いが開かない。
俺は後ろ足へ力を込め、強く押し返すように踏み込んだ。
帝国で繰り返した動きだった。腰を乗せ、刀を振る。
手応えが、抜けた。
宗玄さんの刃がわずかに傾き、獅心がその面を滑る。
追いかけようとした右肩へ、空いた左手が添えられた。軽く押されただけなのに、身体が前へ傾いた。
足を踏み直す。
そのときには、宗玄さんの刀が脇腹の手前で止まっていた。
「……もう一度、お願いします」
「うむ」
宗玄さんは、すぐに刀を引いた。
◇
何度か打ち合ううちに、背中へ汗が伝った。
速く入っても、緩めて誘っても、宗玄さんはこちらの動きが終わる前に次の場所へ来る。刀を戻すつもりだったところへ刃を置かれ、足を着こうとした先へ身体を入れられた。
じいちゃんと向かい合ったときには、自分から隙へ入ってしまったと感じることが多かった。
宗玄さんは、待ってくれない。
俺が次の一手を選びきる前に、動かなければならない状況を作ってくる。
息を吸い、魔力の巡りをさらに強めた。
右から斬り込み、刃が触れる直前で軌道を変える。
足も逆へ送った。今度こそ外側へ出られると思った瞬間、宗玄さんの刀が獅心を下から押さえた。
腕で持ち上げようとする。
左足が浮きかけた。
「そこじゃ」
宗玄さんの声とともに、動きが止まった。
俺の刀を押さえていた力が抜ける。
「今、どこへ乗っておった?」
俺は足元を見た。
前へ出した左足と、後ろに残った右足。その間に腰が取り残されている。
「……右です。左へ移すつもりでした」
「刀は、もう左へ行こうとしておったな」
言われてから、腕に入っていた力へ気づいた。
足と腰がついてくる前に、刀を動かそうとしていた。
「よう鍛えておる。強く踏むことも、柔らかく運ぶことも覚えてきたんじゃろう」
宗玄さんが、自分の刀を下げた。
「じゃが、途中で合わんようになると、魔力で押し通す。動けてしまうから、そのまま次へ行ける」
俺は柄を握り直した。
今の動きを思い返す。間に合わないと思い、脚と腕へ力を足した。その先まで動けたことを、できたことにしていたのかもしれない。
瑞京の道場で見た子供たちの姿が浮かんだ。
足を先へ出しすぎた子に、教える男が腰の位置を直していた。あのときは、外から見れば分かった。
自分が刀を振っている間には、そこまで見えていなかった。
「強化を使わなければ、直りますか?」
「使わんだけで直るなら、誰も苦労せんよ」
宗玄さんが笑った。
「ただ、どこで無理をしておるかは、分かりやすくなる」
俺は頷き、息を整えた。
額から落ちた汗が、顎を伝う。袖で拭おうとすると、宗玄さんが刀を鞘へ戻した。
「もう一つ、見ておくかね」
「はい」
「次はこちらから行く。構えておれ」
◇
俺は獅心を正面へ置いた。
宗玄さんとの間には、まだ数歩の距離がある。踏み込みが来るなら、刃を合わせて外へ逃がす。先ほどまでのように、受けたところで止まらない。
宗玄さんが半身になった。
左手で保持した刀が、腰の後ろへ引かれる。
右手もその柄を追い、胴の陰へ隠れた。上体がわずかに前へ傾き、小柄な姿がさらに低く見える。
後ろ手の構え。
抜き始める手元が見えない。
俺は胸元へ視線を置き、足も意識の端へ収めた。肩が動けば分かる。腰が回っても、前へ踏み出しても。
風に揺れた作務衣の裾が、脚へ触れた。
喉元に、刃があった。
息が止まった。
獅心はまだ正面にある。受けようとしていた腕は、ほとんど動いていなかった。
目の前に宗玄さんが立っていた。
刃を持つ手も、足も、すでに止まっている。
遅れて、首筋に冷たい汗が浮いた。
「……今のは」
声を出してから、自分が息を詰めていたことに気づく。
「酒吞という刀技じゃ」
宗玄さんが刀を引いた。
離れていく刃は見える。鞘へ収める手も、そのときの腰の動きも。
なのに、抜いたところだけが思い出せない。
速い刀なら、これまでにも見た。
追いきれなくても、動いたと気づくことはできた。今は、その気づきが来る前に終わっていた。
俺はようやく獅心を下げた。
『……レグルス』
縁側からセレスの声がした。
「大丈夫。触れてない」
そう答えても、喉元の感覚が消えなかった。
「足も、見ていたつもりだったんですが」
「うむ」
「踏み込むところも、抜くところも、分かりませんでした」
宗玄さんは、俺が言い終えるまで待っていた。
あの構えを真似たところで、同じことはできない。
自分なら刀を後ろへ引き、抜こうと肩を動かし、それから踏み込む。考えただけで、いくつもの動作に分かれてしまう。
「どうすれば、あんなふうに動けるんですか?」
宗玄さんは少しだけ目を細めた。
「まずは、お前さんの身体を、もう少し知ることじゃな」
◇
縁側へ戻り、獅心を脇へ置いた。
宗玄さんが持ってきてくれた水を飲む。冷たさが喉を通り、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
庭には、俺が踏み直した跡がいくつも残っていた。
その間を宗玄さんが歩いていたはずだが、どの跡がそうなのか、ここからでは分からない。
「しばらく、山で暮らしてみる気はあるかね」
隣へ腰を下ろした宗玄さんが、木々の向こうを見た。
「山で、ですか?」
「少し上がったところに、わしが使う小屋がある。水場も近い。雨風をしのぐには困らんよ」
家の脇から続いていた道を思い出す。
ここへ来る途中にも、山へ入る細い道がいくつか分かれていた。
「そこで修練を?」
「うむ。ただし、刀は極力振らんことじゃ」
俺は宗玄さんを見た。
「……振らないんですか?」
「お前さんなら、暇があれば振るじゃろう」
返事に詰まる。
隣でセレスが、小さく頷いた。
「いつも巡らせておる魔力は、そのままでよい。それ以外には使わず、身体も強化せん。自然のままで暮らしてみい」
脚に残っていた魔力を、普段の巡りへ戻した。
庭で動いた疲れが、膝や腿へはっきりと現れる。
「歩くにも、荷を持つにも、今は魔力を使うことが当たり前になっておる。便利なものじゃ。じゃが、助けてもらっておるところは、自分では分かりにくい」
宗玄さんは足を下ろし、土へ置いた。
「山には平らなところばかりあるわけではない。踏む場所が変われば、身体の使い方も変わる。昨日は軽かった荷が、今日は重いこともある。そのとき、自分がどう動いておるか、よう見てみなさい」
「足と、腰ですか」
「それもじゃ。息も、背も、指の先も。刀を持つときだけ身体を使っておるわけではないからな」
水の入った器へ目を落とした。
持ち上げるだけなら、何も考えずにできる。けれど、どこへ力を入れているかと聞かれると、すぐには答えられなかった。
「それが、気にもつながるんですか?」
「つながる。自分の内で起きておることを、感じ取らねばならんからな。動きにくいところを、いつも魔力で埋めておっては、その手前を見落とす」
気という言葉を、俺はもう知っている。
使う人たちも見てきた。それでも、自分の中では、まだ掴めていなかった。
ふと、兄さんの姿が浮かんだ。
朝の庭で、木刀を振っていた。
魔力も、気も使わずに。同じ動きを繰り返す背中を、俺は何度も見ている。
あれだけの力を持っていても、兄さんは毎朝、それを続けていた。
「……兄も、力を使わずに木刀を振っていました」
「ほう」
「そのときは、朝の修練なんだと思って見ていたんですけど」
今になって、もう一度見たくなった。
木刀の先ではなく、足や腰、息の仕方を。
宗玄さんは、静かに頷いた。
「お前さんも、自分で確かめてみるとよい」
◇
小屋までの道を、紙へ描いてもらった。
沢へ出たら上流へ進み、二つに割れた大きな岩の手前で右へ上がる。道を外れなければ、明るいうちに着けるという。
「獣も、魔物もおる。刀は持っていきなさい。振らんというのは、命まで捨てろという話ではないからな」
「はい」
食料と雨具はある。
足りないものを確かめながら、鍋と火を起こす道具を用意することにした。《メルクリウス》も、山では頼らずに歩く。魔導二輪は、軒下へ置かせてもらえることになった。
『私も一緒に行くわ。道は二人で確かめましょう』
「うん。頼む」
セレスが地図をのぞき込む。
俺は示された沢の線を、指でたどった。
酒吞を、もう一度見たい。
今すぐ刀を握り直し、あの構えから抜いてみたい気持ちもある。
けれど、先ほどの手合わせで浮いた左足の感覚が残っていた。
まずは、自分の足がどこにあるのか。それを確かめるところから始めてみようと思った。
「明日の朝、行ってみます」
「そうか。では、今夜はよう食べて眠らんとな」
宗玄さんが膝へ手を置き、立ち上がった。
「その前に、薪を少し運んでくれるかね。小屋に積んである、乾いたものを」
「分かりました」
俺も庭へ下りた。
薪小屋には、割られた木がきれいに積まれている。手前から数本を取り、腕へ抱えた。
持ち上げようとした瞬間、魔力を脚へ送ろうとしていた。
動きを止める。
普段の円環だけを残し、薪を抱え直した。腕を身体へ寄せ、足の位置を少し変えてから立つ。
木の角が、服越しに前腕へ当たった。
重い。運べないほどではないが、さっきまでなら気にも留めなかった重さだった。
「そのくらいでよいぞ」
炊事場のほうから声がする。
「はい。今、持っていきます」
俺は足元の段差を見て、一歩を置いた。
薪を落とさないように腕を支え、もう一歩。台所からは、水を注ぐ音が聞こえていた。




