第136話 山裾の旧友
宿を発つ朝、窓を開けると、水路を進む小舟が見えた。
船頭が竿を動かし、橋の下へ姿を消していく。初めは珍しくて目で追っていたその景色も、数日過ごすうちに、朝の支度をする傍らで眺めるようになっていた。
卓へ広げた地図を畳み、荷物を収める。
刀鬼の住まいを示す印は、瑞京から山へ向かう道の先にあった。途中の分かれ道については、昨夜、宿の主人にも確かめてある。
『忘れ物はなさそうね』
セレスが、空になった卓からこちらを見た。
「うん。行こうか」
獅心を腰へ差し、部屋を出る。
階段を下りると、帳場にいた女将が顔を上げた。
「お発ちですか」
「はい。お世話になりました」
「こちらこそ。また都へ戻られたら、お寄りくださいね」
礼を言い、外へ回った。
軒下に置かせてもらっていた魔導二輪から覆いを外す。布を畳み、機体の周りを一度歩いてから、通りまで押していった。
朝の道には、荷を運ぶ人が増え始めていた。
店の戸を開ける音や、橋を渡る荷車の音が聞こえる。通い慣れた茶店の前を過ぎると、中から魚を焼く匂いがした。
『あのお店の朝ご飯も、しばらく食べられないわね』
「帰りに、また寄れたらいいな」
通りの端で機体へ跨がり、ゆっくり走り出す。
水路に沿って進み、いくつかの橋を越えた。町中では見上げていた屋根が遠ざかり、やがて前方に、山の稜線が広く見えるようになった。
◇
都を離れた道は、田畑の間を通っていた。
水を引く細い溝が道沿いに続き、ところどころで畑のほうへ分かれている。腰を屈めて作業する人の姿があり、荷車とすれ違うときには速度を落とした。
港から瑞京へ向かったときより、道に緩やかな起伏が増えていた。
上りきった先に小さな集落が現れ、家々の間を抜けると、また畑になる。遠くから見ていた山も、近づくにつれて木々の濃淡が分かるようになってきた。
道端の広くなった場所で、一度機体を止めた。
水を飲み、地図を開く。次の分かれ道で街道を外れれば、あとは沢に沿って進むらしい。
『もう近い?』
「ここからは、そんなに遠くないと思う」
地図の印へ指を置く。
じいちゃんの書き込みは簡潔だったが、橋や曲がり角の目印が添えてあった。その一つに、二股に分かれた大きな杉とある。
「ずっと、同じ場所に住んでるのかな」
『お祖父様が訪ねた頃から?』
「うん。この木も、覚えていたんだろうなって」
顔を上げると、道の先で枝が風に揺れていた。
じいちゃんも、この辺りを歩いたのだろうか。今より若い姿を想像しようとしたが、どうしても、実家の庭で刀を持つ姿が浮かんだ。
『会えば、その頃の話も聞けるかもしれないわね』
「そうだね」
地図を収め、もう一度機体へ跨がった。
街道から分かれた道は、土がよく踏み固められていた。
両側へ木々が近づき、日陰へ入るたびに空気がひんやりする。少し下を流れる沢の音が、駆動の低い振動に交じって聞こえた。
轍を避けながら、速度を抑えて進む。
木の根が道へ張り出したところでは、いったん止まり、押して越えた。姉さんたちへ伝えるなら、こうした道での感触も覚えておいたほうがよさそうだった。
やがて、幹が二つに分かれた杉が見えた。
「あれだ」
その手前から、細い道が沢を渡っている。
向こう岸の木々の間に、屋根の端がのぞいていた。
◇
橋を渡ったところで機体を下りた。
道の先は少し開けていて、石を積んだ低い囲いの向こうに、一軒の家があった。
広い屋敷ではなかった。
平屋の軒が深く伸び、脇には薪を積むための小屋がある。庭の端には畑があり、物干しには手拭いが二枚、風に揺れていた。
足元の道は、その家の脇を通って、さらに山へ続いている。
上のほうでは木々が重なり、どこまで道があるのか見えなかった。
『ここで合っていそうね』
「うん」
機体を押して近づくと、畑の脇で人が動いた。
低く屈んでいた背中が、ゆっくり起き上がる。
小柄な老人だった。
色褪せた灰青の作務衣を着て、袖を肘の下までまくっている。白い髪は短く、頬には深い皺があった。片手には小さな鎌を持ち、足元の籠には刈った草が入っていた。
老人はこちらに気づくと、目尻を下げた。
「おや、客かね」
「すみません。こちらに、祖父の知り合いが住んでいると聞いて来たんですが」
「ほう。お祖父さんの名は?」
「ラウル・クレハルトです。俺は孫の、レグルスといいます」
老人が一度、目を瞬かせた。
それから、顔いっぱいに笑みが広がった。
「おお、ラウルの孫か。よう来たな」
鎌を籠へ収め、手についた土を払う。
俺は機体を支えたまま、少しだけ返事が遅れた。
「あの……では、あなたが」
「刀鬼、と聞いてきたか?」
「はい」
「そう呼ぶ者もおるな。名は榊宗玄じゃ。宗玄でよい」
「宗玄さん。急に訪ねてしまって、すみません」
「構わんよ。草取りにも、ちょうど飽きてきたところじゃ」
宗玄さんが笑った。
俺も口元を緩め、改めて頭を下げる。
刀鬼。
手紙にあった二文字と、目の前の人を、もう一度頭の中で並べた。
厳しい顔をした、体格のいい人を想像していた。
けれど、こちらを見上げる老人の目は穏やかで、作務衣の膝には土がついている。呼び名を知らずに会っていたら、畑仕事の途中で道を教えてくれる人だと思ったかもしれない。
「それは、そこへ置いてよいぞ。軒の下が空いとる」
宗玄さんが魔導二輪を指した。
「ありがとうございます」
言われた場所へ押していくと、宗玄さんも庭を横切ってきた。
途中、薪小屋の前で足を止め、割った薪の詰まった籠へ手をかける。
「それ、運びます」
俺が機体から手を離しかけたときには、もう籠が持ち上がっていた。
「すぐそこじゃ。お前さんは、それを落ち着けなさい」
籠は、宗玄さんの身体に対して随分大きかった。
それでも肩が持ち上がることも、腰が片側へ逃げることもない。足元の石を一つ避け、薪小屋の中へ運んでいった。
俺は、その数歩を見ていた。
道場で見せてもらった足運びを思い出す。
けれど、今の動きは、見本を示すためのものでも、構えを整えてから始めたものでもなかった。屈んで、持って、歩く。その間に、姿勢を作り直したようなところが見当たらない。
「どうした?」
「あ、いえ」
支えを立て、機体が安定していることを確かめる。
顔を上げると、宗玄さんはもう縁側の前へ戻っていた。
◇
軒先には、水を入れた桶が置かれていた。
宗玄さんはそこで手を洗い、掛けてあった布で拭いた。それから縁側へ手を伸ばしたところで、俺はそこに刀があることに気づいた。
焦げ茶の鞘に収まった、一振り。
鍔がなく、柄から鞘へ、細い輪郭がそのままつながっている。合口拵えだった。短刀ではない。持ち上げられると、それなりの長さがあることが分かった。
目立つ飾りはなかった。
手の触れるところには使い込まれた艶があり、鞘の先には細かな擦れが残っている。
宗玄さんはそれを片手に持ち、戸を開けた。
「さあ、上がりなさい。茶を淹れよう」
「お邪魔します」
『お邪魔するわね』
セレスが肩から挨拶すると、宗玄さんはこちらへ顔を向けた。
「そちらのお嬢さんも、よう来た」
「セレスです。一緒に旅をしています」
『よろしくお願いします』
「うむ。二人とも、好きなところへ座るとよい」
靴を脱ぎ、家へ上がった。
畳の部屋には低い卓があり、庭へ向いた障子が開いている。棚には本と小さな箱が並び、壁際には畳まれた座布団が重ねてあった。
宗玄さんは刀を脇へ置き、奥へ茶の支度に行った。
俺は腰から獅心を外し、座布団へ座る。セレスは肩から下り、卓の端へ腰を落ち着けた。
『少し、緊張していたでしょう』
「……分かった?」
『門の前から、背筋が伸びていたもの』
小声で話していると、奥から声が届いた。
「ラウルは元気にしとるかね」
「はい。今も、庭で刀を振っています」
「そうか、そうか。それなら元気じゃな」
湯を注ぐ音がした。
ほどなくして、宗玄さんが盆を持って戻ってくる。湯呑みと、小皿に載せた漬物が卓へ置かれた。
「長く走ってきたじゃろう。まず一服しなさい」
「ありがとうございます」
湯呑みを手に取ると、指先へ温かさが伝わった。
山へ近づいてから、思っていたより身体が冷えていたらしい。ひと口飲むと、茶の香りが鼻へ抜けた。
宗玄さんは向かいへ座り、俺の顔を眺めた。
「あやつに、孫を寄越される歳になったか」
「祖父とは、この国で知り合ったんですか?」
「そうじゃ。若い頃に、海を渡ってきてな。刀を持った西の若者がおると聞いて、わしから顔を見に行った」
「そのときから、刀を?」
「合わせたよ。口で話すより、そちらが早かった頃じゃ」
宗玄さんが湯呑みを置いた。
「一度では済まんかったがな。負けたほうが工夫して、次に持ってくる。すると、今度は勝ったほうが考え直すことになる。気づけば、顔を合わせるたびに刀を握っとった」
「……祖父も、負けたんですか?」
「そりゃあ、あるとも。わしも随分やられたが」
楽しそうに言われ、俺は少し驚いた。
じいちゃんが誰かに負け、次に勝つために刀を振る姿。そういう時間があったことは当然なのに、今まで具体的に思い浮かべたことがなかった。
「どういう立ち合いだったんですか?」
「わしが仕掛け、あやつが待つことが多かったな。こちらが動けば、その先へ刃が置いてある。腹が立つほど、よう見とる男じゃった」
実家の庭で向き合ったときのことを思い出す。
じいちゃんはそこに立っているだけなのに、踏み込もうとすると、届く前に斬られる気がした。動かないから隙がある、とは一度も思えなかった。
「それで、宗玄さんはどうしたんですか?」
「待っておれんように、こちらから入る。あやつが見定めるより先に間を詰めて、刀を出させる。そうして、何度もやり直した」
宗玄さんは自分の手を見下ろし、指を軽く開いた。
「若い頃は、あやつを一歩でも余計に動かしてやろうと思うてな」
『それほど、負けたくなかったのね』
「うむ。向こうも、涼しい顔で同じことを考えとったはずじゃ」
セレスへ答え、宗玄さんが笑う。
目の前の小柄な老人が、自分から踏み込み、じいちゃんへ斬りかかる。その姿を想像すると、先ほど庭を横切った足の運びが浮かんだ。
「今は、こうして草取りをしておるほうが長いがな。勝手に伸びるものは、刀より手がかかる」
庭の畑へ目を向けて言うので、俺も笑った。
◇
俺は湯呑みを置き、収納の指輪から手紙を取り出した。
「祖父から、この手紙が届いたんです。こちらへ行ってみろと」
「ほう。見てもよいかね」
「はい」
差し出すと、宗玄さんは両手で受け取った。
折り目を開き、文字へ視線を落とす。読み進めるうちに、目尻の皺が少し深くなった。
「あやつらしい書き方じゃ」
俺は、その手元を見た。
節の太い指が便箋を押さえている。さっきまで土に触れていた手であり、じいちゃんと刀を交えた手でもある。
宗玄さんは手紙を畳み、卓へ戻した。
「この国は、少し見て回ったかね」
「はい。汐見津から瑞京へ行って、何日か過ごしました。食べ物や、町の様子を見たり、道場の稽古を見せてもらったり」
「道場か」
「祖父から教わった足運びに、似ているところがあったので」
宗玄さんが頷いた。
先を促すようにこちらを見るので、俺は道場で見たことを話した。子供たちが足だけを動かしていたこと。西から来た剣士が、刀の動きへ身体を合わせようとしていたこと。
「自分では刀の振り方を考えているつもりでも、足や腰で変わることが、まだ多いんだと思いました」
「見に行った甲斐があったな」
「はい。でも、分かったと思って動いても、うまくいかないことがあって」
言いながら、自分の膝へ目を落とした。
じいちゃんに教わった歩法は、続けている。
帝国で学んだ動きも、戦う中で使ってきた。それでも、ときどき、次の一歩へ身体が素直についてこない。力を加えれば動けるが、それでよかったのかは、自分でも分からないことがあった。
宗玄さんは口を挟まず、俺の話を聞いていた。
「祖父は、あなたに会ってこいと。俺も、お話を聞いてみたいと思って来ました」
「そうか」
短く答え、茶を淹れ足してくれた。
急須を戻す音が、小さく卓に響いた。
「なら、今日はここへ泊まるとよい。部屋は空いとる」
「いいんですか?」
「遠くから来た友の孫を、茶だけ飲ませて帰せんよ。セレスも、それでよいかな」
『ええ。ありがとうございます』
俺も頭を下げた。
宗玄さんは気にするなというように手を振り、庭へ目を向けた。
「飯までには、まだ少し間があるな」
その視線が、俺の脇に置いた獅心へ移った。
「ひと息ついたら、ラウルに何を習ったか、見せてくれるかね」
俺は刀を見て、それから顔を上げた。
「はい。お願いします」
宗玄さんが、穏やかに頷いた。
庭を通った風が障子の端を揺らし、軒先の手拭いがひるがえる。
俺は残っていた茶を飲み、湯呑みを静かに置いた。




