第135話 瑞京、刀を支える足
橋の途中で足を止めると、水路の向こうまで屋根が続いていた。
黒い瓦の間から木々が顔を出し、白壁に沿って細い道が曲がっている。水面に映った家並みを、荷を積んだ小舟がゆっくり崩していった。
瑞京。
地図で見ていたこの都の名にも、ようやく景色が伴ってきた。
『あちらにも橋があるわね』
肩のセレスが、水路の先を指した。
「さっき渡ったのも入れると、もう何本目だろう」
『帰り道は覚えている?』
「この水路を戻れば大丈夫だと思う」
『途中で分かれていたけれど』
俺は振り返った。
橋の手前から、もう一本、細い流れが家々の間へ入り込んでいる。
「……橋の形も覚えておこう」
セレスが小さく笑った。
通りへ戻ると、軒先に吊られた布が風に揺れた。
格子戸を開けた店では、刷毛を持った職人が木の椀へ何かを塗っている。隣には編み上げた籠が積まれ、その向こうでは反物を広げた女が客と話していた。二階の窓から布団を出す人もいて、歩いていると暮らしの音が近かった。
白壁の長い屋敷を過ぎたところで、甘さの交じった匂いが鼻へ届いた。
焼き菓子とは違う。
少し重く、塩気まで感じるような匂いだった。
店先には木の樽が並んでいた。蓋を外した一つに、茶色いものが詰まっている。客が差し出した容器へ、店の男が木べらでそれを移していた。
足を緩めた俺に、男が顔を上げる。
「味噌をお探しかい?」
「これが、味噌ですか」
「ああ。こっちは少し甘めだよ。汁にするなら、隣のもよく出る」
隣の樽は、もう少し色が濃かった。
近づくと、今朝の椀から立っていた香りを思い出した。
「朝、茶店で飲んだ汁も、これを使ってるんですね」
「具と出汁に合わせて溶くんだ。どこの店で食べた?」
宿の近くの茶店を説明すると、男は頷いた。
「あそこなら、うちのを持っていってるよ」
「そうなんですか」
樽の中へ、もう一度目を向けた。
汁になったものは知っていても、こうして売られているところを見るのは初めてだった。木べらで掬った跡が残り、表面には細かな粒が見える。
「何から作るんですか?」
「豆に塩、それと麹だね。仕込んで、時間をかけて発酵させる。すぐには売り物にならないよ」
男は客へ容器を返してから、店の奥を指した。
薄暗い場所にも樽が並び、それぞれに札が下がっていた。
『同じ色ではないのね』
「材料や、置く長さでも変わるからね。家ごとに好みもある」
セレスの声に答えながら、男が今度は小さな壺の蓋を取った。
中には黒に近い茶色の液体が入っている。匙で白い皿へ落とすと、薄く広がった縁が赤みを帯びた。
「こっちは醤油。西から来た人にも、こっちのほうは知っていると言われるね」
香りが届いたところで、実家の食卓が浮かんだ。
魚の皿。煮込んだ肉。汁椀を置く母さんの手。
「……家でも、使っていた気がします」
味噌の汁も、出たことがあった。
何気なく飲んでいたが、あの味を作るものがどこから来るのか、考えたことはなかった。
「王国でも売っているんですか?」
「商人が持っていくよ。あそこに積んであるのも、西へ送る分だ」
店の脇には蓋を閉じた小樽が並んでいた。
縄をかけ、同じ印を押してある。開いた戸の先では、二人の男がそれを荷車へ載せていた。
「まず汐見津へ運んで、そこから船ですか」
「そういうこと。あんたも、あの港から?」
「はい。船で来ました」
「それなら、帰りの積荷に入っているかもしれないね」
海の上で眺めた、長い貨物区画を思い出した。
米だけではない。こうした樽もあそこへ収まり、海を渡っていくのだろう。
うちで使っていたものも、この国から届いていたのだろうか。
じいちゃんの縁で手に入れていたのか、それとも、いつもの商人が運んでいたのか。今度帰ったら、母さんに聞いてみたい。
『どうしたの?』
「家で食べていたもののこと、あまり知らなかったなって」
セレスが樽へ目を戻す。
『帰ったら、話すことが増えたわね』
「うん」
俺は旅の途中でも使えそうな量を尋ね、味噌を小さな蓋つきの容器へ詰めてもらった。醤油も小瓶を一本選ぶ。
「汁にするなら、最初から入れすぎないようにね。足りなければ足せるから」
「分かりました。ありがとうございます」
包みを受け取り、店先を離れる。
収納の指輪へ収める前に確かめた蓋から、まだ少し、あの香りがした。
◇
店の並ぶ通りを抜けると、道幅が少し広くなった。
塀の内側から枝を伸ばした木が、足元へ影を落としている。水路沿いでは、箒を持った老人が落ち葉を集めていた。
その先で、掛け声が聞こえた。
短い声が重なり、少し遅れて、木の触れ合う音が続く。
開いた門の向こうに広い庭があり、その奥の建物では、戸を大きく開け放していた。
板張りの床に、人が並んでいる。
手にしているのは木刀だった。
『道場かしら』
「そうみたいだ」
門の前で足を緩めると、庭の端で桶を片づけていた若い男がこちらを見た。
「何かご用ですか?」
「旅の途中なんですが、少し稽古を見せてもらうことはできますか」
男は俺の腰へ目を向けてから、建物の中を振り返った。
「聞いてきます。ここでお待ちください」
しばらくして戻ってくると、縁側の端へ案内してくれた。
「そちらからどうぞ。出入りする者がいますので、通り道だけ空けていただければ」
「ありがとうございます」
獅心が柱へ当たらないように座り、セレスと一緒に中を見た。
手前にいるのは、まだ背の低い子供たちだった。
奥には若者や大人もいる。皆が同じことをしているわけではなく、木刀を振る組と、何も持たずに足を動かす組に分かれていた。
「先に足だけ行かない。腰を置いてくるな」
年嵩の男が、子供の横へ屈む。
前へ出した足を少し戻させ、腰へ手を添えて、もう一度動かしていた。
子供が一歩進む。
今度は上体が大きく揺れた。
「急がなくていい。同じところへ、もう一度」
男は声を荒らげず、隣でゆっくり一歩を見せた。
頭の高さはほとんど変わらない。足が進むのに合わせて腰が移り、後ろの足もついてくる。止まったところで、すぐに逆へ戻れそうな姿勢だった。
見覚えがあった。
今朝、通りで見た男たちにも、その後に来た見回りの人にも、似たところがあった。だが、目の前の動きは、ずっと無理が少ない。
子供が真似をする。
足元へ目を落としすぎたらしく、今度は顎を軽く上げられていた。
『なかなか、一度では揃わないものね』
「うん」
木刀を持った隣の組でも、振り下ろすたびに姿勢を直されていた。
腕へ力が入りすぎて肩が上がる子もいれば、振った勢いに身体を引かれて、前へつんのめる子もいる。
刀を下げた人が多いからといって、最初から使えるわけではない。
ここでも、一つずつ覚えているのだ。
◇
奥の組へ目を移したところで、一人の男が気になった。
周囲より体格がよく、腕も太い。
前へ出る勢いは強く、踏んだ床が低く鳴った。木刀も速い。だが、振り終えたところで、手元がわずかに横へ流れていた。
「今のは、最後に腕で合わせたな」
指導していた男が言うと、木刀を持った男は苦笑した。
「分かってはいるんですが。剣なら、もう少し収まるんです」
「慣れた動きが出るのだろう。まずは小さく振ってみよう」
指導役は、自分の木刀をゆっくり動かした。
足、腰、手元。その動きにつれて、刃に当たる側が一つの面を通っていく。
「足をここまで開くなら、腰の向きも確かめて。手首だけで刃を戻そうとしない」
男が構え直す。
先ほどより歩幅を狭め、ゆっくり木刀を振った。勢いは落ちたが、切っ先の通る道が揃った。
もう一度。
少し速くした途端、腰が先に回り、手元が遅れた。
俺は、その足元を見ていた。
西側で身につけた剣の動きがある。
そこへ刀の握り方や振り方を加えても、踏み込んだときには、身体が慣れたほうへ戻ってしまうらしい。本人もそれを感じているのか、振り終えるたびに腰へ目を落としていた。
「西から来られた方なんですか?」
近くへ戻ってきた、案内役の若い男へ尋ねた。
「ええ。こちらで仕事をするようになって、刀も覚えたいと。剣では随分、場数を踏んでいるそうですよ」
「だから、足がしっかりしてるんですね」
「ただ、習ったものと勝手が違うそうです。私たちは子供の頃からこれなので、言われて初めて気づくこともあります」
男はそう言って、手前の組を見た。
「あの子たちも、まだ何年もかかりますよ」
小さな子が、隣の子より速く振ろうとして姿勢を崩した。
指導役に止められ、二人とも木刀を下ろす。足だけの動きへ戻されると、片方が少し不満そうな顔をした。
思わず口元が緩んだ。
俺も、刀の扱いを考えるときは、刃や手元へ意識が向きやすい。
けれど、あの男の振り終わりが変わったのは、足を置く場所と腰の動きを直したときだった。
『何か気になった?』
セレスが小声で尋ねる。
「刀が難しいって言われる理由、少し分かった気がする」
『足のほうを見ていたわね』
「うん。持ち替えたら、それで同じように振れるわけじゃないんだな」
腕だけ真似ても、その腕を運ぶ身体が違う。
踏み込んだ後で刃の向きを合わせようとすれば、余計な動きが入る。慣れた武器では自然にできていたことを、もう一度、足元から確かめる必要があるのだろう。
帝国で学んだ、強く地を踏む動きも思い出した。
あの力は、俺の刀を支えてくれる。強く踏むことそのものが、刀に合わないわけではない。踏んだ力を、腰から刃までどう通すか。そのつなぎ方が、今見ている男には、まだ馴染んでいないのかもしれなかった。
俺には、じいちゃんと繰り返した時間がある。
新しい動きを試すときにも、気づかないうちに、その感覚を頼りにしていたのだろう。
◇
稽古の区切りで、指導していた年嵩の男が縁側へ来た。
手拭いで額を拭い、俺の隣に少し間を空けて座る。
「退屈しなかったかい」
「はい。見せていただいて、ありがとうございます」
「君も刀を使うんだね」
「祖父に教わりました」
「それで、足の稽古を熱心に見ていたのか」
俺は頷いた。
「祖父の動きと、似ているところがあったので。この国では、ああした足の運びから習うんですか?」
「流派で違いはあるよ。ただ、うちのような教え方は珍しくないね」
男は、休憩中の子供たちへ目を向けた。
一人が水を飲みながら、まだ足を前後へ動かしている。隣の子に何か言われ、今度は二人で確かめ始めた。
「親や兄姉が通っていて、自分も、という子が多い。近所に教える者もいる。刀を選ぶなら、始めやすい土地ではあるね」
「街でも、使っている人をよく見ます」
「見られるのも大きいだろう。もっとも、見ているだけで扱えるなら、こちらも苦労しないが」
男が笑った。
奥では、先ほどの西から来た男が、一人で木刀を振っていた。
ゆっくり一度振り、足を戻す。腰の向きを確かめ、もう一度。指導役が目を向けると、手を止めて小さく頭を下げた。
「大人になってからでも、覚える人はいる。あの人は、自分で違いを確かめながら続けているよ」
俺もそちらを見て頷いた。
この土地に生まれれば、自然に刀が使えるようになるわけではない。
幼い頃から教わる場所があり、身近に使う人がいる。その中で何度も直されながら、身体へ馴染ませていく。
通りですれ違った刀の数だけでは、そこまでは見えていなかった。
稽古が再開する頃に、俺たちは席を立った。
見学させてもらった礼を伝えると、男は気軽に手を上げてくれた。
「よい旅を」
「ありがとうございます」
門を出てからも、しばらく掛け声が背中へ届いていた。
◇
水路へ戻ると、陽の当たる場所が変わっていた。
朝は影になっていた白壁が明るく、軒の下では猫が長くなって眠っている。
俺は歩きながら、自分の足へ少し意識を向けた。
腰が進み、後ろの足がついてくる。今まで何度も繰り返してきた動きだったが、道場の子供たちを見た後では、確かめたいところが増えていた。
『レグルス。前』
顔を上げると、荷籠を抱えた人がこちらへ来ていた。
脇へ寄って道を空け、通り過ぎるのを待つ。
「……ありがとう」
『考えるのは、広いところにしてね』
「そうする」
橋のたもとまで来たところで、向こう岸から香ばしい匂いが流れてきた。
店先の網で、串に刺した団子を焼いている。刷毛でたれを塗ると、火の上で小さく音がした。
さっき店で嗅いだ醤油の香りが、今度は甘さと一緒に届いた。
『あちらも気になるの?』
「うん。今なら、何を塗っているのか分かる」
セレスが店先へ目を向け、それから俺を見た。
『聞いてみたら?』
俺は頷き、橋を渡った。
売り手へ声をかけると、ちょうど焼けた一本を持ち上げてくれる。代金を払い、まだ熱い団子を受け取った。
端の一つを齧ると、表面の香ばしさの後から、柔らかな甘みが広がった。
「……これも、いいな」
もう一本は帰りに買おうか。
そう考えながら、俺は水路沿いの空いた腰掛けへ向かった。




