第134話 水の都、見覚えのある一歩
首都へ入る道は、幅のある堀に架かった橋へ続いていた。
橋の手前で魔導二輪を降り、人の流れに合わせて押していく。欄干の向こうには夕焼けが映り、岸に沿って進む小舟が、その赤い光を細く崩していた。
水際は石で固められ、ところどころに荷を下ろすための階段が設けられている。橋を渡った先でも、水は街の中へ続いていた。大きな堀から分かれた水路が家並みの間を通り、通りを曲がるたびに、別の橋が見えた。
「……水が多いな」
『王都を思い出すわね』
「うん。でも、こっちは街の中を細かく通してるんだな」
王都では、大きな川が街の景色をつないでいた。
ここでは水のほうが、人の暮らす隙間へ入り込んでいる。店の裏を流れ、屋敷の塀に沿い、橋の下からまた姿を見せる。水面に揺れる灯りを見ていると、初めて来た場所なのに、どこか落ち着いた。
通りには、平屋や二階建ての家が軒を連ねていた。
格子の向こうに人影が動き、店先では下げていた布を片づけている。少し大きな屋敷も、長い白壁の奥へ屋根を広げる造りで、空を遮るほど高い建物は見当たらなかった。
見上げれば、まだ明るさの残る空が広い。
歩く人の足音に、車輪の軋みと、水の音が交じっていた。
橋のたもとでは、刀を差した見回りの者が荷車へ道を譲っていた。店主に声をかけられると足を止め、通りの先を見ながら何か答えている。
日が落ちかけても人の往来は多く、子どもを連れた女が、夕食の買い物らしい包みを抱えて歩いていた。
俺は近くの店で宿の場所を尋ね、水路沿いの通りへ曲がった。
◇
教えられた旅籠は、軒先に灯りを下げた二階建ての建物だった。
入口の脇には小さな橋が架かり、その下を水が流れている。戸を開けると、奥から女将らしい女が顔を出した。
「お泊まりかい?」
「はい。一人なんですが、空いていますか」
「空いているよ。外の乗り物も、あんたの?」
頷くと、裏の屋根がある場所へ案内された。
魔導二輪を停め、駆動を切ってから荷を確かめる。表へ戻ったときには、宿の者が部屋の用意をしてくれていた。
玄関で靴を脱ぎ、木の廊下を歩く。
案内された部屋の戸が横へ開くと、畳の匂いがした。低い卓と座布団が置かれ、窓の外には、向かいの瓦屋根と水路の一部が見える。
俺は部屋へ上がり、腰から獅心を外した。
畳へ腰を下ろすと、長く機体に乗っていた脚がようやく緩む。
『落ち着くお部屋ね』
「うん。家の座敷に似てる」
窓を少し開ける。
涼しい空気と一緒に、水の流れる音が入ってきた。王都に似た景色の中で、実家に似た部屋に座っている。遠くへ来たはずなのに、懐かしいものが少しずつ重なっていた。
簡単に夕食を済ませ、湯で旅の汚れを落とした。
布団へ入る前に、じいちゃんの手紙と地図を卓へ広げる。首都の先に記された道筋を確かめたが、その夜は長く考えなかった。
水音を聞いているうちに、まぶたが重くなった。
◇
翌朝は、戸を開ける音と、廊下を歩く足音で目が覚めた。
窓の外はすでに明るい。起き上がって身体を伸ばし、身支度を整える。藍色の上衣を合わせ、帯を締めて獅心を差すと、昨日より手が迷わなかった。
朝食の場所を尋ねると、女将が近くの茶店を教えてくれた。
「朝は飯を出しているよ。橋を渡って、右へ行けばすぐだから」
「ありがとうございます」
魔導二輪は宿へ置き、歩いて出かけた。
水路には朝の光が差し、底に沈んだ小石まで見える場所もあった。店の前を掃く音が続き、橋を渡るころには、魚を焼く匂いがした。
茶店の軒下には腰掛けが並んでいた。
中にも低い卓があり、仕事前らしい客が黙々と朝食を取っている。俺が席へ着くと、店の女が茶を運んできた。
「朝の膳でいいかい?」
「はい、お願いします」
ほどなくして、白米とみそ汁、焼き魚に漬物が並んだ。
魚の皮は端が少し焦げ、箸を入れると白い身がほぐれる。みそ汁の湯気には、刻んだ葱の匂いが混じっていた。
椀を持ち、一口飲む。
温かさが腹へ下りていき、朝の身体が内側からほどけるようだった。
『今日は、このまま山のほうへ向かうの?』
卓の端に座ったセレスへ、俺は首を振った。
「二、三日、ここを見てからにしようと思う」
『手紙の場所は確かめられたのでしょう?』
「うん。でも、急いでそこへ行くだけじゃ、じいちゃんに言われたことと少し違う気がして」
昨日は宿を探すので、通りを眺めながらも足を止める余裕がなかった。
水路がどこへ続くのかも、店先に何が並んでいるのかも、まだほとんど知らない。
「今日は歩いて回ってみたい」
『いいと思うわ。せっかく来たのだもの』
セレスが頷いたところで、店の女が通りかかった。
「都見物かい?」
「はい。昨日着いたばかりで」
「それなら、この水路沿いを行くといいよ。商いの通りへ出るから。橋をいくつか渡れば、屋敷の多い辺りにも行ける」
俺は教えられた方向を確かめ、残りの魚を食べた。
茶を飲み終えるころには、通りの足音も増えていた。
◇
一度宿へ戻り、あと二泊できるか尋ねると、女将は同じ部屋で構わないと言ってくれた。
礼を言ってから、教わった通りへ向かう。
朝の都は、昨夜よりも色が多かった。
布を広げる店、木の器を並べる店、籠いっぱいの野菜を運び込む店。軒の下には看板が下がり、開いた戸口から、品物を確かめる客の声が聞こえていた。
橋を一つ渡ると、水路の両側へ蔵が並んだ。
小舟から荷を上げる者と、上で受け取る者が声を合わせている。その脇を、剣を下げた男と刀を差した男が並んで通り過ぎた。話しているのは宿代のことらしく、得物の違いを気にしている様子はなかった。
俺も先へ進もうとして、声の大きくなったほうへ顔を向けた。
「どこを見て歩いてる」
少し先で、三人の男が通りを塞いでいた。
その横を、木箱を抱えた若者が通ろうとしている。若者が身体を斜めにして避けたところへ、一人が足をずらした。
肩がぶつかり、箱が傾いた。
若者はどうにか抱え直したが、男は自分の袖を払い、顔をしかめた。
「汚れただろうが。どうしてくれる」
「すみません。でも、今――」
「言い訳するのか?」
残りの二人が若者の後ろへ回った。
近くの店主が顔を出し、「道を空けなさいよ」と声をかける。男はそちらを一瞥しただけで、若者へ手を伸ばした。
俺は二人の間へ入った。
「今のは、そっちからぶつかっただろ」
伸びてきた手が止まる。
男の目が俺へ移り、襟元から腰の刀までをなぞった。
「何だ、お前は」
「見てたんだよ。通ろうとしたところへ、足を出した」
「関係ないなら、引っ込んでろ」
横から低い声がした。
若者の背後にいた一人が、俺へ近づいてくる。俺は若者に店のほうへ下がるよう目で示した。店主が手招きし、別の男が通りの先へ走っていくのが見えた。
前にいた男が、俺の胸元へ手を伸ばした。
その一歩に、目が留まった。
足を大きく上げず、地面に沿わせるように距離を詰めてくる。肩を先に突き出すのではなく、腰が滑るように動き、その後を手が追った。
見覚えがあった。
俺は膝を緩め、半歩だけ横へ移った。
指が襟元を掠める。
掴み損ねた男の手首へ触れ、その動く先へ少しだけ導く。踏み直そうとした足の外側へ自分の足を置き、肘の向きを変えると、男の身体が傾いた。
「なっ――」
膝が石畳へつく。
俺は腕を離し、一歩退いた。
「やめよう。怪我をする前に」
男は顔を上げた。赤くなった顔のまま、腰へ手をやる。
『抜くわ』
セレスの声より早く、その肩がわずかに沈んだのが見えた。
左足を引き、鞘を退かせながら抜くつもりだ。手だけを見ていれば、刃が出るまで待つことになっていたかもしれない。
俺はその足が収まる前に踏み込んだ。
柄頭を押さえ、抜こうとする右手ごと止める。男が力を込めるのに合わせ、腕を斜め下へ導きながら身体の横へ回った。
肩が落ち、顔が地面へ近づく。
腕を折らない位置で動きを止め、片膝をつかせたところへ、別の男が拳を振ってきた。
頭を引き、押さえていた男の身体をその進路へ向ける。
殴りかかった男が慌てて腕を止めた。その足元へ回り、背を掌で押すと、二人はもつれるように倒れた。
残る一人も刀へ手をかけていたが、仲間が転がってきたせいで、踏み込む場所を失っていた。
俺は二人を越えず、その脇から近づいた。
男が半歩退く。
やはり、足を滑らせるような動きだった。ただ、上体だけが先に逃げ、後ろ足へ体重が残っている。
握った柄をこちらへ向ける前に手首を押さえ、空いた手で肘を支えた。
腰を返すと、男はつま先立ちになった。そこから無理に逆らおうとしたので、膝を曲げて下へ導く。息を詰めた声が漏れ、男はその場へ座り込んだ。
「動かないで」
俺の刀は、鞘の中にあった。
最後の男を押さえたまま、倒れた二人へも意識を向ける。立ち上がろうとする気配はあったが、その前に通りの向こうから声が飛んだ。
「そこまでだ!」
◇
見回りの者が二人、駆けてきた。
先ほど走っていった男がその後ろにいる。俺は事情を短く伝え、相手を引き渡した。
「この若者が先に絡んだんじゃないよ。あたしも見ていた」
店主が口を挟むと、木箱を抱えた若者も何度も頷いた。
見回りの一人が三人の得物を預かり、もう一人が俺たちの話を聞き取っていく。
その動きを、俺はつい見ていた。
立たせた男が肩を振って抵抗しかけると、見回りの者は足を引き、相手の腕に沿うように位置を変えた。強く地面を踏み鳴らすことも、力任せに引き倒すこともない。
男の身体だけが窮屈そうに傾き、そのまま大人しくなった。
さっきの三人より、ずっと整っている。
けれど、足の運び方には同じものがあった。
「怪我はないか」
尋ねられ、俺は顔を上げた。
「はい。大丈夫です」
「手を貸してくれて助かった。あとは任せてくれ」
名前と泊まっている宿を伝えると、見回りの者は頷いた。
三人を連れて歩き始めたその背中を、俺はしばらく見送った。
若者が近づき、頭を下げる。
「ありがとうございました。俺、どうしたらいいか分からなくて」
「荷物は大丈夫?」
「はい。割れ物じゃなかったので」
「それならよかった」
若者はもう一度礼を言い、箱を抱え直した。
店主がその背へ「気をつけて行きな」と声をかける。倒れたときにずれた店先の籠を直していると、店主にも礼を言われた。
人垣は少しずつ解け、通りへ荷車が戻ってきた。
騒ぎの間も流れていた水の音が、また耳に入るようになった。
◇
橋の上まで歩き、俺は欄干のそばで足を止めた。
水面には、向かいの白壁が映っている。舟が通るとその輪郭が崩れ、しばらくして元へ戻った。
『さっきから、考えているわね』
「足の運びが、似てた」
『あの人たちの?』
「うん。見回りの人も」
俺は足元へ目を落とし、先ほど見た動きを小さくなぞった。
膝を固めずに重心を移し、身体の進む先へ足を運ぶ。帝国で繰り返した、地面を強く捉えて力を通す動きとは、入り方が違っていた。
「じいちゃんから教わったのと、同じところがある」
もちろん、あの三人が《桜舞》を使ったわけではない。
動きは粗く、狙いも読みやすかった。けれど、始めの一歩にあった身体の運び方は、俺が庭で何度も繰り返したものと、確かに似ていた。
『この土地で学ぶ人たちには、馴染みのある動きなのかもしれないわね』
「……そうだな」
俺にとっては、じいちゃんが教えてくれた足だった。
家の庭で向かい合い、何度も直されながら覚えたものだ。その土台になる動きが、ここではほかの人の身体にも残っている。
じいちゃんは、この土地で誰の足を見たのだろう。
どんな場所を歩き、あの動きへたどり着いたのだろう。
手紙に書かれていた言葉を思い出す。
何を見て、どう暮らし、あの足運びを使ってきたのか。来る前にはぼんやりしていた意味が、少しだけ形になった気がした。
『刀鬼のところへ、早く行きたくなった?』
俺は橋の向こうを見た。
まだ歩いていない通りがあり、その先にも水路が続いている。
「なった。でも、もう少し街を見たい」
じいちゃんの知り合いに会う前に、自分で気づけることが、まだありそうだった。
橋を渡りきり、人の流れへ戻る。
今度は腰の刀だけでなく、その下の一歩にも目を向けながら、俺はセレスと通りを歩いていった。




