第133話 潮風と、懐かしい味
クラーケンに襲われてからは、拍子抜けするほど穏やかな航海が続いた。
朝は船内を歩き、食事を取ってから甲板へ出る。波の高い日には手すり越しの景色がゆっくり上下したが、それにも次第に慣れた。海面に影を見つけて身構えたこともあったものの、近くを泳ぐ魚の群れだと船員に教えられ、肩の力を抜いた。
潮をかぶった服は洗って干した。
刀と鞘も手入れを済ませ、足首の銀環に異常がないか確かめた。客室の卓で《メルクリウス》の使用感を書き留めていると、船が揺れるたびに文字が少し歪んだ。
『読めるかしら、それ』
「俺は読める」
『読むのはパラケルスでしょう?』
俺は紙を見下ろし、最後の二行を書き直した。
そんなやり取りをするうちに、船の中にも馴染みができた。
顔を合わせれば挨拶をする船員が増え、食堂では同じ席へ座るようになった。夕方、セレスと甲板へ出ると、水平線へ沈む光を、言葉もなく眺めていることがあった。
島影が見えたのは、よく晴れた朝だった。
最初は雲との違いも分からない、薄い輪郭だった。近づくにつれて山の稜線がはっきりし、その下に濃い緑と、低く連なる屋根が現れる。
海へ突き出た防波堤の内側には、大小の船が並んでいた。
「汐見津だ。もう少しで着くぞ」
通りかかった船員の言葉に、俺は手すりから身を起こした。
「しおみづ……」
『着いたのね』
「うん」
海を渡った先に、ちゃんと街があった。
当たり前のことなのに、地図で見ていた小さな印と、目の前の景色がようやくつながった気がした。
◇
船を下りたとき、足元がまだ揺れているように感じた。
岸壁の石は動いていない。それを足裏で確かめてから、俺は貨物受付へ向かった。
港には長い倉庫が並んでいた。白い壁の上に濃い色の瓦屋根が載り、開け放たれた戸口を、荷を積んだ台車が行き交っている。大きな荷役設備の腕が回り、綱で束ねられた木箱を船から持ち上げた。
掛け声の向こうでは、米俵が倉庫へ運び込まれていた。
帳面を手に数を確かめる男と、次の荷を待つ作業員。積み上げられた俵は、奥が見えないほど続いている。
俺は書類を見せ、魔導二輪を受け取った。
覆いを外して傷みがないか調べる。固定されていた場所にも異常はなく、起動させると、いつもの低い音が返ってきた。
「大丈夫そうか?」
積み下ろしを見ていた船員に、俺は頷いた。
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ、世話になったな。いい旅を」
差し出された手を握り、船を振り返る。
あれだけ大きく感じた船も、岸壁ではいくつも並ぶうちの一隻だった。甲板に見知った顔を見つけて手を上げ、俺は機体を押して港の通りへ出た。
軒先に布を下げた店が並び、魚を焼く匂いが流れてくる。
行き交う人の服装は、思っていたよりさまざまだった。前を合わせた上衣に帯を締めた男の隣を、シャツとスラックスの商人が歩いている。革の胴当てを着た冒険者らしい一団もいて、一人は幅広の剣を、別の一人は斧を下げていた。
見慣れた得物もある。
それでも、目は自然と別のものを追った。
店先で話している男の腰に、反りのある鞘が見える。荷車へ道を譲った女も、短めの刀を差していた。次の角から現れた二人組は、柄の長さも鍔の形も、それぞれ違う。
「……多いな」
『刀?』
「うん。王国や帝国だと、ここまで続けて見かけなかった」
自分の腰へ目を落とす。
獅心の鞘は、いつもと同じ場所にある。それがこの通りでは、周囲の景色によく馴染んでいた。
すれ違う人の柄や鞘へ視線を向けていると、セレスが肩で笑った。
『前も見て歩いてね』
「見てるよ」
答えた直後、荷車が近づいてきたので、俺は機体を寄せて道を空けた。
◇
昼にはまだ少し早かったが、店先の湯気を見て足が止まった。
木の台の上に、おむすびが並んでいる。白い米を三角に握ったものと、海苔を巻いたもの。その脇では、丸い網の上で魚が焼かれていた。
俺は魔導二輪を店の横へ停め、空いている場所を店主に確かめた。
「そこなら邪魔にならないよ。食べていくかい?」
「はい。おむすびを二つと、汁物をお願いします」
「具は何にする?」
勧められた焼き魚入りと、塩だけのものを一つずつ選んだ。
軒下の腰掛けへ座ると、小さな盆が運ばれてくる。湯気の立つ椀と、皿に並んだ二つのおむすび。添えられた漬物は、黄色と淡い緑をしていた。
まず、塩むすびを手に取った。
表面は温かく、口へ運ぶと、米がほろりとほどける。塩気の後から甘さが広がった。
噛む手前で、実家の食卓が浮かんだ。
家で出されたおむすびも、こんなふうに、米の味がよく分かった。
『どうしたの?』
「これ、家で食べていたのを思い出して」
セレスへ答えると、近くで魚を返していた店主が顔を向けた。
「西のほうから来たんだろう? 向こうでも食べるのかい」
「うちでは、よく出ていました」
「米はよく出してるからね。さっきの港にも積んであったろう」
店主が顎で倉庫の方向を示す。
「今は国同士の付き合いもあるし、商人も冒険者も西から来るよ。帰りの船には、こっちのものを積んでいく。米も、その一つだ」
俺は手の中のおむすびを見た。
じいちゃんには、この国に知り合いがいる。家の造りにも、こちらのものに似たところがあった。なら、食卓に並んでいた米も、そんな縁を通じて届いていたのかもしれない。
家では、そこまで考えたことがなかった。
腹が減っていれば食べ、うまければもう一つ手を伸ばした。その米が育った場所や、渡ってきた海を、今になって知ろうとしている。
「初めて来たのに、懐かしいって変だな」
『あなたの家のほうが、先につながっていたのね』
「そうかもしれない」
もう一口食べる。
今度は急がず、米の甘さが残るまで噛んだ。
食事を終えてから、店主に首都への道を尋ねた。
荷を運ぶ者がよく使う街道があるらしく、町を抜けてからは道標を追えばいいという。
「途中で川を渡るが、橋の手前の分かれ道を間違えなけりゃ迷わないよ。都へ行く荷車も多いから、分からなければ聞くといい」
「ありがとうございます」
「その乗り物なら、今日のうちに着くだろう。急ぎすぎるなよ」
俺は頷き、食事の代金を払った。
◇
出発する前に、衣類も見ておくことにした。
クラーケンとの戦いで濡れた一着は、船の中で洗って乾かしてある。まだ着られるが、旅の途中でまとめて濡らすこともあるのだと分かった。着替えをもう一組持っておきたかった。
通りを少し歩くと、戸口に上衣を掛けた店が見つかった。
長い裾のものもあれば、腰ほどの丈で、袖を細く仕立てたものもある。店の中には畳まれた布が並び、その奥で女が縫い物をしていた。
「旅に使える服を探しているんですが」
女は手を止め、俺の格好と腰の刀を見た。
「歩くことが多いのかい?」
「乗り物も使います。あと、身体を動かしやすいものがいいです」
「それなら、袖が余らないほうだね」
取り出してくれたのは、藍色の上衣だった。
前を重ねて紐で留める形で、袖は手首へ向かってすっきりしている。合わせるパンツは墨色で、腰回りには余裕があり、裾を足首で絞れるようになっていた。
奥を借りて着替え、腕を上げる。
肩はつっぱらず、屈んでも膝に窮屈さがなかった。帯の締め方を教わり、獅心の位置を直すと、鞘が落ち着く場所に収まった。
「刀を差すなら、そこを少し締めるといい。苦しくない程度にね」
店主に言われたとおり調整し、二、三歩動く。
大きく足を開いても裾が邪魔にならず、腕を前へ伸ばしたときにも袖口が手へかからない。
「動きやすいですね」
「仕事着にも使う形だからね。飾りはないけど、丈夫だよ」
店先の姿見へ向き直った。
藍色の襟が胸元で重なり、その下を帯がまとめている。いつもの服とは違うが、刀を差した姿にはしっくりきた。
肩へ戻ったセレスが、鏡の中の俺を眺めた。
『似合っているわ』
「そうかな」
『ええ。さっきより、この街に馴染んで見える』
俺は袖口を指で整えた。
外見が変わっただけなのに、もう少し歩いてみたくなるのが不思議だった。
その一組を買い、着たまま店を出た。
これまで着ていた服は畳んで収納する。魔導二輪へ跨がってみても、膝や腰を動かすのに支障はなかった。
店主に手を上げ、まずは人通りの少ないところまで機体を押していった。
◇
町外れで道を確かめ、魔導二輪を走らせた。
背後で港の掛け声が遠ざかり、代わりに風の音が耳へ届く。藍色の袖が腕に沿って揺れたが、握りへかかることはなかった。
倉庫や家並みが途切れると、道の両側に田が広がった。
畦で区切られた区画を水路がつなぎ、ところどころに小さな橋が渡されている。水門のそばで作業をする人が顔を上げ、俺の機体を目で追った。少し先では、米俵を積んだ荷車が港のほうへ向かっていた。
速度を落とし、十分に間を取ってすれ違う。
車輪の軋む音を聞きながら、さっき食べたおむすびを思い出した。
あの荷も、海を渡るのだろうか。
街道の向こうにある港から、俺が来た道を戻り、どこかの家の食卓へ並ぶのかもしれない。
川にかかる橋の手前で、一度停まった。
道標と地図を見比べる。首都へ続く道を確かめてから、じいちゃんの手紙に添えられていた紙も広げた。
刀鬼の住まいは、首都の中ではなかった。
そこからさらに離れた、山へ入る手前に印がついている。今日中に無理をして訪ねるより、まず都で一泊して、道を確かめてから向かったほうがよさそうだった。
『今日は、都までね』
「うん。着いたら宿を探そう」
紙をしまい、遠くの山並みへ目を向ける。
幾重にも重なる稜線の、どれが目的地に近い山なのかはまだ分からない。手紙の小さな線を、これから一つずつ、実際の景色に変えていく。
橋を渡ると、風の匂いが変わった。
潮気は薄れ、湿った土や草の匂いが混じってくる。水路の音を聞きながら、緩やかな坂を上った。
途中で休憩を取り、機体の状態を確かめてから、また走る。
道は集落をつなぎ、畑の脇を抜け、やがて行き交う荷車が増えてきた。人家の間隔が狭まり、店先に明かりが灯り始める。
西へ傾いた日を背に、坂を越えた。
その先に、幾重もの瓦屋根が広がっていた。
低い家並みの間を大きな通りが走り、奥にはひときわ高い屋根が見える。夕方の光を受けた街の上へ、炊事の煙が細く立ち上っていた。
『見えたわね』
「ああ」
俺は速度を緩めた。
長く握っていた手を少しほぐし、前を向き直す。知らない街へ入るときの、落ち着かない楽しさが胸にあった。
首都へ続く道を、セレスと一緒に下っていった。




