第132話 海原を駆ける
船へ渡した通路を上りきると、足の裏へ低い振動が伝わってきた。
岸壁から見上げたときにも大きいと思ったが、乗ってみると、その長さがよく分かる。船首まで続く甲板には貨物を出し入れするための大きな蓋が並び、その脇を人が歩く道が通っていた。荷役用の設備がところどころに立ち、作業を終えた船員が太い綱をまとめている。
客室があるのは船の後部だった。
何層か重なった建物のような区画がそびえ、その上には、周囲を硝子で囲まれた操船室が見える。俺は乗船の控えを係員へ渡し、案内された通路を進んだ。
「お預かりした魔導二輪は、貨物区画に固定してあります。航行中は立ち入れませんので、ご用があれば職員へお声がけください」
「分かりました。ありがとうございます」
受け取った鍵を手に、階段を上る。
点検を終えた機体で王都を発ち、港へ着いたのは昨日の夕方だった。今朝、貨物受付へ預けるまで乗っていたものが、自分と一緒に海を渡る。妙な感じだったが、無事に積まれたと聞いて安心した。
客室には寝台と小さな卓があり、丸い窓から岸壁が見えた。
荷物を収め、腰の獅心が椅子や壁に当たらないか確かめる。落ち着いて座るより先に、セレスが窓へ近づいた。
『外にも出られるのよね?』
「うん。上に甲板があるって」
俺たちは部屋を出て、階段をもう一つ上った。
扉を開けた途端、風が頬をなでた。
王都で感じていたものとは匂いが違う。湿った空気に、塩と、岸壁に張りついた海藻のような匂いが交じっている。息を吸い込むと、喉の奥まで海が入ってきた気がした。
手すりの先で、水面が細かく光っていた。
後部の客用甲板からは、前へ長く伸びる船体が見渡せる。積荷の区画だけで、王都の通りが一つ収まりそうだった。
「こんなに運ぶものがあるんだな」
『向こうから戻るときも、たくさん積むのでしょうね』
「米とか、かな」
じいちゃんの手紙を思い出す。
地図の中では小さな島だった。そこから運ばれたものが、俺たちの暮らす場所まで届いている。その途中を、今度は自分が通るのだ。
低い音が船から響いた。
岸壁で合図が交わされ、綱が外されていく。船底の振動がわずかに強まり、手すりに置いた手にも伝わった。
岸が動いた。
そう見えてから、動いているのはこちらだと思い直す。
倉庫の壁、荷車、こちらへ手を上げる作業員。それらが少しずつ遠くなる。水面には白い渦が生まれ、船と岸壁の間を広げていった。
俺は手すりに両手を置いたまま、港が離れていくのを眺めていた。
◇
港の建物が小さくなると、その後ろにあった陸地の形が見えてきた。
家並みの向こうに低い丘があり、さらに遠くには山が重なっている。街道を走っていたときには越えるのに時間のかかった場所が、海の上からは一続きの輪郭になっていた。
船首が波を押し分け、白く崩れた水が船側を流れていく。
大きな船は、思っていたより静かに進んだ。それでも、足元にはゆっくりとした上下の動きがあり、遠くを見ていると、自分の身体がそれに合わせて重心を変えているのが分かる。
唇をなめると、少し塩辛かった。
「海の風って、味まであるんだな」
『顔にもついているんじゃないかしら』
「後で洗わないと」
肩に座ったセレスの髪が揺れている。
俺が海へ目を戻すと、彼女も同じ方向を向いた。陽光の当たる場所は白く輝き、少し離れるだけで深い青へ変わる。平らに見えた海にも、いくつもの波の筋が走っていた。
『こうして眺めていると、どこまで続いているのか分からないわね』
「地図では、ここを渡るだけだったのにな」
指一本でたどった距離を思い出した。
あの紙には、風も匂いも、船が波を越える感触もなかった。
途中で客室へ戻り、軽く食事を取った。
もう一度甲板へ出たとき、陸は細い影になっていた。しばらく話しているうちに、その影も霞へ溶ける。目を凝らしても、どこが山だったのか分からなくなった。
「……見えなくなった」
振り返っても、船の残した白い航跡が続いているだけだった。
前も、横も、海。その上に空が広がっている。走ろうと思えばどこへでも行けた陸とは違い、この船を離れれば足を置く場所さえない。
俺は無意識に手すりを握り直した。
『心細い?』
「少し。でも、見に来てよかった」
セレスが小さく頷いた。
俺たちはしばらく黙って、水平線を見ていた。
先に違和感を覚えたのは、波の向きだった。
右舷の少し離れた海面を、長い盛り上がりが走っている。風に押された波とは違い、周囲の水を割りながら、船へ近づいていた。
その下に、暗いものが透けた。
『レグルス』
「ああ」
手すりから身体を離す。
ほとんど同時に、上から警鐘が鳴った。
「右舷、水面下に大型の影!」
甲板にいた人たちが、一斉に海を見る。
船側の水が持ち上がり、白い泡の中から太い腕が現れた。濡れた表面は暗い赤褐色で、裏には椀ほどもある吸盤が並んでいる。それが手すりより高く伸び、先端を曲げた。
「船内へ! お客様は中へ入ってください!」
職員が扉を開き、声を張り上げる。
人々が駆け出した。椅子が倒れ、誰かのカップが甲板を転がる。荷物を拾おうとして足を止めた男を、別の職員が腕を取って引いた。
海面から、もう一本。
さらに奥でも水が盛り上がった。
「クラーケンだ!」
船員の叫びに、近くの女が息を呑んだ。
手すりを握ったまま動けなくなっている。その頭上へ、触腕の影が落ちた。
俺は魔力の円環を強め、柄へ手をかけた。
◇
甲板を蹴り、女と手すりの間へ入る。
鞘から抜いた刃を、落ちてくる触腕へ走らせた。厚い肉の抵抗が手に返り、そのまま腰を回して切っ先を抜く。
断たれた先端が外へ傾いた。
海面へ落ちた肉塊が水を跳ね上げ、残った腕が激しく縮む。飛沫に混じって、暗い体液が甲板へ散った。
「中へ!」
声をかけると、女がようやく動いた。職員が肩を支え、扉へ連れていく。
俺は手すりの向こうを見た。別の触腕が船側へ伸び、吸盤を張りつけようとしている。このまま甲板で迎えていては、船のあちこちへ取りつかれる。
「俺が外で引きつけます。皆さんは船内へ!」
「外って、おい――」
職員の声を背に、手すりを越えた。
足元には海しかない。
右足を置く位置を決めると、銀環が淡く光り、薄い足場が生まれた。そこへ体重を乗せ、船側へ伸びる触腕へ向かって蹴る。
足場は沈まなかった。
踏んだ力がそのまま返り、身体が前へ飛び出す。船体へ触れかけた腕を上から斬り、振り抜いた先に次の足場を作った。
足を置く。向きを変える。
船を右後方へ残し、海上へ距離を取った。
切断された腕が水を叩く。
泡立つ海の下で、大きな影が向きを変えた。水面近くに白濁した目が見え、その視線がこちらを捉える。
『こっちを見たわ』
「船から離す」
左へ足場を置き、さらに外へ跳ぶ。
追ってきた触腕が、俺のいた場所を上から叩いた。足場はもう消えている。太い腕は何も掴めず、海へ突き刺さった。
その飛沫を、横から別の腕が裂いた。
意識上の円へ、重い気配が入ってくる。
俺は進行方向へ出しかけた足を引き、斜め上へ足場を作った。膝を曲げて踏み、横薙ぎの軌道を越える。足元を通り過ぎた腕へ刃を落とすと、裂けた肉が波打った。
深くは入ったが、断ち切れていない。
腕がねじれ、傷口を抱え込むようにこちらへ巻きついてきた。
近い。
身体を小さく畳み、左側の空間を踏んだ。
光の面を蹴った勢いで横へ抜けると、直前までいた場所を触腕が締め上げた。吸盤同士のぶつかる湿った音が背中で鳴る。
息を吐き、刀を構え直した。
止まれば囲まれる。相手の腕は、まだ海の中にも残っている。
波間から二本が持ち上がった。
一本は低く、もう一本は頭上へ回る。左右の腕も曲がり、俺の逃げる先を狭めてきた。
上へ抜けるように跳んだ。
それを追い、頭上の触腕が先端を反らす。俺は上がりきる前に身体をひねり、頭上の斜め後ろへ足場を作った。
両足を引き寄せる。
靴底が光を捉えた瞬間、膝と腰を伸ばした。
身体が斜め下へ走る。
迫っていた触腕の内側へ入り、落下の勢いを乗せて刀を振り抜いた。太い肉が割れ、白い断面が開く。切り落とした腕と一緒に海へ落ちる前に、右足で次の足場を踏んだ。
強く、横へ。
海面すれすれを抜けた背後へ、触腕の残骸が落ちる。
水が壁のように立ち上がった。頬を打つ飛沫の向こうで、船の後部が見えた。こちらとの間は開いている。船へ伸びていた腕も、今は俺を追っていた。
足場を蹴った脚に、確かな感触が残る。
急に向きを変えても、全身の力を受け止めてくれた。
作り手たちの顔が一瞬浮かんだが、目の前の水が盛り上がり、意識を戻した。
◇
海面が裂けるように開いた。
失った腕を持ち上げながら、クラーケンの本体が浮き上がってくる。濡れた胴は舟を伏せたように大きく、表面を流れ落ちる海水が、いくつもの白い筋になった。
こちらを捉えた目の下で、残った触腕が広がる。
俺をまとめて押し潰すつもりか、その根元まで水面の上へせり出してきた。
『今なら、本体が見えるわ』
俺は船の位置を確かめた。
右後ろ。ここからさらに左へ回れば、斬撃の先には海しかない。
一歩、二歩と、低い足場を蹴った。
追いすがる腕の先をかわし、クラーケンの正面から角度をずらす。目が俺を追い、巨大な胴がゆっくり向きを変えた。
そこで刀を鞘へ戻した。
左足を前、右足を後ろ。
意識した二か所に足場が生まれ、腰を落とした身体を支える。潮を含んだ風が頬をなでた。俺は柄へ右手を添え、左手で鞘を押さえる。
刃へ魔力を通す。
風を薄く、鋭くまとめた。広げる必要はない。目の前の胴を抜けるまで、切れずに届けばいい。
触腕が振り上がる。
その内側に、斬るべき線が見えた。
「《風裂白刃【グラディウス・ウェンティー】》」
抜き放った刀が、白い弧を描いた。
圧縮された風の斬撃が海上を走り、クラーケンの胴へ食い込む。濡れた表皮に一本の線が生まれ、その奥まで一気に抜けた。
振り上げられた腕が止まる。
次の瞬間、巨体が斜めにずれた。
上側の肉塊が傾き、切り離された下側との間へ光が差す。裂け目から体液が噴き、二つになった身体が、それぞれ海へ落ちた。
水柱が上がった。
俺は足場を蹴って高度を取り、押し寄せる飛沫から離れた。
眼下で大きな波が幾重にも広がる。残った触腕が一度、水面を叩いたが、それも次第に力を失い、暗く濁った海へ沈んでいった。
刀を下げ、呼吸を整える。
泡の下に目を凝らし、次の動きを待った。沈んだ影は浮かんでこない。身体の周囲へ張った意識にも、新たに迫るものはなかった。
『……終わったようね』
「うん」
左肩のセレスへ短く返し、船へ向き直った。
思ったより離れていた。移動を続ける船の後方へ回り、足場を一つずつ作って追いついていく。
最後の一歩は弱く蹴った。
手すりを越え、濡れた甲板へ下りる。膝を曲げて衝撃を逃がしたところで、張りつめていた息がようやく長く吐けた。
◇
甲板へ出ていた船員たちが、こちらを見ていた。
一人が海と俺を交互に見て、口を開く。
「……倒したのか?」
「本体は斬りました。今は動いていません」
俺の返事に、男が手すりへ駆け寄った。
後方の海には、まだ白い泡と暗い染みが残っている。別の船員が上へ向かって合図を送り、見張りの声が返ってきた。
少しして、あちこちで動きが戻った。
船側の確認へ走る者、甲板に落ちたものを片づける者。客室へ続く扉の前では、先ほどの職員が乗客を落ち着かせていた。
年嵩の船員が俺のところへ来た。
「助かった。あれに取りつかれていたら、どうなっていたか……。怪我は?」
「ありません。船は大丈夫ですか?」
「調べている。少なくとも、今のところ浸水の報告はない」
俺は頷き、ようやく肩の力を抜いた。
甲板の端には吸盤の跡がついていたが、腕が巻きつく前に離せたらしい。
「少し、ここで刀を拭いてもいいですか?」
「ああ。水も持ってこさせる」
「ありがとうございます」
人の通らない場所へ移り、収納の指輪から布を出した。
獅心の刀身に残ったものを丁寧に拭う。海水は柄や鞘にもかかっていた。部屋へ戻ったら、きちんと手入れをしなければならない。
足元へ視線を落とす。
服の裾から、銀環の一部がのぞいていた。強く蹴ったときも、途中で姿勢を変えたときも、足場は最後まで支えてくれた。
「……踏み切れたな」
『ええ。報告することが増えたわね』
「かなり」
俺が笑うと、セレスも少し表情を緩めた。
『でも、先に着替えたほうがいいわ。袖まで濡れているもの』
腕を上げてみると、袖口から雫が落ちた。
気にする余裕がなかっただけで、髪も服も潮をかぶっている。唇には、さっきよりずっと強い塩気が残っていた。
礼を言いに来た乗客へ大丈夫だと答え、刀を納める。
客室へ戻る前に、もう一度だけ海を見た。
船は波を押し分け、東へ進んでいた。
騒ぎのあった後方にも、やがて長い航跡が伸びていく。あれほど海を荒らした巨体の姿は、もう見えなかった。
手すりの向こうには、変わらず青が広がっている。
その広さに息をつき、俺はセレスと一緒に扉をくぐった。




