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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第十一章 東方紀行、天地の息吹
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第132話 海原を駆ける

 船へ渡した通路を上りきると、足の裏へ低い振動が伝わってきた。

 岸壁から見上げたときにも大きいと思ったが、乗ってみると、その長さがよく分かる。船首まで続く甲板には貨物を出し入れするための大きな蓋が並び、その脇を人が歩く道が通っていた。荷役用の設備がところどころに立ち、作業を終えた船員が太い綱をまとめている。


 客室があるのは船の後部だった。

 何層か重なった建物のような区画がそびえ、その上には、周囲を硝子で囲まれた操船室が見える。俺は乗船の控えを係員へ渡し、案内された通路を進んだ。


「お預かりした魔導二輪は、貨物区画に固定してあります。航行中は立ち入れませんので、ご用があれば職員へお声がけください」


「分かりました。ありがとうございます」


 受け取った鍵を手に、階段を上る。

 点検を終えた機体で王都を発ち、港へ着いたのは昨日の夕方だった。今朝、貨物受付へ預けるまで乗っていたものが、自分と一緒に海を渡る。妙な感じだったが、無事に積まれたと聞いて安心した。


 客室には寝台と小さな卓があり、丸い窓から岸壁が見えた。

 荷物を収め、腰の獅心が椅子や壁に当たらないか確かめる。落ち着いて座るより先に、セレスが窓へ近づいた。


『外にも出られるのよね?』


「うん。上に甲板があるって」


 俺たちは部屋を出て、階段をもう一つ上った。


 扉を開けた途端、風が頬をなでた。

 王都で感じていたものとは匂いが違う。湿った空気に、塩と、岸壁に張りついた海藻のような匂いが交じっている。息を吸い込むと、喉の奥まで海が入ってきた気がした。


 手すりの先で、水面が細かく光っていた。

 後部の客用甲板からは、前へ長く伸びる船体が見渡せる。積荷の区画だけで、王都の通りが一つ収まりそうだった。


「こんなに運ぶものがあるんだな」


『向こうから戻るときも、たくさん積むのでしょうね』


「米とか、かな」


 じいちゃんの手紙を思い出す。

 地図の中では小さな島だった。そこから運ばれたものが、俺たちの暮らす場所まで届いている。その途中を、今度は自分が通るのだ。

 低い音が船から響いた。

 岸壁で合図が交わされ、綱が外されていく。船底の振動がわずかに強まり、手すりに置いた手にも伝わった。


 岸が動いた。

 そう見えてから、動いているのはこちらだと思い直す。

 倉庫の壁、荷車、こちらへ手を上げる作業員。それらが少しずつ遠くなる。水面には白い渦が生まれ、船と岸壁の間を広げていった。


 俺は手すりに両手を置いたまま、港が離れていくのを眺めていた。


     ◇


 港の建物が小さくなると、その後ろにあった陸地の形が見えてきた。

 家並みの向こうに低い丘があり、さらに遠くには山が重なっている。街道を走っていたときには越えるのに時間のかかった場所が、海の上からは一続きの輪郭になっていた。

 船首が波を押し分け、白く崩れた水が船側を流れていく。

 大きな船は、思っていたより静かに進んだ。それでも、足元にはゆっくりとした上下の動きがあり、遠くを見ていると、自分の身体がそれに合わせて重心を変えているのが分かる。


 唇をなめると、少し塩辛かった。


「海の風って、味まであるんだな」


『顔にもついているんじゃないかしら』


「後で洗わないと」


 肩に座ったセレスの髪が揺れている。

 俺が海へ目を戻すと、彼女も同じ方向を向いた。陽光の当たる場所は白く輝き、少し離れるだけで深い青へ変わる。平らに見えた海にも、いくつもの波の筋が走っていた。


『こうして眺めていると、どこまで続いているのか分からないわね』


「地図では、ここを渡るだけだったのにな」


 指一本でたどった距離を思い出した。

 あの紙には、風も匂いも、船が波を越える感触もなかった。


 途中で客室へ戻り、軽く食事を取った。

 もう一度甲板へ出たとき、陸は細い影になっていた。しばらく話しているうちに、その影も霞へ溶ける。目を凝らしても、どこが山だったのか分からなくなった。


「……見えなくなった」


 振り返っても、船の残した白い航跡が続いているだけだった。

 前も、横も、海。その上に空が広がっている。走ろうと思えばどこへでも行けた陸とは違い、この船を離れれば足を置く場所さえない。


 俺は無意識に手すりを握り直した。


『心細い?』


「少し。でも、見に来てよかった」


 セレスが小さく頷いた。

 俺たちはしばらく黙って、水平線を見ていた。


 先に違和感を覚えたのは、波の向きだった。

 右舷の少し離れた海面を、長い盛り上がりが走っている。風に押された波とは違い、周囲の水を割りながら、船へ近づいていた。

 その下に、暗いものが透けた。


『レグルス』


「ああ」


 手すりから身体を離す。

 ほとんど同時に、上から警鐘が鳴った。


「右舷、水面下に大型の影!」


 甲板にいた人たちが、一斉に海を見る。

 船側の水が持ち上がり、白い泡の中から太い腕が現れた。濡れた表面は暗い赤褐色で、裏には椀ほどもある吸盤が並んでいる。それが手すりより高く伸び、先端を曲げた。


「船内へ! お客様は中へ入ってください!」


 職員が扉を開き、声を張り上げる。

 人々が駆け出した。椅子が倒れ、誰かのカップが甲板を転がる。荷物を拾おうとして足を止めた男を、別の職員が腕を取って引いた。


 海面から、もう一本。

 さらに奥でも水が盛り上がった。


「クラーケンだ!」


 船員の叫びに、近くの女が息を呑んだ。

 手すりを握ったまま動けなくなっている。その頭上へ、触腕の影が落ちた。

 俺は魔力の円環を強め、柄へ手をかけた。


     ◇


 甲板を蹴り、女と手すりの間へ入る。

 鞘から抜いた刃を、落ちてくる触腕へ走らせた。厚い肉の抵抗が手に返り、そのまま腰を回して切っ先を抜く。

 断たれた先端が外へ傾いた。

 海面へ落ちた肉塊が水を跳ね上げ、残った腕が激しく縮む。飛沫に混じって、暗い体液が甲板へ散った。


「中へ!」

 声をかけると、女がようやく動いた。職員が肩を支え、扉へ連れていく。

 俺は手すりの向こうを見た。別の触腕が船側へ伸び、吸盤を張りつけようとしている。このまま甲板で迎えていては、船のあちこちへ取りつかれる。


「俺が外で引きつけます。皆さんは船内へ!」


「外って、おい――」


 職員の声を背に、手すりを越えた。

 足元には海しかない。

 右足を置く位置を決めると、銀環が淡く光り、薄い足場が生まれた。そこへ体重を乗せ、船側へ伸びる触腕へ向かって蹴る。


 足場は沈まなかった。

 踏んだ力がそのまま返り、身体が前へ飛び出す。船体へ触れかけた腕を上から斬り、振り抜いた先に次の足場を作った。


 足を置く。向きを変える。

 船を右後方へ残し、海上へ距離を取った。

 切断された腕が水を叩く。

 泡立つ海の下で、大きな影が向きを変えた。水面近くに白濁した目が見え、その視線がこちらを捉える。


『こっちを見たわ』


「船から離す」


 左へ足場を置き、さらに外へ跳ぶ。

 追ってきた触腕が、俺のいた場所を上から叩いた。足場はもう消えている。太い腕は何も掴めず、海へ突き刺さった。


 その飛沫を、横から別の腕が裂いた。


 意識上の円へ、重い気配が入ってくる。

 俺は進行方向へ出しかけた足を引き、斜め上へ足場を作った。膝を曲げて踏み、横薙ぎの軌道を越える。足元を通り過ぎた腕へ刃を落とすと、裂けた肉が波打った。

 深くは入ったが、断ち切れていない。

 腕がねじれ、傷口を抱え込むようにこちらへ巻きついてきた。


 近い。


 身体を小さく畳み、左側の空間を踏んだ。

 光の面を蹴った勢いで横へ抜けると、直前までいた場所を触腕が締め上げた。吸盤同士のぶつかる湿った音が背中で鳴る。

 息を吐き、刀を構え直した。

 止まれば囲まれる。相手の腕は、まだ海の中にも残っている。


 波間から二本が持ち上がった。

 一本は低く、もう一本は頭上へ回る。左右の腕も曲がり、俺の逃げる先を狭めてきた。

 上へ抜けるように跳んだ。

 それを追い、頭上の触腕が先端を反らす。俺は上がりきる前に身体をひねり、頭上の斜め後ろへ足場を作った。

 両足を引き寄せる。

 靴底が光を捉えた瞬間、膝と腰を伸ばした。


 身体が斜め下へ走る。

 迫っていた触腕の内側へ入り、落下の勢いを乗せて刀を振り抜いた。太い肉が割れ、白い断面が開く。切り落とした腕と一緒に海へ落ちる前に、右足で次の足場を踏んだ。


 強く、横へ。


 海面すれすれを抜けた背後へ、触腕の残骸が落ちる。

 水が壁のように立ち上がった。頬を打つ飛沫の向こうで、船の後部が見えた。こちらとの間は開いている。船へ伸びていた腕も、今は俺を追っていた。

 足場を蹴った脚に、確かな感触が残る。

 急に向きを変えても、全身の力を受け止めてくれた。

 作り手たちの顔が一瞬浮かんだが、目の前の水が盛り上がり、意識を戻した。


     ◇


 海面が裂けるように開いた。

 失った腕を持ち上げながら、クラーケンの本体が浮き上がってくる。濡れた胴は舟を伏せたように大きく、表面を流れ落ちる海水が、いくつもの白い筋になった。

 こちらを捉えた目の下で、残った触腕が広がる。

 俺をまとめて押し潰すつもりか、その根元まで水面の上へせり出してきた。


『今なら、本体が見えるわ』


 俺は船の位置を確かめた。

 右後ろ。ここからさらに左へ回れば、斬撃の先には海しかない。

 一歩、二歩と、低い足場を蹴った。

 追いすがる腕の先をかわし、クラーケンの正面から角度をずらす。目が俺を追い、巨大な胴がゆっくり向きを変えた。


 そこで刀を鞘へ戻した。

 左足を前、右足を後ろ。

 意識した二か所に足場が生まれ、腰を落とした身体を支える。潮を含んだ風が頬をなでた。俺は柄へ右手を添え、左手で鞘を押さえる。


 刃へ魔力を通す。

 風を薄く、鋭くまとめた。広げる必要はない。目の前の胴を抜けるまで、切れずに届けばいい。

 触腕が振り上がる。

 その内側に、斬るべき線が見えた。


「《風裂白刃【グラディウス・ウェンティー】》」


 抜き放った刀が、白い弧を描いた。

 圧縮された風の斬撃が海上を走り、クラーケンの胴へ食い込む。濡れた表皮に一本の線が生まれ、その奥まで一気に抜けた。

 振り上げられた腕が止まる。

 次の瞬間、巨体が斜めにずれた。

 上側の肉塊が傾き、切り離された下側との間へ光が差す。裂け目から体液が噴き、二つになった身体が、それぞれ海へ落ちた。


 水柱が上がった。


 俺は足場を蹴って高度を取り、押し寄せる飛沫から離れた。

 眼下で大きな波が幾重にも広がる。残った触腕が一度、水面を叩いたが、それも次第に力を失い、暗く濁った海へ沈んでいった。

 刀を下げ、呼吸を整える。

 泡の下に目を凝らし、次の動きを待った。沈んだ影は浮かんでこない。身体の周囲へ張った意識にも、新たに迫るものはなかった。


『……終わったようね』


「うん」


 左肩のセレスへ短く返し、船へ向き直った。

 思ったより離れていた。移動を続ける船の後方へ回り、足場を一つずつ作って追いついていく。

 最後の一歩は弱く蹴った。

 手すりを越え、濡れた甲板へ下りる。膝を曲げて衝撃を逃がしたところで、張りつめていた息がようやく長く吐けた。


     ◇


 甲板へ出ていた船員たちが、こちらを見ていた。

 一人が海と俺を交互に見て、口を開く。


「……倒したのか?」


「本体は斬りました。今は動いていません」


 俺の返事に、男が手すりへ駆け寄った。

 後方の海には、まだ白い泡と暗い染みが残っている。別の船員が上へ向かって合図を送り、見張りの声が返ってきた。


 少しして、あちこちで動きが戻った。

 船側の確認へ走る者、甲板に落ちたものを片づける者。客室へ続く扉の前では、先ほどの職員が乗客を落ち着かせていた。

 年嵩の船員が俺のところへ来た。


「助かった。あれに取りつかれていたら、どうなっていたか……。怪我は?」


「ありません。船は大丈夫ですか?」


「調べている。少なくとも、今のところ浸水の報告はない」


 俺は頷き、ようやく肩の力を抜いた。

 甲板の端には吸盤の跡がついていたが、腕が巻きつく前に離せたらしい。


「少し、ここで刀を拭いてもいいですか?」


「ああ。水も持ってこさせる」


「ありがとうございます」


 人の通らない場所へ移り、収納の指輪から布を出した。

 獅心の刀身に残ったものを丁寧に拭う。海水は柄や鞘にもかかっていた。部屋へ戻ったら、きちんと手入れをしなければならない。

 足元へ視線を落とす。

 服の裾から、銀環の一部がのぞいていた。強く蹴ったときも、途中で姿勢を変えたときも、足場は最後まで支えてくれた。


「……踏み切れたな」


『ええ。報告することが増えたわね』


「かなり」

 俺が笑うと、セレスも少し表情を緩めた。


『でも、先に着替えたほうがいいわ。袖まで濡れているもの』


 腕を上げてみると、袖口から雫が落ちた。

 気にする余裕がなかっただけで、髪も服も潮をかぶっている。唇には、さっきよりずっと強い塩気が残っていた。

 礼を言いに来た乗客へ大丈夫だと答え、刀を納める。


 客室へ戻る前に、もう一度だけ海を見た。

 船は波を押し分け、東へ進んでいた。

 騒ぎのあった後方にも、やがて長い航跡が伸びていく。あれほど海を荒らした巨体の姿は、もう見えなかった。

 手すりの向こうには、変わらず青が広がっている。

 その広さに息をつき、俺はセレスと一緒に扉をくぐった。

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