第131話 旅を支えるもの
姉さんは祖父の手紙を読み終えると、添えられた地図を広げた。
アカデミアの研究室には、大きさの違う部品や書きかけの図面が並んでいた。俺の前にも、さっきまで何かの外装らしい板が置かれていて、姉さんが脇へ寄せて席を作ってくれたところだった。
「東方へ行くのね」
「うん。船で渡ろうと思ってる」
「……刀鬼、か」
姉さんが便箋へ視線を戻した。
「知ってるの?」
「いいえ。ただ、お祖父様の知り合いなら、呼び名だけ大げさということもなさそうだと思って」
「それは俺も思った」
手紙を受け取り、折り目に沿って畳む。
じいちゃんがどんな付き合いをしてきたのか、俺はほとんど知らない。刀を握る姿は何度も見たが、家族と過ごす前の時間について、尋ねたことは少なかった。
「技を教わってこい、とは書いていないのね」
「まずは、その土地を見てこいってことだと思う。俺も、行ってみたい」
姉さんは頷き、卓の上へ地図を戻した。
「出発はいつ?」
「まだ決めてない。船の便を調べて、それに合わせるつもり。魔導二輪も持っていきたいから、出る前に点検してもらえる?」
「もちろん。長く走る前に、一度見ておきたかったの」
姉さんが自分の手帳を開いたところで、扉を叩く音がした。
「失礼します。いらしていましたか」
顔を出したパラケルスさんは、細長い箱を抱えていた。白衣の袖口からのぞく指輪が、窓の光を受けて輝く。
「ちょうどよかった。お渡しできるところまで仕上がりましたよ」
俺は箱へ目を向けた。
パラケルスさんは卓の空いた場所へそれを置き、留め具を外した。
柔らかな布の上に、銀色の輪が二つ並んでいた。
◇
「これが、新しい《メルクリウス》です」
一つを手に取る。
指で持ち上げられるほど軽く、内側には細かな術式が刻まれていた。外側は滑らかに磨かれ、光へ向けて傾けると、縁に沿った線だけが淡く浮かぶ。
「本当に、この大きさになったんですね」
「左右で役割を分担させています。装着したまま動いても邪魔にならないよう、厚みも抑えました」
パラケルスさんが輪の一か所を示す。そこへ触れると継ぎ目が開いた。
俺は椅子を引き、靴を脱いで足首へ当てた。留め直すと、輪が足に沿って収まる。もう片方もつけて立ち上がると、思ったより存在を感じなかった。
「締めつけはありませんか?」
「大丈夫です」
「では、靴を履いて、少し動いてみてください」
足首を曲げ、膝を落とす。踵を浮かせて重心を移しても、銀環が当たって痛むことはなかった。姉さんが屈み、靴の縁との間を確かめる。
「擦れる感じもない?」
「うん。今のところは」
「長くつけて気になるところが出たら、教えてね」
俺が頷くと、パラケルスさんは小さな板状の器具を箱から取り出した。
「次は魔力の登録です。普段の、落ち着いた状態で流してください。強い魔力は必要ありません」
差し出された器具へ指を添え、少量の魔力を通した。
足首がかすかに温かくなる。視線を落とすと、銀環の線に沿って光が走っていた。右、左と順に明滅し、やがて静かになる。
「登録できました。あとは、実際に使いながら反応を合わせましょう」
『思っただけで動くのなら、望んでいないときに足場ができることはないの?』
卓の端に座っていたセレスが尋ねた。
パラケルスさんは器具の表示を確かめながら答える。
「ただ空間を眺めたり、足を動かしたりするだけでは起動しません。そこへ足場を作り、踏むという意図が必要です。その境目も、これから確かめます」
俺は足首を見下ろした。
試してみたい気持ちが先に立ったが、ここは研究室だ。姉さんの図面や部品を散らすわけにはいかなかった。
「場所を移したほうがいいですよね」
「ええ。今日はちゃんと、訓練場を取ってあるわ」
姉さんの言い方に、セレスが満足そうに頷いた。
◇
訓練場の隅へ荷物を置き、俺は平らな地面へ立った。
パラケルスさんが指を鳴らすと、周囲へ計測用の術式が広がる。少し離れた位置に立った姉さんも端末を構えていた。
「最初は低い位置で。地面から足一つ分くらいの高さに作ってみましょう」
俺は右足の前へ目を落とした。
この辺りに、足裏が乗るだけの広さを。そう考えながら足を上げると、薄い光が浮かんだ。だが、置こうとする直前に位置が気になり、足が止まる。光も揺れた。
地面へ足を戻す。
「……考えすぎました」
「細かな形まで組み立てなくて構いません。そこに段差があるつもりで、足を置いてみてください」
もう一度、右足を上げた。
低い石段を上がるときの距離を思い出す。ここへ踏む。意識を定めたところで、足裏へ確かな感触が返ってきた。
体重を移しても沈まない。
左足を地面から離し、右足一本で立つ。視線が少し高くなった。
「……できた」
『ええ。今のは自然だったわね』
地面へ下りると、使い終えた足場が消えた。
続けて左でも試す。今度はさっきほど迷わずに乗れた。左右で感触に違いはなく、足首にも引っかかるようなものはない。
数回繰り返してから、二歩目を作った。
右から左へ、低い段を上がるように進む。次の足場へ体重が移ると、背後の光が消えていった。
「反応は遅く感じませんか?」
「大丈夫です。足を出す前に、ちゃんとあります」
パラケルスさんが端末へ目を落とす。その横で、姉さんも何かを書き込んでいた。
「では、少しずつ踏む力を強くしてみましょう。高さはそのままで結構です」
俺は低い足場へ右足を乗せ、膝を曲げた。
そのまま前へ押し出す。光の面は揺らがず、踏んだ力が身体へ返ってきた。地面へ着き、振り返る。
もう一度。
今度は腰までつなげて蹴った。身体が前へ進み、思っていたより遠い位置へ着地する。
足場のほうが先に負ける感触がなかった。
「……強くなってますね」
「ええ。以前のお話を踏まえて、踏み切る瞬間の負荷を重視しました」
俺は足首の銀環を見た。
前へ跳ぶだけではない。向きを変えたい場所に足を置き、そこから身体を送り出せる。
低く跳び、少し右へ足場を作った。乗せた足で進行方向を変え、左側の地面へ下りる。着地の際に土がわずかに滑ったが、空中の足場は最後まで崩れなかった。
『足場が強くなった分、着地のほうも考えないとね』
「うん。今、分かった」
次は距離を抑え、同じ動きを繰り返した。
力をかければかけた分だけ、身体が進む。以前の感覚のままでは、行きすぎる場面がありそうだった。
何度か試したところで、パラケルスさんが手を上げた。
「一度、止めましょう。左右の反応を確認します」
俺は地面へ戻り、息を整えた。
パラケルスさんが屈んで銀環へ器具を近づける間、姉さんが隣へ来る。
「使えそう?」
「うん。かなり」
「顔を見れば分かるけれどね」
俺は少し笑った。
まだ、思いついたことを全部試したわけではない。それでも、次にできることがいくつも浮かんでいた。
確認を終えたパラケルスさんが立ち上がる。
「問題ありません。今日はこのくらいから慣らしてください。長く使った後の感触も、また聞かせていただけると助かります」
「ありがとうございます。ルシアンさんとノアにも、伝えてもらえますか。すごく使いやすいって」
「もちろんです」
パラケルスさんは嬉しそうに笑った。
「改良案を預かった甲斐がありました」
俺はもう一度、礼を言った。
足元にあるのは細い銀の輪だけだったが、そこには自分だけでは作れないものが、いくつも詰まっている気がした。
◇
研究棟へ戻ってから、魔導二輪の点検を頼んだ。
パラケルスさんも東方行きの話を聞くと、積載前に確認する箇所を教えてくれた。船では駆動を止め、機体を指定の位置へ固定すること。潮風や飛沫を避けられるよう、覆いも用意しておくといいらしい。
「向こうで乗った感想も、ぜひ聞かせてください。王国の街道とは、路面も違うでしょうから」
「分かりました」
姉さんは点検の予定を書き留めてから、俺を見た。
「機体は出発までに仕上げておくわ。船の便が決まったら知らせて」
「うん。これから調べてくる」
「それと、ちゃんと食べるのよ」
思わず顔を上げた。
「母さんの手紙にも書いてあった」
「じゃあ、二人分だと思って覚えておきなさい」
姉さんが真顔で言うので、俺は笑って頷いた。
その足でギルドへ向かい、港へ通じる街道と、東方へ渡る船について尋ねた。
窓口で紹介された船会社の王都出張所へ行くと、航路を記した地図が壁にかかっていた。担当の男は俺の行き先を聞き、一冊の帳面を開いた。
「旅客を乗せる魔導交易船なら、次の便に空きがあります。客室はこちらですね」
示された紙には、出港日と港での受付時刻が書かれていた。
街道を無理なく走っても間に合う。天候が悪くなった場合を考え、港では一泊する余裕を取ることにした。
「魔導二輪も積みたいんですが」
「大きさと重量は分かりますか?」
姉さんから渡された機体の書類を見せると、男は数字を確かめた。
「この大きさでしたら、積載できます。旅客用の荷物とは別に扱いますので、乗船前に貨物受付へお願いします」
客室と機体の分を申し込み、控えを受け取る。
紙に書かれた日付を見て、ようやく出発が具体的になった。
帰り道、セレスが肩から控えをのぞいた。
『これで、のんびり準備しているわけにはいかなくなったわね』
「まだ余裕はあるよ」
『その余裕を、全部修練に使わないでね』
否定しかけて、やめた。
新しい《メルクリウス》を試したい気持ちは、まだ十分に残っていた。
◇
自宅へ戻ると、まず出港日と出発予定を紙へ書いた。
翌日、機体の点検について話すときに、姉さんへ伝えることもまとめる。それから卓へ便箋を広げ、じいちゃんへの返事を書き始めた。
手紙を受け取ったこと。
東方へ行くこと。
教わった歩法を続けているが、まだ自分では掴みきれないところがあること。
どこまで詳しく書こうか迷った末に、会って確かめてきます、と結んだ。
母へ向けて、食事は取っていると書き添える。セレスが横から読んで、小さく頷いた。
『それは書いておいたほうがいいわね』
「そんなに心配されてるのかな」
『夢中になると、手が止まるでしょう』
「食べるのは忘れてないよ」
『温かいうちに食べることも、覚えておいてね』
返事を封筒へ収め、次は荷物を揃えた。
着替え、刀の手入れ道具、保存食。雨具を広げて傷みがないか確認し、機体を覆う布も用意する。収納の指輪があるおかげで量には余裕があるが、何を入れたか分からなくなっては意味がない。
使うものを順に並べ、確かめてから収めていく。
手を伸ばすたび、指輪の獅子が窓の光を受けた。
ひと通り片づいたところで椅子へ座り、足首へ触れた。服の下に、銀環の滑らかな感触がある。
つけたまま街を歩き、船の手続きをして、家へ帰ってきた。途中から、身につけていることさえ忘れていた。
それでも、必要になれば応えてくれる。
俺は足首から手を離し、卓の上を見た。
じいちゃんへの返事。船の控え。姉さんへ伝えることを書いた紙。地図には、港までの道筋を示す印がついている。
『あとは機体を受け取って、戸締まりね』
「ああ」
セレスと一緒に、もう一度だけ荷物の一覧を確かめた。
明日には機体を迎えに行こう。帰ってきたら、庭でできる修練を済ませ、早めに眠る。
船の控えを地図に挟み、俺は席を立った。
夕食の支度をするには、ちょうどいい時間だった。




