第129話 昼食と、それぞれの歩み
結局、走路を何周したのか、途中から数えていなかった。
同じ曲がり角でも、減速を始める位置や車体を傾けるタイミングで、その先の走りが変わる。一つ感触をつかむと、次も同じようにできるか試したくなった。ブラノールさんも、俺が戻るたびに次の課題を一つだけ挙げ、また先へ出ていく。
最後に一周だけ競走を頼んだのは、俺からだった。
直線では近づけた。改良型の加速に助けられ、茶色の背中が手を伸ばせば届きそうなところまで迫ったのに、曲がり角を二つ抜けるころには、また遠くなっていた。
屋根の下へ戻り、駆動を止める。
先に降りていたブラノールさんが手袋を外すのを見ながら、俺は息を吐いた。
「追いつけると思ったんですけど」
「直線ではな」
「……はい」
「曲がるたびに詰め直していては、前には出られん」
言い返せなかった。
俺が出口で車体を立て直している間に、あの人はもう加速していた。目の前で見ていたからこそ、何を言われているのか分かる。
「もう少し慣れたら、またお願いします」
「ああ」
返事は早かった。その横で、姉さんが手帳を閉じる。
「その前に、今日はここまで。もうお昼を過ぎているわ」
言われて初めて、空腹に気づいた。
パラケルスさんも端末の表示を消し、機体の点検を終える。俺たちは魔導二輪を屋根の下へ預け、姉さんの案内で食堂へ向かった。
◇
食堂の扉を開けると、焼いた肉と温かな汁物の匂いが流れてきた。
長い卓の間を学生たちが行き交い、食器の触れる音に話し声が重なっている。窓際では本を開いたまま食べている者もいたが、向かいの学生に何か言われ、渋々閉じていた。
「奥なら、まとまって座れそうね」
姉さんの指した席へ向かう途中、何人かがブラノールさんに気づいた。挨拶をされるたびに、本人は短く応じる。茶色のジャケット姿でも、顔を見れば分かるらしい。
料理を受け取り、席へ着いたところで、俺は向かいの盆を見た。
肉の皿に、深皿いっぱいの煮込み。パンもいくつか添えられている。俺の食事も少ないほうではないはずだが、その倍ほどはありそうだった。
パラケルスさんは白衣の裾を整え、長い脚を卓の下へ収めた。
走路では機体や端末へ目を向けていたので、こうして正面から見るのは初めてだった。すらりと背が高く、長い茶色の髪を後ろで一つに束ねている。眼鏡の奥の目元は穏やかで、食器を並べる指の動きも落ち着いていた。
その姿と、目の前の料理の量が、どうにも結びつかない。
「どうかしましたか?」
「いえ。その、結構食べるんですね」
パラケルスさんが自分の盆を見下ろす。
「ああ。午前中、よく動きましたから」
「先生、研究室にいる日も同じくらい食べているでしょう」
姉さんが隣から言った。
「考えることも多いですからね」
そう答え、パラケルスさんは涼しい顔でパンを割った。
姉さんもそれ以上は追及せず、食事を始める。俺も肉を切り分けて口へ運んだ。走った後の空腹には、少し濃い味つけがちょうどよかった。
セレスは俺のそばへ腰掛け、食堂を見渡していた。
『ここでも、術式の話をしているのね』
隣の卓から、聞き覚えのある用語がいくつも聞こえてくる。誰かが紙へ図を書き、向かいの相手がパンを持ったまま首を振った。
「魔導連合から来た学生もいるのよ。同じものを見ても、考え方が違うから面白いわ」
姉さんはそちらへ目を向け、少し笑った。
「食事が終わっても話がまとまらなくて、そのまま研究室へ行くこともあるの」
「姉さんも?」
「……たまにはね」
『たまに、なのかしら』
セレスの問いに、姉さんはカップへ手を伸ばした。
パラケルスさんが何も言わずに笑っている。その前では、もう肉の皿が半分ほど空いていた。
俺は煮込みを一口食べてから、気になっていたことを尋ねた。
「セフィリアは、今どうしていますか?」
ブラノールさんが顔を上げる。
「今日は自分で決めた課題に取り組んでいる。こちらが付ききりでなくとも、修練はできるからな」
「また、強くなっていますか?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
俺はフォークを置き、少し身を乗り出した。
「今の俺と比べたら、どうですか」
ブラノールさんはカップを持ち上げかけた手を止めた。
目がこちらへ向く。隣では姉さんが、俺とブラノールさんを交互に見ていた。
「何を比べたい」
「剣を合わせたら、どのくらい差があるのか。前に一緒に戦ったときも、力があるのは分かりました。でも、向かい合ったらどうなるかまでは、分からなかったので」
ブラノールさんはカップを置いた。
「近い間合いでの駆け引きなら、お前に分がある。足の使い方も、剣以外の手段へ移る判断もな」
俺は頷き、続きを待った。
「だが、あいつの一撃を、正面から受けたいとは思わんだろう」
「……思いません」
あの光を思い出す。
同じ場所に立っていても、俺とセフィリアでは、相手へ通せる力の性質が違う。あれを受け止めてから考える気にはなれなかった。
「なら、お前はどう勝つ」
俺は卓の上へ視線を落とした。
向かいにセフィリアが立っているところを思い描く。剣が振られるのを待つより先に、その力を通しにくい場所へ入る。
「間合いを詰めます。大きく振らせずに、剣の外側へ回る。体勢を崩せれば、そこから決めたいです」
「そうだな。あいつも、それを許さないために修練している」
顔を上げると、ブラノールさんは静かにこちらを見ていた。
「踏み込んでくる相手を追って、剣を振り回すことが減った。必要な分だけ動き、次に備える。まだ崩れることもあるが、以前と同じ隙を待っていては遅れるぞ」
頭の中のセフィリアの剣を、少し短く振り直す。
大きく空くはずだった脇が空かない。そこで踏み込みをためらえば、次の一撃を向けられる。
「出力の調整も、上達していますよ」
パラケルスさんが話に加わった。
「強く放つことだけに意識を向けず、どこへ通すかを考えるようになっています。味方の位置も、以前よりよく確かめていますね」
「一緒に戦いやすくなっている、ということですか?」
「ええ。こちらが結界を置く場所を残してくれたり、動く前に短く知らせてくれたり。力がある方が周りを見てくださると、私たちも仕事がしやすい」
言いながら、パラケルスさんは最後の肉を口へ運んだ。空になった皿を脇へ寄せ、何事もなかったように次の皿へ匙を入れる。
「ただ、私のほうも慣れなければいけません。どこまで任せられるかは、一緒に動いて覚えていくしかありませんから」
セフィリアの周りに、俺の知らない時間が積み重なっている。
そのことを、少し不思議に感じた。ついこの前まで一緒にいたつもりでも、その間に俺が刀を振っていたように、あいつも剣を振っていたのだ。
「では、今なら俺が優位でも、この先は分からない、と」
「今でも勝敗を決めつけるな」
ブラノールさんの返事に、俺は背筋を伸ばした。
「お前の伸びた分を、私がすべて見ているわけでもない。あいつも日々変わる。知りたいなら、いずれ実際に剣を合わせろ」
「はい」
「そのときは、前に見たあいつではなく、目の前のあいつを見ろ」
俺はもう一度頷いた。
気づけば、自分ならどう動くかを考えていた。詰めたところで剣が戻ってきたら。外へ回る前に足を運ばれたら。どれも、今ここで答えを決めることはできない。
それでも、次に会うのが楽しみになった。
「……一度、ちゃんと手合わせをしてみたいですね」
「セフィリアも、そう言うと思うわ」
姉さんが笑った。
「あなたたち、会ったら結局その話になるのね」
「姉さんも、昨日は自分から――」
『二人とも、場所は選んでね』
セレスに先を越され、俺と姉さんは口を閉じた。
ブラノールさんが片眉を動かす。
「何かしたのか」
「少し、庭で手合わせを」
『その後に、大きな氷の花と、炎の獅子まで出したのよ』
姉さんが茶を飲み、俺も食事へ戻った。
向かいで、パラケルスさんの匙が止まる。
「氷の花は、アリシアさんの造形ですね。炎の獅子というのは?」
顔を上げると、眼鏡の奥の目がこちらを向いていた。術式の話を始めるときの姉さんと、よく似た顔だった。
「刀に焔を纏わせて斬り上げたら、斬撃に重なって見えたんです。形を作ろうとしたわけではないんですが」
「なるほど。それは一度――」
『食事中でしょう?』
パラケルスさんは一瞬目を瞬かせ、それから笑った。
「失礼しました。続きは、またの機会に」
そう言って皿に残っていた料理を食べ終えると、空いた器を盆の上へ重ねた。
俺の皿には、まだ肉が残っている。
「少し、追加をいただいてきます」
「……まだ食べるんですか?」
「今日はよく動きましたから」
さっきと同じ返事を残し、白衣の裾を揺らして席を立った。
その背中を見送っていると、姉さんが小声で言う。
「先生、これでも午後にお腹が空くのよ」
俺は、見た目だけで分かることは少ないのだと、改めて思った。
◇
食堂を出た後、俺たちは走路脇の屋根へ戻った。
姉さんはこの後、研究室で打ち合わせがあるらしい。パラケルスさんも持ち帰る資料をまとめながら、《メルクリウス》の調整が進んだら知らせると約束してくれた。
「それまでに、使いたい場面を思い出しておいてください。具体的な動きが分かると、試験もしやすいですから」
「分かりました。お願いします」
ブラノールさんは二号機の前に立ち、手袋をはめていた。
茶色のジャケットへ目がいきそうになるのを抑え、俺は頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「ああ。機体に慣れたら、また走ろう」
「次は、もう少しついていきます」
「楽しみにしている」
笑みは小さかったが、返事は本気に聞こえた。
俺も自分の機体へ跨がり、操作部へ手を添える。走路で何度も確かめた位置に、指が収まった。
姉さんが横から顔をのぞかせる。
「帰り道は試験じゃないからね」
「分かってるよ」
「使いにくいところがあったら、忘れないうちに書いておいて。何もなくても、点検には持ってきてね」
「うん」
門まではゆっくり進み、通りへ出てから街の流れに合わせた。
走路と違い、道には馬車も歩く人もいる。角の先から荷車が出てくると、余裕を持って速度を落とした。急いで帰る理由はなかった。
建物の硝子に、一瞬だけ機体と自分の姿が映る。
それを目で追いかけそうになって、前を見直した。
自宅へ着くと、門を開け、機体を押して庭へ入れた。
雨の当たりにくい場所を選んで停め、駆動が切れていることを確かめる。車体から手を離しても、それは当たり前のようにそこにあった。
返しに行く必要はない。
点検には持っていくし、報告もする。それでも、これは俺のものなのだ。
少し離れて眺めてから、俺は家へ入った。
手を洗い、水を飲み、今日言われたことを紙へ書き留める。加速の反応、腕の楽さ、制動の感触。曲がる前に減速を済ませる、という一文まで書いてから、それは機体への報告ではないと思い、線を引いた。
椅子を立ち、もう一度庭へ出る。
停めた場所へ行き、座席に手を置いた。さっき見たばかりなのに、家の壁を背にしていると、学園で受け取ったときとは違って見える。
『何か忘れ物?』
振り返ると、セレスが扉のそばに浮かんでいた。
「いや。ちゃんと停まってるかと思って」
『さっき確かめたでしょう』
「……そうなんだけど」
セレスは俺の手元から機体へ視線を移し、ふっと笑った。
『うれしいのね』
言い訳を考えかけて、やめた。
俺は座席から手を離し、頷いた。
「うん」
明日は、どこへ行こう。
そこまで考えてから、まずは今日の記録を書き終えようと、セレスと一緒に家へ戻った。




