第128話 騎士団長の休日
アカデミアの門をくぐると、石畳の先を数人の学生が横切っていった。
抱えた本を見せ合う者もいれば、紙に描いた図を指でなぞりながら、隣の相手に何かを説明している者もいる。建物の入口には大きな表示板が据えられ、淡く光る文字が講義の場所と時刻を映していた。
「あれも、最近入ったの?」
「ええ。掲示を張り替える手間が減ったって、事務の人には好評よ」
姉さんは歩みを緩めずに答えた。すれ違った学生に声をかけられると、軽く手を上げて返す。その様子を見ていると、ここでは俺の知らない姉さんの毎日が続いているのだと感じた。
肩に座ったセレスも、行き交う人や建物を眺めていた。
『随分と賑やかなのね』
「研究棟のほうは、もう少し静かよ。……今日は、そうでもないかもしれないけれど」
言葉の意味を聞く前に、低い唸りが届いた。
遠くから近づき、急に高くなる。建物の間を抜けてきた音は、一度弱まったかと思うと、再び勢いを増して遠ざかっていった。
姉さんが少し笑う。
「やっぱり、来ているみたいね」
その後について講義棟の脇を抜けると、視界が開けた。
敷地の奥に、幅のある走路が伸びている。長い直線の先で大きく曲がり、さらにいくつもの曲線を重ねて戻ってくる道だった。周囲には広く余地が取られ、見学用の柵に沿って防御術式の柱が並んでいる。
「魔導二輪のために作ったサーキットよ。試験だけじゃなく、走行訓練にも使っているの」
「これを学園の中に作ったんだ」
「街道だと、同じ場所で何度も試すわけにはいかないでしょう。急に止まったり、限界を確かめたりするなら、専用の場所が必要だから」
走路の向こうで、青いものが動いた。
青と白の外装に、金色のフレーム。姉さんの端末で見た二号機が、直線を駆け抜けてくる。乗り手は低く身を伏せ、曲がり角が迫ると、わずかに身体を起こした。
車体の前が沈み、後輪が外へ流れた。
俺は思わず柵へ手をかけた。
進んでいる方向と、車体の向きがずれている。だが、乗り手は慌てる様子もなく、滑る機体の上で姿勢を保っていた。薄い煙が後輪から流れ、擦れる音が耳に届く。車体は曲線に沿って横へ流れながら、少しずつ出口へ向きを変えていった。
唸りが強まる。
青と白の機体が起き上がり、そのまま次の直線へ飛び出した。
「……今の、わざとやってるんだよな?」
「ええ。制動を使って、向きを変えています」
答えたのは、姉さんではなかった。
走路脇の屋根の下に、一人の男が立っていた。作業台に置いた端末から顔を上げ、こちらへ微笑む。袖を肘までまくった手には、細い指輪が光っていた。
「前へ荷重を移して、後ろを旋回に使うんです。同じ区間で何度も試して、感触を確かめているところですよ」
男が姉さんへ視線を移す。
「アリシアさん。そちらが?」
「ええ。弟のレグルスです」
姉さんが俺へ向き直った。
「こちらがパラケルス先生。昨日話した、魔導連合から来た魔術式師よ」
「初めまして。レグルス・クレハルトです」
「パラケルスです。お会いできてうれしいですよ」
差し出された手を握る。指先には、油を拭ったような薄い跡が残っていた。
その後ろで、二号機が次の曲がり角へ入っていく。今度は速度を保って傾き、出口が近づいたところで後輪が小さく外へ逃げた。強まった駆動音に押されるように向きが変わり、再び真っすぐになる。
パラケルスさんが俺の視線を追った。
「今のは駆動力を使った滑らせ方ですね。車体に残る勢いを利用するものも含めて、使い分けていらっしゃいます」
「随分、乗り慣れているんですね」
「こちらが確かめたいことを伝えると、きちんと再現してくださるので助かります。ただ、試験が済んでも、もう一周とおっしゃることが多くて」
隣で姉さんが笑った。
やがて二号機が速度を落とし、屋根の前へ入ってきた。
止まる直前までふらつかず、乗り手が片足を地面につく。顔がこちらを向き、左目を覆う眼帯と、その隣の見慣れた目が見えた。
「来たか、レグルス」
「はい。……え?」
挨拶の途中で、視線が下がった。
ブラノールさんが着ていたのは、いつものシャツではなかった。茶色の革のジャケットが肩から腕を包み、前を閉じた裾が腰に収まっている。握りから離した手には、革の手袋まではめていた。
しばらく、その姿を見てしまった。
「どうした」
「その、服が」
ブラノールさんは自分の胸元へ目を落とした。
「ああ。乗るときは、こちらのほうが具合がいい」
何でもないことのように言って、手袋を外す。
俺は返事を探した。戦うときでさえ服装を変えない人が、魔導二輪に乗るためには、わざわざ上着を用意している。
「風も通しにくい。腕も動かしやすいぞ」
「……そうなんですね」
実用的なのは分かる。
ただ、茶色のライダースジャケットを着た姿は、妙に様になっていた。騎士団仕様の青と白、その間を走る金色のフレーム。そこへ無造作に手を置いている姿まで、最初からそういう人だったように見える。
『レグルス、見すぎよ』
肩から囁かれ、ようやく顔を上げた。
姉さんは口元に手を添えている。ブラノールさんは気にした様子もなく、パラケルスさんへ向き直った。
「出口で強く駆動をかけると、まだ少し戻りが急だ。緩くつなぐ分には問題ない」
「先ほどの記録にも出ていますね。調整しましょう」
「頼む」
パラケルスさんが指を鳴らした。
乾いた音に続いて指輪が光り、二号機の側面に細い術式が広がる。端末へ文字が増えていくのを確かめてから、パラケルスさんは車体の脇へ屈み込んだ。
「指輪で発動するんですね」
「ええ。手を空けておけますから。整備にも便利なんですよ」
立ち上がったパラケルスさんが、指輪をこちらへ見せる。
「戦うときも、これを?」
「ええ。ヴィオラ様に憧れましてね。形から入ったところもありますが、使いこなせるまでには随分かかりました」
「ヴィオラさんに?」
「お会いになったことが?」
「はい。魔導連合へ行ったときに」
そう答えると、パラケルスさんの顔が明るくなった。
「それなら、お話が早い。ルシアンさんとノアからも、あなたのことは聞いています」
二人の名に、俺は顔を上げた。
「知り合いなんですか?」
「ええ。こちらへ来る前にも会いました。そのとき、あなたに会う機会があれば相談してほしいと、預かった案がありまして」
パラケルスさんは作業台の引き出しを開け、数枚の図面を取り出した。術式の線に交じって、細かな書き込みが重なっている。
「《メルクリウス》の改良案です。今、お持ちですか?」
「あります」
左手の指輪へ意識を向けた。
獅子を象った輪郭を親指でなぞり、収納したものの中から《メルクリウス》を取り出す。手の中に戻ってきたそれを、図面の脇へ置いた。
「何度も助けられました。これがなかったら、届かなかった場所もあります」
「それは、二人とも喜ぶでしょうね」
パラケルスさんは外側から状態を確かめ、それから俺に目を向けた。
「踏み込んだ際、足場の強さが足りないと感じたことは?」
「強く蹴るときは、気にしています。足を置くだけならともかく、そこから加速するとなると」
「なるほど。その辺りも、今回の改良で確かめたいところです」
図面に書き込んでから、一枚を俺の前へ寄せた。
描かれていたのは、二つの輪だった。大きな装置らしいものは見当たらない。
「改良型は、両足首につける形を考えています。銀色のアンクレットですね。常に身につけていられれば、必要なときに取り出す手間がなくなります」
「これだけになるんですか?」
「その予定です。使用者の魔力を登録して、ここへ足場を作る、という意図で起動させます。足場の強度も上げますよ」
俺は図面へ身を寄せた。
両手がふさがっていても、踏む場所を作れる。強く蹴れるなら、空中で動きを変えるときにも頼りになるはずだった。
「つけている間、ずっと魔力を使うんですか?」
「いいえ。使うときだけです。ただ、意図を拾う部分は、あなたの魔力で調整したい。完成後に、改めて時間をいただけますか?」
「もちろんです」
「では、こちらはしばらくお預かりしても?」
俺は《メルクリウス》を手に取り、パラケルスさんへ渡した。
「お願いします」
受け取った手が、丁寧にそれを支える。
離れた場所にいる二人の仕事が、ここまでつながっていた。そのことが、思っていた以上にうれしかった。
◇
「さて。今日はこちらが本題でしたね」
《メルクリウス》を保管箱へ収めたパラケルスさんが、屋根の奥へ歩いた。
姉さんもその隣へ並び、布をかけてあった機体の前で足を止める。
「レグルス。こっちよ」
布が引かれた。
現れた魔導二輪は、二号機よりも外装がすっきりして見えた。座席から握りまでの線が低くまとまり、後ろには荷物を固定するための場所がある。俺は側面へ回り込み、車輪から車体へ目を移した。
昨日は手帳の中にあったものが、手を伸ばせば触れられるところにある。
「これを、俺が?」
「ええ。正式にあなたへ渡す機体よ」
姉さんが書類を作業台に置いた。
「ただし、説明と手続きが先。乗ってから気づいたことは、小さなことでも記録しておいてね。点検の日程も、ここに書いてあるから」
使用感の報告、点検、異常があった場合の連絡先。順に目を通して名前を書くと、姉さんが一枚を俺へ渡し、残りをまとめた。
「これで受領は完了。次は操作ね」
姉さんは機体の横へ戻り、握りの脇に指を添えた。
「前にベルグラードへ行くとき、乗ってもらったでしょう。基本の操作はあれと同じよ。ただ、駆動の反応と制動は調整してあるから、最初はその違いを確かめてね」
「分かった。前のと比べて、どう変わったかも見ればいいんだな」
「ええ。そのために、あなたに頼んでいるんだもの」
操作部へ手を置いて確かめると、指を大きく動かさずに届いた。制動の感触も確認してから、座席へ跨がる。
車体を起こしたところで、ベルグラードへ向かったときの感覚が戻ってきた。重さを腰の下へ収め、肩を動かして握りまでの距離を確かめる。
「どう? 窮屈なところはない?」
「ないよ。前のより、腕が楽な気がする」
「走っているときも、確かめてみて」
セレスは姉さんのいる作業台へ移っていた。
『乗ったことがあるからって、いきなり飛ばさないでね』
「分かってる。まずは違いを確かめるよ」
「なら、私についてこい」
ブラノールさんが手袋をはめ直し、二号機へ跨がった。
「最初は流す。曲がる場所と、路面を覚えろ」
「お願いします」
茶色の背中が先に動き出す。
俺も駆動をかけ、車体が進むのに合わせて足を上げた。以前と同じつもりで操作したのに、思ったより早く速度が乗る。少し戻して調整すると、加速は素直に落ち着いた。
軽く触れただけで応えてくる。
前の二号機と距離を取り、少しずつ駆動を強めた。頬へ風が当たり、道を走ったときの楽しさが戻ってくる。だが、この先にあるのは見通しのいい街道ではなく、短い間隔で向きの変わる走路だった。
最初の曲がり角へ近づくと、ブラノールさんが速度を落とした。
俺もそれに倣ったが、車体を傾けてから、少し速いと感じた。追加で制動をかけたせいで動きが変わり、狙った線より外へ膨らむ。余裕はあったものの、思っていた曲がり方ではなかった。
直線へ出たところで、ブラノールさんが速度を落として俺を待った。
「曲がっている途中で、速度を合わせようとしたな」
「はい。思ったより出ていて」
「進入する前に済ませてみろ。まずは余裕があるくらいでいい」
「分かりました」
次の曲がり角では早めに減速し、先の道へ視線を送った。
車体を傾けると、今度は途中で慌てずに済んだ。出口が開けるのに合わせて駆動をかける。機体が起き、身体が滑らかに前へ運ばれた。
ブラノールさんが片手を上げた。
その背中を追いながら、今の動きを覚えておこうと思った。
道を走れることと、同じ線を狙って走れることは違う。制動をかける位置が少し変わるだけで、その後にできることまで変わってくる。
さっきブラノールさんが見せた滑るような旋回も、こうした感覚を積み重ねた先にあるのだろう。
一周して戻ると、姉さんが手帳を開いて待っていた。
「前の機体と比べて、どうだった?」
「加速が滑らかだね。反応は早いけど、調整しやすかった。あと、腕もさっき言ったとおり楽で……」
気づいたことを話すと、姉さんが書き留め、パラケルスさんも横から問いを挟んだ。制動をかけたときの感触を答えながら、俺は走路へ目を向けた。
最後の曲がり角で、うまく動きが合った。
もう一度やって、同じようになるか確かめたい。
「もう一周してもいい?」
姉さんが顔を上げ、笑った。
パラケルスさんも隣で肩を揺らす。ブラノールさんは、すでに二号機の向きを変えていた。
「次は、今の速度のまま線を揃えてみろ。速くするのは、その後だ」
「はい」
『……同じことを言う人が、二人になったわね』
セレスの声が背中へ届いた。
聞こえていたが、言い返せなかった。点検のたびにブラノールさんが返却日を尋ねる理由は、もう分かってしまった。
茶色のジャケットが風を受ける。
俺は少し間を空けて、その背中を追いかけた。




