第126話 似た者姉弟
姉さんの木剣が、俺の鼻先をかすめた。
半歩退いた足のすぐ脇で、淡い光が輪を描く。踏みとどまらずに身体を流すと、さっきまで足首のあった場所を氷の輪が閉じた。砕けた霜が草の上に散る。その向こうでは、もう次の剣が振り上げられていた。
「そっちも?」
「そっちも、よ」
返事と一緒に、木剣が斜めに落ちてくる。
俺は左足を引き、肩を逃がした。胸元を通り過ぎた剣が、途中で向きを変えて脇腹を追う。近い。けれど、踏み込んで受けるには、姉さんの左手が空きすぎていた。伸ばされた指の先に魔力が集まるのを感じ、木刀を合わせずに間合いを外す。
王都の自宅の庭は、二人で剣を交えるには足りるが、逃げ回れるほど広くはない。背後には家の壁があり、右手には庭を囲む塀がある。軒下の卓では、セレスが椅子の背に腰掛けて俺たちを眺めていた。
訪ねてきた姉さんに修練を見られ、少し合わせてみようかという話になったのが、つい先ほどのことだ。
少し、と言った本人の剣が、なかなか止まらない。
「前より、動かなくなったわね」
「動いてはいるけど」
「そういう意味じゃなくて」
姉さんの口元には笑みがある。だが、視線は俺の足を追っていた。
木剣を握り直す指に力が入り、その切っ先がわずかに下がる。剣で誘うつもりか、それとも足元か。俺は息を吐き、身体の周囲に置いた意識の円を保った。
剣先だけを見ていると、その後ろにあるものを見落とす。肩の向き、衣服の揺れ、草を押す足裏。そこに魔力の気配を重ねていくと、姉さんの動きが少しずつつながって見えた。
右から来る。
腰が動くのに合わせて、俺も重心を移した。地面を強く蹴らず、膝を緩め、身体が傾く先へ足を運ぶ。横薙ぎの剣が腹の前を抜けるころには、俺はその軌道の外へ出ていた。
祖父から教わった《桜舞》の基礎。
まだ、あのとき見た動きを再現できるわけではない。それでも、足を置く場所が少し変わるだけで、相手に向き直らせる手間を強いることはできる。姉さんが剣を返すより先にその外側へ回り、追ってきたところで、今度は逆へ流れた。
「……本当に、つかまらないわね」
姉さんが小さく息を漏らす。
次の踏み込みは浅かった。剣も届かない。誘いだと気づいたときには、俺の左後ろに二つの術式が浮かんでいた。細い氷柱が斜めに伸び、退ける場所を狭める。その間を避ければ、残るのは正面と右だけだ。
姉さんの剣が、右へ逃げる道をふさいだ。
ここで木刀を合わせれば、そのまま次の術式につながる。姉さんの左手は、まだこちらを向いていた。
俺は右足へ乗せかけた体重を抜いた。緩やかに運んでいた足を、一度だけ鋭く入れ替える。腰を落とし、姉さんの剣へ近づくように、その下をくぐった。
背後で、空気を切る音がした。
「え――」
姉さんの目は、俺がいた場所に残っていた。身体の輪郭を一瞬置き去りにしたような足さばきに、剣が引かれている。
その脇へ出た俺は、滑らせていた足を地面に据えた。
柔らかな移動から、踏み込む力へ。
帝国で身体に刻んだ円環剛の歩法で、足裏から腰へ力を通す。腰の回転に肩が続き、木刀が袈裟懸けに走った。
気づいた姉さんが木剣を引き戻す。その防御に触れる寸前、握りと踏み込みを緩めた。それでも、立て直す途中の剣を押し下げるには十分だった。
乾いた音が庭に響く。木刀を肩口で止めたとき、姉さんの足が踏ん張りを失った。
姉さんは尻もちをつき、そのまま片手を草の上についた。俺はすぐに木刀を引いた。
「大丈夫?」
「……ええ。大丈夫」
差し出した手を取る前に、姉さんは俺の足元を見た。
「最後、逆へ動いたように見えたんだけど」
「途中までは、そっちに行くつもりだったから」
「それを、あの距離で変えるのね」
俺の手を握り、姉さんが立ち上がる。服についた草を払ってから、肩を一度回した。
「私の負けね。ちゃんと受けたつもりだったのに」
「姉さんの術式も、危なかったよ。あと少し退いてたら、足を取られてた」
「あと少し、退いてくれればよかったのに」
「それは困る」
姉さんは笑ったが、木剣を見下ろす顔には、少しだけ悔しさが残っていた。
◇
木刀を軒下へ置き、卓の水差しに手を伸ばしたところで、背中から声がかかった。
「レグルス。ちょっと待って」
振り返ると、姉さんが庭の中央に立っていた。木剣はもう手にしていない。代わりに、空に向けた右手の上で、白い魔力が細く渦を巻いていた。
「剣では負けたけれど、私もこれくらいはできるのよ」
何を、と尋ねるより先に、頬へ触れる風が冷たくなった。
「《氷華造形【アルス・グラキエス】》」
透き通った茎が空中を伸び、その先に氷の蕾が結ばれる。
両手で抱えるほどだった蕾は、見上げている間にも大きくなった。薄い花弁が一枚ずつほどけ、開いた縁から細かな霜が舞い落ちる。さらに内側の花弁が起き上がり、その隙間を陽光が青く透かした。
庭に、花の影が落ちた。
頭上に咲いていたのは、俺の背丈など軽く超える、巨大な氷の薔薇だった。幾重にも重なった花弁の奥は深い青に沈み、外側へいくほど硝子のように澄んでいる。茎から分かれた蔦がゆっくりと広がり、鋭い棘をきらめかせた。
「……すごいな」
思わず口から出た。
姉さんは俺をちらりと見てから、何でもないことのように指を動かした。薔薇がわずかに傾き、花弁の形がいっそうよく見えるようになる。
「形は変えられるの。これは、私が気に入っているもの」
「この花弁、一枚ずつ作ってるの?」
「全部を別々に考えるわけではないけれど、厚さや重なり方は調整しているわ。雑にすると、きれいに開かないから」
姉さんが指先を曲げると、茎の棘が音もなく離れた。短剣ほどもある氷が、薔薇の周囲に浮かぶ。その先端が同じ方向を向くのを見て、俺は眺めていた姿勢を少し正した。
「……それ、飛ばせるんだ」
「ええ。避けた相手は蔦で捕まえるの」
足元近くまで下りてきた蔦が、何もない空間を締め上げた。人の脚ほどの隙間が、たちまち拳一つ分になる。
「絡めたところから凍らせれば、簡単には動けないでしょう?」
「うん」
「必要なら、棘も向けられるし」
俺はもう一度、頭上の薔薇を見た。さっきまできれいだと思っていた花の周囲に、逃げ道をふさぐ仕組みがいくつも見える。
「……見た目に反して、えげつないな」
「使うなら、役に立つほうがいいじゃない」
姉さんは涼しい顔で答えた。その口元が少し上がっているのを見て、俺も黙っていられなくなった。
あの花を、斬るとしたら。
花弁の重なりを目で追う。厚い中心を抜けるには、刃を走らせるだけでは足りない。けれど、風を刀に乗せたときの感覚と、《焔纏》の熱なら、つなげられる気がした。
俺は軒下へ戻り、置いていた獅心を手に取った。
「レグルス?」
「俺も、こういうことならできると思う」
鞘を腰へ差し、姉さんの隣に立つ。
「姉さん、周りに防御術式を張ってくれる? 熱と氷の破片を、外に出さないように」
姉さんは獅心から薔薇へと視線を移した。
「あれを斬るの?」
「うん」
「……いいわ。少し待って」
返事が思ったより早かった。
庭の四隅に光がともり、薄い膜が立ち上がる。頭上でつながった術式は、薔薇を包むだけの高さを残して閉じた。姉さんが指を滑らせると、家の側にもう一枚、膜が重なる。
「これで大丈夫。どう斬るのか、見せて」
俺は頷き、獅心を抜いた。
刀身を走る黒い線が、氷華の青い光を受けて浮かぶ。柄を握った手から魔力を送り、《焔纏》を刀へ宿した。
赤い炎が刃をなめる。
広がろうとする焔を刀身に沿わせ、切っ先まで通していくと、揺れていた炎が細くまとまった。頬に熱が触れたが、目の前には薔薇から降りてくる冷気もあった。息を吸うと、喉の奥がひやりとした。
足を開き、刀を右下へ引く。
《袈裟吼絶》で覚えた、全身を斬撃へつなぐ感覚。その道筋を下から上へ通し、今度は焔を乗せる。
姉さんが、俺の手元を見ていた。
少し、いいところを見せたかった。
「《劫火吼絶【ルギトゥス・インフェルノ】》!」
踏み込みとともに、逆袈裟に斬り上げた。
腰から背を抜けた力が腕へ届き、赤く輝く刃が跳ね上がる。その軌跡から炎が伸び、薔薇の下側へ食い込んだ。
焔が、獅子の姿を取った。
赤いたてがみが翻り、巨大な頭部が斬撃に重なって駆け上がる。開いた顎が氷華を捉えた瞬間、腹の底に響く咆哮が轟いた。
幾重もの花弁に斜めの亀裂が走り、中心まで抜けた赤い線から炎があふれる。薔薇は左右へ割れ、その断面を内側から照らされた。
獅子の幻影は、振り抜いた刃の先でほどけた。
残った氷片が白い蒸気の中を落ち、熱風が防御術式を大きく波打たせる。俺は刀を下げ、腕へ残った感触を確かめた。切っ先まで、途切れずに通せた。
姉さんが左手を上げると、崩れた氷が空中で止まった。細かな粒へ解けて消え、庭の向こうが再び見えるようになる。
「……今の炎、刀の動きに合わせて形を変えたの?」
「獅子の形は、狙って作ったわけじゃないんだけど。焔を刃に沿わせて、そのまま斬撃に――」
『二人とも』
俺と姉さんは、同時に振り返った。
いつの間にか卓の上へ移っていたセレスが、腕を組んでこちらを見ていた。小さな身体なのに、目が合うと妙に背筋が伸びる。
『ここが住宅街だって、覚えているかしら?』
「……覚えてるよ」
俺は刀を鞘に戻した。
「だから、防御術式を」
『ええ。氷も炎も、外には飛ばなかったわね』
セレスの視線が、俺から姉さんへ移る。姉さんは張っていた術式へ目をやり、小さく頷いた。
『でも、あんなに大きな花が屋根の上に見えて、その後に獅子が吼えたのよ。周りの方がどう思うか、考えた?』
俺たちは黙った。
熱も破片も防いだ。だが、音については、頼んでいなかった。
塀の向こうで窓の開く音がした。目を向けると、隣家の二階からこちらをうかがう人と視線が合った。通りのほうにも人の声がする。
「今の、何だったんだ?」
「こっちから聞こえたぞ」
姉さんが、ゆっくりと右手を下ろした。庭を覆っていた光が消える。
『壊さなければいい、という話ではないでしょう?』
「……はい」
「ごめんなさい」
俺の返事に、姉さんの声が重なった。
セレスはため息をつき、それから門のほうを見た。
『まずは、何でもないとお伝えしてきなさい。お茶はその後よ』
俺は姉さんと並んで門へ向かった。出ていく途中、隣家の窓に向かって頭を下げると、姉さんも同じように頭を下げた。
「すみません。魔法の試し撃ちをしていて……」
「お騒がせしました。もう終わりましたので」
怪我も火事もないと分かると、集まりかけていた人たちは、それぞれの行き先へ戻っていった。俺たちはもう一度謝ってから門を閉めた。
庭へ戻る道すがら、姉さんが小声で言った。
「次は、ちゃんと場所を用意しましょう」
「……うん」
『聞こえているわよ』
軒下から声が飛んできて、二人そろって口を閉じる。
卓についた俺たちの前へ、セレスが冷めかけた茶を示した。俺は大人しく椅子に座り、カップを手に取った。
向かいでは、姉さんも両手でカップを包んでいる。ふと目が合うと、どちらからともなく口元が緩んだ。
セレスがこちらを向く前に、俺たちはそろって茶を飲んだ。




