第125話 帰ってきた庭で
朝の光が、窓辺の床まで伸びていた。
寝台の上で腕を曲げ、ゆっくり伸ばす。傷口にはまだ引きつれる感じがあったが、昨夜のような身体の重さは薄れていた。
足を床につけて立ち上がる。
脇腹も、普通に息をする分には痛まなかった。
『よく眠れたみたいね』
机の上で、セレスがこちらを見ていた。
「ああ。昨日は横になったところまでしか覚えてない」
『すぐに寝息が聞こえていたわ』
窓を開けると、通りを掃く音が届いた。
向かいの店では、外した戸板を二人掛かりで運んでいる。朝から煮炊きをしているのか、温かい匂いも漂ってきた。
顔を洗い、普段の服に袖を通す。
昨夜脱いだ《獅王礼装》は、指輪の中に収まっていた。
あれは、本気で戦いに臨む時に纏うことにする。必要になれば、意識を向けるだけで着替えられる。
袖口を整え、獅心を腰に差した。
『今日はそちらなのね』
「ああ。礼装の出番は、戦う時だ」
『では、今日は出番がないといいわね』
「そうだな」
机に残していた紙を畳む。
四つの位置と、そこをつなぐ線。昨夜書いた文字は、最後の方だけ少し乱れていた。
それも荷物へ収め、部屋を見渡す。
椅子の下にも、寝台の脇にも、忘れ物はなかった。
「行こうか」
セレスが浮かび上がり、いつものように左肩へ腰掛けた。
◇
朝食を済ませ、宿の鍵を返した。
世話になった礼を言うと、また泊まりに来るようにと言われた。
「今度は、もう少しゆっくりします」
「そうしな。帰ってきたと思ったら、毎日どこかへ出てたからな」
否定できず、少し笑った。
裏手で魔導二輪の荷物を固定する。
車体についた土を払い、車輪を確かめた。駆動音は変わらない。
握り手を掴んで押し出すと、宿の前を通りかかった人が足を止めた。
「それで王都まで帰るのか?」
「はい」
「気をつけてな」
手を上げて応じ、ギルドへ向かった。
扉を開けると、受付の前にマルクがいた。
依頼書を手にしたまま振り返り、俺の荷物を見る。
「もう発つのか」
「ああ。挨拶をしてからと思って」
「そうか。昨日、団長たちも帰ったんだってな」
「駅まで見送ってきた」
マルクは頷き、手にした紙を折った。
袖を捲った腕には、薄く木の粉がついている。
「今日は何の依頼だ?」
「資材運び。森の方は、まだ勝手に入れない場所があるからな。こっちも人手が要る」
窓の外で、荷車が止まった。
積まれているのは、長さを揃えた板だった。
「俺も、出る前に少しくらい――」
「お前は帰れ」
言い終える前に、マルクが笑った。
「そっちには、そっちの報告があるんだろ。ここは俺たちでやる」
「……ああ」
「次に来た時は、飯でも食おうぜ」
「それは楽しみにしてる」
差し出された手を握った。
掌はざらついていて、指には新しい擦り傷があった。
「世話になったな、マルク」
「こっちの台詞だ。また来いよ」
受付でも、王都へ向かうことを伝えた。
書類は昨日受け取ったものですべて揃っている。封を確かめ、荷物の奥へ入れ直した。
「道中、お気をつけて」
「はい。お世話になりました」
頭を下げてから、依頼板へ目を向けた。
修繕の手伝い。物資の運搬。街道の確認。
見慣れた場所に、今の街に必要な仕事が並んでいる。
その前で、若い冒険者が二枚の依頼書を見比べていた。
俺も、あそこで随分迷った。
扉へ向かう途中、もう一度マルクに手を上げた。
彼は荷車へ向かいながら、片手を上げ返してきた。
◇
街の門を抜けると、朝の風が頬に当たった。
荷馬車から十分に離れ、少しずつ出力を上げる。
車輪が回り、畑の畝が横へ流れ始めた。
緩い坂の上で、一度だけ振り返った。
ベルクラードの外壁と、その向こうの屋根が見える。
門の前には人がいて、荷車が出入りしていた。
あの地下でセレスに出会った頃は、自分がまたここへ戻ってくる時のことなど、考えてもいなかった。
街を離れるので精一杯だった。
今は、次に来た時の約束がある。
『どうしたの?』
「……また来ような」
『ええ』
短い返事が、肩元に届いた。
前へ向き直り、街道を進む。
道は、行きよりも馴染んで感じられた。
緩やかに曲がるところ。車輪を取られやすい轍。遠くまで見渡せる平らな場所。
身体を固めずに進むと、細かな揺れを腕だけで受けずに済んだ。
それでも、長く乗っていれば疲れは溜まる。
昼前には道の脇へ寄り、車体を止めた。
足を地面につけて降りると、膝の裏が少し強張っていた。
『休憩?』
「ああ。水も飲みたいし」
木陰で水を飲み、持ってきたパンを食べる。
通り過ぎる荷馬車の御者が、魔導二輪を物珍しそうに見ていった。
食べ終えてから、車体の各部を確かめた。
留め具に緩みはない。
ただ、荒れた道を通った後は、細かな振動が掌に残った。長く乗ると座席の同じ場所へ重さがかかることも、覚えておこう。
「姉さんに伝えること、結構あるな」
『ブラノールの感想も忘れないでね』
「握り手が近い、だったな」
『もう一周したそうだった、というのも』
「それは感想なのか?」
セレスが楽しそうに笑った。
もう一度、水を口に含む。
空を見上げると、薄い雲が東へ流れていた。
急ぐ理由はない。
脚の強張りが取れてから、再び座席へ跨った。
◇
王都の門が見えた時には、日が傾き始めていた。
街道を行く馬車が増え、遠くからでも人の声が聞こえる。
出力を落とし、列に続いた。
門をくぐる。
建物の影に入った途端、風が弱まった。
石畳の上を車輪が進み、店先から夕食の匂いが漂ってくる。
「帰ってきたな」
『まずはギルドね』
「ああ」
王都のギルドは、帰還した冒険者で混み合っていた。
受付へ依頼の件を伝えると、奥の部屋へ案内された。
出発前と同じ応接室だった。
けれど、机の上にあの箱はない。
向かいに座った職員へ、ベルクラードから預かった書類を渡す。
封を開いた職員は、何枚か目を通してから顔を上げた。
「ブラノール団長からも、報告が届いています。現地では、予定していた調査を大きく超える事態になりましたね」
「はい」
森で見た魔物の動き。
黒い粒子と、地下で聞こえた鈴。
封じられていたものと、その後に起きた戦い。
尋ねられたところを、自分が見た範囲で答えていく。
セフィリアが力を抑え込んでいた間のことは、少し時間を掛けて説明した。
職員の筆が止まる。
「保管していた鈴ですが、こちらでも崩壊を確認しています」
机の上に、記録が置かれた。
時刻を見てから、短く息を吐く。
「やはり、つながっていたんですね」
「報告を照合する限り、その可能性は極めて高いと考えています。残ったものの調査は続けますが、あなたに依頼した件は、ここで完了とします」
完了。
その言葉を聞いて、ようやく肩が下がった。
「お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
必要な手続きを終え、席を立つ。
扉の前で振り返ると、職員はもう一度、書類を読み直していた。
あの箱を見た朝には、ここまでのことになるとは思わなかった。
それでも、持ち帰った報告を渡すことができた。
廊下へ出ると、セレスが俺を見上げた。
『一つ、済んだわね』
「ああ。次は姉さんだ」
◇
アカデミアの工房には、まだ明かりがついていた。
入口で声を掛けると、奥から姉さんが出てきた。
「レグルス」
「ただいま、姉さん」
姉さんは俺の顔を見た。
次に、腕へ視線を落とす。
車体を見るのは、その後だった。
「……帰ってきたのね」
「ああ。途中で少し休んだから、遅くなった」
「ちゃんと休んだならいいわ。腕は?」
「手当てはしてもらってる。ひどい傷じゃない」
「それ、あなたが言うと判断に困るのよ」
姉さんは眉を寄せたまま近づき、袖の上から腕の様子を確かめた。
俺が顔をしかめないのを見て、ようやく手を離す。
「セフィリアから、話は少し聞いたわ」
「もう会ったのか?」
「今日、顔を見せてくれたの」
その言い方に、出発前の会話が蘇った。
「……何を聞いたんだ?」
「まずは、あなたが無茶をした話」
『そこは、私からも補足できるわ』
「二人で話を増やさないでくれ」
「増やさなくても、十分ありそうだけど?」
姉さんが息を吐く。
けれど、次に口を開いた時には、声が少し柔らかくなっていた。
「戻ってきてよかったわ。ほら、中へ入れて」
魔導二輪を押し、工房の空いた場所へ止める。
荷物を外すと、姉さんは用紙を持って椅子へ座った。
「走っていて気になったことを、順番に教えて」
荒れた道での振動。
長く乗った時の座席の具合。
曲がる時は扱いやすかったことと、森の狭い道では降りて歩いたこと。
姉さんは途中で何度か問い返し、短く書き込んだ。
「魔力を補った時、出力に急な変化は?」
「少しずつにしたから、気になるほどじゃなかった」
「そう。戻った車体の記録とも比べてみるわ」
そこで、思い出した。
「そういえば、ブラノールさんにも乗ってもらった」
筆が止まった。
「……団長に?」
「ああ。空いた場所で、発進と停止から説明して」
「それで?」
「すぐに乗れるようになった。体格に対して、握り手が少し近いって」
姉さんは別の箇所へ、その感想を書き込んだ。
「団長向けの調整にも使えるわね」
『とても気に入っていたわよ。帰る時間なのに、もう一周しようとしていたもの』
「セフィリアに止められてた」
姉さんの肩が、小さく揺れた。
「……想像できるわ」
「俺には、帰るから遅いって言ってたんだけどな」
「待っていたんでしょうね」
何を、とは聞かなかった。
姉さんは用紙を揃え、車体へ目を向ける。
「これはしばらく預かるわ。各部を確認して、手を入れたいところもあるから」
「ああ。助かったよ、これがあって」
「その感想も書いておく」
立ち上がった姉さんに、改めて礼を言った。
工房の入口まで来たところで、呼び止められる。
「レグルス」
「ん?」
「今日は帰って休みなさい。セフィリアとの話は、また今度聞くから」
「まだ聞くことがあるのか?」
「あなたからは、聞いていないもの」
真面目な顔で言われた。
肩の上では、セレスが口元を押さえている。
「……分かった。また来る」
「ええ。待ってるわ」
◇
家までの道を、歩いて帰った。
荷物を背負うと、魔導二輪のありがたさが改めて分かる。
それでも、見慣れた通りを自分の足で進むのは、悪くなかった。
途中でパンと、夕食にできるものを買った。
店を出た時には、空の端に夕焼けが残るだけになっていた。
門の前で立ち止まり、鍵を取り出す。
開けた先に、小さな庭があった。
留守の間に落ちた葉が、隅へ集まっている。
踏み固めた土の上には、出発前の足跡はもう見分けられなかった。
「……ただいま」
声に出してから、家の扉も開けた。
閉め切っていた部屋の匂いがする。
窓を開けると、夕方の空気が流れ込んできた。
『帰ってきたわね』
「ああ」
荷物を下ろす。
預かっていた書類は、もうない。車体も工房へ返した。
獅心とセレスを、いつもの場所へ落ち着けると、ようやく帰宅した気がした。
水を用意し、簡単な夕食を済ませた。
荷物から着替えや道具を出し、使ったものを確かめる。
昨夜の紙は、机に置いた。
四つの位置が、灯りに照らされる。
その線を目で追いかけてから、紙の端を押さえた。
「続きは、明日だな」
『ええ。今日はよく走ったもの』
セレスはそれ以上、何も言わなかった。
俺は灯りを落とし、寝室へ向かった。
◇
翌朝、庭の土は少し湿っていた。
隅に溜まった葉を掃き、道具を壁際へ戻す。
腕を伸ばしても、傷が強く引きつれることはない。脇腹にはまだ鈍い感覚が残っていたから、大きく捻るのはやめておいた。
庭の中央に立つ。
窓から差す朝日が、足元まで届いていた。
体内には、少量の魔力が巡っている。
呼吸を整え、その流れを保ったまま一歩進んだ。
足を置く。
身体の重さを、そこへ運ぶ。
もう一歩。
踵が浮く時に、肩が僅かに先へ出た。
止まり、元の位置へ戻る。
獅子の騎士と戦っている時は、できた動きがあった。
それでも、今こうしてゆっくり確かめると、直すところが見つかる。
爺ちゃんの足運びを思い浮かべた。
追いかけたくなるほど速いのに、立った姿は少しも崩れていなかった。
俺は足の幅を狭め、もう一度進んだ。
今度は、肩を置いていけた。
『続きを始めましょうか』
声に顔を上げる。
セレスが、庭の端でこちらを見ていた。
出発する朝も、ここで彼女と話した。
帰ってから続きをしようと、そう言った。
「ああ」
腰の獅心へ手を添え、静かに抜いた。
刀身が朝日を受ける。黒い線が、刃に沿って伸びていた。
両手で柄を握る。
足元を確かめ、ゆっくり刀を持ち上げた。
あの四つの斬撃も、一つずつの太刀筋からできている。
まずは、この一振りを。
息を吐く。
足から腰へ、腰から腕へ。
刃の進む先を見ながら、最後まで運んだ。
短い音が、朝の庭に響いた。
振り終えた刀の先で、草の雫が光っていた。




