第121話 始まりの場所、第五の扉
朝の通りには、昨夜の宴の名残があった。
店先に重ねられた椅子。空になった樽。広場の隅では、眠そうな顔をした男たちが長机を運んでいる。
その向こうから、板を打ちつける音が聞こえた。
壊れたものが、すべて直ったわけではない。
それでも、昨日まで魔物の死骸に塞がれていた道を、今は荷馬車が通っていた。
窓から離れ、右肩をゆっくりと回す。
腕を上げ、肘を曲げる。指を握り込んでも、痛みは走らなかった。
『どう?』
「大丈夫そうだ。昨日の引っ掛かる感じもない」
『それで、朝から刀を振ろうと思っていないでしょうね』
獅心へ伸ばしかけた手を止める。
机の上で、セレスがこちらを見ていた。
「……少し確かめるだけだ」
『身体の具合は、今確かめたでしょう』
言い返せず、手を下ろした。
今日は、あの場所へ行く。
昨夜セレスと話したことを思い返しながら、身支度を整えた。
◇
出発前に立ち寄ったギルドでは、ブラノールさんとセフィリアが、職員と書類を広げていた。
「おはようございます」
「おはようございます、レグルスさん。肩はどうですか?」
「もう痛くない。そっちは?」
「私も大丈夫です」
セフィリアは笑ってから、俺の荷物へ目を向けた。
「どこかへ行かれるんですか?」
「少し、昔の場所を見てこようと思って。夕方までには戻るつもりだ」
受付で、向かう場所と予定を伝える。
地図の上に指を置くと、職員は頷き、手元に書き留めた。
ブラノールさんが書類を閉じる。
「森へ入るなら、周りは見ておけ。群れは散ったが、魔物がいなくなったわけではない」
「はい。あの施設の方は?」
「夜の間も、新たな異常はなかったそうだ。調査と監視は、引き継いだ連中が続ける」
女王が消えた場所。
垂れ下がった鎖と、崩れた鈴が頭に浮かぶ。
もう、あそこから魔物を呼ぶ音が響くことはない。
そう思うと、ようやく息が深く入った。
「お前も、戻ったら残りの報告を頼む」
「分かりました」
外へ出て、魔導二輪の荷物を締め直す。
後から出てきたブラノールさんが、車体の横で足を止めた。
「帰ってきたら、少し見せてもらえるか」
「これですか?」
「ああ。俺の試作機は、まだ先になりそうだからな」
車輪から握り手へ、真剣な目が動く。
「動かし方の説明くらいならできますけど」
「それでいい」
「師匠。引き継ぎのお話が、まだ残っています」
入口に立つセフィリアの声に、ブラノールさんが振り返った。
「分かっている。帰ってからの話だ」
「……そうですよね」
セフィリアは車体を一度見てから、俺へ顔を向けた。
「お気をつけて。戻ったら、私にも見せてください」
「ああ」
『見せる相手が増えたわね』
肩元の声に、口元が緩む。
駆動を入れると、足元で低い音が響いた。
◇
街を離れ、道を進む。
畑の向こうに木々が近づいてくるにつれ、記憶にある景色が少しずつ重なった。
ただ、来た時の道を覚えているわけではなかった。
あの日、俺は訓練をしていた。
足元の地面が崩れ、気づけば地下へ落ちていた。
土と石に囲まれた場所から進み、遺跡の中でセレスと出会った。
ここを歩いたのは、その後だ。
二人で出口を探し、ようやく地上へ出てから、街へ戻った。
「この辺りだったよな」
『もう少し先よ。右に曲がるところがあったでしょう』
「ああ……そうだ」
速度を落とす。
枝の張り出した場所を過ぎると、見覚えのある道の曲がり方が見えてきた。
あの時は、外へ出られたことに気を取られていた。
空が見える。風が吹いている。
それだけのことが、随分と嬉しかったのを覚えている。
道の脇に魔導二輪を止め、必要な荷物を背負う。
駆動音が止むと、葉の揺れる音が戻ってきた。
「ここから歩こう」
『ええ』
草を分け、木々の間へ入る。
しばらく進んだ先で、斜面の陰に暗がりが見えた。
外から見れば、目立たない。
土と草に紛れた石の縁。その奥へ、細い通路が続いている。
俺は入口の前で膝を曲げ、中を覗いた。
「……ここだ」
覚えている。
この暗がりの向こうから、光を目指して歩いてきた。
振り返り、木々の間に見える空を見上げる。
あの日と同じ場所に立っているはずなのに、今は腰にある刀も、身体を巡る魔力も違っていた。
『入れそう?』
「ああ。崩れてはいないみたいだ」
灯りを用意し、足元へ向ける。
乾いた葉が溜まっているのは、入口の近くだけだった。
頭を下げ、地下へ続く通路に足を踏み入れた。
◇
少し下っただけで、空気が冷たくなった。
背後の光が細くなり、やがて曲がり角に隠れる。
灯りの中に、石の壁が浮かんだ。
欠けた角。継ぎ目に入り込んだ土。天井から下がる細い根。
靴底が砂を擦る音が、前方の暗がりへ響いていく。
通路を逆にたどると、覚えている景色も違って見えた。
進む先ばかり見ていたあの日には、気づかなかった横穴もある。
『その先は、左だったわ』
分かれ道で、セレスが言った。
灯りを向けると、壁際に崩れた石が積もっていた。
「これ、覚えてる。通りにくかったところだ」
石を踏まないよう、隙間へ足を置く。
抜けてから振り返ると、思っていたより狭い場所だった。
『あの時は、早く外へ出たがっていたものね』
「地下に落ちたんだからな。出口が見つかるかも分からなかったし」
『それでも、私の話は聞いたでしょう』
「話しかけてくる本なんて、初めて見たから」
『今も、そう何冊も知っているわけではないと思うけれど』
「それはそうだ」
笑うと、声が石の壁に返った。
ここから外へ向かった時にも、セレスはそばにいた。
出会って間もない相手だったのに、一人で歩いていた時とは、随分と違った。
「あの時は、出口を探してたんだよな」
『ええ』
「今日は、お前がいた場所へ戻ってる」
肩の上で、セレスが前を向いた。
『……そうね』
その声を聞きながら、灯りを少し持ち上げた。
◇
やがて、通路が開けた。
壁の形を見た時に、分かった。
俺は足を止め、ゆっくりと灯りを動かした。
崩れた石。
床に積もった砂。
その奥にある、何も置かれていない場所。
「ここか」
『ええ。ここよ』
近づいてみても、当然、そこに本はなかった。
セレスは今、俺と一緒にいる。
腰へ手を添えてから、肩を見た。
彼女は何も言わず、空いた場所を見つめていた。
昨夜、聞いた話が蘇る。
以前の契約者。魔導連合で見た、あの若者。
彼と別れてから、俺が来るまで、セレスはこの地に置かれていた。
俺にとっては、冒険が始まった場所だった。
セレスにとっては、もっと長い時間がある。
「戻ってきて、どうだ?」
少し迷ってから尋ねる。
セレスは俺へ顔を向け、それからもう一度、空いた場所を見た。
『思っていたより、静かね』
「前も静かだったんじゃないのか?」
『そうだったわ。でも、今はあなたの足音がするでしょう』
俺は足元を見下ろした。
砂の上に、自分の靴跡が残っている。
何と返せばいいか考えているうちに、セレスが小さく笑った。
『そんな顔をしなくてもいいのよ。来てよかったと思っているわ』
「……そっか」
頷き、部屋を見渡す。
初めてここに来た時には、これから王都へ行くことも、帝国で兄さんに会うことも知らなかった。
刀が折れることも。
爺ちゃんの一歩に、あれほど何もできなくなることも。
あの日から、随分と遠くまで歩いた気がする。
そう思った時だった。腰に、温かさを感じた。
◇
手を下ろす。
指先に触れた本が、淡く光っていた。
「セレス?」
『……少し待って』
彼女が肩から浮かび、俺と本を見比べた。
その表情から、セレス自身が起こしているわけではないと分かった。
床で、かすかな音がした。
足元の小石が震えていた。
一つが浮き、続いて、砕けた石片が床から離れる。
俺はすぐに身を引いた。
だが、石は襲ってこなかった。
ゆっくりと宙を渡り、欠けた壁へ吸い寄せられていく。
ぴたりと収まった石片の縁から、亀裂が細くなった。
「……直ってる?」
天井を見上げる。
垂れていた土がほどけ、その向こうから、整った石の面が現れた。
床を覆っていた砂が流れる。
柱の根元へ集まった粒が上へ昇り、失われていた輪郭を埋めていく。
崩れたものが、元の場所へ帰っていく。
時間を逆にたどっているようだった。
『レグルス。足元を見て』
床に線が浮かんでいた。
砂に隠されていた模様が、淡い青の光を帯びている。
光は俺の足元を通り、壁へ、柱へと伸びた。
部屋の縁に薄い膜が立ち上がる。
それは石の壁を透かしながら広がり、通路の暗がりまで青く染めていった。
身体を巡る魔力が、その光に応じて揺れた。
覚えのある感覚だった。
「これ……獅子宮の」
『ええ』
セレスが、短く頷く。
壁が遠ざかった。
足は動かしていない。それなのに、先ほどまで灯りが届いていた部屋の端が、ゆっくりと離れていく。
修復された柱が並び、その上に高い天井が広がった。
足元の石は、そのまま続いている。
俺たちが立っていた地下の一室が、広大な空間へ変わっていった。
やがて、石が収まる音も止んだ。
淡い青の光の中で、セレスが正面を見る。
『第五階層ね』
「この場所が、そのまま試練になるのか?」
『ここを起点に開いたみたい。でも、こんな現れ方をするとは、私も思っていなかったわ』
灯りを下ろす。
もう、その明かりがなくても周囲は見えた。
正面の床で、光が集まり始めていた。
◇
俺は、その場で息を整えた。
第五階層。
新しい力へ続く試練が、目の前にある。
胸が高鳴った。
同時に、昨夜のセレスの声が浮かんだ。
渇望が、自分を上回ること。
深淵で同化し、やがて、自分の意思さえ失っていくこと。
獅心の柄に触れる。
握る前に、一度、自分の手を見た。
強くなりたい気持ちは、今もある。
爺ちゃんの刀に近づきたい。
届かなかったところへ、届くようになりたい。
けれど、夕方には街へ戻ると言ってきた。
報告も残っている。
ブラノールさんには、魔導二輪を見せる約束もした。
「セレス」
『何?』
「昨日の話、覚えてる」
彼女がこちらを向いた。
「その上で、挑みたい」
すぐには返事がなかった。
セレスは俺の顔を見つめ、それから、右腕へ目を落とした。
『肩は?』
腕を動かす。
肘を引き、手首を返す。身体を巡る魔力を少し増やしても、痛みはなかった。
「大丈夫だ」
『そう』
「でも、変だと思ったら言ってくれ。俺も、自分で確かめるから」
セレスが頷いた。
『ええ。ちゃんと見ているわ』
その言葉を聞いてから、正面へ向き直る。
床の光の中に、足があった。
金属に覆われた脛。その上に膝が組み上がり、腰と胴が形を得ていく。
今までの試練にも、人形はいた。
だが、現れつつあるものは、輪郭から違っていた。
◇
俺より、一回り大きい。
厚い胸甲から肩へ、細長い装甲が幾重にも重なっていた。
首の周りを囲み、背へ流れるその形は、獅子のたてがみに似ている。
最後に、頭部が持ち上がった。
突き出した鼻先。牙を刻んだ顎。
獅子の顔を模した兜の奥に、金色の光が灯る。
「……獅子の騎士か」
右手には、長い剣を握っていた。
左手に盾はない。代わりに、指先まで覆う手甲があり、その先が短い爪のように尖っている。
兜と首の隙間には肌が見えなかった。
手首にも、肘にも、精密に組まれた継ぎ目がある。
人形だ。
獅子を模した鎧をまとい、剣を取った騎士の人形。
その首が動いた。
金色の目が、俺を捉える。
見られただけで、背筋に力が入った。
騎士の肩が僅かに下がる。
大きな鎧だったが、動きを妨げる様子はない。
腹部の装甲が滑り、腰の向きが変わる。右足が半歩引かれ、剣先がこちらへ向いた。
無駄のない構えだった。
その刃に、赤い光が走る。
炎が細く立ち上がったかと思うと、すぐに消えた。
次には水が刃を伝い、風が肩の装甲を撫で、足元で土色の光が瞬いた。
火、水、風、土。
俺が扱ってきた属性が、その身体を順に巡っている。
『剣だけを見ないで』
「ああ」
空いている左手。
重さを乗せきっていない前足。
あの構えからなら、斬るだけでなく、踏み込みに合わせて殴ることもできる。
柄を握り、獅心を抜いた。
刃が青い光を映す。
右肩は動く。足裏には、平らな石の感触がある。
セレスが、少し後ろへ離れた。
騎士は動かなかった。
剣を向けたまま、こちらを待っている。
俺は左足を僅かにずらし、息を吐いた。
体内を巡る魔力を、途切れさせずに増やしていく。
爺ちゃんに教わった足の置き方。
戦いの中で覚えた間合い。
刀へ通す魔力と、身体を動かす力。
どれも、この場所を出てから積み重ねてきたものだった。
「――行くぞ」
獅子の目が、強く光った。
大きな身体が沈む。
石を蹴る音とともに、騎士が間合いへ入ってきた。
予想より、速い。
俺は足を運び、迫る剣へ獅心を合わせた。
地下に、鋭い金属音が響いた。




