第120話 始まりの街で、君の話を
王都ギルドの保管室で、乾いた音がした。
巡回していた職員が足を止める。
棚の奥に置かれた箱。
その縁に刻まれた術式は、いつもと同じ光を保っていた。留め具に掛けられた封印の札にも、破れはない。
けれど、箱の中では変化が起きていた。
鈴の表面を、細い亀裂が走る。
丸みを帯びていた側面が内側へ崩れ、吊り下げるための輪が折れた。
砕けた欠片も、次々と形を失っていく。
職員が担当者を呼び戻し、確認のために箱が開かれた時には、もう鈴は残っていなかった。
底に溜まった細かな粉だけが、灯りに照らされていた。
*
門前で、狼の足が止まった。
突き出された槍を避け、後ろへ跳ぶ。
先ほどまでは傷を負っても前へ出ていた魔物が、低く唸りながら周囲を見回していた。
隣の一体が肩をぶつける。
狼が牙を剥いた。
押し寄せていた群れの中に、乱れが生まれる。
森へ引き返すもの。畑の向こうへ走り去るもの。倒れた仲間を踏み越え、道から外れるもの。
「追うな!」
ブラノールの声が響いた。
前へ出かけた冒険者が足を止める。
「向かってくるものだけを止めろ。門の守りを崩すな」
逃げる魔物の背中を見送りながら、門兵が盾を下げかけた。
すぐに持ち直す。
まだ誰も、終わったとは言わなかった。
それでも、森から続いていた土煙は、少しずつ薄れていった。
◇
俺たちが街へ戻った時には、空はすっかり暗くなっていた。
門の外に並んだ灯りが、倒れた魔物を照らしている。
血の匂いが濃かった。
馬を歩かせる場所を選びながら近づくと、こちらに気づいた門兵が声を上げた。
「戻ったぞ!」
人の間から、ブラノールさんが出てきた。
剣は鞘へ収めていたが、袖にもズボンにも返り血がついている。
俺とセフィリアは馬を下りた。
「女王の頭部は、焼き尽くしました」
そう伝えると、ブラノールさんは俺の顔を見た。
それから、隣のセフィリアへ視線を移す。
「二人とも戻ったな」
「はい、師匠」
セフィリアの声が、僅かに緩んだ。
俺も頷いた。
その途端、肩の痛みが急にはっきりした。手綱を渡そうとして腕を上げると、胸の奥まで鈍く響く。
「怪我は?」
「俺は、肩と腕を少し」
「レグルスさんが、私への攻撃を受け止めてくれたんです」
セフィリアがすぐに言った。
「私は大丈夫です。ですが、レグルスさんは――」
「分かった。二人とも、まず診てもらえ。詳しい話はその後だ」
反論する前に、手綱を門兵へ渡された。
背中を押す手こそなかったが、そのまま行くしかない声だった。
門をくぐると、マルクが駆け寄ってきた。
「やったんだな」
「ああ。そっちは?」
「見てのとおりだ。逃げた奴もいるから、まだ見張りは解けないけどな」
笑いかけた顔には、疲れが濃かった。
頬に貼った布の端から、血が滲んでいる。
「お前も怪我してるじゃないか」
「擦っただけだ。それより、早く行け。勇者様が心配してるぞ」
隣を見る。
セフィリアが、真剣な顔で頷いた。
「……分かった」
足を進めると、門の内側で水を運んでいた人が頭を下げた。
その先でも、また一人。
ありがとう、と。
声を掛けられるたびに、どう返せばいいのか迷った。
ただ頷いて歩くうちに、街へ戻ってきたのだという実感が、ようやく胸に届いた。
◇
翌朝は、荷車の軋む音で始まった。
夜のうちに到着した騎士たちが周辺の警戒を引き継ぎ、封印を調べる者たちは施設へ向かった。
俺たちはギルドで経緯を説明し、その後、門前の片づけに加わった。
死骸は、明るいところで見るとさらに多かった。
道の上だけではない。畑の端や柵の下にも重なっている。
使える皮や牙を確かめ、傷みの少ないものを剥ぎ取る。
残りを縄で縛り、何人かで荷車へ載せる。
一台が郊外へ出ていくと、空になった別の一台が戻ってきた。
「そっち持てるか?」
「ああ」
マルクと二人で、重い身体を持ち上げた。
肩に巻かれた布が引きつる。
顔を顰めると、マルクがすぐに気づいた。
「無理するなよ。昨日、治療してもらったばかりだろ」
「大丈夫。持ち方を変える」
「だったら、次は牙の方を頼む。運ぶのは代わる」
言いながら、近くの冒険者を呼んでしまう。
俺は荷台へ手を掛けたまま、少し笑った。
「……分かった」
昼を過ぎる頃には、門前に道が戻ってきた。
血を洗い流す水が溝へ流れ、壊れた柵を直す槌の音が聞こえる。
郊外では、素材を取った後の死骸を焼く煙が上がっていた。
王都から、鈴が崩壊したという報告が届いたのも、その頃だった。
女王を倒した時刻と、ほぼ重なっていたらしい。
ギルド長からその話を聞き、俺は地下で砕けた鈴を思い出した。
これで、あの音は止まった。
誰が持ち出したのか。
どう使われていたのか。
調べることは残っている。
それでも、今、門を行き来する人々の足を止める鈴は、もう鳴らない。
◇
宿の裏手に置いていた魔導二輪は、無事だった。
車輪にも外装にも、目立った傷はない。握り手へ触れ、ようやく息を吐く。
「よかった……」
『ずいぶん安心した顔をするのね』
「これまで壊れてたら、姉さんに何て言えばいいんだ」
『起きたことを、そのまま話すしかないでしょうね』
「そのまま話したら、余計に心配されそうだ」
女王の頭部。黒い光線。それを正面から受け止めたこと。
どこから話しても、姉さんが黙って聞いている気はしなかった。
『心配する人がいるんだから、ちゃんと帰るのよ』
「分かってる」
車体から手を離す。
表の通りから、誰かが俺を呼んでいた。
「レグルス! こっちだ、席を空けてある!」
マルクの声だった。
◇
広場には、長い机が並んでいた。
食堂から運ばれた煮込み。焼いた肉。籠に積まれたパン。
店先にも椅子が出され、料理を抱えた人が通りを行き来している。
誰が言い出したのかは、分からなかった。
片づけが一段落した頃には、街のあちこちで火が起こされていた。
「今日は食ってくれ。足りなかったら、まだあるからな!」
皿を渡され、礼を言う。
席に着く前に別の人から杯を渡され、今度は肩を叩かれた。
ブラノールさんの周りにも、人が集まっていた。
門前で見た剣の話を、身振りを交えて語っている。
「あれだけいたのが、一度で!」
「俺のところまで来ると思いましたよ、あの光!」
「お前たちが下がったのを見てから使った」
ブラノールさんが答えると、周囲がどっと笑った。
セフィリアは、花を差し出した子供の前で腰を屈めていた。
受け取って微笑む。
その隣へ母親らしい女が来て、何度も頭を下げていた。
「お前もだぞ」
マルクに肘で小突かれる。
「何が?」
「そんな、見てるだけみたいな顔するなって。奥の奴を倒したの、お前たちだろ」
「ここを守ってくれたから行けたんだ」
「そりゃそうだ。だから全員で飲んでる」
杯を持ち上げられ、俺も合わせた。
軽い音が鳴る。
「それにしてもなあ。この街で依頼を受けてたお前が、勇者様と並んで戻ってくるとは」
「俺だって、来る時には考えてなかった」
「だろうな」
マルクが笑う。
俺も笑って、パンをちぎった。
料理は温かかった。
食べている間にも、次々に声を掛けられる。
昨日、子供を抱えて走っていた男。
水桶を運んでいた女。名前を知らない人もいた。
話を聞き、返事をし、何度も杯を上げた。
嬉しかった。
けれど、頬の辺りが落ち着かなくて、ときどき皿へ目を落としてしまった。
しばらくして、俺は席を立った。
「少し、風に当たってくる」
隣のセフィリアが顔を上げる。
「肩、痛みますか?」
「いや。ちょっと食べすぎた」
彼女の目が、俺の空になった皿へ向いた。
小さく笑う。
「それなら、ゆっくり歩いてきてください」
「ああ」
人の間を抜け、灯りの少ない道へ入る。
肩には、セレスがいた。
◇
足は、自然と覚えている方へ向かっていた。
この街にいた頃、何度も通った場所。
依頼へ出る前も、戻った後も、刀を振っていた場所だった。
足元の土を踏む。
草は少し伸びていたが、立ってみると、どちらへ向いて構えていたか思い出せた。
『懐かしいわね』
「ああ」
獅心の柄へ手を置く。
抜きはしなかった。
肩の痛みもあったし、今は、ここに立つだけでよかった。
「ここで振ってた時は、王都が随分遠く感じたな」
『実際、知らない場所だったもの』
「浮遊大陸に行くとも思ってなかった。帝国で兄さんに会って、あんな修練をすることになるとも」
刀が折れた時には、その先のことなど考えられなかった。
何を握ればいいのか。どう戦えばいいのか。
今は腰に、獅心がある。
身体には、教わった動きが残っている。
「爺ちゃんには、まだ足を置くだけで直されるけど」
『帰ったら、また見てもらえるでしょう』
「だな」
遠くから笑い声が聞こえた。
誰かが歌い始めたらしい。調子の外れた声に、別の声が重なる。
「……お前と出会ってから、随分いろんな所へ行ったな」
『ええ』
セレスの返事が、いつもより静かだった。
肩を見る。
彼女は街の灯りを見つめていた。
『レグルス。少し、私の話をしてもいいかしら』
「もちろん」
俺はその場へ腰を下ろした。
鞘の位置を直し、彼女へ顔を向ける。
セレスは肩から離れ、目の前に浮かんだ。
『魔導連合で見た、あの若者を覚えている?』
「ああ」
『彼が、私の前の契約者よ』
思わず、姿勢を正した。
あの若者の姿が浮かぶ。
「……そうだったのか」
『彼の後に、契約した人はいないわ。あなたに出会うまで、私はこの地に置かれていた』
「ずっと?」
『ええ。ずっと』
短い言葉だった。
そこに、俺の知らない時間があった。
◇
『契約者は、自分の渇望によって先へ進むわ。求めて、力を得て、さらに先を求める。階層を越えていくのも、その一つね』
セレスが、俺の腰へ目を向けた。
獅心の隣にある、彼女の本体。
『その渇望が上限に達した先に、深淵と呼ばれる場所があるの』
「獅子宮にも?」
『ええ』
「そこまで行くと、どうなる?」
セレスは、すぐには答えなかった。
小さな手が、胸元で重なる。
『契約者と契約物が、同化するわ』
風が吹いた。
足元の草が、同じ方へ倒れる。
『身体は人とは違うものに変わっていく。そして、やがて契約者の自我は、契約物の自我に呑まれる』
俺は、目の前のセレスを見つめた。
「……呑まれるって、お前にか?」
『そうよ』
彼女は目を逸らさなかった。
『あなたがその道を進みきれば、私とあなたの境界がなくなる。最後には、あなたがあなたとして選ぶことさえ、できなくなる』
柄に置いていた手を離した。
掌に、巻き布の跡が残っている。
もっと強くなりたい。
もっと速く、もっと深く斬りたい。
その気持ちは、今もある。
女王を断った一太刀を思い返すだけで、次はどう振れるのかと考えてしまう。
「力が欲しくて進んで、最後には、その力を使う俺がいなくなるのか」
『渇望に、自分のすべてを渡してしまえばね』
セレスが少し近づいた。
『でも、進む先は一つではないわ』
顔を上げる。
『自分の意志が、渇望に勝ることがある。欲しいという気持ちを抱えたまま、それでも、自分がどう在るかを選び続けられたなら』
「深淵へは行かない?」
『別の場所へ至るわ。発現している固有能力が、契約者をさらに高みへ押し上げるの』
「俺なら……《未踏領域》か」
『ええ』
セレスが頷いた。
『その道なら、人としての身体も、自分の意志も保てる。老いる速さは普通の人より遅くなるけれど、あなたは人のままよ』
自分の手を見る。
掌を開き、指を曲げた。
『その手で刀を握って、その足で歩いていくの。誰も到達していない場所へ』
「……そこまで行けるんだな」
『道はあるわ。あなたが必ず辿り着けると、約束することはできないけれど』
その答えに、ゆっくり頷いた。
約束されていないことには、慣れている。
ただ、話はまだ終わっていなかった。
「前の契約者は、どっちへ行ったんだ?」
セレスの表情が変わった。
ほんの僅かに、口元から力が抜ける。
『深淵へ進もうとしたわ』
「……お前と、同化しようと?」
『ええ』
「それで?」
『私が止めたの』
◇
遠くの歌声が、途切れた。
笑い声と拍手が遅れて届く。
セレスは、その方を一度見た。
『最後に、説得したわ。そこへ進めば、彼自身が失われる。欲しかったものを手にしても、それを喜ぶ彼がいなくなるのだと』
「聞いてくれたのか」
『……最後にはね』
それだけ言って、黙る。
俺も、次の言葉を急かさなかった。
セレスは自分の手を見下ろした。
小さな指を開き、また閉じる。
『彼が失われるのを、見たくなかったの』
俺は息を吐いた。
「お前に呑まれるって聞いた時、どう考えればいいか分からなかった」
『ええ』
「今だって、全部分かったわけじゃない」
セレスが頷く。
俺は続けた。
「でも、お前は止めたんだな。その人を」
『……そうよ』
目の前にいるのは、ずっと一緒に旅をしてきたセレスだった。
俺が倒れれば声を掛け、無茶をすれば呆れ、うまく刀を通せば喜んでくれた。
その彼女が話すことだから、怖くないとは言えなかった。
むしろ、はっきりと想像できてしまう。
いつか、彼女の声を聞いても、俺として返事ができなくなる。
そんな場所へ、自分から進んでしまうかもしれない。
「俺も、先へ行きたい」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
「もっと振れるようになりたい。今は斬れないものも、いつか斬りたい」
『知っているわ』
「けど、姉さんに帰ったって言うのも、爺ちゃんにまた教えてもらうのも……お前と、こうして話すのも、俺がしたいんだ」
街の灯りを見る。
あそこには、まだ俺を待っている人がいる。
「何のために振ってたのかまで、なくしたくはない」
セレスは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと俺の肩へ戻ってくる。
『その気持ちを、忘れないで』
「ああ」
『今日そう言えたから、もう大丈夫という話ではないのよ』
「分かってる。……いや、これから分からなくなることもあるんだろうな」
膝へ肘を置き、少し考えた。
「その時は、また話してくれ。今日みたいに」
『ええ。何度でも』
返事を聞いて、肩の力が抜けた。
「話してくれて、ありがとう」
セレスが、俺の頬を覗き込んだ。
それから、いつものように小さく笑った。
『どういたしまして』
◇
立ち上がると、座っていたところに草の跡が残っていた。
ズボンについた土を払う。
「明日、行ってみないか」
『どこへ?』
「お前と出会った場所」
セレスが黙った。
俺は森の方へ目を向ける。
「あの時は、お前がそれまで、どんなふうに過ごしてたかなんて知らなかったから」
『……行って、どうするの?』
「まだ決めてない。もう一度、見ておきたいと思った」
彼女の脚が、肩で小さく揺れた。
『そうね。私も、行ってみたいわ』
「じゃあ、明日だな」
歩き出す。
街へ戻る道には、温かな灯りが続いていた。
『今日はもう、振らないのね』
「肩が治ってからにする」
『珍しく素直ね』
「爺ちゃんにも、緩急が必要だって言われたしな」
セレスが笑った。
その声を聞きながら、俺も口元を緩める。
通りの向こうで、マルクがこちらに気づいて手を上げた。
隣では、セフィリアが空いた席を示している。
俺は片手を上げて応えた。
腰には獅心がある。
肩にはセレスがいる。
その重みを確かめながら、待っている人たちのところへ戻った。




