第119話 獅吼・一閃・劫火
森の中まで、黒い粒子が流れてきていた。
馬の首筋を撫でながら速度を落とす。道の先を漂う粒は、夕闇に紛れて見失いそうになる。それでも、近づくほど喉の奥に残る不快感は強くなった。
「ここからは、歩こう」
隣のセフィリアが頷いた。
馬を道から外れた窪地へ引き、木に繋ぐ。荷物から灯りを取り出し、互いの装備を確かめてから走り出した。
戻ってきた道には、幾重にも足跡が重なっていた。
街へ向かうものが多い。その間に、小さな足跡が逆向きに続いている。
木々の向こうで、何かが鳴いた。
甲高く、途中から濁る声。
枝を押し分けて現れたのは、小柄な魔物だった。
片方の腕だけが、地面へ届くほど長い。
肘の辺りで皮膚が裂け、その下から硬い突起が覗いている。顔を上げると、口に収まりきらない牙が唇を押し広げていた。
「……変わってる」
俺たちを見た魔物が、長い腕を振り上げた。
身体の大きさに似合わない速さで、爪が迫る。
踏み込み、腕の内側へ入った。
抜き放った獅心で脇腹から斬り上げる。刃に触れた肉が硬く、手元へ重い抵抗が返った。
腰を運び、最後まで通す。
倒れた身体から、黒い粒子が噴き出した。
「離れてください」
セフィリアの掌に、淡い光が灯る。
押し寄せかけた粒子が、その手前で薄れた。
俺は刀を下げず、周囲を見た。
茂みの奥で、また何かが動く。
『施設へ急ぎましょう。ここまで漏れているなら、中はもっと濃いはずよ』
「ああ」
斜面を回り込むと、目印に残した布が見えた。
その下にある石積みは、黒い靄に半ば隠れていた。
◇
入口の隙間から、粒子が絶えず溢れていた。
土の上を這い、根を伝い、空中へ浮かび上がる。
その中へ、小さな影が潜り込んでいった。
俺たちも身体を屈め、石の扉を抜ける。
階段の途中で、爪が鳴った。
灯りを向けると、壁に張りついた魔物が首を捻る。背中が不自然に盛り上がり、左右で長さの違う脚が石を掻いていた。
飛びかかってきたところを、刀で迎えた。
首を断つ。
階段へ落ちた身体を跨ぎ、下へ進む。
前に来た時には、壁の継ぎ目まで見えた。
今は灯りを上げても、廊下の先が黒く霞んでいる。
「私が前を照らします」
セフィリアが剣を抜いた。
刀身に白い光が流れる。
彼女が一歩進むと、漂っていた粒子が左右へ押し退けられた。
その向こうから、二体が走ってきた。
俺が右を受け持つ。
伸びてきた爪を避け、首元へ刃を通した。
左では、セフィリアの剣が肩から胸へ抜けていた。
黒い粒子が傷口から漏れ、刀身の光に触れて消える。
彼女はすぐに剣を戻し、廊下の奥へ向けた。
「進めます」
「ああ。後ろは俺が見る」
足元には、新しい血の跡があった。
小さな手形が、床を引きずられるように続いている。
奥から鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん、ちりん。
間を置かず、何度も。
曲がり角を越えたところで、灯りが床の欠片を照らした。
厚いガラスだった。
壁の覗き窓には、尖った破片だけが残っている。
その脇で、金属の扉が外へ膨らんでいた。片側の下部が枠から外れ、人が通れるほどの隙間を作っている。
内側から、何かが弾ける音がした。
ばちっ、と。
続けて、金属を引き絞るような軋み。
俺はセフィリアと目を合わせ、扉の隙間へ身体を滑り込ませた。
◇
赤い目が、動いていた。
右へ。左へ。
天井を見たかと思えば、床へ落ちる。
長い銀髪の間で、二つの眼球がぎょろぎょろと動き続けていた。
瞳孔は開いたままだ。目の縁から流れる黒い血が、白い頬を濡らしている。
それが、セフィリアを捉えた。
動きが止まる。
血に濡れた唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。
にぃ、と。
首だけの女王が、笑った。
セフィリアの指が、剣の柄を握り直す。
俺は彼女より半歩前へ出た。
頭部の下で、何かが蠢いていた。
肉が重なっている。
毛の生えた背中。折れ曲がった脚。まだ爪を動かしている腕。
それらが黒い粒子に包まれ、首の切断面へ押しつけられていた。
床にいた小さな魔物が、腹を擦りながら引き寄せられる。
逃げようと爪を立てた。石に細い傷が残る。
その身体が浮き、肉の塊へ沈んだ。
「取り込んでる……」
首の下に、肩らしい膨らみが生まれた。
片側へ肉が伸びる。
肘のように折れ、先端が開いた。
その瞬間、鎖が張った。
切断面から伸びる魔術の鎖を、文字が駆け抜ける。
床と壁の円が光り、形成されかけた腕へ細い光が食い込んだ。
ばちばちと火花が散る。
黒い粒子が渦を巻き、押し返す。
伸びた腕が裂けた。崩れた肉を、また粒子が引き寄せる。
『封印が、身体を作らせまいとしているのね』
セレスの声が低くなる。
『でも、長くは持たないわ』
壁の術式が一つ、明滅した。
繋がる鎖が僅かに緩む。
女王の頭部が前へ傾き、角の周りについた鈴が一斉に鳴った。
黒い粒子が膨れ上がる。
セフィリアが剣を前へ向けた。
「抑えます。レグルスさん、お願いします」
「ああ」
白い光が、彼女の手から刀身へ流れた。
「《極光》」
室内が明るくなった。
光に触れた粒子が薄れ、床の模様が見える。
頭部の下で膨らんでいた肉塊が、大きく震えた。
流れ込んでいた黒い筋が細くなり、形成されかけた肩が崩れる。
女王の笑みが歪んだ。
鎖が再び張る。
先ほどまで押されていた術式が、肉塊を締めつけ始めた。
「……このまま、押さえます」
セフィリアの額に汗が浮かぶ。
剣先は揺れていない。
彼女の光が、頭部の周囲へ少しずつ届いていく。
俺は刀を構え、間合いを測った。
床を横切る鎖。残った術式。その上にある、女王の頭部。
近づくための足場が見え始めた。
その時、女王の顎が下がった。
声は出なかった。
開いた口の奥に、黒いものが集まる。
周囲の粒子が引かれた。口内の一点へ、急速に。
「セフィリア!」
床を蹴った。
◇
彼女の前へ入り、腰を落とす。
土の属性を、巡らせていた魔力へ重ねた。
「《獅王巌鎧【ロリカ・レオニス】》!」
胸と肩を、岩の外皮が覆った。
腕へ、脚へと重なり、首元には獅子の鬣を思わせる厚い層がせり上がる。
黒い光線が、そこへ突き刺さった。
視界が揺れた。
組んだ腕の向こうで、岩が砕ける。
重い衝撃が肘から肩へ抜け、胸を押し潰そうとした。
「ぐっ……!」
踵が滑った。
踏み直した足の下で、石床が割れる。
止める。
前へ傾きすぎるな。腕だけで受けるな。
足から腰へ、腰から背へ。
身体を繋ぎ、押し込まれる力を支える。
岩の表面が削れていった。
黒い光に触れたところから細かく崩れ、破片が頬を掠める。
魔力を送り、欠けた外皮を補った。
「レグルスさん!」
「俺が防ぐ! そのまま続けてくれ!」
背後の光が、一度揺れた。
すぐに、強くなる。
「……はい!」
白い光が俺の左右を抜け、女王へ届いた。
光線の圧力が増した。
腕を覆う岩が大きく割れる。
肘が胸へ押し戻され、息が詰まった。
それでも、足は残った。
砕けた床へ靴底を沈め、歯を食いしばる。
肩越しに逃げた黒い光が、後方の壁を抉った。
『もう少しよ。向こうの流れが細くなっているわ』
セレスの声が届く。
女王の口が見えた。
限界まで開いた唇の端から、黒い血が飛び散っている。
その周囲を、《極光》が押さえていた。
黒い光線が細くなる。
揺らぎ、脈打ち――途切れた。
俺は息を吐いた。
前腕を覆っていた岩が落ち、床で砕ける。
「怪我は……!」
「動ける」
腕を下ろす。
肩が痛む。掌も痺れている。指を曲げると、柄を握る力は戻った。
女王はまだ、こちらを見ていた。口の奥に、黒いものが滲み始める。
二度目は、撃たせない。
*
頭部へ続く床を見た。
《極光》が粒子を押し退け、鎖の位置がはっきりしている。
「セフィリア。もう少しだけ、抑えていてくれ」
「抑えます」
即座に返ってきた声に、頷いた。
獅心へ目を落とす。
この刃を、あそこへ通す。
あの頭部を断ち、残ったものまで焼き尽くす。
――付き合ってくれ、獅心。
刀身が、微かに輝いた。
セフィリアの光を映しただけかと思った。
けれど、手元へ傾けても消えない。
刃の内側に、淡い光が宿っていた。
帝国で、セフィリアと戦った時。
あの力に触れた獅心を思い出す。
柄を握る手へ、確かな重みが返った。
俺は刀を鞘へ収めた。
呼吸を落とす。
肩の力を抜き、足を置く。
頭部が揺れた。
銀髪が広がり、鎖が軋む。
その動きも、足元の破片も、背後に立つセフィリアも。
意識の円の中へ収めていく。
体内を巡る魔力に、火を重ねた。
胸から腕へ。腰から脚へ。巡るたびに熱が増す。
外へ逃がさず、次の流れへ繋ぐ。
鯉口を切った。
女王の赤い目が、俺へ向いた。
唇が歪む。
首の下から、不揃いな指を持つ腕が伸びてくる。
白い光が、それを押し留めた。
「今です!」
足を運ぶ。
鎖の手前へ一歩。
その上を越え、刃の届く位置へ。
女王の口が開く。
間に合う。
「壱之太刀――」
右手で柄を引き、左手で鞘を送った。
「《獅吼・一閃・劫火》」
炎が走った。
抜けた刃を、赤く輝く火が包む。
その奥に、微かな白い光があった。
刃が頬へ触れる。硬い抵抗。
頭部を包む黒い力が、刀身へ絡みついた。
止めない。足から腰へ。腰から肩へ。繋いだ動きを、一つ残らず刃へ運ぶ。
獅心が、抜けた。
◇
女王の顔に、一本の線が残った。
笑みがずれる。赤い目の位置が、上下に離れた。
その斬り口から、炎が噴き上がった。
銀髪が熱風に舞い、毛先から火へ変わる。
裂けた口からも炎が溢れ、頬を伝っていた黒い血を呑み込んだ。
耳を刺す叫びが響いた。
頭部の上半分が落ちかける。
床へ届くより先に、炎がその内側から突き抜けた。
ティアラのような角が赤く焼ける。
細い亀裂が走り、先端が崩れた。
見開かれていた赤い目も、白い顔も、渦巻く火の中へ消えていく。
俺は振り抜いた刀を引き戻し、後ろへ下がった。
女王の下にあった肉塊が暴れた。
腕らしいものを床へ突き、燃える頭部から離れようとする。
炎は、その中へも奔った。
幾重にも重なった肉の隙間を火が満たす。
黒い粒子が噴き出しかけたところへ、セフィリアの光が重なった。
「逃がしません……!」
白い光の内側で、火柱が上がった。
伸びかけた腕が焼け落ちる。
肩が崩れ、胸になりかけていた塊が内側から砕けた。
炎が唸った。
石壁を赤く照らし、足元のガラス片に幾つもの火を映す。
女王の輪郭が、失われていく。
長い歳月を越えて残っていた銀髪も。
こちらを見て笑った顔も。
再び身体を得ようとしていた肉も。
炎はそのすべてを包み、形がなくなるまで燃え続けた。
俺は息を切らしながら、刀を構えていた。
セフィリアも、光を緩めなかった。
鎖の先から、焼けた欠片が落ちる。途中で崩れ、火の粉に混じった。
やがて、炎の勢いが落ち始めた。
そこに、頭部はなかった。身体も残っていない。
赤く燻る灰が、封印の円の中へ降り積もっていた。
支えるものを失った魔術の鎖が、ゆっくりと垂れた。
最後に、小さな鈴が一つ落ちた。
黒く焼け、形の歪んだそれは、石床へ触れた途端に割れた。
音は、鳴らなかった。




