第117話 封じられた女王
鈴の余韻が消えても、俺は壁の図から目を離せなかった。
中央に描かれた輪郭。その下に並ぶ、歯のような線。
四方へ伸びた線は、周囲の留め具へ繋がっている。
「……何かの頭か?」
呟くと、ブラノールさんが灯りを少し横へ動かした。
斜めから光が当たり、金属板に刻まれた文字の影が浮かぶ。
『そのまま照らしていてくれる?』
セレスが俺の肩から身を乗り出した。
指先で触れることはせず、文字を端から追っていく。
『……頭部。こちらは、封鎖ね。その下は……搬出を禁ずる、と読めるわ』
「中にあるものについてか」
『ええ。図も、その固定方法を示しているみたい』
俺は扉へ目を戻した。
右下の亀裂には、今は何も漂っていない。床を横切る術式だけが、弱い光を残していた。
その向こうに、頭部がある。
胴体から切り離され、ここへ運び込まれた何かが。
「上の窪みは、何でしょうか」
セフィリアが壁を見上げた。
金属板の上には、四角く縁取られた窪みがある。奥は黒く曇り、石なのか金属なのかも分からなかった。
ブラノールさんが灯りを近づける。
表面に、小さく光が映った。
「透けるな」
『待って。縁に線があるわ』
セレスの声で、その手が止まった。
四角い縁を囲むように、細かな術式が刻まれている。そこから伸びた線は、扉のものへ繋がっていた。
『内側を見るためのものかもしれないわね。表面の汚れだけなら、落とせそうよ。枠には触れないで』
ブラノールさんが布を取り出し、中央を軽く拭った。
乾いた汚れが剥がれる。
その下から現れたのは、厚い硝子に似た板だった。
奥に、薄い光が見えた。
俺は獅心を納め、ブラノールさんが脇へ寄るのを待ってから、窓へ近づいた。
◇
最初に見えたのは、銀色だった。
長い髪が、幾筋にも分かれて垂れている。
床まで届きそうな毛先は、内側の淡い光を受けて白く輝いていた。
その上に、女の顔があった。
頭部だけが、宙に留められている。
額から側頭部にかけて、角が生えていた。
幾つもの尖端を持つそれは、頭の曲線に沿って連なり、ティアラのような形を作っている。その周囲には、小さな鈴が下がっていた。
肌は白かった。
頬にも唇にも、干からびた様子はない。
長い間、こんな場所に置かれていたとは思えなかった。
目が、開いていた。赤い虹彩の中央で、瞳孔が大きく開いている。
灯りを映しても、細くならない。瞬きもしない。
その目の端から、黒いものが流れていた。
血だった。
頬を伝った黒い血が顎へ集まり、丸い滴になる。
それが離れ、下へ落ちた。
俺は無意識に、窓から顔を引いていた。
「レグルスさん?」
「……頭が、ある」
それだけ言って、場所を空けた。
セフィリアが窓を覗く。
息を呑む音がした。
ブラノールさんは彼女の肩越しに中を確かめ、それから灯りの向きを変えた。
窓に映り込んでいた光がずれ、室内の下の方まで見えるようになる。
俺も、もう一度目を向けた。
首の切断面が見えた。
肉はまだ湿っていた。黒い血に濡れたその奥へ、幾本もの鎖が食い込むように繋がっている。
鎖には、金属の重みが感じられなかった。
一つ一つの輪の中を文字が巡り、明るくなっては薄れる。その光が切断面から四方へ伸び、床と壁に設けられた円形の術式へ届いていた。
頭部は、その鎖に繋ぎ留められていた。
「斬られてから、時間が経っていないように見えます」
セフィリアが低く言った。
「ああ。だが、この施設は古い」
ブラノールさんの視線が、窓の縁へ移る。
周囲の石は欠け、金属板は錆びている。背後の通路には、朽ちた棚や割れた台が残っていた。
その中で、頭部だけが斬り落とされた時のまま、ここにある。
『封印には、状態を保つ働きも含まれているようね』
セレスの声が、肩元から届いた。
「……生きているのか?」
『今、見えている身体には、生きて動いている様子はないわ』
セレスは少し間を置いた。
『でも、力は残っている』
窓の向こうで、銀髪の間を黒い粒が浮かんだ。
首の切断面から滲み出たものだった。
粒はゆっくりと上がり、頭部の横へ広がろうとする。
その途端、鎖の輪が明るくなった。
光が走る。
黒い粒は細かく崩れ、見えなくなった。
それでも、切断面の奥には、まだ黒いものが残っていた。
◇
『文字の続きが見えたわ』
セレスの言葉に、俺は窓から離れた。
彼女は壁の金属板を見つめている。
『図の横。さっき影になっていたところよ』
ブラノールさんが灯りを下げた。
錆に隠れた文字の一部が、浮かび上がる。
セレスはしばらく黙っていた。
『……女王』
「女王?」
『ええ。ここに、そう記されているわ』
ブラノールさんの顔つきが変わった。
セフィリアも、窓から視線を戻す。
「クイーン……」
彼女の声は小さかった。
「魔族の、ですか」
「ああ」
ブラノールさんの返事は短かった。
もう一度窓の向こうを見てから、言葉を続ける。
「記載が正しければ、上位の魔族の頭部だ。死骸であっても、扱いを誤っていい相手ではない」
俺は、あの赤い目を思い出した。
開いた瞳孔。頬を伝う黒い血。
帝国で斬った魔族には、動きも声もあった。こちらを見て、敵として向かってきた。
この頭部は、何もしていない。
それなのに、薄い板一枚の向こうを覗くだけで、首筋が冷えた。
ちりん、と。
鈴が鳴った。
窓へ視線を戻す。
ティアラ状の角の脇で、小さな鈴が揺れていた。
「……あれだ」
俺は窓の向こうを指した。
「森で聞こえたのは、あの鈴です」
揺れは、すぐに収まった。
頭部は動いていない。髪も垂れたままだ。
鈴だけが、何かに触れられたように鳴っていた。
その形に、見覚えがあった。
以前、この街で回収した鈴。
王都のギルドで、封印された箱に収められていたもの。
「似てる……」
角の周りを、目で追った。
鈴は幾つか並んでいたが、片側に一か所だけ、何も下がっていないところがある。
小さな輪だけが残っていた。
「一つ、外れているのか?」
ブラノールさんが隣から覗いた。
「あそこか」
「はい。王都にある鈴も、あんな形でした」
「帰ったら、回収時の記録と照合する。今は位置を写しておけ」
頷き、紙を取り出した。
角の形と、鈴の位置。空いた輪がどこにあるのか。
絵は得意ではなかったが、見分けがつくように線を重ねる。
書きながら、口の中が乾いていることに気づいた。
鈴は、これについていたものなのか。
そうだとすれば、誰が外へ持ち出したのだろう。
顔を上げても、女王の目は同じ場所を向いていた。
◇
床の光が、僅かに強くなった。
セレスが扉の右下を見る。
亀裂の奥から、黒い粒子が漏れていた。
さっきより多い。
床へ触れたものは消えたが、壁際を漂った一粒は、光の届かないところへ流れていった。
俺たちは通路側へ下がった。
粒は途中で薄くなり、やがて見えなくなる。
『全部は、止められていないわね』
セレスの視線が、壁を走る亀裂を辿る。
『中の鎖と、部屋を囲う術式。幾重にも封じてあるけれど、傷んだ部分から漏れているわ』
「直せるか」
ブラノールさんが尋ねた。
『外から見える線を繋ぐだけでは、駄目ね。鎖へ流れる力まで変わるかもしれない。全体の構造を確かめる必要があるわ』
「私の《極光》なら、あの粒子を抑えられるかもしれません」
セフィリアが言った。
柄に添えられた指が、少し強く握られる。
「頭部ごと、ここで……」
ブラノールさんは、彼女を見た。
「窓越しに届かせられるか」
セフィリアは透明な板へ目を向けた。
その縁を、術式の光が巡っている。
「……封印にも、触れると思います」
『あの頭部は、鎖と繋がっているわ。そこへ力を加えれば、封印全体に影響が出るでしょうね』
セレスの声に、俺は中の鎖を思い返した。
切断面へ入り込んだ、光る輪。
頭部だけを斬ろうとしても、その繋がりまで断つことになる。
「解いた瞬間に、溜まっているものが出るかもしれないのか」
『ええ。どれだけ残っているかも、ここからでは分からないわ』
ブラノールさんは扉を見つめた。
しばらくの間、通路には水滴の落ちる音だけが響いた。
「一度戻る」
やがて、静かな声がした。
「頭部は処分する。そのために、封印を扱える者と、外へ漏れた場合の備えを揃える」
「はい」
セフィリアが頷く。
ブラノールさんは、俺の手元の紙へ目を向けた。
「文字と術式の欠損も記録してくれ。街の警戒を上げ、王都から人員を呼ぶ」
「分かりました」
俺は新しい紙を出した。
壁の文字は、読めなくても形を写せる。
セレスに位置を確かめてもらいながら、亀裂がどの線を横切っているかを書き込んだ。
頭部を見ていない方が、窓と通路を警戒する。
必要な記録を取り終えると、ブラノールさんが俺たちを促した。
「長居はしない。行くぞ」
俺は紙をしまい、扉から離れた。
最後に一度だけ、窓を振り返る。
曇った板の奥に、銀髪が見えた。赤い目は、動かなかった。
◇
階段を上がると、湿った土の匂いが戻ってきた。
入口を潜り、身体を起こす。
空が見えた。
枝の間に残った夕方の光に、思わず目を細める。
肺に入る空気が、随分と軽く感じられた。
『深く吸いすぎないで。まだ森の中よ』
「ああ」
セレスの声に頷き、周囲へ意識を戻す。
斜面の下には、倒した魔物が残っていた。新しく集まっているものは見当たらない。
ブラノールさんは入口の位置を確かめ、近くの枝に目印の布を結んだ。
術式のある石には、手を触れない。
「帰り道も警戒しろ」
「はい」
俺が先に立ち、尾根の脇を回る。
しばらく歩いたところで、地面の跡に気づいた。
深く割れた蹄が、柔らかな土に残っている。
その先では草が倒れ、葉の裏側が見えていた。
足を止めた。
「どうした」
「この跡、向きが違います」
来る時に通った跡の上を、別の足跡が横切っていた。
新しい泥が、古いくぼみへ崩れ落ちている。
向かっているのは、森の奥ではなかった。
「外へ戻っているのか」
ブラノールさんがしゃがむ。
セフィリアは剣の柄へ手を添え、木々の間を見渡した。
遠くで、枝が折れた。
灰色の背中が二つ、幹の向こうを走り抜ける。
こちらへ近づいてはこなかった。
朝のように地面を踏みしめて歩く様子もない。低い姿勢で、木々の間を抜けていった。
「朝は、歩いて奥へ向かっていました」
「今は急いでいるな」
ブラノールさんが立ち上がる。
「追わなくていい。街へ戻るぞ」
足を速めた。
森の入口に繋いだ馬は、落ち着かない様子で地面を踏んでいた。
セフィリアが首筋を撫で、静かに声を掛ける。ブラノールさんは手綱を解き、すぐに鞍へ上がった。
俺も魔導二輪を道へ押し出した。
駆動を入れ、握り手を掴む。
「門で今の様子を伝えろ。その後、ギルドだ」
「はい」
車輪を回す。
森を抜けた先で、夕日に照らされた畑が広がった。
その向こうに、ベルクラードの屋根が見えた。
◇
ギルドへ戻ると、支部長は俺たちの顔を見て、すぐに奥の部屋を開けた。
「何がありました」
「封印された魔族の頭部を発見した」
ブラノールさんの言葉に、支部長の手が止まった。
俺は机へ記録を広げた。
通路と部屋の配置。扉の術式。女王の頭部と、角に下がる鈴。
「施設の記載では、女王です。切断された頭部が、腐敗していない状態で残っていました」
「女王……」
支部長が図へ目を落とす。
その指が、鈴のところで止まった。
「以前の鈴と、関係が?」
「似ています。一か所、鈴がなくなっているところもありました。ただ、同じものかは記録と比べないと分かりません」
「回収時の書類を出させます」
支部長が職員を呼ぶ。
ブラノールさんは、別の紙を手前へ引き寄せた。
「封印が劣化している。王都へ至急連絡を。術式を調べ、封鎖を維持しながら処分できる人員が必要だ」
「承知しました」
「それと、森の魔物の動きが変わった。外へ向かうものを確認した。門の警戒を増やし、畑や街道に残っている者を呼び戻してくれ」
支部長の表情が引き締まる。
「衛兵には先ほど伝えました。こちらからも、手の空いている者を出せますか」
俺が尋ねると、支部長は頷いた。
「マルクたちが待機しています。森には入らせず、街の近くで誘導に当たらせましょう」
「騎士団への応援要請も出す。通信を使わせてもらうぞ」
ブラノールさんが立つ。
支部長も職員へ指示を出しながら、部屋を出ていった。
扉の向こうで、受付嬢の声が響いた。
冒険者の名前が呼ばれ、椅子を引く音が続く。
セフィリアは机の図を見つめていた。
「セフィリア」
声を掛けると、彼女が顔を上げた。
「大丈夫か?」
「はい。ただ……あの目が、頭から離れなくて」
俺も、同じだった。
何も見ていない赤い目。
その下を流れる、黒い血。
「動かなかったな」
「ええ」
セフィリアが、自分の掌へ目を落とす。
「それでも、あそこに力があるのは分かりました。あの頭部だけに、あれほど……」
言葉を切り、指を閉じた。
「次に行くまでに、私も準備します」
「ああ」
俺は頷いた。
腰の獅心が、椅子の縁へ軽く触れた。
外から、荷馬車の音が聞こえる。
窓の向こうを、夕食の買い物帰りらしい人が通り過ぎた。手に下げた袋から、長いパンが覗いている。
まだ、いつもの夕方だった。
廊下を走る足音がした。
扉が開き、受付嬢が顔を出す。
「森側の門から、報告です」
声が上ずっていた。
俺とセフィリアは立ち上がった。
隣の部屋から出てきたブラノールさんが、受付嬢へ向き直る。
「聞こう」
「森から出てくる魔物が増えています。街道の見張りが、複数の群れを確認したと。畑にいた方々の退避は進めていますが……」
「数は」
「まだ、数えきれていないそうです」
ブラノールさんが、門の方角を見た。
俺も窓へ目を向けた。
屋根の向こうに、森の梢が見える。
鳥が飛び立っていた。
一羽や二羽ではない。黒い影が次々と木々の上へ上がり、夕空へ散っていく。
低い鐘の音が、街に響いた。
続いて、もう一つ。
間を置かず、また鳴る。
通りを歩いていた人々が、足を止めた。
「門へ行く」
ブラノールさんの声に、俺は柄を握った。
警鐘は、鳴り続けていた。




